契印は君の手に、妖は恋を知らない

 夜の帳が降りた頃、都の外れにある古びた屋敷の庭に、一人の少女が立っていた。

 名を、綾乃という。

 名家・白鷺家の娘でありながら、彼女はその家で“いないもの”として扱われていた。

「まだここにいたの? 本当に無駄な人ね」

 背後から聞こえたのは、姉の冷たい声だった。

 振り返ることなく、綾乃は淡々と答える。

「呼ばれていませんので、ここにいるしかありません」

「言い訳だけは一人前ね。さっさと蔵の掃除でもしてきなさい」

 吐き捨てるような言葉。
 けれど綾乃の表情は、揺れない。

 慣れているからだ。

 ――感情を出すだけ、損をする。

 そう理解している。

「……承知しました」

 そう言って歩き出した彼女の背を、姉は鼻で笑った。

「本当に、可愛げのない子」

 

 蔵は屋敷の奥、ほとんど誰も近づかない場所にある。

 埃を被った戸を開けると、ひんやりとした空気が肌にまとわりついた。

「……暗いわね」

 小さく呟きながら、灯りを手に中へ入る。

 その時だった。

 ――カラン

 奥で、何かが落ちる音がした。

 綾乃は足を止める。

「……誰か、いるの?」

 返事はない。

 ただ、気配だけがある。

 人ではない、何か。

 それでも彼女は、躊躇わずに奥へ進んだ。

 灯りを掲げた先――

 そこに、“それ”はいた。

 

 鎖に繋がれた、男。

 いや――人ではない。

 長い黒髪、整いすぎた顔立ち、そして何より、視線。

 獲物を見るような、冷たい光。

「……ようやく来たか」

 低く、滑るような声が響く。

 綾乃は一歩も引かなかった。

「誰ですか」

「誰、か。面白いことを聞く」

 男は薄く笑う。

「お前のような人間に名乗る義理はないが……そうだな」

 一瞬の間。

「――契りを喰らう者、とでも言っておこうか」

 

 不気味な言葉。

 それでも綾乃は、目を逸らさない。

「拘束されているのなら、危険はありませんね」

「……ほう?」

「逃げられないのでしょう」

 淡々とした分析に、男は僅かに目を細めた。

「怖くはないのか」

「怖がる理由がありません」

 その答えに、男は初めて興味を示したように笑った。

「変わった女だな」

 

 次の瞬間だった。

 綾乃の足元が崩れた。

「――っ」

 古い床板が抜け、体が前に傾く。

 咄嗟に掴んだのは――

 鎖の先、男の腕だった。

 

 触れた、その瞬間。

 

 ――じん、と焼けるような痛みが走る。

「なに、これ……」

 手の甲に、何かが浮かび上がる。

 それは、紋様。

 見たこともない、妖しい光を帯びた“印”。

 

「……なぜだ」

 男の声が、初めて揺れた。

 

 綾乃は息を呑む。

 同時に、気づいた。

 男の腕にあったはずの紋様が――

 消えていることに。

 

「それは……」

 男は、ゆっくりと鎖を引く。

 ガシャン、と重い音が響いた。

 だが――

 先ほどまでとは違う。

 その動きは、明らかに弱い。

 

「……お前、何をした」

「何もしていません」

「ならばなぜ――」

 男は、綾乃の手を掴んだ。

 強く。

 

「それは、俺の契印だ」

 

 冷たい声。

 けれどその奥に、確かな焦りがあった。

 

「返せ」

「無理です」

「……は?」

「方法がわかりません」

 

 一瞬の沈黙。

 そして男は、初めて苛立ちを露わにした。

「ふざけるな。あれがなければ――」

 言葉を、飲み込む。

 

 代わりに、静かに告げた。

 

「俺は、ただの“弱い存在”になる」

 

 綾乃はその言葉を聞いて、わずかに考える。

 そして、結論を出した。

 

「では、取引をしましょう」

 

 男が目を細める。

「取引?」

「あなたはその力を取り戻したい。私は、この家で生き延びたい」

 

 静かな声。

 けれど揺るがない。

 

「私を守ってください。その代わりに、この契印を維持する方法を探します」

 

 男は、しばらく黙っていた。

 やがて、ふっと笑う。

 

「……面白い」

 

 その笑みは、どこか危険で――

 けれど、楽しげだった。

 

「いいだろう。契約だ」

 

 鎖の音が、再び鳴る。

 

「その命が尽きるまで、俺はお前を守る」

 

 そして、低く囁く。

 

「だが忘れるな、人間」

 

 綾乃の手に刻まれた契印が、淡く光る。

 

「それは、俺のものだ」

 

 ――こうして。

 最悪で、最強の契約が始まった。