空を見上げると、今日も数多の雲が空一面に広がっている。
今日は秋の空を埋め尽くそうとしている羊雲だから、君は何かたくさん考え事をしているのかな。
僕の彼女は雲のような人だった。
空を見上げるたび、これからもずっと君のことを想うだろう。
『雲の上を歩いてみたい』と夢見ていた君のことを。
僕は今日も雲に恋をしている。
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『上田晴翔ーー!』
僕の名前を呼ぶ彼女の甲高い声が、今でも不意に聞こえてくる。
彼女の名前は雨宮果歩。
外見や中身が冴えない僕と違って、華のある女の子だ。
僕と果歩は幼馴染で、家も隣同士なので、小さい頃から二人でよく遊んでいた。
遊びの内容に女の子らしいものは一切なく、まるで男友達と遊んでいるかのように走り回ったりボールを使って遊んだりしていた。
泥まみれになって家に帰ってきて、母親に毎日のように怒られていた日々を昨日のことのように思い出す。
果歩は天真爛漫で、喜怒哀楽がすぐ顔に出るわかりやすい性格だったので、僕はよく『雲みたいだ』と彼女に言っていた。
その日の空の様子や天気で雲の機嫌の良し悪しもすぐにわかるから。
雲が頭に浮かんだもう一つの理由としては、果歩は空が大好きで、よく『雲の上を歩いてみたい』と言っていたから。
いくつかある夢の中で、雲の上を歩くことも私の夢の一つだと。
そんな雲のような果歩のことが小さい頃からずっと好きだった。
友達や幼馴染という意味ではなく、しっかりと恋愛として。
長い黒髪を風になびかせながら空を見上げる彼女の横顔は、僕が目にしてきた何よりも綺麗で美しかった。
そんな彼女への片想い期間は突如として終わりを告げた。
僕たちはお互い別々の高校に進学したのだが、高校に入ってからも休日などよく二人で出かけたりしていた。
忘れもしないあれは高校二年のある秋の日。
紅葉でも見に行こうと紅葉が綺麗に見えると有名な名所に二人で訪れた際、ふと空を見上げた時に太陽の近くにある雲が鮮やかな色彩で彩られていたのだ。
僕は興奮を抑えきれずに隣にいる果歩にその雲の存在を知らせると、彼女はしばらくの間何も言葉を発さずにその雲に見入っていた。
二分程そのままの状態で時が流れ、彼女は突然空を見上げたまま『付き合おっか』と声を上げたのだ。
当然ながら僕は果歩の言葉を脳で理解するのに時間がかかった。
そんな口ごもっている僕を見て、彼女は『この雲は彩雲って言って幸せを呼ぶ雲って言われてるの。この雲を一緒に見たらもう付き合うしかないでしょ』と言葉を付け加えた。
僕は驚きのあまりすぐに返事ができなかっただけで、もちろん心の中で答えは決まっていた。
『僕もずっと好きでした。よろしくお願いします』と思いの丈を伝えると、彼女の口角が上がったのが目に入り安堵したのもつかの間、『でもほんとは晴翔から告白してくれるのずっと待ってたんだけどな』といつもより低めの彼女の声が鼓膜を震わせた。
そこに関しては男として大変情けなく、申し訳ない気持ちしかない。
それから今までの関係性が大きく変わることはなかったが、恋人として果歩との幸せな日常が始まった。
付き合った日に見た彩雲をきっかけに、僕は果歩と付き合うきっかけをくれた雲が大好きになった。
雲にも様々な種類があることを知り、毎日外に出ると必ず空を見上げてどんな雲か確認するようになった。
天気の予測をするのにも役立っている。
雲を観察して記憶に残すだけでなく、形として残したいという思いが芽生えたことからカメラで雲を撮るようになり、今では毎日カメラを持ち歩くほどカメラが僕の生活の一部になっていた。
果歩が好きな空もよく撮るようになり、僕が撮った写真のアルバムを楽しそうに見ている彼女の笑顔が愛おしかった。
そんな幸せな日々がこれからもずっと続くと思っていた。
果歩が交通事故に遭って亡くなったと、彼女の母親から連絡を受けるまではーーー。
高校三年生の始業式の日が近づいていて、もうすぐ受験シーズンが始まるねって話したのが最後の会話になるなんて思いもしなかった。
公園で遊んでいた小さい男の子がボールが転がっていったのを拾おうと道路に飛び出してしまい、それを見つけた果歩が男の子を守ろうと自分の身を投げ出したらしい。
男の子は軽い怪我で済んだとのことだった。
当たり前に僕は現実を受け入れることができなかった。
ついこの前まで見ていた彼女の笑顔をもう見ることができないなんて。
そして、自分の名前を呼ぶ彼女の大好きな声をもう聞くことができないなんて。
その日を境に、僕の世界から色や光が消えた。
あれだけ大好きで二人の思い出が詰まった空や雲も、闇夜に包まれたようにずっと真っ暗で、怖くて見上げることができなくなってしまった。
そんな状態のままただ無情に時は過ぎ、今日の日付は五月十五日、果歩の誕生日を迎えた。
僕は今、彼女と何度も歩いた思い出の道を地面を見つめながら歩いている。
果歩の誕生日を今までもたくさんお祝いしてきたが、幸せな思い出しかなかったこの特別な日がこんな形で意味を変えてやってくるとは予想だにしていなかった。
最近は家に引きこもりがちになっていたのだが、果歩の誕生日ということもあって何かしら彼女を感じたくて今この道を歩いている。
ただ、気持ちは晴れることはなく、一緒に歩いている時の彼女の笑顔が思い浮かんできて余計に胸が締めつけられた。
悲しみに押し潰されそうになり、家に帰ろうと踵を返したその時、突然見つめていた地面の先に一筋の眩い光が差し込んできた。
反射的に目線が光の道筋を辿って光の源に視線が到達すると、忘れられるはずがないあの日見た雲と同じように、太陽の近くにある雲が鮮やかな色彩で彩られていた。
「彩雲だ……」
意図せず自然と言葉が零れ落ちた。
幸せを呼ぶ雲と言われている、僕と果歩が付き合うきっかけをくれた彩雲が確かに視界の先にある。
それから一気に、今まで真っ暗だった僕の世界が色彩を帯びた。
今日の空は快晴で、綺麗な青空に綿雲が散りばめられていて、久しぶりに太陽の温かさを肌に感じた。
何ヶ月かぶりに見た青空は見惚れてしまうほど、綺麗で澄み渡っていた。
そんな青空に魅入っていると、青空に浮かぶ綿雲の中に異様な雰囲気を醸し出しているひとつの雲が目に留まった。
目を凝らしてよく見ると、それは雰囲気ではなく、ひとりの女性が雲の上を歩いたり飛び跳ねたりしている情景だった。
その女性がとても幸せそうに雲の上を歩いていることが、遠くて表情が見えなくても容易に感じられる。
「果歩……」
その女性は間違いなく、雲の上を歩いてみたいと夢見ていた女の子だ。
僕は果歩が亡くなってから初めて涙を流した。
溜め込んでいたものを一気に吐き出すように、とめどなく涙が溢れ出てくる。
「晴翔ーー!」
すると、空から僕の名前を呼ぶ彼女の声が不意に耳に入ってきた。
僕が大好きな果歩の声。
そうだよね、果歩は伝えようとしてくれているんだ。
下ばかり向いてちゃいけないよって。
僕ら二人を繋いだ空はこんなにも綺麗だよって。
「果歩ーー!」
僕は今心にある全ての気持ちを彼女の名前に込め、雲の上を歩く果歩に向かって全力で叫んだ。
そして、カメラを鞄から取り出してレンズを彼女に向ける。
彼女は僕の呼びかけを気に留めることなく歩き続けているが、その表情は喜色満面であるように感じた。
溢れ出てくる涙で視界がぼやけるが、かけがえのない一枚を撮るためにカメラの設定を綿密に調整する。
そして、新たなページを彩るシャッター音が宙に舞った。
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今日の空は分厚い雲に覆われていて、今にも雨が降り出しそうな空模様だ。
たぶん君は怒っているか悲しんでいるかのどっちかだろう。
今日の僕の行動からすると怒っているように思う。
もうすぐ受験を控えているのに今日はどうしてもやる気が起きず、不毛な時間を過ごしてしまっているのだ。
今は撮った写真のアルバムを見返している。
雲の上を歩く君を見たあの日から、再び毎日空や雲の写真を撮るようになった。
最近はさらに技術が上がっていると感じており、つい最近撮った鰯雲の写真はかなりの自信作だ。
早く君に見せたくて仕方がない。
そのままの流れで休憩と決めた時間を過ぎて昔の写真を見返していると、窓の外から雨音がポツポツと聞こえてきた。
「そろそろやばいな……」
消え入るような声で呟く。
ほんとに君を怒らせてしまいそうだ。
アルバムを閉じ、参考書を開いてペンを持つ。
そして、机に飾ってある額縁に入ったかけがえのない雲の写真に目を遣る。
どんな時でも僕に力をくれる大切な写真だ。
額縁の下の部分には、この写真のタイトルが貼ってある。
『雲の上を歩く彼女』
僕は今までも、そしてこれからもずっとこのタイトルに心惹かれている。
《完》

