眠れぬ夜は、君のせいにしたいのに


 アパートの前に着くと、2階の陽生の部屋の前で人がウロウロしているのが見えた。
 (佐伯さん?)
 俺は階段を駆け上り、佐伯さんに駆け寄った。

 「どうしたんですか」
 「あ!依真くん、ちょうど良いところに…」
 佐伯さんは青ざめた顔をして、震える指先で陽生の部屋のドアを差した。
 「さっきね、自分の部屋で仕事してたら陽くんの部屋からゴトッて何か倒れたみたいな音がして…心配になってチャイムを鳴らしても出てこないし、泥棒だったらどうしようって思って…」
 それを聞いて俺もインターフォンを押すが、そもそも部屋の中から音が聞こえてこない。
 (壊れてるのか…?)
 ドアの鍵は掛かっており、もしかしたら帰って来ていないだけなのかもしれないが妙に嫌な予感がする。
 「佐伯さん、ベランダ借りてもいいですか」
 「良いけど…もしかしてベランダから入るの?」
 俺は佐伯さんの家の中を通って、ベランダに出た。
 (フェンスを伝っていけば陽生の部屋のベランダへ行けそうだ。)
 2階とはいえ踏み外したら骨折は免れないだろう。濡れたフェンスに慎重に足をかけた。
 「依真くん、危ないよ…!警察の人呼んでしばらく待ったほうが…」
 佐伯さんの制止の声を無視して、陽生の部屋の方へ伝っていった。
 何とか陽生の部屋のフェンスを降りたが、窓は鍵が掛かっており遮光カーテンが締め切られていて中の様子は分からなかった。
 ガラス窓に耳をそば立てると、中から微かに布の擦れるような音と、浅い呼吸音が聞こえた。
 (中に人がいる…!)
 「佐伯さん!なんかガラスを割れそうなもの持ってないですか!」
 フェンスの向こうで心配そうに見守る佐伯さんに声を掛けると、慌てて部屋からDIY用のトンカチを持って来てくれた。
 「それで割れそう?怪我しないでね…」
 俺は躊躇うことなく、鍵付近のガラスにトンカチを振り下ろした。
 ガシャン!!
 静寂を切り裂くように、窓ガラスが飛び散った。
 「陽生!!」
 呼びかけるが反応がない。
 鍵を開けて部屋の中へ入ると、昼間とは思えないくらい部屋の中が暗く、異様な雰囲気に包まれていた。
 (陽生はどこに…)
 少しして目が慣れてくると、部屋が暗いのではなく黒いモヤが部屋全体に充満している事に気がついた。
 「なんだ…これ…」
 部屋の中心に、人一人分くらいの大きさの黒い塊が床に転がっていることに気が付いて、全身に鳥肌がたった。
 急いで駆け寄ると、それは人に黒い蔦が幾層にも絡みついたものだった。
 黒い蔦を手で掻き分けようにも、実体がなくてただ空を切るばかりだ。
 (クソ、どうしたらいいんだ…)
 焦る俺をみて、化け物の顔に見える部分がニヤリと笑った。ヒトの姿からはかけ離れているのに、昨日よりはっきりと悍ましい顔の表情が見えた。
 (コイツ、笑ってやがる…!)
 その瞬間、俺の腕に黒いツタが絡みついた。それは腕から首を伝って、耳奥へと侵食した。
 (ま、まずい…!)
 脳髄に直接、平良が陽生に抱いていたどす黒い情欲が流れ込む。
 「…っぅ……ぐぁ……」
 俺が陽生に対して抱き始めた、まだ名前もつかないような芽吹いたばかりの感情が、暴力的に無理やり花開かされ、無残に千切られて踏み躙られていく。

 「……『井埜』は本当に可愛いなあ」
 自分の口から漏れた声が、自分ではない誰かのように低く、湿り気を帯びていた。
 俺の手はもはや救出のためではなく、獲物を狩る捕食者の動きで蔦を掻き分けていく。
 ツタの隙間から触れた陽生の白い肌に、浅ましく興奮して下半身に熱が集まる。
 (違う、こんなの…これは俺じゃない…)
 陽生の柔らかい肌に、もっと触れたい、俺だけのものにしたい、壊したい…
 俺の手が陽生の顔に辿り着き、唇をこじ開けようとした、その時

 ――依真くんはそばに行ってあげるだけでいい。そのあとは俺に任せとけ

 ――井埜のこと、頼んだぞ

 吉崎さんと担任の声が、脳裏に重なって響いた。

 「…っぐ、ぁあああ!!!」
 俺は自分の頬を拳で思い切り殴りつけ、その衝撃で正気を取り戻した。

 俺は、平良じゃない。

 「平良、テメェ…陽生に乱暴した挙句勝手に死んで、俺の身体で陽生を汚そうとしやがって…!!」
 俺はポケットから吉崎さんから貰った呪物を取り出し、歯を剥き出してニタニタと気持ち悪い笑みを浮かべる化物の顔に渾身の力で投げつけた。
 すると、化け物は一瞬拒絶された子供のような悲しそうな顔を見せた。
 「ァァァ…!!」と地鳴りのような悲鳴を上げて、耐えきれなくなったように霧散していった。
 黒いモヤは晴れ、蔦は砂のようにサラサラと消えた。その中から現れたのは、力無く横たわる陽生の姿だった。
 「陽生…!!陽生!!大丈夫か?!」
 陽生はうっすらと目を開けて、焦点の合わない目でこちらを見た。
 「依…真…?」
 陽生は俺に気がつくと、悲しげに視線を泳がせ身体を隠し始めた。
 「…どうした?」
 「…依真にこんな姿、見られたくない…」
 よく見ると陽生の服は所々焦げて溶けたように破れており、床に吐かれた吐瀉物で髪の毛は汚れていた。
 涙と汗と吐瀉物でぐちゃぐちゃに汚れた顔が、痛々しくて居た堪れない気持ちになった。
 (こんな状態の陽生に、俺は…)
 先ほどまで自分を支配していた情欲への、凄まじい自己嫌悪が込み上げた。
 俺が着ていた上着をかけてやると、陽生は俺の頬に手を伸ばして触れた。
 「…依真、ほっぺ腫れてる…どうしたの?」
 自分の方が酷い目にあったのに俺のことを心配する優しさに、目の奥が熱くなる。
 「…なんでもない、ちょっとぶつけただけだ。」
 吐瀉物がつくのも厭わず、俺は陽生を抱きしめた。
 「陽生、1人にしてごめん…もう俺が来たから大丈夫だ」
 そう言って背を摩ってやると、ようやく安心したのかスゥスゥと寝息を立てた。
 (流石にこの格好では外に連れ出せないな…)
 俺は急いで陽生を着替えさせて、顔と髪を濡れたタオルで綺麗に拭いてやった。
 呪物も一応回収してポケットに仕舞い直し、
 一先ず安心して部屋の隅を見ると、先程散った黒いモヤがウゾウゾと意識を持っているかのように少しずつ一つに集まろうとしていた。
 (コイツ、また元に戻ろうとしている…)
 溶けた顔のようなソレと、目が合った。
 「失せろ!…お前に二度と陽生は触らせない…!」
 俺は低い声でそう吐き捨てて、陽生を背負って部屋を飛び出した。

 ドアを開けると、驚いた顔をして佐伯さんが立っていた。
 「陽くん?!大丈夫なの?依真くん顔怪我してるじゃない?!手当しないと…」
 「佐伯さん…ごめんなさい、急ぐんで…」
 俺は佐伯さんの制止をすり抜けて、階段を駆け降りた。

 (…まだ油断できない状況だ)
 耳元で陽生の浅い呼吸が聞こえる。
 陽生の体は熱を持って、息苦しそうだった。
 (頼むから間に合ってくれ…!)
 俺は担任から貰ったメモを握りしめ、雨の降り頻る中、吉崎さんの待つ寺へと駆け出した。