契印は君の手に、妖は恋を知らない

 夜明け前。

 空がまだ薄青く滲む頃、二人は屋敷を出た。

 

「場所は?」

 

 綾乃が問う。

 

「山の奥だ」

 

 零は短く答える。

 

「かつて……契りが結ばれた場所」

 

 

 それ以上は語らない。

 

 

 道は険しかった。

 人の気配が途絶え、やがて鳥の声すら消える。

 

 静寂。

 

 まるで、この世から切り離されたような場所。

 

 

「……ここだ」

 

 

 辿り着いた先には――

 

 崩れた社があった。

 

 

 柱は焼け、屋根は落ち、長い年月を感じさせる廃墟。

 

 

 だが。

 

 

 その場に立った瞬間。

 

 

 綾乃の手の契印が、強く光った。

 

 

「……っ」

 

 

 足が止まる。

 

 

「感じるか」

 

 

 零が低く問う。

 

 

「……何かが、あります」

 

 

 それは感情ではない。

 

 もっと、深い“何か”。

 

 

「ここで、契りは結ばれた」

 

 

 零の声が、静かに響く。

 

 

「千年前――人間と妖が、互いの力を結び合った場所だ」

 

 

 

 その言葉と同時に。

 

 

 景色が、揺らぐ。

 

 

 

 ――炎。

 ――叫び声。

 ――崩れる社。

 

 

 

 綾乃の視界に、過去が重なる。

 

 

 

「……見えているな」

 

 

 零は動じない。

 

 

 

「それが、この契印の記憶だ」

 

 

 

 次の瞬間。

 

 

 

 はっきりと、“彼女”が見えた。

 

 

 

 白い着物の少女。

 

 

 

 泣いている。

 

 

 

 その前に立つのは――

 

 

 

 零。

 

 

 

 今と同じ姿。

 

 同じ目。

 

 

 

「……約束、したのに」

 

 

 

 少女の声が、震える。

 

 

 

「一緒に、いられるって……」

 

 

 

「それは嘘だ」

 

 

 

 零が言う。

 

 

 

 冷たく、突き放すように。

 

 

 

「人と妖は、共に在れない」

 

 

 

「違う!」

 

 

 

 少女が叫ぶ。

 

 

 

「私は……!」

 

 

 

 その瞬間。

 

 

 

 炎が、強く燃え上がる。

 

 

 

 視界が、歪む。

 

 

 

 

 そして――

 

 

 

 映像が、途切れた。

 

 

 

 

「……今のは」

 

 

 

 綾乃が呟く。

 

 

 

 

「お前だ」

 

 

 

 零は、迷いなく言った。

 

 

 

 

「前世の、お前だ」

 

 

 

 

 一瞬の沈黙。

 

 

 

 

「……そうですか」

 

 

 

 

 あまりにも、淡白な反応。

 

 

 

 

 だが。

 

 

 

 

 その目の奥で。

 

 

 

 

 契印が、わずかに脈打つ。

 

 

 

 

「驚かないのか」

 

 

 

 

「必要性を感じません」

 

 

 

 

 即答。

 

 

 

 

 零は、わずかに目を伏せた。

 

 

 

(やはり、もう……)

 

 

 

 

「……あの時」

 

 

 

 ぽつりと、零が言う。

 

 

 

 

「契りは、未完成だった」

 

 

 

 

「未完成?」

 

 

 

 

「互いの力を結ぶはずが……歪んだ」

 

 

 

 

 視線が、綾乃の手へ向く。

 

 

 

 

「だから今も、残っている」

 

 

 

 

 契印が、淡く光る。

 

 

 

 

「これは、“結び損ねた契り”の残滓だ」

 

 

 

 

 

「……では」

 

 

 

 

 綾乃が、静かに問う。

 

 

 

 

「壊せば、終わりますか」

 

 

 

 

 核心。

 

 

 

 

「終わる」

 

 

 

 

 短く、零は答えた。

 

 

 

 

「完全に断ち切れば――すべて」

 

 

 

 

 一歩、前に出る。

 

 

 

 

 崩れた社の中心へ。

 

 

 

 

「ここでなら、可能だ」

 

 

 

 

 

 空気が、張り詰める。

 

 

 

 

 

「準備はいいか」

 

 

 

 

 

「はい」

 

 

 

 

 迷いのない返答。

 

 

 

 

 

 その瞬間。

 

 

 

 

 零の胸が、わずかに軋んだ。

 

 

 

 

 

(……本当に、それでいいのか)

 

 

 

 

 

 問いが、浮かぶ。

 

 

 

 

 

 だが。

 

 

 

 

 

 答えは、出ない。

 

 

 

 

 

「……行くぞ」

 

 

 

 

 

 低く告げる。

 

 

 

 

 

 契印が、強く光り始める。

 

 

 

 

 

 風が巻き起こる。

 

 

 

 

 

 千年前の“契り”が。

 

 

 

 

 

 今、再び動き出す。

 

 

 

 

 

 ――壊すか。

 

 

 

 

 

 それとも。

 

 

 

 

 

 結び直すのか。

 

 

 

 

 

 選択の時が、迫っていた。