四月の終わりの足立区には、季節を急ぐようなひどく生温かい風が吹いていた。
駅へ向かう帰路。見慣れた灰色の空が唐突にその色を濁らせ、歩道のアスファルトにぽつり、ぽつりと黒い染みを作り始めた。
あっという間に、雨粒が弾ける音は鼓膜を塞ぐようなノイズへと変わる。すれ違うスーツ姿の大人たちが、鞄を頭上に掲げて舌打ちをしながら、駅のコンコースやコンビニの軒下へと小走りで駆け込んでいく。
その波に逆らうように歩みを緩めると、鼻先をひどく懐かしい匂いが掠めた。
ひび割れたアスファルトが濡れて、埃と土が微熱を帯びて空気に溶け出す匂い。ペトリコール、なんていうお洒落な名前を知ったのは随分後になってからだ。
手の甲に落ちた雨粒の冷たさに、小さく息を吐く。肺の奥深くまで湿った空気を吸い込むと、コンクリートの隙間から、あの日の蝉時雨が聞こえた気がした。
この匂いを嗅ぐと、どうしても八年前の夏が網膜の裏に張り付いて剥がれなくなる。
初恋を春の嵐に例えた人がいたけれど、俺の初恋は「通り雨」みたいだった。
何の予兆もなく突然降ってきて、あっという間に全身をずぶ濡れにして。
……気づいた時には嘘みたいに晴れ渡っていて、体温を奪われた俺だけがそこにポツンと取り残されていた。
水たまりに映る自分の姿を一瞥する。ネオンの光に揺れているのは、どこにでもいる平凡な二十五歳の男の輪郭だ。プレスの効いたスラックスに、暗い色の革靴。
あの日みたいに、レースのあしらわれたフリルのブラウスを着ることも、ガラスケースの中で一番輝いていた淡い色のリップを引くことも、もうない。
夜の湿度に当てられたような狂おしい衝動も、彼にとっての「女の子」になりたかった不格好な渇望も、とうの昔に分厚い南京錠をかけた箱に沈めた。今の俺は、誰の目も惹かないまま、この東京という巨大な街に静かに溶け込んでいる。
それでも、雨粒がまつ毛を濡らし、視界が歪むと、あの眩しすぎる太陽の輪郭が鮮やかに蘇る。
日焼けした肌。無防備に覗く白い歯。よく冷えた缶コーヒーの表面を滑る水滴と、彼の指先の微かな熱。そして、蝉の声しかしない田舎町には似合わない、遠い東京の流行りの柔軟剤の香り。
彼は誰にでも平等だった。無頓着に俺のパーソナルスペースを踏み荒らし、大きな手のひらでポンと頭を撫でた。
俺が男でも女でも、彼にとっては同じだったのだ。
その偏見のなさが、底抜けの優しさが、俺にとっては一番残酷だったなんて、当時の彼は知る由もなかっただろう。
二人で歩くたびに、少しだけ触れる肩先の熱。あの微かな体温の共有だけで、俺は世界を手に入れたような錯覚に陥っていた。
自分が彼の視界の中で、どう足掻いても「恋愛対象」という絶対領域には入れないのだという事実から、必死に目を逸らしながら。
駅の高架線を走る電車の重低音が、いつの間にか、けたたましい蝉時雨のノイズに完全にすり替わっていく。
濡れたアスファルトは、ひび割れた田舎道のそれへ。足立区の濁った空は、肌を刺すような青空と、どこまでも高くそびえる入道雲へ。
カラン、カラン、と。
錆びついた無人駅の踏切の音が、鼓膜の奥で鳴っている。
あの日、俺は傘を持っていなかったわけじゃない。
ただ、彼と同じ雨に濡れていたかっただけだ。
――これは、どうしても彼の「ヒロイン」になりたかった俺が、彼の「ヒーロー」になってしまった、あの夏の記憶。


