正直、半信半疑ではあった。たった一つの鋏で、俺に都合の悪いこと全てが断ち切れるとは思っていなかったのだ。それでも、もしかしたらというほんの些細な期待と欲望で、俺は彼女に「依頼」をした。
俺の通っている学校は中高一貫の進学校で、今回縁の糸を切った相手は、中学の頃から三年間、俺をいじめ抜いてきた人間だった。まさかそんな相手との縁をあっさり切ることができるとは。
事故死とか、そういう形での縁切りにならなかったのも幸いだった。いくら憎い相手でも、流石に死なれてしまっては後味が悪い。転校になった理由までは分からなかったが、それでも生きて離散することができたのなら、それに越したことはないだろう。
自室の布団に転がりながら、俺は天を仰いだ。木の模様を眺めながら、先日の不思議な鋏と女性——巡を思い出す。
大層美しい人だった。真っ直ぐに切り揃えられた、艶やかな濡羽色の髪。黒いショート丈のファーコートと、その下に同じく黒色のロングワンピースを纏う姿は、文字通り妖艶な烏のようだった。
年齢もあまり計れなかった。若いように見えなくもなかったけれど、醸す貫禄はそれなりに年の功を重ねているようにも見えたからだ。つまり彼女は、俺の好奇心を引き出すには十分すぎる存在だった。
叶うなら、もう一度会いに行きたいと思った。店の場所は分かっているし、きっと会おうと思えば会えるだろう。
けれど、俺の頭には彼女が最後に告げた言葉がこびりついていた。「もう二度と来ないで頂戴」臆病者の俺は、ああ言われてしまうと弱い。彼女の命令じみた言葉に無視を決め込んで再度あの店の扉を破りに行くのは、少々憚られるものがあった。
「どうしたもんかな……」
膨らむ欲と、それを抑え込む理性。俺は唸りながら枕に突っ伏した。こういうものは大抵時間が解決してくれる。鋏は返せたわけだし、不思議な女性のこともそのうち忘れることはできるだろう。
「でも、どうして父さんはあんなものを持ってたんだ……?」
そこまで考えて後悔した。これでは、更に自分の好奇心を擽っているようなものだ。煩悩を掻き消すように、俺は小さく叫びながらどたばたと足を振った。
首を横に向ければ、障子の隙間から雪の舞う中庭が見える。女中が忙しなく廊下を歩いては、家事やら何やらをしているようだった。
この家は、少々曰く付きだ。所謂地主の家系で、名家と呼ばれるくらいには財を成しているが、その過程における黒い噂も時々聞くことがある。
父は俺が生まれて早々に病没したらしい。だから、俺はあの人がどんな性格だったのかも、何もかも知らない。ただ分かるのは、写真を見てみたら思いの外俺と顔が似ていたくらいのことだ。
女中や親族に訊ねてみても、彼らは父のことはそれとなくはぐらかす。何か隠されている、と直感的に思ってはいたが、深く関わらない方が身のためだろうとも思っていた。
「はー……」
深く溜め息を吐けば、吐息が白い色に染まって揺れた。暖房をつけ忘れていたことにようやく気がついて、立ち上がる。
リモコンを片手に、俺はぼんやりと思った。
こんな家系でさえなければ、クラスメイトにくだらない嫉妬をされていじめられることも、そのせいで小心者になることもなかったのだろうか。
どことなく胸の底が重い。だからといって、学校は休めるものではない。俺はそんな小さな不調を振り切るように、どうにかこうにか今日も通学していた。
電車に乗っていた時だった。ふいに、側に立っていた男性——俺と同じ制服を着ているから、同校の生徒かもしれない——が、どこか居心地が悪そうに周囲を見渡していることに気がついた。
満員気味の電車だから、俺の立ち位置が悪くて苦しい思いをさせてしまっているのだろうか。そう思って少し距離を取るが、男子生徒は未だ苦々しい表情をしている。
まさか痴漢的なあれそれに遭っているのだろうか。最近は男も被害に遭うことがあると聞く。慌てて彼を注視するけれど、特段そんな様子も見られなかった。彼は一体何に困っているのだろう。
ここで声をかけられるのが、きっと勇気ある男というやつなのだろう。けれどこれが俺の勘違いだったらとか、下手に声をかける方が迷惑なんじゃないかとか、そんなことを考えてしまって、俺は結局何もできず終いだった。電車はあっさりと学校の最寄り駅へと到着した。
男子生徒は他の乗客を掻き分けるように車内から出ていった。随分と慌てているような動きだった。やはり只事ではないことが起きていたのではないかと、今更後悔の念が込み上げ始める。
俺は鞄の肩紐を握る手に力を入れながら、俯きがちに足を踏み出した。心臓の割れるような拍動だけが耳に届く。口の中が妙に乾いていた。
無心で歩き続けていれば、自然と俺は学校に辿り着いていた。例の男子生徒の姿は見当たらない。もし次電車内で見かけることがあれば、声をかけてみた方がいいかもしれない。そう小さく意志を固めつつ、俺は廊下を進んでいく。
生徒たちは集まり始めている。朝会がもう少しで始まるからだろう。遅れないように、少し駆け出し始めた時だった。
「だから、どうして俺にべったり張り付いてくるんだよ!」
誰かが声を張り上げるのが聞こえた。思わず俺は肩を跳ねさせる。何事かと顔を上げれば、少し離れた場所で人だかりができていた。
「同じ学校なんだし、同じ道を通るのは当たり前でしょ」
「だからってあんなにくっついてこなくたっていいだろ!? 人の家までわざわざ近づいてきて、電車の中でまで後をつけられたりするの、普通に迷惑なんだよ! お前の家、反対方向だろ!?」
「あたしのことストーカーみたいに言わないでよ!」
何やらとんでもない論争が起こっているようだ。どうにかこうにか人を掻い潜って向こう側を見て、俺は愕然とする。
そこで揉めていた渦中の人物は、あの電車内で見た男子生徒だった。
彼の前には、少々……少々陰気な風貌をした女子が、顔を顰めて立っていた。膨れ上がった学生鞄といい、フケのついた湿り気味の髪といい、清潔感のある見た目ではない。どちらが正論なのかは、あまりこういう基準で判断したくはなかったが、彼女の容姿や今朝の彼の様子を見ていると容易に想像がついた。
「あの人、A組の斉藤さん……?」
「そうそう。糸井くんに絡みまくってるって噂の」
どうやら俺の想像は当たっていたらしい。周囲の目は、明らかにその糸井と呼ばれた青年の方に憐憫の視線を向けていた。
「べ、別に一緒に登下校するくらいいいじゃない……」
「俺は一度も許可してない!」
糸井はいっそ哀れなほどに激しく首を横に振っていた。この様子だと日常的に付き纏われているのだろう。流石に見ていて不憫になってきた。
今朝は声をかけられなかったわけだし、せめて今くらいは仲裁に入るべきかもしれない。彼らのことは詳しく知らなかったけれど、これが今の俺にできるせめてものお詫びだろう。
「あ、あの……」
腹を括れ、俺。そう繰り返し胸中で呟きながら吐き出した言葉は、情けないくらいに震えていた。
これでは届く声も届いていないだろう。勇気を出したくせにこんな有様かと泣きたくなっていると、突然糸井が振り向いた。
彼の瞳とかち合った瞬間、彼は救いの手を見たかのように目を輝かせた。途端、嫌な予感が電流となって俺の頭を走り抜けていく。
やはり尻尾を巻いて逃げるべきだったか。そう考えたのも束の間、彼に凄まじい力で腕を引っ張られた。
「え、え!?」
「合わせて」
肩を抱かれ、目を白黒とさせる俺を見下ろしながら彼は凄んだ。それに圧倒されて、俺はほぼ無意識で首を縦に振る。
彼は斉藤に向き直って叫ぶ。
「俺、しばらくこいつと一緒に登下校する約束してるんだよ。よって、お前は邪魔なので消えてください」
驚愕で声も出なかった。限界まで目を見開く俺に、彼は余計なことは言うなとばかりに目を細めてくる。俺は口の端を引き攣らせながら、飛びかける意識を必死に繋いだ。どうしてこんな目に。そんな思いだけが内側に響き続ける。
斉藤は糸井の怒涛の剣幕に圧されたのか、言葉を失くして右往左往としていた。消えてくださいとまで言われてしまうと粘ろうにも粘れないのか、彼女は歯を食い縛ると、すごすごとその場を去っていった。途端、周囲が一気に肩の力を抜くのが伝わってくる。
「完全勝利だ……」
俺はそんなことないけどね、と叫びたかった。こちらを見つめる視線にちらほら好奇と探るようなものが混じっていることに気がついたからだ。これはしばらく誤解が解けるまで時間がかかるやつだろう。
「悪かった。急に巻き込んで」
「いや、はは……大丈夫です……」
気分が最底辺まで落ちている俺に反して、糸井はこれ以上ないほど爽やかな笑みを浮かべていた。まあ、鬱陶しい人間を追い払えたらすっきりして当然だろう。野次馬も撤退し始めて、予鈴が鳴った。
「ああ、もう時間か。後でまたお礼しにいくから待ってて! 何組の誰くん?」
「……B組の時雨です……」
「オッケー! それじゃあまた!」
彼は嵐のように去っていった。この後また彼と関わらなければならないのかと、考えれば考えるほど魂が抜けていきそうになる。
俺は深く、深く息を吐き、自分のクラスへと向かっていった。
俺の通っている学校は中高一貫の進学校で、今回縁の糸を切った相手は、中学の頃から三年間、俺をいじめ抜いてきた人間だった。まさかそんな相手との縁をあっさり切ることができるとは。
事故死とか、そういう形での縁切りにならなかったのも幸いだった。いくら憎い相手でも、流石に死なれてしまっては後味が悪い。転校になった理由までは分からなかったが、それでも生きて離散することができたのなら、それに越したことはないだろう。
自室の布団に転がりながら、俺は天を仰いだ。木の模様を眺めながら、先日の不思議な鋏と女性——巡を思い出す。
大層美しい人だった。真っ直ぐに切り揃えられた、艶やかな濡羽色の髪。黒いショート丈のファーコートと、その下に同じく黒色のロングワンピースを纏う姿は、文字通り妖艶な烏のようだった。
年齢もあまり計れなかった。若いように見えなくもなかったけれど、醸す貫禄はそれなりに年の功を重ねているようにも見えたからだ。つまり彼女は、俺の好奇心を引き出すには十分すぎる存在だった。
叶うなら、もう一度会いに行きたいと思った。店の場所は分かっているし、きっと会おうと思えば会えるだろう。
けれど、俺の頭には彼女が最後に告げた言葉がこびりついていた。「もう二度と来ないで頂戴」臆病者の俺は、ああ言われてしまうと弱い。彼女の命令じみた言葉に無視を決め込んで再度あの店の扉を破りに行くのは、少々憚られるものがあった。
「どうしたもんかな……」
膨らむ欲と、それを抑え込む理性。俺は唸りながら枕に突っ伏した。こういうものは大抵時間が解決してくれる。鋏は返せたわけだし、不思議な女性のこともそのうち忘れることはできるだろう。
「でも、どうして父さんはあんなものを持ってたんだ……?」
そこまで考えて後悔した。これでは、更に自分の好奇心を擽っているようなものだ。煩悩を掻き消すように、俺は小さく叫びながらどたばたと足を振った。
首を横に向ければ、障子の隙間から雪の舞う中庭が見える。女中が忙しなく廊下を歩いては、家事やら何やらをしているようだった。
この家は、少々曰く付きだ。所謂地主の家系で、名家と呼ばれるくらいには財を成しているが、その過程における黒い噂も時々聞くことがある。
父は俺が生まれて早々に病没したらしい。だから、俺はあの人がどんな性格だったのかも、何もかも知らない。ただ分かるのは、写真を見てみたら思いの外俺と顔が似ていたくらいのことだ。
女中や親族に訊ねてみても、彼らは父のことはそれとなくはぐらかす。何か隠されている、と直感的に思ってはいたが、深く関わらない方が身のためだろうとも思っていた。
「はー……」
深く溜め息を吐けば、吐息が白い色に染まって揺れた。暖房をつけ忘れていたことにようやく気がついて、立ち上がる。
リモコンを片手に、俺はぼんやりと思った。
こんな家系でさえなければ、クラスメイトにくだらない嫉妬をされていじめられることも、そのせいで小心者になることもなかったのだろうか。
どことなく胸の底が重い。だからといって、学校は休めるものではない。俺はそんな小さな不調を振り切るように、どうにかこうにか今日も通学していた。
電車に乗っていた時だった。ふいに、側に立っていた男性——俺と同じ制服を着ているから、同校の生徒かもしれない——が、どこか居心地が悪そうに周囲を見渡していることに気がついた。
満員気味の電車だから、俺の立ち位置が悪くて苦しい思いをさせてしまっているのだろうか。そう思って少し距離を取るが、男子生徒は未だ苦々しい表情をしている。
まさか痴漢的なあれそれに遭っているのだろうか。最近は男も被害に遭うことがあると聞く。慌てて彼を注視するけれど、特段そんな様子も見られなかった。彼は一体何に困っているのだろう。
ここで声をかけられるのが、きっと勇気ある男というやつなのだろう。けれどこれが俺の勘違いだったらとか、下手に声をかける方が迷惑なんじゃないかとか、そんなことを考えてしまって、俺は結局何もできず終いだった。電車はあっさりと学校の最寄り駅へと到着した。
男子生徒は他の乗客を掻き分けるように車内から出ていった。随分と慌てているような動きだった。やはり只事ではないことが起きていたのではないかと、今更後悔の念が込み上げ始める。
俺は鞄の肩紐を握る手に力を入れながら、俯きがちに足を踏み出した。心臓の割れるような拍動だけが耳に届く。口の中が妙に乾いていた。
無心で歩き続けていれば、自然と俺は学校に辿り着いていた。例の男子生徒の姿は見当たらない。もし次電車内で見かけることがあれば、声をかけてみた方がいいかもしれない。そう小さく意志を固めつつ、俺は廊下を進んでいく。
生徒たちは集まり始めている。朝会がもう少しで始まるからだろう。遅れないように、少し駆け出し始めた時だった。
「だから、どうして俺にべったり張り付いてくるんだよ!」
誰かが声を張り上げるのが聞こえた。思わず俺は肩を跳ねさせる。何事かと顔を上げれば、少し離れた場所で人だかりができていた。
「同じ学校なんだし、同じ道を通るのは当たり前でしょ」
「だからってあんなにくっついてこなくたっていいだろ!? 人の家までわざわざ近づいてきて、電車の中でまで後をつけられたりするの、普通に迷惑なんだよ! お前の家、反対方向だろ!?」
「あたしのことストーカーみたいに言わないでよ!」
何やらとんでもない論争が起こっているようだ。どうにかこうにか人を掻い潜って向こう側を見て、俺は愕然とする。
そこで揉めていた渦中の人物は、あの電車内で見た男子生徒だった。
彼の前には、少々……少々陰気な風貌をした女子が、顔を顰めて立っていた。膨れ上がった学生鞄といい、フケのついた湿り気味の髪といい、清潔感のある見た目ではない。どちらが正論なのかは、あまりこういう基準で判断したくはなかったが、彼女の容姿や今朝の彼の様子を見ていると容易に想像がついた。
「あの人、A組の斉藤さん……?」
「そうそう。糸井くんに絡みまくってるって噂の」
どうやら俺の想像は当たっていたらしい。周囲の目は、明らかにその糸井と呼ばれた青年の方に憐憫の視線を向けていた。
「べ、別に一緒に登下校するくらいいいじゃない……」
「俺は一度も許可してない!」
糸井はいっそ哀れなほどに激しく首を横に振っていた。この様子だと日常的に付き纏われているのだろう。流石に見ていて不憫になってきた。
今朝は声をかけられなかったわけだし、せめて今くらいは仲裁に入るべきかもしれない。彼らのことは詳しく知らなかったけれど、これが今の俺にできるせめてものお詫びだろう。
「あ、あの……」
腹を括れ、俺。そう繰り返し胸中で呟きながら吐き出した言葉は、情けないくらいに震えていた。
これでは届く声も届いていないだろう。勇気を出したくせにこんな有様かと泣きたくなっていると、突然糸井が振り向いた。
彼の瞳とかち合った瞬間、彼は救いの手を見たかのように目を輝かせた。途端、嫌な予感が電流となって俺の頭を走り抜けていく。
やはり尻尾を巻いて逃げるべきだったか。そう考えたのも束の間、彼に凄まじい力で腕を引っ張られた。
「え、え!?」
「合わせて」
肩を抱かれ、目を白黒とさせる俺を見下ろしながら彼は凄んだ。それに圧倒されて、俺はほぼ無意識で首を縦に振る。
彼は斉藤に向き直って叫ぶ。
「俺、しばらくこいつと一緒に登下校する約束してるんだよ。よって、お前は邪魔なので消えてください」
驚愕で声も出なかった。限界まで目を見開く俺に、彼は余計なことは言うなとばかりに目を細めてくる。俺は口の端を引き攣らせながら、飛びかける意識を必死に繋いだ。どうしてこんな目に。そんな思いだけが内側に響き続ける。
斉藤は糸井の怒涛の剣幕に圧されたのか、言葉を失くして右往左往としていた。消えてくださいとまで言われてしまうと粘ろうにも粘れないのか、彼女は歯を食い縛ると、すごすごとその場を去っていった。途端、周囲が一気に肩の力を抜くのが伝わってくる。
「完全勝利だ……」
俺はそんなことないけどね、と叫びたかった。こちらを見つめる視線にちらほら好奇と探るようなものが混じっていることに気がついたからだ。これはしばらく誤解が解けるまで時間がかかるやつだろう。
「悪かった。急に巻き込んで」
「いや、はは……大丈夫です……」
気分が最底辺まで落ちている俺に反して、糸井はこれ以上ないほど爽やかな笑みを浮かべていた。まあ、鬱陶しい人間を追い払えたらすっきりして当然だろう。野次馬も撤退し始めて、予鈴が鳴った。
「ああ、もう時間か。後でまたお礼しにいくから待ってて! 何組の誰くん?」
「……B組の時雨です……」
「オッケー! それじゃあまた!」
彼は嵐のように去っていった。この後また彼と関わらなければならないのかと、考えれば考えるほど魂が抜けていきそうになる。
俺は深く、深く息を吐き、自分のクラスへと向かっていった。
