「……店主さんって、どこかの大地主の方?」
「……さあ」
糸井を引き連れて、俺は例の店——「めぐり屋」の前に佇んでいた。
彼が早々引いてしまうのも無理はない。実際、彼女の店は非常に立派なもので、初めて見る人間はその威圧におされてしまって当然だろう。
俺は、彼の言葉にはあいまいに返事をした。巡についてのことは、俺は何一つ分からない。もしかしたら本当にどこかの大地主なのかもしれないし、はたまた何か由緒正しい家柄の人かもしれない。なんにせよ、俺には彼女の情報はかけらもなかった。
だからこそ、ここにきたとも言える。あわよくばこの依頼を彼女に引き受けてもらって、彼女のことを知ることができないだろうかと、そんな淡い期待を抱いていたのだ。
どうしてか、俺は彼女に対して、奇妙な好奇心を抱いていた。
「それじゃあ、入りましょうか」
「う、うん」
心なしか、糸井の声も震えている。それに連動して、扉の取手を握る俺の手も振動していた。
互いに息を呑みながら、それとなく視線を合わせる。そして一つ喉を鳴らして、扉を引こうとした時だった。
「うわっ!」
あっけないくらいに軽く、扉が開かれた。というより、反対側から押されたのだ。
「……何しにきたの、あなた」
扉を押し開けたのは、彼女——巡だった。俺は慌てて取手から手を離すと、学生鞄を抱きしめてあとずさる。この場所に至るまで、さまざまな会話パターンを用意してきたというのに、俺の頭はいざ本番となった瞬間に役に立たなくなってしまった。
しどろもどろになりながら、俺はとっさに糸井のことを思い出した。そうだ、彼に彼女を紹介しなければ。なんなら、彼は俺より驚いているかもしれない。
フォローを入れようと顔を上げてみて、俺は閉口した。おおげさなくらいに騒いでいた心臓は、この一瞬にしてあっという間に凪いだ。
「……あなたが、ここの店主さんですか」
「……そうね。昔はそうだったわ」
巡の眉間に皺が寄った。疑るように、探るように、彼女の切長な目が俺たちを貫く。
けれどそれに物怖じする様子も見せず、糸井は必死の形相で身を乗り出した。
「時雨くんに聞いたんです。この店は縁を切ってくれる店……『めぐり屋』だって。あなたがここの店主なら、彼の言っていた『鋏で縁を切ってくれる人』というのは、あなたのことですよね?」
巡の視線がとたんに鋭くなって、俺を射抜いた。「どういうことかしら?」圧のある声音が突き刺さって、俺は思わず口を引き結んだ。
怖い。怖い以外の何者でもない。俺は彼女との約束を破ってしまったのだから、怒られるのも、睨まれるのも当然だ。
だけれど、俺には一つ、どうしても忘れられないものがあった。
あの時の、糸井が俺に追い縋った時の表情だった。
あんな顔を見て、いったい誰が彼を切り捨てられようというのか。
俺はこわばった口の端をどうにかこうにか引き裂いて、枯れた喉奥から乾いた声を吐き出した。
「……彼の言うことは本当です。この店の存在を教えたのも、ここまで案内したのも、全部俺です。でも決してひやかしのつもりじゃない」
「じゃあ、目的は何?」
巡の表情は依然として厳しい。けれど俺は、負けじと彼女の瞳を射抜きかえした。
「彼を助けたいんです。彼は今、好きでもない人から一方的に好意を向けられて、つきまとわれている。このままじゃ彼は消耗していく一方だ。だから……」
「その人との縁を、あなたに切ってほしいんです」
俺の言葉についで、糸井が言った。
巡はほんの一瞬、目を見開いた。何か、俺たちの言葉のどれかが、彼女の胸のうちにある棘にひっかかったようだった。
俺は期待で胸が逸るのを感じた。これなら、彼女は俺たちの依頼に乗ってくれるのではないだろうか。少なくとも、彼女が俺たちの言葉に何かを感じ取ったのは確かだ。現に、彼女は迫る俺たちを見て、らしくなくたじろいでいた。
彼女は目元を細めて、視線を逸らしている。見つめている先はどこなのだろう。視線自体は適当な地面の方に向けられていたけれど、彼女の考える先は、つまらない土の表面なんかよりも、ずっと深く、遠いものであるように思えた。
「はあ……」
おもむろに、彼女は自らの額に手を当てた。諦めのにじむため息だった。
「手を貸してくれますか!?」
俺は抱きしめていた鞄を放り出さんとばかりに、彼女へ詰め寄った。
けれど、返ってきた反応は思っていたものとは異なっていた。
「悪いけれど、あなたたちの願いには応えられないわ」
「え……」
糸井のかすれた声が、所在なさげにこぼれおちた。俺は動揺のあまり、彼女の袖をつかむ。
「ど、どうしてですか! 彼、本当に困っていて……」
巡はやわらかく俺の手を引き剥がした。存外優しいその手つきに拍子抜けして、俺は情けなく口を開けて呆けた。
「……あなたたちの気持ちは、よく分かる。なんでもない人につきまとわれるなんて、きっと苦痛でしかないでしょうね。でも、だからといってあの鋏に頼ってはいけないわ」
彼女は立ち尽くす俺たちを置いて、再び店の重い扉を開けた。
「いい? あの鋏はダメなの。本当よ。今のあなたたちが頼るべきなのはあんなものじゃなくて、警察。大人しく然るべき機関のもとに行きなさい」
「あ、待って……!」
俺の叫びもむなしく、扉は閉ざされてしまった。内鍵をかけられてしまったのか、押しても引いても開く気配はない。
まさかここまで拒絶されるとは思わなかった。俺は呆然としたまま、そびえる館を見上げる。
「……ありがとう、ここまで案内してくれて」
ふいに声をかけられて、俺は振り向いた。そこには、苦く笑う糸井の姿があった。
「糸井くん……」
「いいんだよ。最初からダメ元だったんだから。むしろ彼女には不快な思いをさせちゃったみたいだし、申し訳ないことをしちゃったな」
「ごめんなさい……俺のせいだ。彼女には一度お世話になってたんだけど、その時にもう来るなって言われてたんです。でも、もしかしたら力になれるかもしれないと思って、彼女に甘えてしまった」
俺は鞄の紐を固く握った。彼女の言葉を無視するべきではなかった。彼女が嫌がったのだから、無理にもう一度会いに行く必要はなかったのだ。
彼女の言う通り、今回は警察や学校に相談した方が良いだろう。もっとも、助けてくれるかは分からないけれど。
「すでに学校や警察には相談してるんでしたっけ?」
訊ねてみると、糸井はうなずいた。うなずきはしたが、渋い動きだった。
「もう話してあるよ。……結構前にね。結局、まともに手助けはしてくれなかった。まあ当然だよなあ。重大なトラブルってわけでもないし、生徒間で解決してくれって思われるのが関の山だよ」
つまり、打つ手なしということか。俺は途方にくれて、困ったように笑う彼をただじっと見つめていた。
打つ手なしとはいっても、彼をこのままにしておくのはあまりにも不憫だ。どうすれば、彼を助けることができるのだろう。
「今日のところは一旦帰ろうか。あまりお店の前で話してると迷惑だろうし」
「……そう、ですね」
俺は言葉を濁しながらも、何か気の利く言葉を返すこともできず、足を踏み出した糸井の後を静かに追った。
そして、数歩踏み出した時だった。ふいに、俺は形容し難い違和感を感じた。
「……?」
なにか、奇妙な重みが肩にあるような。同時に、微かにものがゆれるような、そんな感覚もした。
何歩か進んでみて、違和感の元が肩にかけていた学生鞄の中にあることに気がついた。俺はその場に立ち止まって、おもむろに鞄のチャックをひっぱる。
「ん? どうかした? 時雨くん」
「あ、えっと……」
俺が足を止めたことに気がついた糸井が振り向く。俺はたどたどしい返事をしながら鞄の中を漁って——ある瞬間、全身が硬直した。
「な、なんで」
そこにあるはずのないものが、あってはいけないものが、俺の鞄に入っている。
「なになに?」
不思議そうにこちらに駆け寄ってきた糸井が、俺が鞄から取り出したものを見て同じく身を固くした。
「なんで、あの鋏が俺のところに……?」
ぎらりと輝くあの白銀の鋏が、俺の手元に収まっていた。
ふと見た糸井の手首には、どす黒く、ほつれにほつれた太い糸が、幾重にも重なって絡みついていた。
「……さあ」
糸井を引き連れて、俺は例の店——「めぐり屋」の前に佇んでいた。
彼が早々引いてしまうのも無理はない。実際、彼女の店は非常に立派なもので、初めて見る人間はその威圧におされてしまって当然だろう。
俺は、彼の言葉にはあいまいに返事をした。巡についてのことは、俺は何一つ分からない。もしかしたら本当にどこかの大地主なのかもしれないし、はたまた何か由緒正しい家柄の人かもしれない。なんにせよ、俺には彼女の情報はかけらもなかった。
だからこそ、ここにきたとも言える。あわよくばこの依頼を彼女に引き受けてもらって、彼女のことを知ることができないだろうかと、そんな淡い期待を抱いていたのだ。
どうしてか、俺は彼女に対して、奇妙な好奇心を抱いていた。
「それじゃあ、入りましょうか」
「う、うん」
心なしか、糸井の声も震えている。それに連動して、扉の取手を握る俺の手も振動していた。
互いに息を呑みながら、それとなく視線を合わせる。そして一つ喉を鳴らして、扉を引こうとした時だった。
「うわっ!」
あっけないくらいに軽く、扉が開かれた。というより、反対側から押されたのだ。
「……何しにきたの、あなた」
扉を押し開けたのは、彼女——巡だった。俺は慌てて取手から手を離すと、学生鞄を抱きしめてあとずさる。この場所に至るまで、さまざまな会話パターンを用意してきたというのに、俺の頭はいざ本番となった瞬間に役に立たなくなってしまった。
しどろもどろになりながら、俺はとっさに糸井のことを思い出した。そうだ、彼に彼女を紹介しなければ。なんなら、彼は俺より驚いているかもしれない。
フォローを入れようと顔を上げてみて、俺は閉口した。おおげさなくらいに騒いでいた心臓は、この一瞬にしてあっという間に凪いだ。
「……あなたが、ここの店主さんですか」
「……そうね。昔はそうだったわ」
巡の眉間に皺が寄った。疑るように、探るように、彼女の切長な目が俺たちを貫く。
けれどそれに物怖じする様子も見せず、糸井は必死の形相で身を乗り出した。
「時雨くんに聞いたんです。この店は縁を切ってくれる店……『めぐり屋』だって。あなたがここの店主なら、彼の言っていた『鋏で縁を切ってくれる人』というのは、あなたのことですよね?」
巡の視線がとたんに鋭くなって、俺を射抜いた。「どういうことかしら?」圧のある声音が突き刺さって、俺は思わず口を引き結んだ。
怖い。怖い以外の何者でもない。俺は彼女との約束を破ってしまったのだから、怒られるのも、睨まれるのも当然だ。
だけれど、俺には一つ、どうしても忘れられないものがあった。
あの時の、糸井が俺に追い縋った時の表情だった。
あんな顔を見て、いったい誰が彼を切り捨てられようというのか。
俺はこわばった口の端をどうにかこうにか引き裂いて、枯れた喉奥から乾いた声を吐き出した。
「……彼の言うことは本当です。この店の存在を教えたのも、ここまで案内したのも、全部俺です。でも決してひやかしのつもりじゃない」
「じゃあ、目的は何?」
巡の表情は依然として厳しい。けれど俺は、負けじと彼女の瞳を射抜きかえした。
「彼を助けたいんです。彼は今、好きでもない人から一方的に好意を向けられて、つきまとわれている。このままじゃ彼は消耗していく一方だ。だから……」
「その人との縁を、あなたに切ってほしいんです」
俺の言葉についで、糸井が言った。
巡はほんの一瞬、目を見開いた。何か、俺たちの言葉のどれかが、彼女の胸のうちにある棘にひっかかったようだった。
俺は期待で胸が逸るのを感じた。これなら、彼女は俺たちの依頼に乗ってくれるのではないだろうか。少なくとも、彼女が俺たちの言葉に何かを感じ取ったのは確かだ。現に、彼女は迫る俺たちを見て、らしくなくたじろいでいた。
彼女は目元を細めて、視線を逸らしている。見つめている先はどこなのだろう。視線自体は適当な地面の方に向けられていたけれど、彼女の考える先は、つまらない土の表面なんかよりも、ずっと深く、遠いものであるように思えた。
「はあ……」
おもむろに、彼女は自らの額に手を当てた。諦めのにじむため息だった。
「手を貸してくれますか!?」
俺は抱きしめていた鞄を放り出さんとばかりに、彼女へ詰め寄った。
けれど、返ってきた反応は思っていたものとは異なっていた。
「悪いけれど、あなたたちの願いには応えられないわ」
「え……」
糸井のかすれた声が、所在なさげにこぼれおちた。俺は動揺のあまり、彼女の袖をつかむ。
「ど、どうしてですか! 彼、本当に困っていて……」
巡はやわらかく俺の手を引き剥がした。存外優しいその手つきに拍子抜けして、俺は情けなく口を開けて呆けた。
「……あなたたちの気持ちは、よく分かる。なんでもない人につきまとわれるなんて、きっと苦痛でしかないでしょうね。でも、だからといってあの鋏に頼ってはいけないわ」
彼女は立ち尽くす俺たちを置いて、再び店の重い扉を開けた。
「いい? あの鋏はダメなの。本当よ。今のあなたたちが頼るべきなのはあんなものじゃなくて、警察。大人しく然るべき機関のもとに行きなさい」
「あ、待って……!」
俺の叫びもむなしく、扉は閉ざされてしまった。内鍵をかけられてしまったのか、押しても引いても開く気配はない。
まさかここまで拒絶されるとは思わなかった。俺は呆然としたまま、そびえる館を見上げる。
「……ありがとう、ここまで案内してくれて」
ふいに声をかけられて、俺は振り向いた。そこには、苦く笑う糸井の姿があった。
「糸井くん……」
「いいんだよ。最初からダメ元だったんだから。むしろ彼女には不快な思いをさせちゃったみたいだし、申し訳ないことをしちゃったな」
「ごめんなさい……俺のせいだ。彼女には一度お世話になってたんだけど、その時にもう来るなって言われてたんです。でも、もしかしたら力になれるかもしれないと思って、彼女に甘えてしまった」
俺は鞄の紐を固く握った。彼女の言葉を無視するべきではなかった。彼女が嫌がったのだから、無理にもう一度会いに行く必要はなかったのだ。
彼女の言う通り、今回は警察や学校に相談した方が良いだろう。もっとも、助けてくれるかは分からないけれど。
「すでに学校や警察には相談してるんでしたっけ?」
訊ねてみると、糸井はうなずいた。うなずきはしたが、渋い動きだった。
「もう話してあるよ。……結構前にね。結局、まともに手助けはしてくれなかった。まあ当然だよなあ。重大なトラブルってわけでもないし、生徒間で解決してくれって思われるのが関の山だよ」
つまり、打つ手なしということか。俺は途方にくれて、困ったように笑う彼をただじっと見つめていた。
打つ手なしとはいっても、彼をこのままにしておくのはあまりにも不憫だ。どうすれば、彼を助けることができるのだろう。
「今日のところは一旦帰ろうか。あまりお店の前で話してると迷惑だろうし」
「……そう、ですね」
俺は言葉を濁しながらも、何か気の利く言葉を返すこともできず、足を踏み出した糸井の後を静かに追った。
そして、数歩踏み出した時だった。ふいに、俺は形容し難い違和感を感じた。
「……?」
なにか、奇妙な重みが肩にあるような。同時に、微かにものがゆれるような、そんな感覚もした。
何歩か進んでみて、違和感の元が肩にかけていた学生鞄の中にあることに気がついた。俺はその場に立ち止まって、おもむろに鞄のチャックをひっぱる。
「ん? どうかした? 時雨くん」
「あ、えっと……」
俺が足を止めたことに気がついた糸井が振り向く。俺はたどたどしい返事をしながら鞄の中を漁って——ある瞬間、全身が硬直した。
「な、なんで」
そこにあるはずのないものが、あってはいけないものが、俺の鞄に入っている。
「なになに?」
不思議そうにこちらに駆け寄ってきた糸井が、俺が鞄から取り出したものを見て同じく身を固くした。
「なんで、あの鋏が俺のところに……?」
ぎらりと輝くあの白銀の鋏が、俺の手元に収まっていた。
ふと見た糸井の手首には、どす黒く、ほつれにほつれた太い糸が、幾重にも重なって絡みついていた。
