もう頭の中がめちゃくちゃだ。今にもひっくり返りそうだし、頭を抱えて叫び出したくもある。
なぜ鋏が俺のもとに? 糸井の手首に絡んだ糸はなんだ?
「何がどうなってるんだ……」
「落ち着いて、時雨くん」
横から糸井が声をかけてくれなければ、俺はこのまま気をやって倒れてしまっていたかもしれない。とはいえ、糸井の声音もかすかに震えていたけれど。
「その鋏、確かに時雨くんが持ってきたものじゃないんだよね?」
「あ、当たり前だよ!」
彼は一つ頷くと、口元を手で隠して何事か考えこみ始めた。
その手首を覆う、幾重にも重なったどす黒い糸を見つめる。ほつれた糸が宙を舞って、不気味にこちらを威圧していた。胸がざわめいて、あまり長く見つめていたいものではない。俺はあいまいに視線をそらした。
「鋏以外に何か変化は?」
「あ、えっと……」
さすがにこれを報告しないわけにはいかないだろう。俺は彼の左手首を指差した。
「その、糸井くんの左腕に、とんでもない量の黒い糸が絡まってるんです」
「え!?」
糸井にはこの糸は見えていないようだ。彼は左手を持ち上げて、左右に振ったり太陽にかざしたりしているが、やはりその異常は認識できないらしい。
こんなにも気味悪く、恐ろしいものは俺にしか見えていないのか。背筋がじんわり湿って、冷たいものが登っていく。
「結構気持ち悪いし、見えない方がいいまであると思います……」
「そ、そっか」
糸井は目を白黒とさせながら、自らの手首を見つめていた。
ようやく俺の頭も落ち着きを取り戻し始めて、現状を理解できるようになってきた。
今起こっていることは、なぜか鋏が俺のもとに瞬間移動したこと、そして糸井の手首に謎の糸が絡んでいること。この二つだ。
「鋏については巡さんに聞いてみたいけど……」
「あの様子じゃ、とても出てきてはくれないだろうね」
通ってきた道を見返して、糸井がぽつりと言う。彼の言う通りだろう。彼女に拒絶されてしまった以上、これはこちらでどうにか解決する以外にない。
俺は手元の鋏を見つめながら考えこんだ。どうすればこれを巡に返せるのか。糸井に絡みつく糸は何なのか——
「ねえ、一つ思いついたというか、考えがあるんだけどさ」
ふいに糸井が声をかけてきた。向き直ると、彼は俺の手の中でぎらりときらめく白銀の鋏を指す。
「もしかして、君が見えてるっていう糸、この鋏で切れたりしない?」
「……それ、俺もちょっと思ってました」
巡が切り落とした、俺といじめっ子の間につながる縁の糸。あの時は糸井と同じく俺も糸を認識することができなかったが、今見えているこの糸が彼女の見ていたものと同じなら、もしかしたら。
「この糸が糸井くんと斉藤さんの間につながっている糸なら、これを切れば彼女との縁を切れるかもしれない」
ややこわばった顔色をした糸井と、目が合った。きっと、彼も同じことを考えていたのだろう。彼は俺に向けて左腕を伸ばした。
「一度、切れないか試してもらってもいいかな」
「……はい」
俺は鋏を右手に構えた。あの時、巡はどうしていたか。記憶をたどっていく。
彼女はおそらく宙に浮かんでいたのであろう糸に触れていた。俺もそれを真似るようにして、彼の手首から果てしなく伸びている黒い糸を握る。
本当にこれは切れるのだろうか。正直、疑念はあった。というのも、この糸はあまりにも太く、絡まりすぎているのだ。ところどころ確かにほつれてはいるが、ちぎれやすいわけではなさそうだ。言うなれば、古びたしめ縄のような。
しめ縄というものは、太く頑丈であるほど祀られている神が強力であることを示しているらしい。ともすれば、この糸に込められた想いがどれほどであるかは想像がつきやすかった。
鋏を握った手が、わずかに震える。けれど、迷っている暇はない。俺たちはもう、藁にもすがる思いなのだ。もしこれで糸井を助けられるのなら、それに越したことはない。
腹を括って、糸に鋏をかけた。彼女のやっていた通りなら、たった一振りするだけで切れるはずだ。鋏の持ち手に、力をこめる。
「う、わ……なにこれ……」
「どう?」
「これ、ちょっと……」
力を入れてすぐに気がついた。この糸は硬い。あまりにも硬すぎる。どうにか鋏の根元に糸を押し込んで両手で握ってみるが、とても太刀打ちできない。このままでは刃の方が欠けてしまいそうだ。
「切れなさそう、ってことかな」
糸井に訊ねられて、俺は力なくうなずいた。鋏を糸から離すが、糸が切れた様子はない。けれど、よく見てみると外側の細い数本は切ることができたようだ。
「ほんの少しですけど、何本か切ることはできたみたいです。でも、全部を切るのは難しそうだな」
「そっかあ」
糸井は空いた片手で頭をかいた。叶うならこの場ですっぱり切ってしまいたかったけれど、やはり因縁の深い相手との縁切りはそう簡単にはいかないらしい。どうしたものかと俺は顔をしかめる。
俺が苦い表情をしていることに気がついたのか、ふいに糸井が言った。
「でもさ、数本は切れたんだろ? なら、少しは変化がないか様子を見てみようよ。明日は学校があるし、斉藤がどうなってるか確認するチャンスならあるはずだから」
「確かに、どれくらい変わるかは見てみてもいいかもしれないですね」
細い糸が何本かとはいえ、切れたことには変わりないのだ。場合によっては、多少の変化は見込めるかもしれない。もし何かが起こっていれば、これからどうするかの方針を立てられる可能性もあった。
俺は首を縦にふる。事がうまく運ばないと落ちこんでしまうのは俺の悪い癖だ。いつだって前向きで、少しでも良いことがあればそれを拾い上げることができる糸井を見習うべきだろう。
緊張していた肩から力が抜けた。そんな俺を見て、糸井は柔らかく破顔する。
「ありがとう。君のおかげで、少しずつ前進できそうだ」
「あはは、ならいいんですが」
ふと、糸井が不満げに眉を寄せた。急な変化に、俺は思わず身体を跳ねさせる。何か彼を不満にさせる言葉を言ってしまっただろうか。
「あのさ、時雨くん。前々から思ってたんだけど、その敬語、やめない?」
「え?」
怯えた時の癖で鞄を抱きしめていた俺は、彼の思ってもみなかった言葉に拍子抜けした。彼は怒っているというよりかは、呆れているといった様子だ。
「もう友達なんだからさ、敬語なんていらないだろ? 俺からすると違和感がすごいんだよね」
「ともだち……」
口が開いたまま戻らない。友達、という単語を何度も反芻しては、その意味を脳内の辞書で引いた。
友達。俺には今まで、大して縁のなかった存在。
「それとも何だよ。友達だと思ってたの、俺だけだったりする?」
糸井は困ったように小首をかしげて笑った。俺は思わず身を乗り出して叫ぶ。ほとんど無意識で、いつもよりも大きな声が出た。
「そんなわけない! 俺も、えっと、友達だと思ってるよ。ただ、あんまりそういう存在には慣れてなかったっていうか、今までまともに友達がいなかったっていうか……」
俺は見ての通り臆病者で、小心者で、女々しくて、人と関わるのが下手だ。おまけに曰くつきの家系なせいで、進んで俺に関わりたがる人間はめったにいない。
けれど、糸井はそうではないという。
心の奥にすっと光がさしたようだった。白い雲の隙間から、太陽の輝きが覗いていく。
俺は抱えていた鞄を下ろして、深く息を吸った。
「俺なんかと友達になってくれてありがとう!」
糸井は目を大きく見開いた。その瞳にきらめくものを見て、俺は不器用に笑ってみせる。
彼は何度かまばたきをすると、やがて腹を抱えて転がるように笑い始めた。
「そんな改まって言うやつがいるかよ! まあでも、そうだね」
彼はそっとまぶたを下ろして、もう一度開いた。その向こう側にある瞳が、俺をまっすぐに見つめる。
「こちらこそ、ありがとう。俺は糸井蚕人だよ。これからよろしくね」
心臓が早鐘を打つ。俺は食い気味に口を開いた。
「俺は時雨伊織! よろしく!」
視界の端で、俺と蚕人の間に、しなやかな透明色の糸がつながった。朝露が陽光に照らされた時のように、その糸は力強くきらめいていた。
なぜ鋏が俺のもとに? 糸井の手首に絡んだ糸はなんだ?
「何がどうなってるんだ……」
「落ち着いて、時雨くん」
横から糸井が声をかけてくれなければ、俺はこのまま気をやって倒れてしまっていたかもしれない。とはいえ、糸井の声音もかすかに震えていたけれど。
「その鋏、確かに時雨くんが持ってきたものじゃないんだよね?」
「あ、当たり前だよ!」
彼は一つ頷くと、口元を手で隠して何事か考えこみ始めた。
その手首を覆う、幾重にも重なったどす黒い糸を見つめる。ほつれた糸が宙を舞って、不気味にこちらを威圧していた。胸がざわめいて、あまり長く見つめていたいものではない。俺はあいまいに視線をそらした。
「鋏以外に何か変化は?」
「あ、えっと……」
さすがにこれを報告しないわけにはいかないだろう。俺は彼の左手首を指差した。
「その、糸井くんの左腕に、とんでもない量の黒い糸が絡まってるんです」
「え!?」
糸井にはこの糸は見えていないようだ。彼は左手を持ち上げて、左右に振ったり太陽にかざしたりしているが、やはりその異常は認識できないらしい。
こんなにも気味悪く、恐ろしいものは俺にしか見えていないのか。背筋がじんわり湿って、冷たいものが登っていく。
「結構気持ち悪いし、見えない方がいいまであると思います……」
「そ、そっか」
糸井は目を白黒とさせながら、自らの手首を見つめていた。
ようやく俺の頭も落ち着きを取り戻し始めて、現状を理解できるようになってきた。
今起こっていることは、なぜか鋏が俺のもとに瞬間移動したこと、そして糸井の手首に謎の糸が絡んでいること。この二つだ。
「鋏については巡さんに聞いてみたいけど……」
「あの様子じゃ、とても出てきてはくれないだろうね」
通ってきた道を見返して、糸井がぽつりと言う。彼の言う通りだろう。彼女に拒絶されてしまった以上、これはこちらでどうにか解決する以外にない。
俺は手元の鋏を見つめながら考えこんだ。どうすればこれを巡に返せるのか。糸井に絡みつく糸は何なのか——
「ねえ、一つ思いついたというか、考えがあるんだけどさ」
ふいに糸井が声をかけてきた。向き直ると、彼は俺の手の中でぎらりときらめく白銀の鋏を指す。
「もしかして、君が見えてるっていう糸、この鋏で切れたりしない?」
「……それ、俺もちょっと思ってました」
巡が切り落とした、俺といじめっ子の間につながる縁の糸。あの時は糸井と同じく俺も糸を認識することができなかったが、今見えているこの糸が彼女の見ていたものと同じなら、もしかしたら。
「この糸が糸井くんと斉藤さんの間につながっている糸なら、これを切れば彼女との縁を切れるかもしれない」
ややこわばった顔色をした糸井と、目が合った。きっと、彼も同じことを考えていたのだろう。彼は俺に向けて左腕を伸ばした。
「一度、切れないか試してもらってもいいかな」
「……はい」
俺は鋏を右手に構えた。あの時、巡はどうしていたか。記憶をたどっていく。
彼女はおそらく宙に浮かんでいたのであろう糸に触れていた。俺もそれを真似るようにして、彼の手首から果てしなく伸びている黒い糸を握る。
本当にこれは切れるのだろうか。正直、疑念はあった。というのも、この糸はあまりにも太く、絡まりすぎているのだ。ところどころ確かにほつれてはいるが、ちぎれやすいわけではなさそうだ。言うなれば、古びたしめ縄のような。
しめ縄というものは、太く頑丈であるほど祀られている神が強力であることを示しているらしい。ともすれば、この糸に込められた想いがどれほどであるかは想像がつきやすかった。
鋏を握った手が、わずかに震える。けれど、迷っている暇はない。俺たちはもう、藁にもすがる思いなのだ。もしこれで糸井を助けられるのなら、それに越したことはない。
腹を括って、糸に鋏をかけた。彼女のやっていた通りなら、たった一振りするだけで切れるはずだ。鋏の持ち手に、力をこめる。
「う、わ……なにこれ……」
「どう?」
「これ、ちょっと……」
力を入れてすぐに気がついた。この糸は硬い。あまりにも硬すぎる。どうにか鋏の根元に糸を押し込んで両手で握ってみるが、とても太刀打ちできない。このままでは刃の方が欠けてしまいそうだ。
「切れなさそう、ってことかな」
糸井に訊ねられて、俺は力なくうなずいた。鋏を糸から離すが、糸が切れた様子はない。けれど、よく見てみると外側の細い数本は切ることができたようだ。
「ほんの少しですけど、何本か切ることはできたみたいです。でも、全部を切るのは難しそうだな」
「そっかあ」
糸井は空いた片手で頭をかいた。叶うならこの場ですっぱり切ってしまいたかったけれど、やはり因縁の深い相手との縁切りはそう簡単にはいかないらしい。どうしたものかと俺は顔をしかめる。
俺が苦い表情をしていることに気がついたのか、ふいに糸井が言った。
「でもさ、数本は切れたんだろ? なら、少しは変化がないか様子を見てみようよ。明日は学校があるし、斉藤がどうなってるか確認するチャンスならあるはずだから」
「確かに、どれくらい変わるかは見てみてもいいかもしれないですね」
細い糸が何本かとはいえ、切れたことには変わりないのだ。場合によっては、多少の変化は見込めるかもしれない。もし何かが起こっていれば、これからどうするかの方針を立てられる可能性もあった。
俺は首を縦にふる。事がうまく運ばないと落ちこんでしまうのは俺の悪い癖だ。いつだって前向きで、少しでも良いことがあればそれを拾い上げることができる糸井を見習うべきだろう。
緊張していた肩から力が抜けた。そんな俺を見て、糸井は柔らかく破顔する。
「ありがとう。君のおかげで、少しずつ前進できそうだ」
「あはは、ならいいんですが」
ふと、糸井が不満げに眉を寄せた。急な変化に、俺は思わず身体を跳ねさせる。何か彼を不満にさせる言葉を言ってしまっただろうか。
「あのさ、時雨くん。前々から思ってたんだけど、その敬語、やめない?」
「え?」
怯えた時の癖で鞄を抱きしめていた俺は、彼の思ってもみなかった言葉に拍子抜けした。彼は怒っているというよりかは、呆れているといった様子だ。
「もう友達なんだからさ、敬語なんていらないだろ? 俺からすると違和感がすごいんだよね」
「ともだち……」
口が開いたまま戻らない。友達、という単語を何度も反芻しては、その意味を脳内の辞書で引いた。
友達。俺には今まで、大して縁のなかった存在。
「それとも何だよ。友達だと思ってたの、俺だけだったりする?」
糸井は困ったように小首をかしげて笑った。俺は思わず身を乗り出して叫ぶ。ほとんど無意識で、いつもよりも大きな声が出た。
「そんなわけない! 俺も、えっと、友達だと思ってるよ。ただ、あんまりそういう存在には慣れてなかったっていうか、今までまともに友達がいなかったっていうか……」
俺は見ての通り臆病者で、小心者で、女々しくて、人と関わるのが下手だ。おまけに曰くつきの家系なせいで、進んで俺に関わりたがる人間はめったにいない。
けれど、糸井はそうではないという。
心の奥にすっと光がさしたようだった。白い雲の隙間から、太陽の輝きが覗いていく。
俺は抱えていた鞄を下ろして、深く息を吸った。
「俺なんかと友達になってくれてありがとう!」
糸井は目を大きく見開いた。その瞳にきらめくものを見て、俺は不器用に笑ってみせる。
彼は何度かまばたきをすると、やがて腹を抱えて転がるように笑い始めた。
「そんな改まって言うやつがいるかよ! まあでも、そうだね」
彼はそっとまぶたを下ろして、もう一度開いた。その向こう側にある瞳が、俺をまっすぐに見つめる。
「こちらこそ、ありがとう。俺は糸井蚕人だよ。これからよろしくね」
心臓が早鐘を打つ。俺は食い気味に口を開いた。
「俺は時雨伊織! よろしく!」
視界の端で、俺と蚕人の間に、しなやかな透明色の糸がつながった。朝露が陽光に照らされた時のように、その糸は力強くきらめいていた。
