通り雨が過ぎた後の空は、ひどく眩しい

「……湊」

 祭りの喧騒を縫って届いた俺の声に、湊の肩がビクッと跳ねた。
 スマホの画面に落としていた視線が上がり、ゆっくりとこちらへ振り返る。

 提灯の赤い光の下、俺の姿を視界に捉えた瞬間、湊の動きがピタリと止まった。
 まばたきすら忘れ、見開かれた瞳が俺を真っ直ぐに射抜いている。

 一秒、二秒、三秒。
 永遠にも思えるほどの沈黙が、二人の間に横たわった。

 ――やりすぎた。引かれた。終わった。

 湊の硬直した表情を見て、血の気が引いていくのがわかった。
 女の服を着ているだけでも奇異な目で見られるのに、全身を飾り立て、唇に紅まで差した姿など、彼からすれば「気持ち悪い」以外の何物でもないだろう。
 今すぐ踵を返して逃げ出したい。足が震え、きつく締めた帯のせいで呼吸がうまくできない。

 けれど、逃げ出そうとした俺の足よりも早く、湊が動いた。
 彼は手元のスマホを無造作にジーンズのポケットへと押し込むと、ゆっくりとした歩みで俺の目の前まで近づいてきた。
 そして、信じられないものを見るような目で、俺の頭のてっぺんから爪先までを、じっと、舐めるように見つめた。

「……お前、マジかよ」

 沈黙を破ったのは、ひどく掠れた低い声だった。

「……変?」

 恐る恐る尋ねると、湊は少しだけ頬を掻きながら、照れ隠しのように長いため息を吐き出した。

「いや。今日のお前、今までで一番ヤバいわ。……すげー綺麗」

 ドクン、と。
 胸の奥で、今まで聞いたこともないほど大きな音が鳴った。

 「可愛い」でも「似合ってる」でもなく、「綺麗」。
 それは、紛れもなく『女の子』に向けるための言葉だ。そして何より、俺を見つめる湊の顔には、明らかな動揺と、どうしようもなく見惚れている熱が浮かんでいた。

 ――勝った。

 俺の着込んだこの狂気の鎧が、絶対に越えられないと思っていた「親友の壁」を、今、確かに打ち破ったのだ。
 胸の奥で、高らかな勝利の鐘が鳴り響く。視界が滲むほどの喜びが、俺の全身を駆け巡った。

「行こうぜ。焼きそば食うんだろ?」

 俺が微笑んで首を傾げると、湊は耳の裏まで真っ赤に染め、「……おう」とだけ短く答えた。

 二人で、屋台が隙間なく並ぶ参道へと歩き出す。
 ソースの焦げる匂い、甘ったるい綿飴の香り、すれ違う人々の熱気。オレンジ色に連なる提灯の光が、この夜を甘い魔法で包み込んでいる。

 けれど、俺たちの間にある空気は、いつもの「気安い男友達」のそれとは全く違っていた。

 レトロな浴衣を着て少し俯き加減に歩く俺を、すれ違う男たちが次々と振り返る。
 それに気づいた湊が、あからさまに不機嫌な顔になり、無意識のうちに俺を庇うように人混み側――外側へと立ち位置を変えた。

「うおっ」

 向かいから来た若者の集団に押され、俺が体勢を崩しかけたその時。
 湊の大きな手がサッと俺の袖を引き、自分の広い胸元へと引き寄せた。

「危な。……はぐれんなよ。今日のお前、無駄に目立つんだから」

 鼻先を掠める、微かな汗と制汗剤の匂い。
 いつもなら「お前ドンくせーな」と笑ってガサツに肩を組んでくるはずの彼が、今日はまるで、壊れ物に触れるかのように慎重に俺を扱っている。

 ああ、これが『女の子』として扱われるということなんだ。
 彼が俺に向ける、男としての不器用な庇護欲。独占欲。

 今夜だけは、あのスマホの画面にいた彼女の影なんて思い出さない。
 この甘い熱の真ん中で、湊の隣を歩くヒロインは、間違いなく俺だ。

 祭りの喧騒のピークを抜け、二人は少し静かな神社の裏手へと歩を進めた。
 人通りがまばらになった暗がり。俺は帯を握る手に力を込め、この後、彼にすべてを告白しようと決意を固めた。
 今の彼なら、俺の気持ちを……。

 その時だった。

 ヒュオッ、と。
 突然、それまで肌にまとわりついていた生温かい夜の空気が、刃のように冷たい風へと変わった。
 頭上の提灯が大きく揺れ、参道の木々がざわめき始める。

 ゴロゴロ……。

 空のずっと上のほうで、不気味な遠雷が低く鳴り響いた。

「え……?」

 ポツ、と。
 俺の頬――数日前の海辺で、湊が溶けたアイスを拭ってくれたあの場所に、氷のように冷たい雨粒が落ちた。

「あ、雨……?」

 俺が空を見上げた瞬間、パラパラと乾いた音を立てていた雨粒は、あっという間に暴力的な土砂降りへと変わった。

 魔法の終わりを告げるような、黒くて重たい通り雨だった。