激しく鼓膜を打っていた雨音が、いつの間にか微かな雨だれの音へと変わっていた。
「……ごめん。俺、最悪だ」
ひとしきり泣きじゃくった後、湊は大きく鼻をすすりながら、ゆっくりと俺の肩から身体を離した。
神社の軒下から滴る雨水が、ポツリ、ポツリと等間隔で音を立てる。急激に冷えた夜の空気と、雨に濡れたアスファルトの匂いが、肺の奥まで静かに染み込んでいく。
ふと視線を落とすと、俺が着ている濃紺の浴衣は、すっかり無残な姿になっていた。
肩口は湊の涙と雨で濡れそぼり、コンクリートの地面についた両膝は、跳ね返った泥で黒く汚れてしまっている。彼を振り返らせたくて、女の子としての「ヒロイン」になりたくて着込んだ俺の勝負服は、もうどこからどう見ても、綺麗ではなかった。
「……バーカ」
俺は短く息を吐き出すと、泥のついていない綺麗な方の袖口で、湊の頬を濡らす涙の跡を乱暴に、けれどできる限りの優しさを込めてゴシゴシと拭ってやった。
完全に、手のかかる弟の世話を焼く「親友」の顔だった。
湊はされるがままに少し恥ずかしそうに目を伏せた後、ゆっくりと顔を上げ、俺を真っ直ぐに見つめ返した。
涙で少し腫れたその目には、もう先ほどの絶望はない。憑き物が落ちたような、100%純粋で、何の裏表もない感謝の笑顔がそこにあった。
「ありがとう、ユキ」
少し掠れた声が、冷たい空気に溶ける。
「……やっぱりお前は、俺の『最高のヒーロー』だよ」
ドクン、と。
その言葉が、鋭い氷の刃物となって俺の胸のど真ん中を貫いた。
一切の悪意なんてない。むしろ、これ以上ないほどの絶対的な敬意と、親愛が込められた響き。だからこそ、怒ることも、泣き喚くことも許されない。
浑身の浴衣を纏い、「ヒロイン」になりたかった俺の長くて痛い夜は、彼をどん底から救い出した「男前のヒーロー」として幕を閉じたのだと、決定的に突きつけられた瞬間だった。
ヒーロー。
なんて残酷で、優しくて、絶対的な言葉だろう。
この言葉を彼から受け取った瞬間、俺は一生、彼の『女の子(恋人)』にはなれないことが確定した。
けれど、絶望と同時に、俺の胸の中を不思議な安堵と誇りが満たしていくのを感じていた。
泥だらけになった浴衣の裾を、そっと握りしめる。
あの画面の向こうにいた本物の彼女ですら、彼をこんな風に抱きしめ、救い出すことはできなかったのだ。世界で俺だけが、どん底で泣き崩れる彼を抱きとめて、立ち直らせることができた。
この泥汚れは、ヒロインとしての俺の死を意味する喪服であり、彼を救ったたった一つの勲章だ。
――ヒロインになれないのなら。俺は誰よりもカッコいい、お前だけのヒーローでいてやる。
諦念と、深く狂おしい愛情が入り混じった決意が、静かに俺の腹の底に落ちた。
「……帰ろっか」
いつの間にか、頭上を覆っていた分厚い雲が切れ始めていた。
雨上がりの澄み切った夜空に、青白い月が顔を出している。遠くから、風に乗って再び祭りの囃子の音が微かに聞こえてきた。
湊が立ち上がり、膝の泥をパンパンと払うと、俺に向かって大きな右手を差し出した。
ほんの少し前、雨の中を走った時は、強引に「引かれていた」手。
俺はその大きな手のひらを見つめ、女の子のように弱々しく重ねることはしなかった。
自分の右手を力強く伸ばし、親友として、ヒーローとして、その手をガシッと遠慮なく握り返して立ち上がる。
「……ああ、帰ろうぜ」
男っぽく笑って見せると、湊もつられたようにいつもの太陽みたいな笑顔を見せた。
夜風が、濡れた髪を揺らしていく。
泥だらけになった浴衣と、少しシワの寄ったTシャツ。俺たちは繋いだ手を離し、肩を並べて、夏の夜道を歩き出した。
「……ごめん。俺、最悪だ」
ひとしきり泣きじゃくった後、湊は大きく鼻をすすりながら、ゆっくりと俺の肩から身体を離した。
神社の軒下から滴る雨水が、ポツリ、ポツリと等間隔で音を立てる。急激に冷えた夜の空気と、雨に濡れたアスファルトの匂いが、肺の奥まで静かに染み込んでいく。
ふと視線を落とすと、俺が着ている濃紺の浴衣は、すっかり無残な姿になっていた。
肩口は湊の涙と雨で濡れそぼり、コンクリートの地面についた両膝は、跳ね返った泥で黒く汚れてしまっている。彼を振り返らせたくて、女の子としての「ヒロイン」になりたくて着込んだ俺の勝負服は、もうどこからどう見ても、綺麗ではなかった。
「……バーカ」
俺は短く息を吐き出すと、泥のついていない綺麗な方の袖口で、湊の頬を濡らす涙の跡を乱暴に、けれどできる限りの優しさを込めてゴシゴシと拭ってやった。
完全に、手のかかる弟の世話を焼く「親友」の顔だった。
湊はされるがままに少し恥ずかしそうに目を伏せた後、ゆっくりと顔を上げ、俺を真っ直ぐに見つめ返した。
涙で少し腫れたその目には、もう先ほどの絶望はない。憑き物が落ちたような、100%純粋で、何の裏表もない感謝の笑顔がそこにあった。
「ありがとう、ユキ」
少し掠れた声が、冷たい空気に溶ける。
「……やっぱりお前は、俺の『最高のヒーロー』だよ」
ドクン、と。
その言葉が、鋭い氷の刃物となって俺の胸のど真ん中を貫いた。
一切の悪意なんてない。むしろ、これ以上ないほどの絶対的な敬意と、親愛が込められた響き。だからこそ、怒ることも、泣き喚くことも許されない。
浑身の浴衣を纏い、「ヒロイン」になりたかった俺の長くて痛い夜は、彼をどん底から救い出した「男前のヒーロー」として幕を閉じたのだと、決定的に突きつけられた瞬間だった。
ヒーロー。
なんて残酷で、優しくて、絶対的な言葉だろう。
この言葉を彼から受け取った瞬間、俺は一生、彼の『女の子(恋人)』にはなれないことが確定した。
けれど、絶望と同時に、俺の胸の中を不思議な安堵と誇りが満たしていくのを感じていた。
泥だらけになった浴衣の裾を、そっと握りしめる。
あの画面の向こうにいた本物の彼女ですら、彼をこんな風に抱きしめ、救い出すことはできなかったのだ。世界で俺だけが、どん底で泣き崩れる彼を抱きとめて、立ち直らせることができた。
この泥汚れは、ヒロインとしての俺の死を意味する喪服であり、彼を救ったたった一つの勲章だ。
――ヒロインになれないのなら。俺は誰よりもカッコいい、お前だけのヒーローでいてやる。
諦念と、深く狂おしい愛情が入り混じった決意が、静かに俺の腹の底に落ちた。
「……帰ろっか」
いつの間にか、頭上を覆っていた分厚い雲が切れ始めていた。
雨上がりの澄み切った夜空に、青白い月が顔を出している。遠くから、風に乗って再び祭りの囃子の音が微かに聞こえてきた。
湊が立ち上がり、膝の泥をパンパンと払うと、俺に向かって大きな右手を差し出した。
ほんの少し前、雨の中を走った時は、強引に「引かれていた」手。
俺はその大きな手のひらを見つめ、女の子のように弱々しく重ねることはしなかった。
自分の右手を力強く伸ばし、親友として、ヒーローとして、その手をガシッと遠慮なく握り返して立ち上がる。
「……ああ、帰ろうぜ」
男っぽく笑って見せると、湊もつられたようにいつもの太陽みたいな笑顔を見せた。
夜風が、濡れた髪を揺らしていく。
泥だらけになった浴衣と、少しシワの寄ったTシャツ。俺たちは繋いだ手を離し、肩を並べて、夏の夜道を歩き出した。


