通り雨が過ぎた後の空は、ひどく眩しい

 鼓膜を打つ激しい雨音の中、湊は青白い光を放つスマホの画面を見つめたまま、微動だにしていなかった。
 息をしているのかすら疑わしいほど、完全に凍りついた横顔。

「……湊?」

 恐る恐る声をかけた瞬間。
 湊の指からスマホが滑り落ち、カチャン、と無機質な音を立てて濡れたコンクリートの地面に転がった。

 画面は上を向いたまま、残酷な光を放ち続けている。
 俺の視界の端に、そこに表示されたLINEの短いメッセージが、くっきりと焼き付いた。

『好きな人ができた。別れよう』

 たった十数文字の、一方的で、あまりにも暴力的な言葉。
 いつも太陽のように笑い、東京の風を纏って余裕ぶっていた湊の膝が、まるで糸が切れた操り人形のようにガクンと折れた。
 彼はその場に力なくへたり込むと、両手で顔を深く覆い、広い肩を小刻みに震わせ始めた。

 そのメッセージの羅列を理解した瞬間。
 俺の胸の奥底で、泥のようにドロドロとした、醜悪で真っ黒な歓喜がボコッと泡を立てた。

 フラれた。彼女がいなくなった。
 これで彼はフリーになる。もうあの画面越しの女の影に怯えることもなく、俺が彼を独占できる。彼の一番近くにいられるのは、この世界で俺だけになる。
 そんな悍ましい感情が、一瞬だけ脳内を支配した。

 しかし。
 両手で顔を覆い、声を殺して震える湊の背中を見た瞬間、その醜い喜びは、強烈な吐き気を伴う自己嫌悪へと反転した。

 湊がここまで取り乱し、無防備に泣き崩れる姿なんて、小学生の時以来だ。
 それは、彼があの「東京の彼女」を、心の底から深く、狂おしいほど愛していたという何よりの証明だった。
 先ほど、俺に向けられた「綺麗だ」というあの熱を帯びた言葉も、彼女への深く圧倒的な愛情の前では、ただの塵芥に等しいのだと思い知らされる。
 彼をここまで狂わせることができるのは、あの画面越しの本物の『女の子』だけなのだ。

 どうする。どうするべきだ。
 今、俺が『女の子(ヒロイン)』として振る舞うなら。弱り切った彼にすがりつき、この浴衣という鎧を利用して隙につけ込み、奪ってしまうことだってできるかもしれない。

 だけど、できなかった。
 大好きな幼馴染が、目の前でこんなにも傷つき、息もできないほど壊れそうになっている。彼をこれ以上傷つけることなんて、俺には絶対にできなかった。

 俺は、泥水で濡れた神社のコンクリートに、躊躇いなく両膝をついた。
 彼に可愛いと思ってもらうためだけに用意した、お気に入りの勝負服。その裾が泥で汚れ、黒く染まっていくことなど、もうどうでもよかった。
 俺は両手を伸ばし、震える湊の背中に腕を回す。そして、力強く、どこまでも優しく、その大きな身体を抱きしめた。
 甘いロマンスのハグなんかじゃない。傷ついた戦友を支え、守り抜くための、ただの男同士の抱擁。

「……泣けよ。今は誰も見てないから」

 俺のその言葉が引き金となり、湊は俺の肩に額を力強く押し当てた。
「う、あ……っ、ぐ……っ」
 堰を切ったように、彼の中から抑えきれない嗚咽が漏れ出す。湊は俺の浴衣の袖を強く握りしめ、まるで迷子になった子供のように声を上げて泣きじゃくり始めた。

 ああ、終わったんだ。

 俺の肩を濡らす彼の熱い涙の温度と、震える身体の重みを感じながら、俺は一定のリズムで彼の背中をトントンと叩き続けた。
 その手の中で、俺の心の中の何かが、決定的に死んでいく音がした。

 この瞬間、俺の中の『ヒロイン』は完全に息絶えた。
 俺は、大好きな彼を泣かせた見知らぬ女を激しく憎み、彼を抱きしめ、守るための『強さ』を選んでしまったのだ。可愛い女の子になんて、なれなかった。

 俺はこれから先も一生、彼の隣で、彼を慰め、彼を支え続ける『親友』という檻の中で生きていくのだ。この残酷で心地よい居場所を手放すことなんて、もう二度とできない。

 激しい雨音が、湊の悲痛な嗚咽を包み込むようにかき消していく。
 誰にも気づかれないように、俺もまた、頬を伝う熱い雫を冷たい雨に紛れさせて、静かに目を閉じた。