眠れぬ夜は、君のせいにしたいのに



 照りつける日差しが、アスファルトを白く焼いていた。
 蝉の声がうんざりするくらい鳴り続けている。
 「……あっつ」
 誰に言うでもなく呟いて、額の汗を手の甲で拭った。
 (黒い服なんて着てくるんじゃなかったな…)
 墓地の中は、街中よりもいくらか風が通るはずなのに、遮るものが何も無いからかジリジリと肌を焼くような日差しが痛い。

 案内板を一瞥した。無縁墓のある区画は、お盆でも他と比べて人の気配が薄い。
 「……ったく、でけえ墓場だなあ」
 ぽつりと零した独り言は、すぐに蝉の声に掻き消された。

 整然と並んだ石の間を進むと
 名の刻まれていない、大きな合祀墓が現れた。

 「よぉ、遼河。この間ぶりだな」
 俺は「よっこいせ」と墓の前に腰を下ろした。

 遼河は捕まった後すぐ離婚されて、自殺した後も親族の墓には入れて貰えず無縁仏になった。その後自治体によって、こうして合祀墓に埋葬された。
 俺はその事を自治体に問い合わせて調べて、遠路はるばる墓参りに来たというわけだ。

 俺はポケットからあいつが学生の頃吸っていた銘柄のタバコを取り出し、火をつけて墓に煙を吹きかけた。
 タバコの匂いと共に、学生時代の遼河との記憶が蘇ってくる。
 遼河と俺はサークル仲間で、ある日飲み会の3次会で初めて会話した。
 あの時あいつはすでにベロベロに酔っていて、
 隣にいた話したこともない俺に絡んできた。
 どんなきっかけでそんな話になったのかは覚えてないが、突然遼河が
 「俺さ、頭のビョーキなんだよ」
 と呟いた。俺が「何の?」と聞いたがそれには答えず、
 「それが理由でさ、親と折り合い悪くて…そんで地元から離れたここの大学受けたんだわ…」
 と言って、そのまま俺の肩にもたれかかって寝てしまった。
 そこから俺たちは何となくつるむようになって、気が付けば隣にいるような仲になった。
 あいつは基本無駄にプライドが高くて、良い顔しいで人前で絶対弱いところを見せない奴だった。
 それなのに酔うと俺の前でだけ弱音吐くとことか、好きな子の話する時だけ見せる顔とか…


 『まじで天使みたいに可愛いんだよ』
 とろけるような顔でそう溢した遼河の顔が蘇る。
 『また恋バナかよ…もう酔ってんの?』
 『いや、ほんとなんだって! 笑顔とかマジでキラキラしててさ。あいつが笑うだけで、世界から嫌なことが全部消える気がするんだ。』
 あいつはそう言って、指に挟んだタバコの灰を落とすのも忘れて、幸せそうに目を細めていた。
 『もうさ、可愛すぎて俺、一生見てられるわ。あいつと狭い部屋で二人でダラダラしてる時が、人生で一番幸せかもしれない』
 『…ふーん。よかったな、そんな『天使』に見つけてもらえて』
 俺の前でだけ弱音を吐くあいつを、俺だけが知っているあいつを、どこか特別だと思っていた。
 それなのに、遼河の瞳をあんなにキラキラと輝かせているのは、俺ではない別の誰か。
 それを聞いてる俺の心境は、穏やかではなかった。

 「…気付いたらお前の頭のビョーキが感染ってたんだよな」
 俺は苦笑してからタバコに口を付け、ゆっくりと煙を吐いた。

 遼河がサークルに来なくなり、連絡が取れなくなって少し経った頃だった。
 サークルの先輩から突然
 「吉崎聞いた?保利、大学のやつに暴力振るって退学だって」と聞かされた。
 驚きつつも、内心「やっぱりな」という気持ちもあった。
 (どうせ天使とやらに男がいて殴ったとかそんなんだろ)と思って家に帰ると、門の前で紙袋を持った自分と同い年くらいの男がうろうろしていた。
 声を掛けると、男はおずおずと紙袋を差し出した。その袖口からは痛々しい痣が覗いていた。
 「お焚き上げして欲しいんです、自分じゃ捨てづらくて」
 紙袋の中身を見て、一目でそれが遼河があげた指輪とラブレターである事に気がついた。

 俺はその夜、歯の浮くような言葉ばかりが並べられた手紙を一枚ずつ読んでは火に焚べて、最後に指輪を投げ入れた。
 そこで初めて、彼の思い人が『碧海湊斗』という名前あることを知った。
 (…遼河、お前…本気であんなゴツい男を天使だと思ってたのかよ)

 俺はポケットから小さな巾着袋を取り出して握り締めた。
 「こんな物を未だ後生大事に持っているんだから、俺って救えないよな」
 煙草の灰が、ボロリとアスファルトに落ちた。

 湊斗が次に俺の前に現れたのは、それから4年経った秋頃だった。
 偶然俺が勤めているメンタルクリニックにカウンセリングを受けに訪れた湊斗は、俺を見るなり「あ、あの時の…!」と目を丸くしていた。
 久しぶりに会った湊斗は目の下のクマが酷く、あまり健康的とは言えない状態だった。
 震える手で差し出されたスマートフォンの画面に、あるネットニュースの記事が表示されていた。
 「これ、多分俺のせいなんです…」
 その時初めて、俺はあいつの名字が「平良」に変わっていたこと、そして高校生相手に事件を起こして捕まったことを知った。
 「自分があの時ちゃんと告発してたら、この高校生が被害に遭う事は無かったんじゃないか」と自分を責めて心を病んだ湊斗は、それから何度かカウンセリングを受けに訪れた。

 最初は自分を責める言葉ばかり吐いていたが、次第に、湊斗が俺に向ける視線や言葉の選び方に変化を感じるようになった。
 昔から俺は人の感情を読み取ることに関して、嫌というほど敏感だった。そのおかげで女に不自由した事は無かったが、まさか自分の恋敵とも言える相手から好意を向けられるとは、思いもよらなかった。
 (趣味悪いよな、俺もお前も…)
 俺は湊斗から向けられた熱の籠った視線から、わざと気づかないふりをして目を逸らした。

 そんな日が何度か続いたあとだった。
 その日は、朝からずっと雨で夕方になっても止む気配はなかった。
 診療も終わって、そろそろ店じまいかと思っていた頃。
 ガラ、と扉が開いて振り返ると、全身びしょ濡れの湊斗が立っていた。
 「…おい」
 俺が声をかけるより先に、湊斗が口を開いた。
 「保利が…拘留中に、自殺したそうです」
 湊斗は力が抜けたみたいにその場に崩れた。
 「……は」
 思わず、間の抜けた声が出た。
 湊斗は、俯いたまま肩を震わせていた。
 「俺のせいで…」
 「…それは違うだろ」
 「だって……」
 言葉にならない声を喉の奥で詰まらせた。
 その様子を見て、ふと魔が刺して良くないことを考えてしまった。
 (……今、手出したら)
 目の前で泣いてるこいつに触って、めちゃくちゃにして、俺のものにしたら…

 (あいつ、俺のこと祟りに出てきてくれるのかな…)

 指先が濡れた髪に触れかけたところで、我に返って手を引っ込めた。
 それ以降、湊斗が訪れる事は無くなった。


 短くなったタバコを、アスファルトに押し付けて火を消した。
 そろそろ帰ろうか、と立ち上がり砂を払った。

 「…え?」
 背後で、砂利を踏む音がした。
 振り返ると、見覚えのある顔がそこにあった。
 「…湊斗」
 少しだけ間を置いて、湊斗は軽く頭を下げた。
 手には鮮やかな仏花の花束を持っていた。
 「凄い偶然ですね、こんなところで会うなんて…」
 「あ〜、まぁな。折角初盆だし…」
 少し気まずい空気が流れ、湊斗が口を開いた。
 「…皆瀬から聞きました。保利と、友達だったんですね」
 (あいつ、余計なこと言いやがって)
 舌打ちしそうになるのを堪えて飲み込んだ。
 「…実はそうなんだよな〜、タイミング無くて言えてなかったけど」
 「はは、何となくそんな気がしてました」
 湊斗はそれ以上何を言うでもなく、俺の隣に立って花と線香を供え、ゆっくりと手を合わせた。
 俺はその横顔を、ただぼんやりと眺めた。

 (…長えな…。何をそんな、お前を傷つけた男相手に…)

 しばらくして、湊斗が目を開けた。
 俺は視線を墓に戻して、態とらしく笑った。

 「良かったな、遼河……湊斗が、来てくれたぞ」
 喉が詰まり、語尾が震え、視界が、滲んだ。
 (…は?)
 自分でも分かるくらい、急に、何かが崩れた。
 慌てて顔を背けて言い訳を考えるが、汗だからでは誤魔化せないぐらい、次から次へと堰を切ったように涙が溢れた。
 「はは…あー、やべ…暑すぎて頭やられたわ」
 誤魔化すように笑ったつもりだったが、隣で湊斗が心配そうに視線をこちらに向けている。
 (うわーマジでダサすぎる、最悪だ…)
 遼河が死んだって聞いた時だって泣かなかったのに、何で今更…
 湊斗は黙ったまま、俺がひとしきり泣き終えるのを見届けてからようやく口を開いた。
 「…暑いですから、そこの喫茶店でも行きませんか。立ち話もなんですし」
 「…ああ」
 俺は短く答えて、目元を手の甲で拭った。

 砂利を踏む音だけが、一定のリズムで続く。
 墓地の出口が見えてきても、会話は生まれないまま、ただ並んで歩いていた。
 (…こいつ俺が突然泣き出したの、どう思ってんのかな)
 と思い横目で湊斗を見たら、目が合って軽く微笑まれたのですぐ視線を逸らした。
 信号を渡ると、喫茶店の看板が現れた。
 湊斗が扉を開けた瞬間、店内から冷気が流れ出て熱った身体を撫でた。
 「あ〜…生き返る…」
 思わず漏れた声に、湊斗が小さく笑った。
 2人掛けの対面の席に通され、店員がグラスを持って注文を取りに来た。
 湊斗がメニュー表をこちらに傾け、
 「吉崎さん、お昼ご飯食べました?
 俺まだ食べてなくて…このカツサンド食べようかな…」と写真を指差した。
 「あ〜、俺アイスコーヒーだけでいいわ。あんま腹減ってないし」
 「わかりました。じゃあ、アイスコーヒー2つとカツサンド1つ…お願いします」
 注文を受けた店員が背を向けて去っていくと、湊斗はグラスの水を一気に飲み干した。
 「本当に暑かった…吉崎さんはここまでどうやって来られたんですか」
 「俺自分の車で来たわ。夜中のうちに高速乗って、5時間ぐらいかかったな…」
 「それは…お疲れ様です」
 そこで会話が途絶え、しばらくすると店員が注文した物を持ってきた。
 「わ…このカツサンド思ったよりデカいな…吉崎さん良かったら一切れ食べませんか?」
 「ん、じゃあ貰うわ」
 俺は湊斗が差し出してきた皿から一切れ取り、口に運んだ。
 厚みのあるカツが、空っぽの胃にずっしりと思い。
 咀嚼しながらふと顔を上げると、湊斗がじっと俺の顔を見つめていた。
 俺が泣いた後の腫れた目元も、不機嫌そうな口調も、すべてを肯定して受け入れるようなその眼差しに、心臓の奥が跳ねた。
 (…こいつ、まだ俺のこと…)
 湊斗は俺の視線に気付くと、少し頬を赤らめてからカツサンドを食べ始めた。
 その瞬間、俺の心に薄暗い感情が渦巻くのを感じた。

 湊斗がカツサンドを食べ終えたのを見て、俺は黙ってポケットから巾着袋を取り出し、テーブルの真ん中に放るように投げた。
 「…なんですか?これ…」
 「俺の宝物。」
 湊斗が怪訝そうに手に取り、袋の口を緩めた。
 中身を見て、灰に埋もれた指輪に気付くとみるみるうちに顔が青ざめていった。
 「こ…これ…なんで…お焚き上げしてくれたんじゃ…」
 「湊斗、お前ずっと不思議だったろ。
 なんで遼河がしつこくラブレター渡してきたり、付き合ってもないのに指輪プレゼントしてきたりしたのか。」
 湊斗が息を呑む音が聞こえた。
 「喜ぶと思うぞって、俺が適当なこと言って渡させたんだよ。…あいつが振られて、ボロボロになって、泣き縋ってこれば良いって、心の底から思ってた。」
 俺はわざと嘲笑うような歪な笑みを浮かべ、さらに言葉を重ねた。
 「…湊斗、お前俺の事好きなんだろ。
 隠してるつもりだろうけど、全部透けて見えてんだよ」
 湊斗が目を見開き、固まる。
 俺はその反応を冷めた目で見つめ返した。
 「あの雨の日、遼河が死んだって言いに来た時。
 お前が俺の前で泣き崩れた時、俺が何を考えてたか教えてやろうか。
 …今こいつを力ずくで抱いて、めちゃくちゃにして、俺のものにしたら……あいつ、化けて出てきてくれるかなって…祟りでもいいから、俺の前に現れて、俺を殴ってくれるかなって…そう考えてたんだよ」
 「…っ、は?」
 湊斗の瞳が、困惑と恐怖で揺れた、
 「最悪だろ?お前の心配してるフリして、俺の頭の中はあいつの事ばっかりだ」
 俺は背もたれに深く体重を預け、アイスコーヒーを一気に飲み干した。

 沈黙が、店内の冷房の音を際立たせる。
 俺の最低な告白を聞いた湊斗は、絶望して席を立つか、あるいは軽蔑の眼差しを向けてくるだろうと思っていた。
 だが、湊斗は震える指先で、テーブルに置かれた巾着袋をそっと握り締めた。
 そして、ゆっくりと顔を上げたその瞳には静かな決意が宿っていた。
 「…知ってます」
 「あ?」
 「吉崎さんがあの日…俺に触れようとして手を止めたことも、俺を通してずっと別の誰かを見るような寂しい目にも…全部気づいてました。」
 彼は俺の視線から逃げることなく、真っ直ぐに射抜いてくる。
 「最低ですね。本当に、救えない人だ…」
 湊斗は自嘲気味に、でもどこか愛おしそうに微笑んだ。
 「…っ!」
 俺は机の下で爪が食い込むほど拳を握り込んだ。
 殴りつけてやりたかった。お前のその聖母のような慈愛が、俺を、遼河を、どれだけ追い詰めたのか分かっているのかと。
 けれど、その底なしの肯定があまりに恐ろしく、そして、たまらなく欲しかった。
 俺は乱暴に椅子を引き、伝票を掴んで席を立った。
 「…帰るぞ、家まで送ってくわ」
 「えっ、待ってください!」
 会計を済ませ、店を出ると俺は早足で霊園の駐車場へ向かった。
 湊斗は無言で俺の後をついてきて、俺が車に乗り込むと遠慮がちに助手席に座った。
 「良いんですか、本当に…5時間かけて来たんですよね?運転変わりましょうか…」
 「うるせぇ、黙って座ってろ」
 エンジンをかけ、車を走らせる。
 高速道路に乗ると、景色は単調な灰色へと変わっていった。
 湊斗は何も言わずに、ただぼんやりと窓の外を眺めていた。
 (何なんだよ、こいつ)
 全部ぶちまけて、嫌われてやろうと思ったのに。俺の醜さを肯定されたことで、吐き出したはずのドロドロとした感情が、行き場を失って胸の中で渦巻いていた。
 しばらく走ると、高速道路の沿道に、派手な看板を掲げたラブホテルの群れが見えてきた。
 ふと横を見ると、湊斗が窓の外を見ないように俯いて微かに頬を赤らめていた。
 (意味わかんねー、童貞でもあるまいし…)
 それを見た瞬間、俺の中で意地の悪い感情が湧き上がって来た。
 「湊斗、お前顔赤いな。体調悪いのか?」
 「え、いや、別にそんなわけじゃ…」
 「ちょっと休憩してくか。俺も運転疲れたし」
 「吉崎さん…?」
 湊斗の困惑する声を無視して、俺は最寄りのインターチェンジで高速を降り一番最初に見つけたラブホテルに入って行った。
 「ちょ、吉崎さん?!な、なんでこんなところ…」
 俺の腕を掴んで制止しようとしてきた湊斗の手を払いのけ、車を止めた。
 そのまま迷う事なく受付のパネルで部屋を選ぶと、湊斗は顔を真っ赤にして俯いたまま俺の後ろをついて部屋に入った。
 「こんな真昼間から、どうしてこんなところに…」
 「なんだ、昼間じゃなかったら良かったのか?」
 「そういうわけじゃなくて…」
 「いいからさっさとシャワー浴びて来いよ、
 汗かいただろ」
 俺が背中を押すと、湊斗は渋々風呂場に入って行った。
 シャワーの音が、密閉された中で無機質に響く。俺はタバコを吸う気にもなれず、ベッドに腰を下ろして天井を見上げた。
 (俺は何をやってるんだ…)
 意地が悪くて、幼稚で、救いようがない。
 自分で自分が心底嫌になる。

 やがてシャワーの音が止まり、湿った熱気と共に備え付けのガウンを着た湊斗が出てきた。
 湯上がりで赤みを帯びた肌と、少し濡れた髪。
 その姿が、かつてあいつが狂おしいほど求めた姿であることを思い出して、胸の奥の澱がまた熱く煮え繰り返る。
 「吉崎さん、上がりましたけど…えっ」
 前まで歩いてきた湊斗の腕を引いて、躓いた湊斗が俺を押し倒すような体制になった。
 「ちょっと、吉崎さん…!!」
 「お前、ずっと自分を責めてたよな。陽生があんな目に遭ったのも、遼河が死んだのも全部自分のせいだって」
 俺の上から退こうとする湊斗の頭を押さえつけて、湊斗の耳元に顔を寄せた。
 首筋から漂う石鹸の香りが鼻を掠め、嫉妬心を余計に刺激した。
 「なら、罪滅ぼしさせてやるよ。
 …遼河がお前を抱いた時と同じように、俺の事乱暴に抱けよ。遼河が化けて出てくるくらい、めちゃくちゃに…」
 そう言って、か弱く震える湊斗の唇に噛みつこうとすると、湊斗が思い切り俺の胸ぐらを掴んだ。
 「…っいい加減にしてください…!」
 湊斗の目から溢れ出した大粒の涙が、俺の頬に落ちた。
 堰を切ったように涙を流すその瞳の奥には、微かに怒りがこもっていた。
 「俺は、保利の代わりにはなれません…」
 「湊斗…」
 「保利を愛していたあなたが…!これ以上彼を、悪霊のように扱わないでください……」
 湊斗は声を上げて泣き始めた。
 (何でお前が泣くんだよ…)
 ガキみたいにわんわん泣く湊斗を見ていたら、急に嫉妬とか執着とか、そういうのが全部どうでもよく思えてきた。
 俺は湊斗を自分の胸に抱き寄せて、子どもをあやすように頭を撫でた。
 「悪い悪い…俺がどうかしてたわ…もう俺の事好きにしてくれていいから、泣き止んでくれよ〜…」
 シャツの胸元に染みる涙が熱く、まるで俺の心のどす黒い塊を溶かしていくようだった。
 「…今の吉崎さんを抱いても、あなたは俺自身を見てくれない…いつかあなたに俺を見てもらえるまで頑張りますから…その時は、優しくします…」
 湊斗の涙でぐちゃぐちゃになった赤い目で真っ直ぐ見つめられ、思わず心臓が跳ねた。
 「あー…もうほんとお前には敵わないわ…」
 俺は降参するように両手をあげて、苦笑いをした。
 「ほら鼻噛めよ。お前いつまで泣いてんだよ、教師のくせに。」
 俺がベッドサイドのティッシュを湊斗に差し出すと、
 「教師だって泣く時は泣きますよ…」と言いながら鼻を啜った。
 「はぁ…ヤらないならさっさと帰ろうぜ…なんか勿体無いことしたな」
 「そ、それはすいません…なんか俺だけシャワー浴びちゃって」
 「いいよ別に…お前の似合ってねぇガウン姿見たら目が覚めたわ」

 俺はさっさと支払いを済ませてラブホを出た。
 車に乗り込み再び高速道路に乗ると、来た時より日が傾いて遠くの空がオレンジがかって見えた。流れる景色が、穏やかに過ぎていく。
 「なぁ、湊斗。お前さっき言ったこと忘れんなよ」
 「え?」
 「いつか俺がお前をちゃんとお前として見た時…その…優しくするって言ってたろ…」
 俺も自分で言っといて言葉尻に近づくにつれ恥ずかしくて小声になってしまった。
 しかし湊斗は俺以上に顔を赤くして
 「は…はい…」と震える声で言うもんだから、ついおかしくて笑ってしまった。
 次のサービスエリアを示す看板が現れ、湊斗は何か思い出したように「あ!!すいません、次のSA寄ってもらえませんか」と叫んだ。
 「どうしたんだよ急に、うんこか?」
 「違います、皆瀬と井埜にお土産買って帰るって言ってたの忘れてて…」
 「手のかかるガキどもだな…」
 サービスエリアの駐車場に車を止め、湊斗にはお土産を買いに行かせて俺は外で一服する事にした。
 駐車場から湖が見える場所に喫煙スペースがあり、俺はそこでタバコに火をつけた。
 煙を吐きながら、ポケットから巾着袋を取り出してじっと見つめた。
 (こんなもの、いつまでも持ってるから忘れられないんだよな)
 俺は振りかぶって巾着袋を湖に投げようとすると、後ろから急に手首を掴まれた。
 「びっっっくりした…何やってるんですか!」
 振り返ると手にお土産の袋を持った湊斗が、肩で息をしながら立っていた。
 「あー…もうお土産買ったの?」
 「それ!宝物じゃないんですか」
 「宝物?そんなんじゃねえよ、これは呪いだ」
 巾着袋の口が少し開いて、ラブレターの燃え滓がサラサラと風に吹かれて飛ばされて行った。
 「…捨てさせてくれよ。そうでもしないと俺は一生こいつに縛られたままだ」
 すると、湊斗は俺の手ごと巾着袋を握った。
 「…じゃあ俺に返してください。元々は保利が俺にくれた物です。」
 湊斗は俺の手から巾着袋を抜き取り、大事そうに鞄にしまった。
 「お前ってほんと変なやつ…」
 「吉崎さんに言われたくないです…」
 俺はデカいため息を吐いて、タバコを灰皿に投げ入れた。
 「…龍二でいいよ、俺の名前。俺らタメなんだし…」
 「えっ」
 湊斗は一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして固まった。けれどすぐに耳まで真っ赤にして、唇を震わせた。
 「りゅ…龍二…」
 「どうした?湊斗」
 俺が首を傾げて顔を覗き込むと、さらに顔を赤くして口をぱくぱくさせた。
 「…龍二、今度さ、またどこか遊びに行かないか?井埜と皆瀬も誘って…次は俺が車出すから」
 「おーいいぜ、どこ行こうな」
 俺は湊斗の肩を組んで、車に向かって歩いて行った。
 (悪いな、遼河。
 地獄で会ったら、ボコボコにしてくれて構わないから。)

 (だから今だけは、静かに見守っててくれよ。)