空が白み始めたのを感じると、俺は依真が眠っているのを確認して静かにベッドを抜け出した。
一階に降りると、まだ昨日の花火の匂いが残っていた。
昨夜の手持ち花火を持ってはしゃぐ依真の姿が脳裏をよぎり、胸がチクリと痛んだ。
依真は優しいから、どこまでも甘えて頼りたくなってしまう。
(でも…もうこれ以上迷惑かけたくない)
昨日みたいな事がまた起きて、依真を危ない目に巻き込むのは嫌だった。
俺は依真を起こさないように、慎重に玄関の引き戸を開け外に出た。
(どこに行こうか…)
バイトは夜からだし、いつも行くスーパー銭湯は改装工事中だし…
とりあえず駅前に向かって歩いていると、頬にぽつりと冷たい雨粒を感じた。次第にパラパラと小雨が降り始め、アスファルトを黒く濡らしていった。
(あの時と同じ天気だ…)
雨の日はあの時のことを思い出してしまうからげんなりする。
(…やっぱ依真にはバレちゃうだろうな)
勘の鋭い依真の事だから、きっとニュース記事に辿り着いて俺の事だと気づくのも時間の問題だろう。
(あんなことされたって、依真に知られたくないのに…)
制服の下で、体を這う手の熱さ。
首筋に吹きかけられるタバコ臭い吐息の不快感。
顔に擦り付けられた据えた匂いが、生々しく蘇った。
「…うっ…ぉえ…」
俺は思わずその場にしゃがみ込んで、激しくえずいた。
全部、地元に置いてきたはずなのに。
全部無かった事にしてやり直せると思ってたのに、アイツが憑いてきてしまっているなら全部意味が無かった。
(そういえば、アイツも捕まる時おんなじ事言ってたな…)
朦朧とする意識の中で、パトカーの音と警察の声に混じって聞こえてきた断末魔が蘇る。
『お前のせいで、全部台無しになった!やり直せると思ったのに、井埜!お前が現れたから!!全部お前のせいだ!』
呪いのように耳にこびり付いた言葉が、頭の中で鳴り響いて身慄いした。
流石に二徹目の頭では、良くないことばかり思い出してしまう。
(せめてバイトの時間まで寝た方がいいな…)
俺はふらつく足取りで、バイト先に向かった。
「え、満室ですか」
「そうなんだよ。井埜君朝入ったことないから知らないかもだけど、モーニングサービス利用するお客さん多いから忙しくて…」
「マジすか…」
店長の申し訳なさそうな顔を見て、俺は肩を落とした。
「あ、ごめん電話かかってきた」
店長が電話を取りに奥へ行き、俺は諦めて別の寝床を探しに店を後にしようと背を向けた。
(どうしよう、雨の中外じゃ寝れないし…)
自動ドアが開いて外に踏み出したところで、店長が奥から走ってきて呼び止められた。
「井埜君、今日って今から用事ある?」
「え、何もないですけど…」
「これから来る予定のパートの人がさ、子ども熱出てこれないらしくて…俺夜勤だったから、交代してもらえるとありがたいんだけど、駄目かな?」
「え〜…」
「今日の夜勤は無しでいいからさ、頼むよ〜」
店長は申し訳なさそうに手を合わせて頭を下げた。
流石に眠かったが、雨の中彷徨うよりはマシかと渋々了承した。
「分かりました…シャワーだけ借りていいスか。」
「ありがとう井埜くん!!良いよ良いよ!タオルも使って!!」
(バイトしてたら、多少気も紛れるだろう…)
俺は店長からタオルを受け取って、シャワールームへと向かった。
バイト中、これからどうしようかをあれこれ考えているうちに、あっという間に昼の交代時間になった。
「あれ〜、井埜君朝のシフト入ってたの、珍しいね」
「店長にどうしてもって頼まれて…」
「そうだったのね、お疲れ様」
俺は店の備え付けのビニール傘を借りて、店を後にした。雨はまだ弱まる気配がない。
(やっぱ色々考えたけど、夏休み中は実家に帰った方がいいのかもな…)
それが一番依真に迷惑かけずに済む最善策だ。
前の高校のやつらに会うのが嫌で帰るのを渋っていたが、それは家に引きこもっていれば済む話だ。
(別に、高校のやつらが悪いわけじゃないんだけどな…)
ふと雨空を見上げて、前の高校の事を思い出した。
俺が事件の後検査入院とか事情聴取で5日くらい休んでから学校に行った時の、クラスメイトの何とも言えない戸惑いの視線。
教師が逮捕されてその間5日も休んでる生徒がいたら、いくら先生たちが配慮してくれても、俺が被害者である事はバレて当然だった。
腫れ物を触るように扱われる事に耐えられなくなった俺は、次第に不登校気味になって、最終的に転校を選んだ。
(…みんな俺の事なんか忘れてて欲しいな)
俺は、一旦アパートに荷物を取りに帰る事にした。幽霊があの部屋にしか出ないわけじゃないのだ。それなら部屋だけを特別怖がるのもおかしい気がして、今までより軽い足取りで家に向かった。
(荷物だけまとめて、さっさと駅に向かおう)
ピロン、と通知音が鳴り携帯を確認すると依真からだった。
トーク画面を開こうをとしたが、今依真とやりとりしたらまた甘えてしまう気がした。
(…依真には、電車乗ってから実家帰る事連絡しよう)
一応母親には連絡した方がいいか、と思いスクロールして母親のトーク欄を開いた。
母親からたまに来る心配のメッセージに素っ気なく返す程度で、最後のやり取りは1ヶ月前で止まっていた。
電話のほうが楽だなと思い通話ボタンを押すと、3コール目で母親が出た。
「もしもし?母さん、久しぶり」
『陽生!久しぶり、あんた全然連絡よこしてこないけどもう夏休みでしょ?いつ帰ってくるのよ』
母さんの変わらない声に、少しだけ肩の力が抜けた。やっぱり、帰る場所があると思うだけで救われる。
「あー、その事なんだけどさ。今から実家帰っていいかな?もう夏休み中ずっとそっちにいようと思うんだけど…」
『えぇ?いいけど…何かあったの?』
「…別に。荷物まとめたら行くから…」
アパートの前に着いて階段を登りながら
俺がそう言うと、母さんの声が怪訝そうに曇った。
『…ねえ陽生、今友達と一緒にいるの?』
「え、何言ってるの。今俺1人だけど…雨の音じゃない?」
『そうじゃなくて…なんか後ろで男の人がずっとあんたの名前呼んでない?』
「え…」
後ろを振り返ったが誰もおらず、咄嗟に電話を切った。
心臓が早鐘を打つ。背後に誰の気配もないのに…耳の奥で母さんの声がリフレインする。
『後ろで、男の人がずっとあんたの名前呼んでない?』
バイト先を出た時より雨が強くなり、ビニール傘を打つ雨粒の音が激しくなってきた。
俺は逃げるように階段を駆け上がり、鍵をこじ開けて部屋へ滑り込んだ。
その瞬間、異変に気がついた。
(…暗い…)
いつもならすぐに電気が点くはずの人感センサーが反応しない。
俺は焦って手動で電気のスイッチをカチカチ押したが、それでも暗いままだった。
(停電?いや、家入る前アパートの電気は付いてた…)
天気が悪いとはいえ、墨で塗りつぶしたように部屋の奥が暗い。
急に恐怖が込み上げてきて、ここには居たくない気持ちで一杯になり、ドアに手をかけた。
しかし、まだ鍵を掛けて無かったはずなのにドアが開かない。
「え、なんで、なんで開かないの?」
パニックになり鍵をガチャガチャと回すが、そもそもドアノブが回らない。
まるで外から誰かに押さえてつけられているようだった。
(ベランダからだったら…)
そう思い、廊下の方へ振り向いたその時だった。
急に、視界が歪んで立っていられなくなり、床に倒れ込んだ
(なに、なんで…)
まるで、あの時と同じだ。
指先が痺れ始め、瞼が重くなっていく。
ギィ ギィ ギィ
パリパリパリパリパリパリ
首だけ起こして、音がした部屋の奥を見た。
人影があった。昨日見た黒いモヤより輪郭がはっきりとしており、昨日は気が付かなかったがやけに首が長いように見えた。
『変態教師、留置所でさ。シーツ割いて、首吊って死んだらしいよ』
母親の声がふと蘇った。
「っ…!!平良先生…?」
人影は笑って、ぎこちない動きでこちらに歩み寄ってきた。
