「……いよいよだね」
俺たちは二人そろって、校門の前に立ちつくしていた。斉藤との縁の糸を数本切ってから、とうとう訪れた次の通学の日。互いに目配せをしては、緊張からごくりと唾液を飲み込んだ。
「蚕人くんも、斉藤さんと同じA組なんだよね?」
「そうだよ。伊織はB組だったよね?」
うなずいて、俺は眼前にそびえる校舎に向き合った。今のところはまだ斉藤と遭遇していない。先日の騒動で、さすがに通学時につきまとうことはやめたのだろうか。俺は蚕人と肩を並べながら、校舎の中へと入っていった。
「……いないな、斉藤」
「……まさか、何本か糸を切ったくらいで不登校になんてならないよね?」
とたんに悪いことをしてしまった気がしてきて(実際巡には無断だったから悪いことかもしれないが)、心臓が冷水をかけられたように温度を下げた。こめかみに汗がつたう。大丈夫だろうか、という漠然とした言葉が延々と頭の中をかけめぐっていた。
「うーん、いないとそれはそれで心配だな」
「ほんと? 糸井くん、私のこと心配してくれるの?」
「うわぁ! 出た!」
危うく下駄箱から取り出した上履きを放り投げるところだった。「ひどい反応ね」ふてくされた表情の斎藤が、睨めつけるように俺たちの横に立って言った。
「ねえ糸井くん、今、私のことを考えてくれたの?」
「あーはい、はい、そうですそうです」
口の端をひきつらせて、蚕人はあいまいに言った。その声色は、かわいそうなほどに震えている。俺たちは渋い顔で互いを見つめあった。これでは糸を切った効果がまるで見られていないではないか。やはり数本程度ではダメだったのだろうか。
「……えっと、斉藤さん。今日は蚕人くんとは一緒に来なかったんだね」
蚕人が「『一緒に』来たことはない」と語る不服げな視線を向けてきていたが、俺は気づかないふりをして斉藤に笑いかけた。
彼女は大きくまばたきをした。そんな質問をされるとは、まるで思っていなかったとでも言いたげな反応だった。
やがて、彼女はその吊り目がちな視線を伏せた。気まずそうに視線をそらして、ぼそぼそささやくようにつぶやく。
「だ、だって……糸井くんが消えてくださいなんて言うから……邪魔になっちゃうんじゃないかなって、そう思って」
蚕人は目も口もぽかんと開けていた。俺も思わず言葉をなくしてしまう。あの斉藤が、こんな風にしおらしく諦めることがあるのだろうか。彼女のことだから、ろくでもない理由をつけてついて回ってきてもおかしくないと思っていた。それは蚕人も同じなようで、彼は眉を寄せると、目を泳がせながら頭をかいた。さすがに言いすぎてしまった自覚があるのだろう。「消えてください」なんて言葉は、気安く吐いていいような言葉ではない。
「……あれは、俺も悪かったよ。言い方がきつかった。でも、君について回られて不快な思いをしてたのは分かってほしい。まあ、その態度を見るに大丈夫そうだけど」
蚕人は伏し目がちに斉藤を見上げた。彼なりの反省もつたわってくるし、それに彼の言うとおり、斉藤の行動が行きすぎていたのもまた事実だ。これで少しは仲直りができると良いのだが。
「糸井くん……」
斉藤の瞳に、星のようなきらめきがともった。なんとなく嫌な予感がしてきて、俺は片手に持っていた鞄を抱き抱える。
「やっぱり、あなたってとっても優しい! ねえ、私ちゃんと反省するから、もっと一緒にいて!」
「ぎゃあ! 来るな来るな、どこが反省してるんだよ!」
唐突に斉藤と蚕人の鬼ごっこが始まった。彼らは俺を置いてその場を走り去っていく。一人取り残されて、俺は呆然としていた。周囲からの、どこか不憫なものを見るような視線が全身に突き刺さる。無情にも、朝会の開始を知らせるチャイムが鳴った。
ああ、なんてデジャヴだ。
授業を終えて、教科書を片づけながら壁に取りつけられた時計を見上げる。
時刻は十二時ごろを指していて、昼休みに入ることを知らせていた。
「蚕人くんのところに行こうかな……?」
斉藤のことでも話し合いたいことがあったし、彼とは一度会っておきたかった。昼食を共にしようとでも言えば、彼を誘う立派な理由づけになるだろう。俺は弁当箱を片手に席を立ち上がった。
考えてみれば、こうやって友達と食事に行くことは初めてかもしれない。たいていは教室の隅に座って、一人で白米を突いていた。家の女中が作ってくれた昼食だから、栄養バランスはきちんと整っているし、見栄えもいい。それゆえに周りから奇妙な目で見られることも多かった。あんな傷だらけのいわゆる陰キャが、どうして無駄に豪華な弁当を一人薄暗い場所で食べているのかと。思い出してみると、少し恥ずかしいものがあった。
「たぶん、蚕人くんなら一緒にお昼ご飯食べてくれるよね……」
彼の所属するクラスはA組だったはずだ。そこに向かえば、きっと彼はいるだろう。胸の内側で小さな祭りでも起こっているのではないかというほどに、俺は全身が緊張していた。慣れない行動だが、がんばってみよう。
無心で足を動かしていれば、俺は無事にA組の扉の前にたどりついていた。扉の前に立って、一つ深呼吸をする。めぐり屋に初めて入ろうとした時と同じような感覚だ。少しは成長してほしいと自分に言い聞かせながら、俺は引き戸に手をかけようとした、時だった。
「ほら、お昼ご飯食べに行こー! あ、すみません」
「ちょっと待ってよー! あ、ごめん」
出端を折るように、A組の少女たちが飛び出してきた。とっさに「こちらこそ……」とささやくようにつぶやいて、道を開ける。少女たちは特に気にしたそぶりを見せることなく、そのままその場を去っていった。ああ、俺もあれくらい元気よく声をかけることができたならよかったのに。
「あれ、伊織じゃん。ちょうどよかった! 俺もB組に行こうとしてたんだよ。一緒に昼飯食べよ!」
「あ、蚕人くん……」
結果的に、彼の方から俺に声をかけてくれた。なんとなく心が軽くなったような、そうでもないような。俺は結局いつもこんな風なのだ。
「それで、斉藤の件だけど……」
「うん。少しだけマシになった気がするのは、やっぱり縁の糸を数本切れたからかな?」
「かもしれないね」
廊下を歩きながらも蚕人は思考をめぐらせているようで、弁当箱を片手にぼうっと宙をながめていた。
「これからも何本か糸を切っていけば、だんだん変わっていったりするのかなあ」
「でも、切りづらかったのは確かなんだろ? それを根性で一本一本切ってくのはさすがに効率が悪いし……何かの方法で縁の糸をもろくできたりするといいんだけど」
二人そろって考えこんでしまった。縁の糸をもろくするといっても、俺たちにはその有効的な方法は分からない。鋏に詳しい巡なら何か分かるかもしれなかったが、今は彼女の助けは見こめなかった。
「そうだな……まずは斉藤さんについて知ってみる、とかはどう?」
「え? どうして?」
俺は頭に浮かんでいた一つの仮説を披露してみることにした。
「縁の糸って、要するに二人の関係値を表すものだよね? 斉藤さんは君にものすごく執着してるから、あんなに真っ黒でおぞましい糸をしてるわけで……なら、彼女が君に執着する理由を知って、それを改めさせれば変わったりしないかな、って」
蚕人は眉を上げた。「なるほどね」
「言うなれば、糸を浄化する的な?」
「まあ、確かに言い方はそれが近いかも。糸を切りやすくするために糸を浄化する。そういうやり方を試してみる価値はあると思う」
彼は目を輝かせると、俺の方に身を乗り出した。喜びが全開で伝わってくる。彼の周りが発光しているのではないかと思うほどだった。
「やっぱり伊織って頭いいな! そうと決まれば早速やってみよう。まずは斉藤探しを……」
「あ、あれ」
意気込む彼の後ろ側で、見覚えのある背中がちらついた。切りっぱなしの中途半端な長さの髪、遠目からでも分かるよれた制服。あれは間違いなく斉藤だ。俺たちはそんな彼女の後ろ姿を見て、絶句していた。
「……嘘だろ……」
「……俺より大物だね」
挙動不審な彼女が弁当箱を片手に入っていったのは、廊下の外れにある女子トイレだった。
「便所飯かよ!」
さすがの俺も、便所飯は体験したことがない。
俺たちは二人そろって、校門の前に立ちつくしていた。斉藤との縁の糸を数本切ってから、とうとう訪れた次の通学の日。互いに目配せをしては、緊張からごくりと唾液を飲み込んだ。
「蚕人くんも、斉藤さんと同じA組なんだよね?」
「そうだよ。伊織はB組だったよね?」
うなずいて、俺は眼前にそびえる校舎に向き合った。今のところはまだ斉藤と遭遇していない。先日の騒動で、さすがに通学時につきまとうことはやめたのだろうか。俺は蚕人と肩を並べながら、校舎の中へと入っていった。
「……いないな、斉藤」
「……まさか、何本か糸を切ったくらいで不登校になんてならないよね?」
とたんに悪いことをしてしまった気がしてきて(実際巡には無断だったから悪いことかもしれないが)、心臓が冷水をかけられたように温度を下げた。こめかみに汗がつたう。大丈夫だろうか、という漠然とした言葉が延々と頭の中をかけめぐっていた。
「うーん、いないとそれはそれで心配だな」
「ほんと? 糸井くん、私のこと心配してくれるの?」
「うわぁ! 出た!」
危うく下駄箱から取り出した上履きを放り投げるところだった。「ひどい反応ね」ふてくされた表情の斎藤が、睨めつけるように俺たちの横に立って言った。
「ねえ糸井くん、今、私のことを考えてくれたの?」
「あーはい、はい、そうですそうです」
口の端をひきつらせて、蚕人はあいまいに言った。その声色は、かわいそうなほどに震えている。俺たちは渋い顔で互いを見つめあった。これでは糸を切った効果がまるで見られていないではないか。やはり数本程度ではダメだったのだろうか。
「……えっと、斉藤さん。今日は蚕人くんとは一緒に来なかったんだね」
蚕人が「『一緒に』来たことはない」と語る不服げな視線を向けてきていたが、俺は気づかないふりをして斉藤に笑いかけた。
彼女は大きくまばたきをした。そんな質問をされるとは、まるで思っていなかったとでも言いたげな反応だった。
やがて、彼女はその吊り目がちな視線を伏せた。気まずそうに視線をそらして、ぼそぼそささやくようにつぶやく。
「だ、だって……糸井くんが消えてくださいなんて言うから……邪魔になっちゃうんじゃないかなって、そう思って」
蚕人は目も口もぽかんと開けていた。俺も思わず言葉をなくしてしまう。あの斉藤が、こんな風にしおらしく諦めることがあるのだろうか。彼女のことだから、ろくでもない理由をつけてついて回ってきてもおかしくないと思っていた。それは蚕人も同じなようで、彼は眉を寄せると、目を泳がせながら頭をかいた。さすがに言いすぎてしまった自覚があるのだろう。「消えてください」なんて言葉は、気安く吐いていいような言葉ではない。
「……あれは、俺も悪かったよ。言い方がきつかった。でも、君について回られて不快な思いをしてたのは分かってほしい。まあ、その態度を見るに大丈夫そうだけど」
蚕人は伏し目がちに斉藤を見上げた。彼なりの反省もつたわってくるし、それに彼の言うとおり、斉藤の行動が行きすぎていたのもまた事実だ。これで少しは仲直りができると良いのだが。
「糸井くん……」
斉藤の瞳に、星のようなきらめきがともった。なんとなく嫌な予感がしてきて、俺は片手に持っていた鞄を抱き抱える。
「やっぱり、あなたってとっても優しい! ねえ、私ちゃんと反省するから、もっと一緒にいて!」
「ぎゃあ! 来るな来るな、どこが反省してるんだよ!」
唐突に斉藤と蚕人の鬼ごっこが始まった。彼らは俺を置いてその場を走り去っていく。一人取り残されて、俺は呆然としていた。周囲からの、どこか不憫なものを見るような視線が全身に突き刺さる。無情にも、朝会の開始を知らせるチャイムが鳴った。
ああ、なんてデジャヴだ。
授業を終えて、教科書を片づけながら壁に取りつけられた時計を見上げる。
時刻は十二時ごろを指していて、昼休みに入ることを知らせていた。
「蚕人くんのところに行こうかな……?」
斉藤のことでも話し合いたいことがあったし、彼とは一度会っておきたかった。昼食を共にしようとでも言えば、彼を誘う立派な理由づけになるだろう。俺は弁当箱を片手に席を立ち上がった。
考えてみれば、こうやって友達と食事に行くことは初めてかもしれない。たいていは教室の隅に座って、一人で白米を突いていた。家の女中が作ってくれた昼食だから、栄養バランスはきちんと整っているし、見栄えもいい。それゆえに周りから奇妙な目で見られることも多かった。あんな傷だらけのいわゆる陰キャが、どうして無駄に豪華な弁当を一人薄暗い場所で食べているのかと。思い出してみると、少し恥ずかしいものがあった。
「たぶん、蚕人くんなら一緒にお昼ご飯食べてくれるよね……」
彼の所属するクラスはA組だったはずだ。そこに向かえば、きっと彼はいるだろう。胸の内側で小さな祭りでも起こっているのではないかというほどに、俺は全身が緊張していた。慣れない行動だが、がんばってみよう。
無心で足を動かしていれば、俺は無事にA組の扉の前にたどりついていた。扉の前に立って、一つ深呼吸をする。めぐり屋に初めて入ろうとした時と同じような感覚だ。少しは成長してほしいと自分に言い聞かせながら、俺は引き戸に手をかけようとした、時だった。
「ほら、お昼ご飯食べに行こー! あ、すみません」
「ちょっと待ってよー! あ、ごめん」
出端を折るように、A組の少女たちが飛び出してきた。とっさに「こちらこそ……」とささやくようにつぶやいて、道を開ける。少女たちは特に気にしたそぶりを見せることなく、そのままその場を去っていった。ああ、俺もあれくらい元気よく声をかけることができたならよかったのに。
「あれ、伊織じゃん。ちょうどよかった! 俺もB組に行こうとしてたんだよ。一緒に昼飯食べよ!」
「あ、蚕人くん……」
結果的に、彼の方から俺に声をかけてくれた。なんとなく心が軽くなったような、そうでもないような。俺は結局いつもこんな風なのだ。
「それで、斉藤の件だけど……」
「うん。少しだけマシになった気がするのは、やっぱり縁の糸を数本切れたからかな?」
「かもしれないね」
廊下を歩きながらも蚕人は思考をめぐらせているようで、弁当箱を片手にぼうっと宙をながめていた。
「これからも何本か糸を切っていけば、だんだん変わっていったりするのかなあ」
「でも、切りづらかったのは確かなんだろ? それを根性で一本一本切ってくのはさすがに効率が悪いし……何かの方法で縁の糸をもろくできたりするといいんだけど」
二人そろって考えこんでしまった。縁の糸をもろくするといっても、俺たちにはその有効的な方法は分からない。鋏に詳しい巡なら何か分かるかもしれなかったが、今は彼女の助けは見こめなかった。
「そうだな……まずは斉藤さんについて知ってみる、とかはどう?」
「え? どうして?」
俺は頭に浮かんでいた一つの仮説を披露してみることにした。
「縁の糸って、要するに二人の関係値を表すものだよね? 斉藤さんは君にものすごく執着してるから、あんなに真っ黒でおぞましい糸をしてるわけで……なら、彼女が君に執着する理由を知って、それを改めさせれば変わったりしないかな、って」
蚕人は眉を上げた。「なるほどね」
「言うなれば、糸を浄化する的な?」
「まあ、確かに言い方はそれが近いかも。糸を切りやすくするために糸を浄化する。そういうやり方を試してみる価値はあると思う」
彼は目を輝かせると、俺の方に身を乗り出した。喜びが全開で伝わってくる。彼の周りが発光しているのではないかと思うほどだった。
「やっぱり伊織って頭いいな! そうと決まれば早速やってみよう。まずは斉藤探しを……」
「あ、あれ」
意気込む彼の後ろ側で、見覚えのある背中がちらついた。切りっぱなしの中途半端な長さの髪、遠目からでも分かるよれた制服。あれは間違いなく斉藤だ。俺たちはそんな彼女の後ろ姿を見て、絶句していた。
「……嘘だろ……」
「……俺より大物だね」
挙動不審な彼女が弁当箱を片手に入っていったのは、廊下の外れにある女子トイレだった。
「便所飯かよ!」
さすがの俺も、便所飯は体験したことがない。
