めぐり屋の軌跡

 嫌なものが待ち構えている際の時の流れとは、実に早いものだ。一時限目、二時限目と時間は過ぎ去り、秒針は回り、あっという間に放課後は訪れた。
「時雨くんいますかー!?」
「えっ、糸井くん?」
 明るい青年の声に次いで、教室中がざわめいた。クラスカーストのトップに座する人間が、どういうわけか別クラスの、その最底辺にいる人間の元に現れるなど、不思議に思われて当然だろう。特に今朝の騒動を見ていたのであろう人々がしきりにこちらに視線を寄越している。俺は耐えきれなくなって、鞄を片手に教室を飛び出した。
「ついてきて!」
「おっ、と……」
 糸井の手を引き、廊下を駆け出す。背後で何やら糸井が楽しそうに喋っているのが聞こえたが、俺は全くもって聞こえないふりをして学校を脱出した。
 逃げ出したはいいものの、どこに向かうべきか。曇天の下、車の往来する道路の横で、アスファルトに立ち尽くす。
「あ、やっと止まってくれた」
 ようやく糸井の言葉を認識することができた。彼の手首を強く握りすぎていたことに気づいて、咄嗟に手を離す。
「す、すみません……驚いちゃって」
「大丈夫。急だったからね、驚かせた俺にも責任はあるから」
 彼は破顔すると、徐に顔を上げた。
「ファミレスあるし、少し寄ってかない? 君にお礼したくてさ。奢るよ」
「いえ、そんな……」
「いいからいいから」
 半ば引き摺られるように、俺はすぐ傍にあった店へと連れ込まれた。
 
「食べたいもの、好きに選んでよ」
 メニュー表を手渡される。中を覗いてみるが、これといって気になるものはなかった。だからといって、何も頼まないのもそれはそれで忍びない。
 いっそのこと、迷惑料ということで高いものでも頼んでしまおうか。
「……じゃあ、パフェで」
「了解」
「えっ、冗談ですよ!」
 自分の冗談センスが地の底についているのか、それとも糸井がお人好しすぎるのか。彼は目を瞬かせながら、「そうなの?」とだけ返す。それと同時に、呼び出しボタンが押されてしまった。
「パフェ以外のが良かった?」
「いや、そういうわけでも……」
「じゃあそのまま注文するよ。すみませーん」
「ああ……ありがとうございます……」
 店員が来てしまったので、もう抵抗もできない。俺は萎れながら肩を縮こめた。
 天真爛漫。彼を表するにはそれが正しいと思った。今朝、学校の廊下で怒鳴っていた彼とはまるで別人のようだ。髪を明るくブリーチしているから、あの時の様子と相まって、正直ヤンキーか何かかと怯えていたのが申し訳なくなる。
「えっと……朝は災難でしたね」
「そう、そのことのお礼をしたかったんだよ!」
 彼は人差し指を立てて、真っ直ぐに俺を指差す。その勢いに圧倒されていると、彼は疲れ果てたような様子を見せながら、勝手に話し出した。
「あの女の人……斉藤って言うんだけど、あいつ、鬱陶しいくらい俺に引っ付いて回っててさ。好意を持たれてるのか何なのか分からないんだけど、最近はストーカー紛いのことまでするようになってきて。今日もまた電車の中まで着いてこられたんだよ……」
「うわあ……」
 彼は肺の空気を全て吐き出さんとばかりに溜め息を吐く。その様は一層哀れで、見ていて不憫でならなかった。そんな目に遭っているのなら、今朝のように怒鳴ってしまうのも無理はないかもしれない。少なくとも、俺なら泣いて叫んで逃げている。
「学校に着いてからも捕まって、いよいよどうしようって時に君が来てくれたからさ、すごい助かった! ありがとう!」
「た、助けられたなら良かったです……?」
 俺はこれといって何もしていない気はするが。一方の糸井は指を鳴らしてはしゃいでいる。本当に悪意なくあの行動を取り、何の嫌味もなく助かったと言ってくれているのだろう。変に卑屈になっている自分の方が卑しいと感じた。
「その、また何かあったらいつでも頼ってくださいね」
「本当!? 君ってとことん優しいな!」
 かなり社交辞令的な言葉になってしまったと思ったが、彼にとってはそうではなかったらしい。本当に困っているようだし、朝電車で手を貸せなかった以上、手伝いたいという思いはあった。あと、パフェも奢ってもらったし。
「はー……いっそのこと、あいつと縁を切れたらいいのになあ」
 手持ち無沙汰に指を組んでいた時、彼の発した言葉が胸に引っかかった。
 縁を、切る。
「……それ、できないことも、ないですよ」
「え?」
 彼にとってはきっと何でもない言葉だったのかもしれないけれど、俺には意味のある発言だった。
「縁を、切りたいんですよね?」
「そうだけど……」
 自分だけのものだと思っていた秘密を、打ち明ける時が来たかもしれない。胸が逸るのを感じながら口を開いた、その時だった。
「パフェとアップルパイですー」
「あ、はい。ありがとうございます」
 店員が颯爽と現れて、品物を置いてまた颯爽と帰っていった。なんだか出鼻を挫かれたようで、まごついてしまう。
「それで、縁を切る方法があるって本当?」
「は、はい! そうです。あるんです」
 格好良く決め切ることができなかったので、俺は諦めてスプーンを手に取ってパフェの天辺を突いた。自らを落ち着けるように冷たいアイスを一口含んで、飲み込む。
「俺、鋏を使って縁を切ってくれる人を知ってるんです」
「鋏を使って、縁を切る……?」
 糸井は怪訝な顔をして、首を傾げた。彼女について知らない人がこんな話を聞けば、怪しい勧誘か何かかと思って当然だろう。糸井に引かれる覚悟も固めていた。
 けれど存外、彼は俺の話題に興味を持ったようだった。
「なにそれ、そんなすごい力を持ってる人がいるの!?」
 切りかけのアップルパイを放棄して、彼は身を乗り出した。輝く瞳で覗き込まれて、俺は思わず身を仰け反らせる。
「は、はい。俺もついこの前知り合ったばかりなんですけど……」
「教えて教えて! どこにいるの? その人!」
「えっと……」
 自分で提案しておいて、僅かに躊躇いが胸を過ぎった。なにせ、彼女からは二度と来るなと言い渡されてしまっているのだ。ここで紹介したら、彼女に怒られてしまうだろうか。
 迷う気持ちも捨て切れず、俺は糸井を上目に見上げる。彼は藁にも縋るような思いなのか、意志の堅い瞳でこちらを見つめていた。
 その目を見ていて、ふいに気づく。
 彼の下瞼には、薄らと隈が浮かんでいた。
(上手く眠れていないのか)
 俺は下唇を噛んだ。そして、口を開く。
「俺が案内しますよ。縁を切る店——『めぐり屋』に」