部屋の奥に潜んでいた「ソレ」は、もはや人間としての形を保っていなかった。
天井に届くほど長く伸びた首が、折れた関節のように不自然な角度でゆらゆらと揺れる。床を踏み締めるたびに、乾燥した骨を砕くような「パキパキ」という嫌な音が、静まり返った部屋に響き渡った。
(やばい、依真に電話…)
逃げようにも身体が鉛のように重くて、スマホで助けを呼びたくても指先すらいうことを聞かない。
喉の奥からひゅうひゅうと空気が抜ける音がして、冷や汗が背中を伝った。
(あぁ、これ…あの時よりやばいかも)
俺は化け物を前にして、昨年の夏休み明けのことがやけに鮮明に蘇った。
入学当初から、頭髪の色で生活指導の平良先生に目をつけられてしまい何度地毛だと説明しても事あるごとに叱りつけられた。
他の生徒達からは歳の近さもあってかお兄ちゃんみたいだと人気があったようだが、俺は苦手だった。ずっと嫌われてるんだと思ってた。
あの日も、夏休み明けの身だしなみ検査で案の定呼び出された。
「教室で待ってろ」と言われて待っているうちに部活動は終了し生徒は全員下校して、先生達も帰っていってしまった。
しばらくして教室に来た平良先生が
「井埜、待たせて悪かったな。喉乾いただろ」
と言ってお茶を差し出して来た。
それを飲んだのがまずかった。
俺がお茶を飲む様子を、平良先生は怒る事もなく、ただにこにことこちらを観察していた。
次第に手が痺れ始め、何か盛られたことに気がついた時には意識が朦朧として、手遅れだった
パキ パキ
化け物は、あの時の平良先生と同じようにゆっくり俺に近づくと顔を近付けて下賎な笑みを浮かべた。
黒いモヤが意思を持った触手のようにこちらに伸び、体に纏わりつく。
「…うっ…げほっ!!」
まるで無数の虫が皮膚の下を這いずり回るような不快な感覚に、俺は思わずフローリングに胃の内容物をぶち撒けた。
(あの時は、確か…)
吐いたことによって薬の効き目が弱まって、教室から死に物狂いで逃げ出した記憶が過ぎる。
でも今は、酸っぱい匂いが充満するだけで意識は朦朧としたままだった。
(寝たら、まずいのに…)
黒いモヤは俺の視界を覆って、口をこじ開けて喉の奥に入り込んできた。
「……ぁっ…!…がっ…」
声が上手く出せない。
鼻から、耳から、無理やり内側に侵食される感覚。
侵入してきた異物が脳に到達し、頭の中に直接誰かの声が鳴り響いた。
『井埜は可愛いなぁ、本当にあいつにそっくりだよ』
耳元で囁かれた声が、ぐちゃぐちゃに歪んで響く。
(あいつって、誰だよ……!)
『何で俺の気持ちをわかってくれないんだ』
『こんなに好きなのに』
『俺だけのものになれよ』
『俺を見ろよ、俺だけを、俺を』
ぐちゃぐちゃに混ざった感情が、直接頭に流れ込んでくる。
『頼むから、俺を好きになってよ……湊斗』
(……湊斗?)
その名前に疑問を抱いた瞬間、
自分の輪郭が、ぼやけた。
境界線が歪んでいく。
(……俺って、誰だっけ)
意識が、底に沈んでいく。
俺は最後に残った力を振り絞って、心の中で叫んだ。
(あぁ、助けて……依真…)
その瞬間だった。
ガシャン!!とガラスが割れる音がして、一瞬モヤ揺らいだ。
「陽生…!!!」
ガラスが割れた隙間から、光が差し込んだように見えた。
