通り雨が過ぎた後の空は、ひどく眩しい

 コンクリートの防波堤から砂浜へと飛び降りると、スニーカーの底が乾いた砂を擦る、じゃり、というくぐもった音が鳴った。

 太陽が少しだけ西へ傾き始め、海風の温度が微かに下がる。
 波打ち際に沿って歩幅を合わせながら、湊はぽつりぽつりと、自分の生きている「東京」の話を始めた。

「朝の満員電車とか、マジで息できないからな。新宿の駅なんて完全に迷路だし、最初はどこ歩いてるか全然わかんなかったわ」
「へえ……」
「こっちみたいに、チャリでどこでも行けるわけじゃないし。遊ぶっつっても、金ばっかかかるしさ」

 呆れたように笑いながら語る言葉の端々に、俺の知らない「都会の高校生」としての湊の輪郭が浮かび上がる。
 潮風に混じって鼻先を掠める、洗練された制汗剤の匂い。隣を歩いているのに、声は鼓膜のすぐ横で響いているのに、彼の存在が途方もなく遠い別の星の住人のように思えてならなかった。
 彼が東京で過ごした時間は、俺のあずかり知らない空白だ。その空白の分だけ、俺たちは確実に違う空気を吸って生きている。

 会話が途切れ、ザザーッという重たい波の音だけが、数秒の空白を満たした。

 ポケットの中で、ギュッと手を握り込む。
 頭の奥底では、昨日見たスマホのロック画面に映るパステルカラーの爪先と、先ほど俺の頬に触れたざらりとした指の感触が、警報のように交互に点滅していた。

 聞いてはいけない。知ってしまえば、もう後戻りはできない。
 警鐘を鳴らす本能をねじ伏せ、俺は「気のおけない幼馴染」という分厚い仮面を顔面に貼り付けた。喉の渇きを悟られないよう、努めて軽薄なトーンで口を開く。

「で? そっちではどうなの。……彼女とか、いないの?」

 波が砕け散る音が、鼓膜を打った。

 湊の歩みが、ほんの半歩だけ遅れる。
 いつもなら何事も即答するはずの彼が、一瞬だけ言葉を飲み込むように唇をきつく引き結んだ。視線が俺から逃げるように、光を反射する水平線へと泳ぐ。
 そして、彼の手がゆっくりと上がり、無意識に首の後ろをポリポリと掻いた。

 ――昔から変わらない、彼が小さな嘘をつく時のサインだ。

「んー……いや、今は別に。誰もいないよ」

 波の音に掻き消されそうなほど、少しだけトーンの落ちた声。作り物めいた、ぎこちない笑い。

 嘘だ。
 あの画面の向こうに、確かに『誰か』の体温が存在しているのに。

 なぜ隠すのだろう。男友達である俺に、わざわざ彼女の惚気話をするのが照れくさいのか。それとも、遠く離れた東京の空の下で、何か上手くいっていないのか。
 胃の腑の底に、冷たくて重たい泥が沈んでいくような感覚がした。

 「嘘だろ」と暴き立て、彼の胸ぐらを掴むことは簡単だった。
 けれど、その一歩を踏み込んでしまえば、この田舎町で二人きりで過ごす「心地よい夏休み」という薄氷が、跡形もなく砕け散ってしまう気がしたのだ。

 だから俺は、それ以上踏み込むのをやめた。自分から、彼との間に分厚い防波堤を築き直した。

 ふーん。なんだ、モテそうなのに。もしフラれたら慰めてやるよ」

 あえて男っぽい粗野な言葉遣いで、薄ら笑いを浮かべて茶化す。

「うるせーな!」

 照れ隠しのように、湊の硬い拳が俺の肩をドンと小突いた。
 物理的な鈍い衝撃が、先ほどまで頬に残っていた彼の指先の甘い感触を、無残にも上書きして消し去っていく。

 湊は優しいから、俺に気を使って嘘をついたのかもしれない。せっかくの地元での再会に、余計なノイズを入れたくなかったのだろう。
 でも、その彼なりの『優しい嘘』が、俺と彼の間に絶対的な境界線を引いていることに、太陽のように真っ直ぐな彼は気づいていない。

 西日がじわじわと強さを増し、足元の砂浜を赤銅色に染め上げていく。
 長く伸びた二つの影は、決して交わることのない平行線のまま、寄せては返す静かな波の音に少しずつ浸食されていた。