通り雨が過ぎた後の空は、ひどく眩しい

 海からの帰り道、空はすっかり燃えるような茜色に染まり上がっていた。
 昼間のうだるような暑さは息を潜め、代わりに、カナカナカナ……というヒグラシの物悲しい大合唱が、田舎町の輪郭を少しずつ夜へと溶かしていく。

 自転車を引いて寄り道したのは、小さな神社の裏手にある朽ちたお堂だった。
 ここは小学生の頃、二人でよく入り浸っていた「秘密基地」だ。色剥げた木造の縁側に腰を下ろすと、都会の喧騒からも、流れる時間からも完全に切り離されたような不思議な静寂に包まれる。

「ほらよ」
「サンキュ」

 湊が自販機で買ってきた安い缶ジュースを受け取る。
 カシュッ、とプルタブを引く硬質な音が、誰もいない静かな境内に小気味よく響いた。

「いやー、しかしマジで何も変わってねーな、ここ。お前、小三の時この裏の木から落ちて、泥だらけになって大泣きしたの覚えてる?」
「はぁ? 泣いてないし。あの時は湊が下で受け止めるって言ったのに、ビビって避けたからでしょ」
「ちげーよ! お前の落ち方がエグすぎて、咄嗟に躱しちまったんだよ! あん時のお前の顔、マジで傑作だったわ!」
「最低。あの後、うちの母さんに死ぬほど怒られたんだからな」
「俺だって『ユキちゃんに怪我させて!』って、ばあちゃんに箒でケツ叩かれたっつーの!」

 喉を反らして、腹の底から思い切り笑い合う。
 今の俺が着ている女の子みたいな服も、湊に染み付いた東京の匂いも、この瞬間だけは完全に消え失せていた。俺たちはただの無邪気な「ユキ」と「湊」に戻り、馬鹿馬鹿しい思い出話の熱に浮かされている。

 隣で無防備に笑う湊の横顔を見つめながら、どうかこのまま、神様が時計の針を止めてしまえばいいのにと、心の底から願った。

 やがて、ひとしきり笑い転げたあとの、心地よい疲労感に包まれた時のこと。
 ふと笑い声が途切れ、遠くの山際へと沈みゆく夕日を見つめていた湊が、小さく息を吐き出した。

「ふう……」

 それは、太陽のように明るい彼には似合わない、ひどく無防備なため息だった。
 東京での人間関係や、見えない誰かとの恋愛の軋轢。彼の抱える見えない重圧が、ほんの少しだけその隙間から漏れ出たような気がした。

 湊はゴロンと音を立てて、古びた縁側に仰向けに寝転がった。
 そして、茜色の空を見上げたまま、ぽつりと呟く。

「……やっぱり、お前といると一番落ち着くわ」

 鼓膜の奥で、その低い声が反響した。

「なにそれ。急にジジ臭い」
「いや、マジで。東京だとさ、なんか常に誰かに見られてるっていうか、カッコつけなきゃいけない気がして疲れるんだよね。でも、ユキの前だと何も飾らなくていいからさ。お前は昔から、俺を全然特別扱いしねーし」

 ――飾らなくていい。一番落ち着く。

 その言葉が、致死量の甘い毒となって、俺の胸の奥深くまでじんわりと浸透していく。
 昨日からずっと胃の腑で燻っていた、「彼女がいるかもしれない」という醜い不安と焦燥感が、嘘みたいに綺麗に溶けていくのがわかった。

 恋人じゃなくてもいい。
 あのスマホのロック画面にいて、彼の隣で華奢な肩を並べているのが、俺じゃなくてもいい。

 誰も知らない彼の隙や、弱音を吐き出せる『一番の理解者』という席に、俺が座っていられるのなら。彼にとっての『特別』になれるなら、それでいいじゃないか。
 この心地よい「親友」という特等席を守り抜くためなら、俺は一生、この狂おしい恋心を胸の奥に封じ込めて生きていける。

 自分にそう言い聞かせ、俺は強がるように小さく鼻で笑ってみせた。

 縁側に寝転がる湊の、無防備に散らばった前髪。
 俺は吸い寄せられるように、その髪を梳こうと右手を伸ばした。あと数センチで、あのざらりとした男の髪に触れられる。

 けれど、指先が微かな彼の体温を感じ取った瞬間。
 透明な分厚い壁に阻まれたように、俺の手はピタリと空中で止まった。

 触れてしまえば、終わる。
 この手で彼に触れた瞬間、「親友」の仮面は剥がれ落ち、俺のいびつな感情がすべて暴かれてしまう。

 ヒグラシの鳴き声が、一段と高く境内に響き渡る。
 俺は空を切った右手を静かに、誰にも気づかれないように下ろし、ギュッと膝の上で握りしめた。
 オレンジ色の夕日が、決して埋まることのない俺たちの距離を残酷なまでに照らし出していた。