海に溶ける人魚姫の泡みたいな恋だった

 月明かりが、静まり返った波打ち際を白く、残酷なほど鮮やかに照らし出していた。
 夜の海は、すべてを飲み込んでしまいそうなほど深く、穏やかだ。

 並んで歩く涼平さんの隣で、私は一歩踏み出すたびに、奥歯を強く噛み締めた。
 砂浜にヒールが沈み込むたび、サンダルのストラップが、血の滲んだ踵の傷口を容赦なく削り取る。一歩ごとに、焼けた剣で心臓まで貫かれるような鋭い激痛が走る。
 それはまさに、かつて私が「馬鹿げている」と切り捨てた、あの人魚姫が味わった苦痛そのものだった。

「凪ちゃん、本当に足大丈夫? やっぱり、研究所でスニーカーに履き替えてくればよかったのに」

 涼平さんが歩調を緩め、心配そうにこちらを覗き込む。
 私は、痛みのあまり白くなりそうな意識を必死に繋ぎ止め、この夏一番の、なんてことないような笑みを浮かべて見せた。

「平気ですよ。涼平さん、大げさだなあ。ちょっと歩きにくいだけです。……海辺の女の子を、なめないでください」

 痛くない。苦しくない。
 そう自分に言い聞かせるほど、喉の奥に熱い塊がせり上がってくる。
 声を奪われた人魚のように、私は本当の叫びを喉の奥に封じ込めて、剣の上を歩き続けた。

 波打ち際で足を止めた涼平さんが、遠い水平線を見つめながら静かに口を開く。

「……本当に、凪ちゃんには助けられたよ。君がいなかったら、こんなにスムーズに研究は終わらなかった。おかげで、すごくいい夏休みになった。……ありがとう」

 心からの、まっすぐな言葉。
 けれどその響きは、私にとって死刑宣告と同じだった。
 彼にとって、この夏はもう「終わったこと」として、綺麗に思い出の箱に詰められてしまったのだ。明日彼が帰る場所には、あの銀色の指輪の持ち主が待っている。彼の未来に、私の居場所は一ミリも残されていない。

『行かないで』
『私を見て』
『本当は、死ぬほどあなたが好きなんです』

 喉の奥まで出かかった悲鳴を、私は血を吐くような思いで飲み込んだ。
 今、この声を解き放ってしまえば、どれだけ楽になれるだろうか。彼を困らせ、罪悪感という名の消えない呪いをかけて、一生私のことを忘れられないようにしてやりたい。そんな醜い衝動が、胸の内で暴れ回る。

 けれど。
 月光の下で、穏やかに微笑む彼の横顔を見た瞬間、私は振り上げた短剣を、自ら海へと投げ捨てた。

 彼は、優しすぎる。
 もしここで私が泣いて縋れば、彼は「ただの生意気な手伝いの子」を傷つけていた事実に、誰よりも深く傷つくだろう。この美しかった夏の記憶を、彼の中で一生「後悔」と「申し訳なさ」という色に塗り替えてしまう。

 そんなの、私の望むことじゃない。
 王子様を刺せば、自分は助かる。けれど人魚姫は、王子様の幸せのために、泡になることを選んだ。
 私も、彼を笑顔のまま東京へ帰すために、この恋心を永遠に「なかったこと」にする。

 私は踵の激痛も、今にも溢れ出しそうな涙も、すべてを仮面の下に隠した。
 そして、この夏一番の、生意気で可愛げのない笑顔を作って見せた。

「……どういたしまして。これでやっと、私の夏休みも平和になります。東京に帰っても、奥さんに怒られるくらい部屋を散らかしちゃダメですよ」

 精一杯の、強がり。
 それは、私が彼についた、最初で最後の、一番綺麗な嘘だった。

 涼平さんは一瞬だけ驚いたように目を丸くした後、ホッとしたように「ははっ」と声をあげて笑った。
「手厳しいなあ。……うん、気をつけるよ」

 そう言って、彼は最後にポン、と私の頭を撫でた。
 最後まで、子ども扱い。最後まで、ただの生意気な妹分。
 けれど、その大きな手のひらの温もりを、私は一生、忘れないだろう。

 遠ざかっていく、彼の背中。
 引き戸の閉まる音。
 そして、完全な静寂。

 独りきりになった砂浜で、私はようやく、崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。
 サンダルを脱ぎ捨てると、月明かりの下で、踵に滲んだ血が黒く光っていた。

 想いを伝えないなんて、ただの自己満足だと笑った。
 けれど、彼が傷つかないなら、彼がこれからもずっと笑っていられるなら。
 私は喜んで、この声を海に捨てる。

 さようなら、私の綺麗な王子様。
 さようなら、魔法の解けた、私の秘密基地。

 足元にはもう、尾ひれも、剣の上を歩くための足もない。
 ただ、寄せ返す波が、私の恋を白い泡へと変えて、暗い海へと連れ去っていくだけ。

――ひどく痛くて、眩しい恋だった。