眠れぬ夜は、君のせいにしたいのに

 「じゃあ陽生、そろそろ終電だからお母さん帰るね。すぐには来れないけど、何かあったら絶対連絡してね」
 「うん、わかった、わかったから…まじで終電間に合わなくなるよ」
 夕方には帰る予定だった母は、心配が心配を呼び結局終電のギリギリまで俺の世話を焼いて、それでもまだ何か世話し足りない様子だった。
 「…いつでも帰ってきたくなったら、帰ってきていいからね。手続きなんかお母さんがいくらでもやってあげるから…」
 (だから、絶対戻るわけないって言ってんじゃん…)
 喉元まで出かかった言葉を飲み込んで
 「正月には帰るよ」と答えると、母親は
 「もっと沢山帰ってきてよ〜」と寂しそうに言った。
 埒が開かないので俺が扉を開けてやると、「戸締りはちゃんとしなかんよ…あと火の始末も…」とぶつぶつ言いながら帰っていった。

 鍵をかけた瞬間、ようやく見えない何かから解放された気持ちになって意味もなく小走りでキッチンに向かった。
 母親が大量に作った作り置きにはひとまず手をつけず、買い物袋からカップ麺を取り出し湯を注いだ。
 鼻歌を歌いながらスマホを開く。画面には、既読すらつけていない元クラスメイトたちからの別れを惜しむ言葉が並んでいる。
 (みんな、今までありがとな。そして、さよなら)
 センチメンタルな感傷を振り払うように、上から順に軽快なリズムでブロックしていく。指先一つで過去が消えていく感覚は、最高に気持ちよかった。
 うっかり昼間に面接に行ったバイト先の店長までブロックしかけて、慌ててトーク画面を開いた。
 『いつから入れる?夜勤の人足りてないからもし入れたら教えてください』
 というメッセージに
 『明日から学校なんで、来週の夕方から22時までなら入れます。夜勤は無理です。』
 と返事をしてスマホを閉じた。

 カップ麺を啜りながら何気なく付けたテレビの画面に、初めて見るこの辺の企業のローカルCMが流れていた。
 (…本当に地元を出たんだな)
 テレビで時間を確認するともう23時を過ぎていた。
 (明日も早いし、さっさと支度して寝ないとな〜)
 俺はカップ麺の汁を少し啜ってからシンクに捨て、シャワーを浴びに向かった。

 シャツを脱いで洗濯機に放り込むと、洗面台の鏡の自分と目が合った。その瞬間、急に背筋がスーッと冷えるのを感じて鏡から目を逸らした。
 (最悪…!こんな時に学校で無理やり友達に見せられた『鏡に映る自分が違う動きをしている心霊動画』のことを急に思い出すなんて…!!)
 母親が3日間泊まって引っ越しの手伝いや手続きをしてくれていたので、1人で過ごす夜がこんなにも心細いとは気が付かなかった。
 (でも、1人で暮らすって事はこういうことにも慣れていかなくちゃいけないんだよなぁ…)
 浴室の扉を開けると目の前に鏡があり、俺は再び速攻目を逸らした。
 視線をシャワーの蛇口に向けて、極力鏡を見ないように頭と体を洗う。
 突然、背中にヒヤッとした冷たい空気を感じて咄嗟に顔を上げた。
 (さっき、閉めたはずだよな…)
 鏡に映る自分の後ろの浴室扉が、数センチ隙間が空いているのが見えた。
 隙間から何かが覗いていたら、なんて馬鹿な想像力がつい働いてしまう。
 扉の方を見ないようにして後ろに手を伸ばすと、何かが動いた時のような空気の揺れを感じて思わず目を開いた。

 そこに何かがいて、次の瞬間には消えたような、そんな気配がした。

 「…え?は?なに?」
 勢いよく扉を開けて飛び出したが、脱衣所には湿った空気があるだけだった。
 全裸のまま玄関へ走り、施錠を確認する。ふと、玄関の全身鏡に映る情けない姿が目に入り、急に冷静さが戻ってきた。
 (何とも間抜けな…何やってんだ俺)
 着替えてから濡れた床を拭いているとだんだん恐怖は薄れ、そんなことより明日から新しい学校に行くことの方が心配になってきた。
 持ち物の確認だけ一通りしてからベッドに入ってスマホを確認すると、
 母親から『地元の最寄駅に着きました。何かあったら連絡してね!おやすみ』というメッセージとスタンプが一つ送られてきていた。
 こちらからもスタンプを送り返して、アラームだけセットして画面を消した。
 緊張で興奮状態に入ってしまって中々眠れそうにないが、転校早々寝坊するのだけはまずいのでなんとかして早く寝たい。
 目さえ瞑ればいつの間にか寝れるだろう、と冴えた意識で瞼を閉じてから15分ほど経っただろうか。

 カチャ

 足側にある廊下からリビングに入る扉が、微かに開いた音がした。
 (建て付けが悪くてしっかり閉まってなかったのかな…風で開いたのか…?)
 だけど起きて締めに行くのは怖いし、このまま寝てしまえと意識を逸らそうとすると
 ドア付近のフローリングが パキ と音を立てた。
 (なんの音…?)
 それからしばらくすると、もう少しドアから離れたところからも パキ と聞こえた。
 そして今度は足元に近いところから パキ と床が鳴る。
 目を瞑っていて何も見えていないのに、だからこそなのか、頭の中で
 『誰かが入り口からこちらに近づいてきている姿』を想像してしまった。
 (そんな、偶然だ。築20年くらい経ってるアパートだし床ぐらい鳴ることもある。大丈夫大丈夫。)
 そうやって必死に言い訳を考えて安心しようとしてる気持ちとは裏腹に、今度はベッドの右側 から パキ と鳴った。
 体が硬直し、目を固く閉じ過ぎて瞼が震える。

 (頼むから離れたところで床が鳴ってくれ!)
 パキ
 (誰かがゆっくり歩いて近づいてきたような想像をさせる鳴り方をしないでくれ!)
 パキ
 (人の足音にしては軽すぎるから泥棒ではない。ただの床鳴りだから、大丈夫、大丈夫)
 呼吸を整え直そうとしたその時だった。

 誰かが顔を覗き込んでいるような
 生ぬるい吐息が、鼻に触れた

 「っう、あああああああああ!!!!!」
 その瞬間堰を切ったように、叫び声を上げた。
 そのまま俺は部屋の様子を一切見る事なく、サンダルを引っ掛けて家を飛び出した。
 階段を三段飛ばして駆け降りて、家の前の道を曲がったところでコンビニの明かりが目に入り、ようやく安心して座り込んだ。
 疎だが歩いてる通行人が、怪訝そうにこちらをチラ見して通り過ぎていく。
 (明るくなったら帰ろう…帰って着替えて荷物だけ取ってから学校行けば良いよな…)
 戸締りもせずに出てきてしまったが、とてもじゃないけど今あそこに戻る気になれなかった。
 ふと自分の手元を見ると、さすがスマホ依存症の現代人といったところかスマホだけは持ち出していた。
 まだ起きているかわからないが、母親に助けを求めようとしてラインを開いた。
 (でも…やっぱ心配かけたくないな…もう家ついてるだろうし…そうだ)
 代わりにバイト先の店長のトーク画面を開いて、少し悩んでから通話ボタンを押した。
 24時間営業のネカフェなので3コールほどで繋がり『はい、ネットカフェ◯◯の椙山です』と店長の声が聞こえた。
 まだ面接でしか会った事ない店長の声が、今の俺にはやけに暖かく聞こえた。
 「もしもし、先日面接受けた井埜です。」
 『あぁ、井埜くん。どうしたの?』
 「あの、夜勤バイト足りないっていってましたよね?今から入れるんですけど…」
 『えっ…本当に?夜勤今ワンオペで大変だったんだ…来てくれるなら本当に助かるけど…明日学校は大丈夫なの?』
 「学校は何とかするんで!じゃ、今から行きます!!」
 『そう?じゃあお願いします…』

 (バイトオール明けからの転校初日か…キツイかもしれないけど、寝る場所なんか、いくらでもあるよな!)
 通話が切れると、俺は小さくガッツポーズした。
 サンダルとスウェット姿のまま、バイト先に向かって夜の街を駆け出した。

 こうして、俺の昼夜逆転ライフは最悪の幕開けを迎えたのだったーー