引っ越しの準備は、思っていたより捗らない。別れたとき、渓斗の荷物は送ったはずなのに、残り香のように、すっと出てくる。例えば、ペンとか名刺とか、奥にしまい込んでいたペアの食器とか。一瞬、手が止まってしまう。
お休みの土曜日。
ベランダに続く窓を開けると、温かい春風がふわりと頬を撫でた。大学進学を機に、この部屋に住み始めて十年。見慣れた景色も今日で見納めだ。明日の朝には、新しい生活が始まる。
時計の針は、お昼の十二時を指していた。そろそろ凌さんの仕事が終わるころだ。彼が来る前に荷造りしてしまおうと、後回しにしていた本棚の前に立った。中段の棚に置かれた高級ティッシュの箱に手を伸ばす。
ぱっちりとした瞳のうさぎと目が合った。渓斗と別れた後、置いたものだ。
あれから五年。私たちが付き合っていた歳月と、ほぼ同じ時間が過ぎた。
その間、私は何度もこの無垢な瞳と目が合った。ただぼんやりと、見つめ返してしまうことすらあった。
一度だけ、凌さんがこの箱を使おうと手を掛けたことがある。
「あっ」
思わず声が出た。驚いて手を止めた彼に、私は顔を強張らせたまま言い訳をした。
「……その箱、気に入ってるの。可愛いでしょ?」
嘘だ。
私はその箱で、自分の気持ちに蓋をしていただけだ。
指先で箱を横にずらすと、背表紙の少し焼けた文庫本が現れた。誰もが知る国民的作家の小説たち。渓斗が好きで、勧められるまま私も読んだ。
遠距離になる前の、幸せだった時間。
忘れたくない大切な時間の方が多かったのに、ヒリヒリするような最後を思い出したくなくて、私はこの箱に触れられずにいた。
ちょうど本棚の整理が終わったところで、玄関のチャイムが鳴った。立ち上がろうとしたときには、ゆっくりと鍵が回る音がした。
「ごめん、遅くなって」
午前中、テニス部の指導で出勤していた凌さんがやって来た。
高校教師の私たち。新卒で赴任した学校で凌さんと出会って、五年になる。凌さんの転任を機に交際を始めて、二年。三歳年上の頼れる先輩であり、もうすぐ私の夫になる。
少し前に、大学時代の友人に結婚の報告をした。
「おめでとう」という祝福に続いて返ってきたのは、「やっぱり同業だと理解があって楽?」という言葉。そして、他愛のない世間話のなかに、「新菜は渓斗さんと結婚すると思ってた」とさらりと混ぜられた。それは、細い針でちくりと刺されたように痛かった。
――二十八歳。
適齢期だから、このあたりで手を打った。そんな風に見えているのだろうか。祝福の言葉をもらっているのに、胸の奥がモヤモヤした。
「だいぶ片付いたね」
部屋を見渡して、凌さんが言う。
「でしょう?」
「うん、頑張ったね。はい、おみやげ」
いつもの朗らかな顔で、凌さんがレジ袋を差し出した。
「そこのコンビニで見つけて買ってきたんだ。『復活、ベイクドチーズケーキ』って。新菜、食べたことある?」
その瞬間、心臓がトクンと小さな音を立てた。
『新菜の好きなもの、何でも買ってあげる』
渓斗の声が、耳の奥で響いた。
あの夜。
コンビニのカゴがいっぱいになるくらい、渓斗は私の好きなものを次々と入れた。この部屋で泣きながら食べたベイクドチーズケーキ。
「……新菜?」
「あ、ごめん。……懐かしい。コーヒー淹れるね」
鼻の奥がツンとする。
私は、凌さんから逃げるようにキッチンへ向かう。時が過ぎてもまだ、渓斗に抱きしめられた温かさを思い出せてしまう。そんな自分を、凌さんに申し訳なく思う。
コーヒーを淹れることに意識を向けようと、缶に手を伸ばした。
けれど。
鮮明に溢れ出した渓斗の記憶を、止めることはできなかった――。
*
十年前。
二歳年上の渓斗と知り合ったのは、他大学との合同サークルだった。大学一年の花火大会をきっかけに、私たちは付き合い始めた。
黙っていると冷たそうに見えるほど整った顔は、近寄りがたい雰囲気があった。
付き合ってみれば、お笑いを見て爆笑したり、私の作ったごはんをニコニコと食べてくれたり。そんな彼の姿が、新鮮でうれしかった。
外で見る彼は相変わらずクールだったけれど、ふたりになった時の気の抜けた彼が好きだった。
お互い一人暮らしでも、べったりという感じではなかった。大学も違うし、大学院の入試や理系ならではの論文に、渓斗はいつも忙しそうだった。
転機は、付き合って一年になる頃。
彼と連絡の取れない日が続いた。彼の邪魔をしたくなかった私は、既読がつかなくても追いメッセージはしなかったし、会いたい夜も飲み込んだ。
でも、疲れた。
――冷められたのかもしれない……。
そう思った私は、メッセージで彼をファミレスに呼び出した。
「別れたい」
本心ではなかった。
ただ、ずるずると拒絶されるのは怖くて、自分から終わろうと思った。
「俺はいやだよ」
クールな彼の顔が、一瞬で崩れた。
「新菜。俺とずっと一緒にいてほしい」
彼の真剣なまなざしも、言葉も、胸に強く響いた。
それから私たちは、熱に浮かされたみたいだった。気づけば窓の外の空は白じむほどに、夢中で話して、泣いて、笑った。
氷が溶けて薄くなったコーヒーも、炭酸の抜けた甘ったるいメロンソーダも「もったいないよ」と笑って押し付け合いながら飲み干した。
私たちの結論は、あまりにも極端だった。
「一緒に住もう」
付き合って二年目の夏。
終わりかけた恋が、一生忘れられない恋に変わった。
私の部屋で同棲してからは、大学とアルバイト以外、渓斗と過ごした。狭い部屋で一緒にお笑いを見て、本を読み、私の作ったごはんを「美味しいね」と食べる。お互いの存在が生活のすべてになるような日々だった。
渓斗はそのまま大学院へ進み、私が三年生になった初夏。
教職を志望していた私は教育実習期間に入った。
指導担当の男性教師は、常に怒鳴っているような人だった。提出した指導案を目の前で机に叩きつけられたり、これだから実習生は嫌なんだ、と吐き捨てられた。他の先生たちはフォローを入れてくれていたけれど、私にはもう、やっていく自信がなくなってしまっていた。
ある日の帰り道。
職員室であったことがフラッシュバックして、涙が止まらなくなった。アパートの窓から明かりが漏れているのが見えたとき、胸が詰まった。
――どうしよう。こんな顔で部屋に入れない。
玄関の前でしばらく時間が過ぎるのを待っても、涙は止まりそうになかった。静かに玄関のドアを開けると「おかえり」と中から渓斗が出てきた。私の顔を見て、一瞬で心配げな表情になった。
「……どうした?」
「もう無理。辞める。向いてない。実習にも行きたくない」
そばに来た渓斗に泣き顔を見られたくない私は、顔を背けた。
「靴脱ぐの、ちょっと待って。新菜、コンビニ行こう。好きなもの、何でも買ってあげる」
渓斗は「新菜は何も持たなくていいから」と、私の肩から重いカバンを下ろしてくれた。「どうした、どうした」と私の涙を拭ってくれた。コンビニに入ると、あれもこれもと渓斗はカゴをいっぱいにした。
ふたりで部屋に帰ってきて、最初にベイクドチーズケーキを食べた。
「新菜、いま辞めちゃダメだよ。やりきって、その後どうしたいか一緒に考えよう?」
あのとき、もし渓斗がいなかったら、私は今と別の道を歩んでいたと思う。彼の言葉をきっかけに、私は志望先を中学校から高校へと変えた。
渓斗の温かさが身に沁みて、もう一度「頑張ろう」と思えた夜。
ずっと渓斗と一緒にいたい。
――切実に、そう願った。
*
渓斗と私は卒業のタイミングが一緒だった。
彼は大手企業から早々に内定をもらい、電気メーカーのエンジニアとして東京へ行くことになった。一方私は、大学時代を過ごした街と東京の教員採用試験を受けた。でも、東京の採用はもらえなかった。
「大丈夫だよ。メールだって、ビデオ通話だってあるんだし。新幹線で三時間の距離なんて、なんてことないよ。フレックスも使って会いに来るから」
そう言って、渓斗は落ち込む私を励ましてくれた。遠距離恋愛が始まる日には、こっそり用意していた腕時計をプレゼントしてくれた。
「新菜が泣いても、駆けつけられないから。俺が一緒にいると思って。本当は、指輪も考えたんだけど、それはもっと一人前になってからね。今はまだ……だから、それをつけていて」
初めてのクリスマスにサプライズでプレゼントしてくれた指輪に視線が落ちた。
――いつか、一生を誓える日が来るまで。
きっと大丈夫。私たちは未来を信じていた。
遠距離恋愛は思っていたより過酷だった。
時間も、お金も、お互いの努力なしには続かない。それでも渓斗はフレックスを使って、頻繁に会いに来てくれていた。
秋になり、彼が大きな開発の仕事を担当するようになってから、毎日のようにしていた電話の間隔も少しずつ空いていった。
「もっと一緒にいたい」
最初のころは、口にしていた言葉も飲み込むようになった。「すぐには無理だ」と、社会人の責任が頭をよぎる。
やっと互いの休みが合い、久しぶりに会うと渓斗はやつれているように見えた。仕事が大変なのではないかと聞いたけれど、「大丈夫」と私には何も話さなかった。渓斗は学生時代から、自分の研究や就職も、あまり話したがらないところがあった。
休日はあっという間に過ぎ、新幹線のホームまで見送りに来た。
「次は、年末まで会えないね」
仕方ないね、と新幹線に足を踏み入れた彼を見送る。振り返った渓斗が、私の腕を掴んで引き寄せた。弾みで私も勢いよく乗り込み、デッキで抱きしめられた。
「――――う」
渓斗の声が周りの音にかき消された。え、と顔を上げた。
「一緒に生きたい」
切羽詰まった目をしていた。
驚きすぎて、私は言葉に詰まった。追い打ちをかけるように発車のアナウンスが響いた。
「急に、ごめん」
私を抱きしめていた渓斗の腕から、ふっと力が抜けた。
「ううん、またね渓斗」
――私だって、一緒に行きたい。
喉まで出かかった言葉を飲み込んで、私は渓斗の手を離した。
目の前を加速していく新幹線を見送りながら、私は無意識に明日の授業のことを考えている。帰ってから、こうしてああしてと段取りしている自分に気づく。
そんな私に渓斗は、私より先に気づいていたのかもしれない。
年末。
久しぶりに会った渓斗の姿に私は固まった。
髪型も、髪色も変わっていた。
明るすぎない社会人の節度を持ったギリギリの髪色に、絶妙なラインで整えられた無造作なパーマは、とても洗練されていた。もともとおしゃれな人だけど、着ている服も私の知らないものだった。
「……え、ダメかな?」
「ううん、ちょっとびっくりしただけ」
微笑みながら渓斗が両手を伸ばした。いつも、何より先に渓斗は私を抱きしめた。
「会いたかった、新菜」
渓斗の匂いに包まれると、泣きたくなるほど安心した。
――大丈夫。……何も変わってない。
腕の力がふわりと緩み、胸に埋めていた顔を上げた。熱を帯びた彼の唇が重なる。いつもより長いキスに、そのままベッドに倒れ込んだ。
「そういえば、おみやげ。プリン買って来てたの忘れてた」
ベッドから、渓斗がテーブルの上に置いていた箱に初めて目を向けた。見慣れないロゴに、一気に胸がざわめく。いつものフルーツパーラーの箱じゃない。
「ここのプリン、美味しいんだよ」
心臓がギュッとした。
――誰と……?
戸惑いが伝わったのか、渓斗が眉を少し下げた。
「いつもの方が良かった?」
「あ、ううん。ありがとう」
「美味しいよ。新菜も好きだと思う」
保冷剤もたっぷり入れてもらって、かさばる箱を持って来てくれた。その優しさに「ありがとう」と素直に思いたいのに、どうしても悪い想像が止まらない。
――きっと、会社で……みんなで食べたんだよね……。
私は、ざわついた気持ちを抑えて、「美味しい」と食べた。
その夜。
渓斗の寝息が規則的になってから、そのお店を検索した。初めて知ったそのプリンは、おしゃれなカフェのものだった。
――違うと思いたい。
――考えすぎであってほしい。
渓斗の寝顔は学生時代と変わらないのに、髪型も、髪色も変わっていて泣きたくなった。
結局、私は何も聞けなかった。
学生の頃みたいに、熱に浮かされ、窓の外の空は白じむほどに、夢中で話して、泣いて、笑う力が、私たちにはなくなっていたのかもしれない。
一緒に過ごしたお正月から一カ月が過ぎた頃、渓斗からメッセージが来た。
「大切な話がしたい」
渓斗は私の部屋に来るのではなく、駅のコーヒーショップで会おうと。
ああ、ついに来たかと思った。
この間の渓斗の変わりように、私はどこかで覚悟をしていた。会うまでの数日間、「どうしたら、取り乱さないでいられるか」ばかりを考えた。
泣いて縋って、嫌われるのはいやだった。
約束の日。
待ち合わせよりも早く行くと、すでに渓斗は席についていた。いつものバッグも、フルーツパーラーの箱も持たない渓斗の姿に全てを察した。
「これからのことを考えたら、ぐるぐる頭の中でまとまらなくて、……つらいんだ」
やっぱり、と思った。
きっと、私とのこれからを考えたとき、渓斗にとって私はその程度だったのだ。別れを告げられた現実は、自分の中で十分すぎるほど反芻し、想像通りのものだった。
それでも、どうしても渓斗を失いたくなかった。だから、「別れたくない」と言う代わりに提案した。
「友だちに戻ろうか」
「えっ……」
戸惑う表情の渓斗を見て、駄目かと慌てて訂正する。
「ごめん、変なこと言って」
「ううん、……新菜がいいなら心強い」
渓斗は、「こんなことになってごめん」と何度も口にした。その度に私は渓斗の言葉を打ち消して「楽しい時間をありがとう」と笑顔まで見せられた。
そんな自分を、正しい姿だと思っていた。
月は、たとえ雨で見えなくても、恋しい人がそばにいなくとも、ひとりで見上げることに趣がある。そんな先人の教えを私は授業で話したばかりだったから……。
――取り乱して、「別れたくない」と言っていたら、何かが変わっていたのだろうか……。
*
ピー、とコーヒーメーカーが淹れ終わりを知らせた。
「……やっぱり、このチーズケーキだった?」
凌さんの声に、はっと我に返った。おそるおそる視線を上げると、凌さんと目が合った。
「私、もしかして話したことあった?」
声が、少し震えた。私を見た凌さんが、ぷっと吹き出した。
「覚えてないんだ、残念だなあ」
拗ねたように言っているけれど、楽しそうに笑っている。その穏やかな表情に安堵すると、出来たての香ばしいコーヒーの香りに気づいた。
「新菜が俺の前で初めて泣いた日。『彼がいなかったら一緒に働くこともできなかったんだなぁ』って思ったから、よく覚えてるんだよ」
渓斗の話を凌さんに、どこで話したのだろうと記憶を辿る。
「……テスト終わりのファミレス?」
「そう。あのとき新菜、最後は爆食いしたね」
ふふっと笑いながら、凌さんはサーバーからコーヒーを注ぐ。白い湯気がゆらゆらと立ち上る。
コーヒーを淹れ終わると凌さんがテーブルに運んでくれる。私は辛うじて段ボールに入れていないお皿に手を伸ばした。キッチンの窓から差し込む日差しが、左手の薬指に反射してきらりと輝いた。
「あ、新菜。お皿いらないんじゃない? 包みに『そのまま食べられる』って書いてあるし」
「そっか。じゃあ、そのまま食べようか」
凌さんとソファに並んで座った。
いただきます、とふたりでコーヒーを口に運んだ。
疲れが解け、頭が冴えるような深い味わいにふたりで短く息をついた。
「あのころの新菜、どんどん痩せていくから心配だったんだよ」
隣に座る凌さんの声は柔らかい。
「たしかに、人生で一番痩せたかも」
新卒の一年目。私は凌さんの受け持つクラスの副担任になった。当時はまだ「凌先生」と呼んでいた。笑顔が爽やかで、いつも穏やか。生徒たちからの相談にも時間を惜しまない。そんな姿は、頼れる先輩だった。
社会人二年目。
渓斗と別れた直後、初めてクラス担任になった。毎日が目まぐるしく過ぎていき、その忙しさに渓斗のことを忘れられたのはむしろよかった。けれどそんな私は、凌さんの目には危うく映っていたらしい。
あまりにやつれていく姿を心配した凌さんに、「悩みがあるなら聞くよ」と声をかけられる機会が増えた。そんな時間が続いた秋。ついに私は壊れた。
別れて半年が過ぎた頃、不意にかかってきた渓斗からの電話で――。
*
「異動することになったんだ」
久しぶりの電話だった。渓斗の声は思いのほか明るかった。
「転勤?」
「ううん、部署ごと場所が変わることになって。同じ都内なんだけど、新しいところに部屋を借りようと……」
渓斗がこんな風に仕事の話をするのは珍しかった。
今の仕事のことや、新しい勤務地について明るく話し続ける声が、私の胸を冷やしていく。話題が同じチームの先輩に変わったとき、全身がざわりとした。
もしこのまま、渓斗から「新しい誰か」の話を聞かされたら、今度こそ私は壊れてしまう。笑顔で別れられたのに、取り乱さないでいられる自信がない。
でも。
――友だちって、そういう話も普通に聞かなくちゃいけないのか……。
自分で投げたブーメランが、勢いよく自分に返ってきた。
「友だちになろう」と言ったのは私だ。
「そうしてくれたら心強い」と、渓斗は言った。
渓斗が別れを告げたとき、既に私との恋愛に区切りがついていたのかもしれない。
「……新菜、会えたりしない?」
「えっ」
時が止まった。心臓の鼓動が耳元でうるさく響く。
「…………それは、どういう」
震える声は渓斗には届かなかったみたいで、変な間ができた。
――まだ、渓斗のことが好きだ……。
私にとって渓斗の心変わりは突然で、別れの理由も消化しきれていなかった。
でもあのとき私は、知りたくないと思った。
別れる前も別れてからも、自分の中で芽生えてしまった彼への疑いに息が詰まりそうになった。そのたびに自分の中で折り合いをつけた。
私が東京に行くことができていれば、こんなことにはならなかったと。
積み重ねてきた五年の月日も、電話越しの渓斗の声も、別れ際に湧いた疑念を一瞬で消してしまうほどの威力があった。
――会いたい。
喉元までせりあがってきた言葉を、こぼれ落ちる寸前で私は無理やり変えた。
「……会いたかったよ」
電話の向こうから、ヒュッと彼が息をのむのが聞こえた。
ああ……。いま渓斗がどんな表情をしているのか、手に取るように分かってしまう。きっと、あのときみたいに頬を強張らせている。
「私は渓斗が苦しいことも、ちゃんと聞きたかった。仕事の話なんて、私じゃぜんぜん役に立たなかったかもしれないけど、誰かじゃなくて私に、話して欲しかった」
声が、荒くなった。詰るような口調に、もう引き返せないと悟った。ずっと私に刺さったままの棘を、弱さから目を反らし続けていたそれを、前へ進むために言葉にする。
「誰か、……いたんだよね?」
「違う。そうじゃない」
渓斗はすぐに否定した。その声は強かった。
「確かに、新菜と別れる少し前から残業続きで頭がおかしくなってる時があったよ。それで、いろいろ話を聞いてもらったりしてる人はいた。でも、それは産業医とも話すようなことで、特別なことじゃなかった」
「どうして、……どうして私じゃないの? 私には、渓斗以上に話を聞いてほしい人なんていなかった。ずっと一番がよかった……」
涙が混じった。泣き虫な私は、学生のころから成長できていない。
「それは、俺が弱かったからだよ。新菜に知られたくなかった。不器用なとこも、弱いとこも……別れようって、新菜からまた言われたら、俺は……」
ガツンと頭を殴られたような衝撃だった。
何年も前に切り出した別れが、彼を心の奥底で苦しめていたことに初めて気づいた。自己嫌悪の波が一気に押し寄せる。こんなに大切な人を、私はずっと傷つけていた。
――このままじゃ、ふたりとも駄目になる……。
「……渓斗。ごめんね。友だちになろうって私が言い出したのに、……もう無理みたい」
「いや、俺が悪いから。でも、この半年すごく後悔して、勝手なのは分かってる。けど、やっぱり俺は新菜ともう一度――」
私だって渓斗とやり直せるならやり直したい。なのに心の中で、何かが強くブレーキをかける。
あのとき、私がもっと強ければ。
あの夜、私が彼に聞くことができていたら。
けれど、一度沸き上がった疑いは、私の中で何度も何度もなぞったせいで、どうしようもなく痛い。
「きっと、渓斗には…………もっと、いい人がいるよ」
自分からそう言って電話を切ったあと、どう過ごしたのか覚えていない。
渓斗との電話から一週間が過ぎた。
金曜日の二十一時。二学期の中間テストの最終日。採点で遅くなった私は凌先生に誘われ、ファミレスに来た。
凌先生の前で、はあっと大きなため息を吐いた。
「こんなことになるなら、学生の時に別れた方がよかったです」
そこは大学二年の時、私が渓斗に別れ話をしたファミレスの系列店だった。
凌先生に「仕事で悩みがあるんじゃないか」と真剣な目で聞かれた末に、初めて渓斗のことを話してしまった。
つら過ぎて共通の友人にも話せない話が、なぜか凌先生には話しやすかった。
「でもさあ、危機を乗り越えた後の付き合いは楽しかったんでしょう?」
アイスコーヒーを一気飲みに近い感じで凌先生が飲んだ。その豪快な飲みっぷりに、思わず吹き出した。「メチャクチャ喉が渇いてたからさ」と察した凌先生が、言い訳しながら笑った。
「そうですね。その後の、いや、私が別れ話する前も楽しかったですけど……。五年間、幸せ過ぎて壊れました。あのとき別れていたらダメージは今よりずっと少なかったという意味です」
言い切って、私もグビッとジンジャーエールを煽った。炭酸が喉を突き、鼻の奥がツンとした。
「今からでも、戻れるんじゃないの? 状況からして、彼にすれば相当勇気がいることだったと思うよ」
俺にはできないな、とつぶやくように凌先生は言った。
「そうですよね。自分の不器用さも、柔軟性に欠けているところも、本当に嫌になります」
ドラマだったら感動的に再会して、「ごめんね」と抱き合って、別れ話なんてなかったような日々を過ごせたのかもしれない。
でも、どうしてもできなかった。
「彼が激務で、どんどん痩せていくのは見ていて分かっていたんです。私が一度別れ話をしたことで、いろんなことを言えなくなってしまったことも理解したんです。……でも」
まだグラスに半分以上残っているジンジャーエールを一気に飲み干した。「おお」っと、わずかに凌先生の目が見開いた。
「やっぱり誰かいた気がして。違うと彼は言ってましたけど。勘でしかないですけどね」
学生時代だったら、聞けたかもしれないことが、聞けなくなっていることに致命的だなと思った。
「……俺、思うんだけどさ、その苦しかった最後のことは忘れちゃっていいんじゃないのかなあ。いいところだけ覚えておいてもいいじゃん」
「いや、そうすると、やっぱり戻ればよかったって後悔のループに……」
堪えきれなくなった私は、顔を両手で覆いテーブルに突っ伏してしまった。何だか、高校生を通り越して子どもみたいだ。
「え、これ、アルコール入ってないよね」
頭の上から声がした。
「……入ってません。すみません。……先週の電話からほぼ眠れてなくて、試験突入だったもので。だからです」
うんうんと頷いている凌先生の声がする。
「結婚って、一番好きな人とはできないんですかね」
つい零れた言葉に、はっと顔を上げた。
「すみません、私、何を言ってるんでしょうね」
「ん? ぜんぜん。俺は、一番好きな人と一緒に生きたいと思うよ」
凌先生の声が、店内の喧騒を突き抜けて耳の奥に届いた。その瞬間、私の思考が完全に停止する。
――一緒に生きたい。
新幹線で思い詰めたような渓斗の顔が鮮明に浮かんだ。
あのとき彼は、その前に何かを言った。
私はその言葉を掬えなかった。
だから、渓斗の言葉を理解せずに見送ってしまった。その間違いに今さら気づいたところで、もう遅い。途端に目の奥が熱くなってくる。
「……新菜先生? 大丈夫?」
凌先生の心配そうな声に、すでに自分が泣いていることに気づく。
ジンジャーエールの泡が弾けるみたいに、喉の奥から嗚咽が漏れそうだった。
「……すみません」
凌先生は落ち着くまで、ずっと待っていてくれた。ただただ、静かに――。
コトンとカップを置く音がした。
「新菜、食べよう?」
凌さんと、三角のチーズケーキのフィルムをぺりりと剝がし始めた。尖った三角形の先端をひと口かじってみる。
柔らかな生地が口の中で、ふわっと溶けていった。
「美味しい」
「うん、美味しい。復活って書いてあるけど、前と同じ味?」
あれ? と、少しだけ違和感を覚えた。
もうひと口、かじってみた。
「美味しいけど、何か違う気がする」
そうなんだ、と凌さんもかじる。私は、まだ剥がしていないフィルムについた原材料を覗いてみる。
「もう少し、レモンの味がした気がするの」
レモン果汁の表記はあるけど、爽やかな酸味が足りない気がした。凌さんも自分のフィルムについている表示を見ている。
「書いてあるね」
もう一度かじってみても、やっぱりあの時とは違う気がする。
「やっぱり、レモンが弱いのかな、それとも私の味覚が変わったのか」
「それはあるかも。味覚って変わるよね。このケーキ、新菜ならもっと美味しく作れそうじゃない?」
確かに。
レモンを効かせた、まんまるのベイクドチーズケーキもいいかもしれない。
「今度作ってくれない? もう少しレモンの香りがするのも食べてみたい」
「いいね、新しいオーブンで作ってみようか」
私の言葉に、凌さんは「楽しみだな」とうれしそうに目を細めた。
「私、なんで凌さんにチーズケーキの話をしたんだろう」
「それは、俺が追加でマロンパフェを頼んで」
「うん、あのとき、『甘いものは落ちつくよ』って頼んでくれたの覚えてる」
「食べた後に、新菜が『もっと甘いもの食べていいですか』って言い出して、デザートのメニュー表を広げたら泣き出したんだよ。実習の時の話をしながら、『ベイクドチーズケーキ』って」
マジか。
「最低だ、私。ごめんなさい」
「ううん、落ち込み方が半端じゃなかったから。それに、俺がしつこく新菜を誘ったわけだし。もう、どうにかしないとって思った」
あの夜、不覚にも凌さんに素を晒してしまい、翌日、恥ずかしさに穴があったら……という気持ちになった。
「引いたよね」
「いや、新菜って、生徒たちの話と俺のイメージがずっと合わなかったんだよ」
「え、そうだったの? どんなところ?」
「生徒がいつも、『結構攻めた古典の授業やってる』って言ってたから」
まあ、それは否定できないかも。
「いつの時代も男女って、ドロドロしてるの」
「ふーん、大人だねぇ」
揶揄うように凌さんが笑う。
その笑顔は、太陽のように明るくて温かい。何でも話せてしまう包容力が、凌さんに一番惹かれたところだと思う。
「新菜、明日の引っ越しってスタート九時だっけ」
「うん。朝一番だって。もう少し早く来るかもしれないって」
「そっか。じゃ今日は早く寝よう。明日は区役所にも行かないとだし、忙しくなるね」
「うん、ありがとう。凌さん、疲れてない?」
「ぜんぜん問題ない」
きっぱりと言い切り、チーズケーキの最後のひと口を食べた。凌さんが、ティッシュに手を伸ばす。
「あれ?」
テーブルの上で、ぱっちりとした瞳のうさぎが私たちを見ていた。無垢な目と凌さんの目がパチッと合う。
凌さんが来る前。
五年越しに、それは本領を発揮し始めていた。
「新菜の大事なインテリア、いいの?」
「うん。箱も日焼けしてるし。新しいの買えばいいし」
「そっか。そんなにうさぎが好きなら、マンションで飼えるよ」
「それもいいかも」
箱にプリントされたうさぎが、新居のリビングをぴょんと跳ねるのを想像した。「悪くないね」とふたりで微笑む。
少しだけ胸が痛む。
私はうさぎが取り立てて好きなんじゃない。ちょうど手元にあった高級ティッシュの高さが文庫本を隠すのに適していただけで。優しい凌さんには心が痛いけど、それはこれからいくらでも温かい思い出を作っていける。
私の方が凌さんを好きになったのだから……。
二年前。
他校へ異動してしまった凌さんに会いたくなった。
ドキドキしながら通話ボタンを押すと、ワンコールも鳴らないうちに、「今、かけようとしてた」って凌さんが出た。驚いた声に、もしかしたらこの人となら上手くいくかもしれない、そんな予感がした。
「新菜、今日で最後だと思ったら寂しくなってない?」
「まあ、少しだけ。でも、新しいマンションの方が楽しみ」
私も最後のひとかけを食べて、コーヒーをこくりと飲み干した。部屋をぐるりと見渡す。渓斗と過ごした五年は、全部ここにある。
「……新菜って鈍っ、じゃなくて、天然なんだね、やっぱり」
凌さんの声が少しだけうわずった。
「え、やっぱり? 自分では結構、敏感だと思うけど」
「仕事ではね。普段はぜんぜん。俺、ずいぶん前から、新菜にアピールしてたけど気づいてなかったでしょ」
「そんな感じはしなかったよ。異動してから、電話かけたの私の方からだったし」
「それは……」
珍しく凌さんが言い淀む。
「弱ってるところに、付けこむみたいにすっと入るのは嫌だったんだよ。俺、自分でも引くぐらい嫉妬するから」
「え、そう? それも感じたことないんだけど」
クエスチョンマークが頭の中に舞う。食べ終わったフィルムを畳みながら、はっとした。
「……このチーズケーキ?」
「さっきコンビニで見つけたとき、絶対一緒に食べたいって思って。昼ごはんを買うつもりで入ったのに、気づいたらこれだけ持ってレジに並んでた」
ぎゅっと、胸をつかまれた。
完全に今、凌さんの新しい面を見た気がする。
「それって、上書き、的な?」
私が凌さんを覗き込むと、追及をかわすように凌さんはソファから立ち上がってキッチンへ逃げてしまう。その背中をすぐに追いかけた。
「凌さん、私もコーヒーおかわり! 飲み終わったら、どこか美味しいもの食べにいこう?」
キッチンで耳まで赤くしている凌さんに、私は後ろから思いきり抱きついた。
*
この部屋で過ごす最後の夜。
凌さんはベッドに入ると、すぐ眠りについた。ここのところ、彼はまともに休んでいない。先週の休みに一足早く新居への引っ越しを済ませた。今日も休日出勤だった。そして明日の私の引っ越しも「ぜんぜん大丈夫だよ」と手伝ってくれる。
私はそっとベッドを抜け出して、カーテンをわずかに開けた。
見上げた空には、渓斗と一緒に見た満月が浮かんでいた――。
十年前、花火大会の帰り道。
夜気に花火の余韻が混じるなか、道幅が広くなった場所で「少し夜景を見ようか」と渓斗が足を止めた。
濃紺の空に浮かぶ月を、まっすぐに見つめたまま彼が言った。
「月がきれいだね」
「最近、ずっときれいですよね」
私はそう答えて、彼を見た。いつも表情を変えない彼が、耐えきれなくなったように、私をぎゅっと抱き寄せた。
「……付き合ってくれませんか」
喧騒の中に、彼の声が溶けていった。それでも私は、はっきりと掬い上げた。
「はい」
――その瞬間、私の世界のほとんどが渓斗になった。
一緒に暮らし始めて、しばらく経ったころ。ふたりで本を読んでいるとき、不意に渓斗が言った。
「新菜が本好きでよかった。じゃなきゃ伝わらなかったじゃん」
「ん? なんのこと?」
「俺が花火大会の帰りに、月がきれいだねって言ったら、『最近ずっと綺麗ですよね』って新菜が言ったから……」
「え?」
「え?」
ふたりで顔を見合わせた。
渓斗の意図することが分からず、じっと見つめた。なぜか渓斗の顔がみるみるうちに赤くなっていく。
「……もしかして、新菜は違ってたの?」
渓斗の問いの意味を考える。
私には何の意図もなかった。花火大会を楽しみにしていて、前の晩も、その前も夜空を見上げていたから。
頭の中で「月が綺麗……」と繰り返しているうちに、やっと分かった。
「もしかして、渓斗。漱石の?」
「マジか」
渓斗が頭を抱えている。それがおかしくて私は吹き出した。顔を上げた渓斗が口を尖らせる。
「国文科なんだから伝わると思うでしょ」
「ごめん、理系の人からそんな言葉が出ると思ってなかったから。それに、あのとき私すごく緊張してたし。……渓斗って、ロマンチストだねっ!」
揶揄うように笑ったら、「新菜は天然すぎるんだよ!」とくすぐってきた。じゃれ合ううちにテーブルの上にあるグラスが「カタンッ」と音を立てた。
「「あ」」
ふたりとも固まった。私は慌ててティッシュを引き出す。
「早く、渓斗。本が濡れる」
「やばい、コーラ漬けになる」
バタバタと床にも、テーブルにも溢れたコーラを拭う。小さな炭酸が弾けていく。すっかり濡れてしまった文庫本は、瀕死の状態だ。「あーあ」と顔を見合わせ、ふと思った。
「え、ちょっと待って。そしたら私、めちゃくちゃ渓斗のこと好きって言ってたってこと?」
「違うの?」
「違くないけど」
何にも考えないで笑い合えた日々。
茶色く残ったシミと波打つページの文庫本に、私たちの原点を思い出す。
かみ合わないふたりが奇跡的に作った温かな思い出。私の中にあると思えば、もう痛くない。
背後からシーツの擦れる音がした。
「……新菜、眠れない?」
凌さんの少し眠たげな声がした。
「ごめん。起こしちゃったかな」
「ううん」
私の居場所を示すように、「おいで」と凌さんが腕を広げた。吸い込まれるように凌さんの腕の中へ滑り込むと、心地よい体温に包まれた。
「寂しくなった?」
月明かりに、気遣うような凌さんの顔が見える。
「どうして分かるの?」
「なんでだろう。好きだからかな」
胸がきゅんっと音を立てた。
もうひとつ。
凌さんの好きなところを見つけた。
まっすぐな声も好き。
優しい腕の中で、私は応えるようにキスをした。
お休みの土曜日。
ベランダに続く窓を開けると、温かい春風がふわりと頬を撫でた。大学進学を機に、この部屋に住み始めて十年。見慣れた景色も今日で見納めだ。明日の朝には、新しい生活が始まる。
時計の針は、お昼の十二時を指していた。そろそろ凌さんの仕事が終わるころだ。彼が来る前に荷造りしてしまおうと、後回しにしていた本棚の前に立った。中段の棚に置かれた高級ティッシュの箱に手を伸ばす。
ぱっちりとした瞳のうさぎと目が合った。渓斗と別れた後、置いたものだ。
あれから五年。私たちが付き合っていた歳月と、ほぼ同じ時間が過ぎた。
その間、私は何度もこの無垢な瞳と目が合った。ただぼんやりと、見つめ返してしまうことすらあった。
一度だけ、凌さんがこの箱を使おうと手を掛けたことがある。
「あっ」
思わず声が出た。驚いて手を止めた彼に、私は顔を強張らせたまま言い訳をした。
「……その箱、気に入ってるの。可愛いでしょ?」
嘘だ。
私はその箱で、自分の気持ちに蓋をしていただけだ。
指先で箱を横にずらすと、背表紙の少し焼けた文庫本が現れた。誰もが知る国民的作家の小説たち。渓斗が好きで、勧められるまま私も読んだ。
遠距離になる前の、幸せだった時間。
忘れたくない大切な時間の方が多かったのに、ヒリヒリするような最後を思い出したくなくて、私はこの箱に触れられずにいた。
ちょうど本棚の整理が終わったところで、玄関のチャイムが鳴った。立ち上がろうとしたときには、ゆっくりと鍵が回る音がした。
「ごめん、遅くなって」
午前中、テニス部の指導で出勤していた凌さんがやって来た。
高校教師の私たち。新卒で赴任した学校で凌さんと出会って、五年になる。凌さんの転任を機に交際を始めて、二年。三歳年上の頼れる先輩であり、もうすぐ私の夫になる。
少し前に、大学時代の友人に結婚の報告をした。
「おめでとう」という祝福に続いて返ってきたのは、「やっぱり同業だと理解があって楽?」という言葉。そして、他愛のない世間話のなかに、「新菜は渓斗さんと結婚すると思ってた」とさらりと混ぜられた。それは、細い針でちくりと刺されたように痛かった。
――二十八歳。
適齢期だから、このあたりで手を打った。そんな風に見えているのだろうか。祝福の言葉をもらっているのに、胸の奥がモヤモヤした。
「だいぶ片付いたね」
部屋を見渡して、凌さんが言う。
「でしょう?」
「うん、頑張ったね。はい、おみやげ」
いつもの朗らかな顔で、凌さんがレジ袋を差し出した。
「そこのコンビニで見つけて買ってきたんだ。『復活、ベイクドチーズケーキ』って。新菜、食べたことある?」
その瞬間、心臓がトクンと小さな音を立てた。
『新菜の好きなもの、何でも買ってあげる』
渓斗の声が、耳の奥で響いた。
あの夜。
コンビニのカゴがいっぱいになるくらい、渓斗は私の好きなものを次々と入れた。この部屋で泣きながら食べたベイクドチーズケーキ。
「……新菜?」
「あ、ごめん。……懐かしい。コーヒー淹れるね」
鼻の奥がツンとする。
私は、凌さんから逃げるようにキッチンへ向かう。時が過ぎてもまだ、渓斗に抱きしめられた温かさを思い出せてしまう。そんな自分を、凌さんに申し訳なく思う。
コーヒーを淹れることに意識を向けようと、缶に手を伸ばした。
けれど。
鮮明に溢れ出した渓斗の記憶を、止めることはできなかった――。
*
十年前。
二歳年上の渓斗と知り合ったのは、他大学との合同サークルだった。大学一年の花火大会をきっかけに、私たちは付き合い始めた。
黙っていると冷たそうに見えるほど整った顔は、近寄りがたい雰囲気があった。
付き合ってみれば、お笑いを見て爆笑したり、私の作ったごはんをニコニコと食べてくれたり。そんな彼の姿が、新鮮でうれしかった。
外で見る彼は相変わらずクールだったけれど、ふたりになった時の気の抜けた彼が好きだった。
お互い一人暮らしでも、べったりという感じではなかった。大学も違うし、大学院の入試や理系ならではの論文に、渓斗はいつも忙しそうだった。
転機は、付き合って一年になる頃。
彼と連絡の取れない日が続いた。彼の邪魔をしたくなかった私は、既読がつかなくても追いメッセージはしなかったし、会いたい夜も飲み込んだ。
でも、疲れた。
――冷められたのかもしれない……。
そう思った私は、メッセージで彼をファミレスに呼び出した。
「別れたい」
本心ではなかった。
ただ、ずるずると拒絶されるのは怖くて、自分から終わろうと思った。
「俺はいやだよ」
クールな彼の顔が、一瞬で崩れた。
「新菜。俺とずっと一緒にいてほしい」
彼の真剣なまなざしも、言葉も、胸に強く響いた。
それから私たちは、熱に浮かされたみたいだった。気づけば窓の外の空は白じむほどに、夢中で話して、泣いて、笑った。
氷が溶けて薄くなったコーヒーも、炭酸の抜けた甘ったるいメロンソーダも「もったいないよ」と笑って押し付け合いながら飲み干した。
私たちの結論は、あまりにも極端だった。
「一緒に住もう」
付き合って二年目の夏。
終わりかけた恋が、一生忘れられない恋に変わった。
私の部屋で同棲してからは、大学とアルバイト以外、渓斗と過ごした。狭い部屋で一緒にお笑いを見て、本を読み、私の作ったごはんを「美味しいね」と食べる。お互いの存在が生活のすべてになるような日々だった。
渓斗はそのまま大学院へ進み、私が三年生になった初夏。
教職を志望していた私は教育実習期間に入った。
指導担当の男性教師は、常に怒鳴っているような人だった。提出した指導案を目の前で机に叩きつけられたり、これだから実習生は嫌なんだ、と吐き捨てられた。他の先生たちはフォローを入れてくれていたけれど、私にはもう、やっていく自信がなくなってしまっていた。
ある日の帰り道。
職員室であったことがフラッシュバックして、涙が止まらなくなった。アパートの窓から明かりが漏れているのが見えたとき、胸が詰まった。
――どうしよう。こんな顔で部屋に入れない。
玄関の前でしばらく時間が過ぎるのを待っても、涙は止まりそうになかった。静かに玄関のドアを開けると「おかえり」と中から渓斗が出てきた。私の顔を見て、一瞬で心配げな表情になった。
「……どうした?」
「もう無理。辞める。向いてない。実習にも行きたくない」
そばに来た渓斗に泣き顔を見られたくない私は、顔を背けた。
「靴脱ぐの、ちょっと待って。新菜、コンビニ行こう。好きなもの、何でも買ってあげる」
渓斗は「新菜は何も持たなくていいから」と、私の肩から重いカバンを下ろしてくれた。「どうした、どうした」と私の涙を拭ってくれた。コンビニに入ると、あれもこれもと渓斗はカゴをいっぱいにした。
ふたりで部屋に帰ってきて、最初にベイクドチーズケーキを食べた。
「新菜、いま辞めちゃダメだよ。やりきって、その後どうしたいか一緒に考えよう?」
あのとき、もし渓斗がいなかったら、私は今と別の道を歩んでいたと思う。彼の言葉をきっかけに、私は志望先を中学校から高校へと変えた。
渓斗の温かさが身に沁みて、もう一度「頑張ろう」と思えた夜。
ずっと渓斗と一緒にいたい。
――切実に、そう願った。
*
渓斗と私は卒業のタイミングが一緒だった。
彼は大手企業から早々に内定をもらい、電気メーカーのエンジニアとして東京へ行くことになった。一方私は、大学時代を過ごした街と東京の教員採用試験を受けた。でも、東京の採用はもらえなかった。
「大丈夫だよ。メールだって、ビデオ通話だってあるんだし。新幹線で三時間の距離なんて、なんてことないよ。フレックスも使って会いに来るから」
そう言って、渓斗は落ち込む私を励ましてくれた。遠距離恋愛が始まる日には、こっそり用意していた腕時計をプレゼントしてくれた。
「新菜が泣いても、駆けつけられないから。俺が一緒にいると思って。本当は、指輪も考えたんだけど、それはもっと一人前になってからね。今はまだ……だから、それをつけていて」
初めてのクリスマスにサプライズでプレゼントしてくれた指輪に視線が落ちた。
――いつか、一生を誓える日が来るまで。
きっと大丈夫。私たちは未来を信じていた。
遠距離恋愛は思っていたより過酷だった。
時間も、お金も、お互いの努力なしには続かない。それでも渓斗はフレックスを使って、頻繁に会いに来てくれていた。
秋になり、彼が大きな開発の仕事を担当するようになってから、毎日のようにしていた電話の間隔も少しずつ空いていった。
「もっと一緒にいたい」
最初のころは、口にしていた言葉も飲み込むようになった。「すぐには無理だ」と、社会人の責任が頭をよぎる。
やっと互いの休みが合い、久しぶりに会うと渓斗はやつれているように見えた。仕事が大変なのではないかと聞いたけれど、「大丈夫」と私には何も話さなかった。渓斗は学生時代から、自分の研究や就職も、あまり話したがらないところがあった。
休日はあっという間に過ぎ、新幹線のホームまで見送りに来た。
「次は、年末まで会えないね」
仕方ないね、と新幹線に足を踏み入れた彼を見送る。振り返った渓斗が、私の腕を掴んで引き寄せた。弾みで私も勢いよく乗り込み、デッキで抱きしめられた。
「――――う」
渓斗の声が周りの音にかき消された。え、と顔を上げた。
「一緒に生きたい」
切羽詰まった目をしていた。
驚きすぎて、私は言葉に詰まった。追い打ちをかけるように発車のアナウンスが響いた。
「急に、ごめん」
私を抱きしめていた渓斗の腕から、ふっと力が抜けた。
「ううん、またね渓斗」
――私だって、一緒に行きたい。
喉まで出かかった言葉を飲み込んで、私は渓斗の手を離した。
目の前を加速していく新幹線を見送りながら、私は無意識に明日の授業のことを考えている。帰ってから、こうしてああしてと段取りしている自分に気づく。
そんな私に渓斗は、私より先に気づいていたのかもしれない。
年末。
久しぶりに会った渓斗の姿に私は固まった。
髪型も、髪色も変わっていた。
明るすぎない社会人の節度を持ったギリギリの髪色に、絶妙なラインで整えられた無造作なパーマは、とても洗練されていた。もともとおしゃれな人だけど、着ている服も私の知らないものだった。
「……え、ダメかな?」
「ううん、ちょっとびっくりしただけ」
微笑みながら渓斗が両手を伸ばした。いつも、何より先に渓斗は私を抱きしめた。
「会いたかった、新菜」
渓斗の匂いに包まれると、泣きたくなるほど安心した。
――大丈夫。……何も変わってない。
腕の力がふわりと緩み、胸に埋めていた顔を上げた。熱を帯びた彼の唇が重なる。いつもより長いキスに、そのままベッドに倒れ込んだ。
「そういえば、おみやげ。プリン買って来てたの忘れてた」
ベッドから、渓斗がテーブルの上に置いていた箱に初めて目を向けた。見慣れないロゴに、一気に胸がざわめく。いつものフルーツパーラーの箱じゃない。
「ここのプリン、美味しいんだよ」
心臓がギュッとした。
――誰と……?
戸惑いが伝わったのか、渓斗が眉を少し下げた。
「いつもの方が良かった?」
「あ、ううん。ありがとう」
「美味しいよ。新菜も好きだと思う」
保冷剤もたっぷり入れてもらって、かさばる箱を持って来てくれた。その優しさに「ありがとう」と素直に思いたいのに、どうしても悪い想像が止まらない。
――きっと、会社で……みんなで食べたんだよね……。
私は、ざわついた気持ちを抑えて、「美味しい」と食べた。
その夜。
渓斗の寝息が規則的になってから、そのお店を検索した。初めて知ったそのプリンは、おしゃれなカフェのものだった。
――違うと思いたい。
――考えすぎであってほしい。
渓斗の寝顔は学生時代と変わらないのに、髪型も、髪色も変わっていて泣きたくなった。
結局、私は何も聞けなかった。
学生の頃みたいに、熱に浮かされ、窓の外の空は白じむほどに、夢中で話して、泣いて、笑う力が、私たちにはなくなっていたのかもしれない。
一緒に過ごしたお正月から一カ月が過ぎた頃、渓斗からメッセージが来た。
「大切な話がしたい」
渓斗は私の部屋に来るのではなく、駅のコーヒーショップで会おうと。
ああ、ついに来たかと思った。
この間の渓斗の変わりように、私はどこかで覚悟をしていた。会うまでの数日間、「どうしたら、取り乱さないでいられるか」ばかりを考えた。
泣いて縋って、嫌われるのはいやだった。
約束の日。
待ち合わせよりも早く行くと、すでに渓斗は席についていた。いつものバッグも、フルーツパーラーの箱も持たない渓斗の姿に全てを察した。
「これからのことを考えたら、ぐるぐる頭の中でまとまらなくて、……つらいんだ」
やっぱり、と思った。
きっと、私とのこれからを考えたとき、渓斗にとって私はその程度だったのだ。別れを告げられた現実は、自分の中で十分すぎるほど反芻し、想像通りのものだった。
それでも、どうしても渓斗を失いたくなかった。だから、「別れたくない」と言う代わりに提案した。
「友だちに戻ろうか」
「えっ……」
戸惑う表情の渓斗を見て、駄目かと慌てて訂正する。
「ごめん、変なこと言って」
「ううん、……新菜がいいなら心強い」
渓斗は、「こんなことになってごめん」と何度も口にした。その度に私は渓斗の言葉を打ち消して「楽しい時間をありがとう」と笑顔まで見せられた。
そんな自分を、正しい姿だと思っていた。
月は、たとえ雨で見えなくても、恋しい人がそばにいなくとも、ひとりで見上げることに趣がある。そんな先人の教えを私は授業で話したばかりだったから……。
――取り乱して、「別れたくない」と言っていたら、何かが変わっていたのだろうか……。
*
ピー、とコーヒーメーカーが淹れ終わりを知らせた。
「……やっぱり、このチーズケーキだった?」
凌さんの声に、はっと我に返った。おそるおそる視線を上げると、凌さんと目が合った。
「私、もしかして話したことあった?」
声が、少し震えた。私を見た凌さんが、ぷっと吹き出した。
「覚えてないんだ、残念だなあ」
拗ねたように言っているけれど、楽しそうに笑っている。その穏やかな表情に安堵すると、出来たての香ばしいコーヒーの香りに気づいた。
「新菜が俺の前で初めて泣いた日。『彼がいなかったら一緒に働くこともできなかったんだなぁ』って思ったから、よく覚えてるんだよ」
渓斗の話を凌さんに、どこで話したのだろうと記憶を辿る。
「……テスト終わりのファミレス?」
「そう。あのとき新菜、最後は爆食いしたね」
ふふっと笑いながら、凌さんはサーバーからコーヒーを注ぐ。白い湯気がゆらゆらと立ち上る。
コーヒーを淹れ終わると凌さんがテーブルに運んでくれる。私は辛うじて段ボールに入れていないお皿に手を伸ばした。キッチンの窓から差し込む日差しが、左手の薬指に反射してきらりと輝いた。
「あ、新菜。お皿いらないんじゃない? 包みに『そのまま食べられる』って書いてあるし」
「そっか。じゃあ、そのまま食べようか」
凌さんとソファに並んで座った。
いただきます、とふたりでコーヒーを口に運んだ。
疲れが解け、頭が冴えるような深い味わいにふたりで短く息をついた。
「あのころの新菜、どんどん痩せていくから心配だったんだよ」
隣に座る凌さんの声は柔らかい。
「たしかに、人生で一番痩せたかも」
新卒の一年目。私は凌さんの受け持つクラスの副担任になった。当時はまだ「凌先生」と呼んでいた。笑顔が爽やかで、いつも穏やか。生徒たちからの相談にも時間を惜しまない。そんな姿は、頼れる先輩だった。
社会人二年目。
渓斗と別れた直後、初めてクラス担任になった。毎日が目まぐるしく過ぎていき、その忙しさに渓斗のことを忘れられたのはむしろよかった。けれどそんな私は、凌さんの目には危うく映っていたらしい。
あまりにやつれていく姿を心配した凌さんに、「悩みがあるなら聞くよ」と声をかけられる機会が増えた。そんな時間が続いた秋。ついに私は壊れた。
別れて半年が過ぎた頃、不意にかかってきた渓斗からの電話で――。
*
「異動することになったんだ」
久しぶりの電話だった。渓斗の声は思いのほか明るかった。
「転勤?」
「ううん、部署ごと場所が変わることになって。同じ都内なんだけど、新しいところに部屋を借りようと……」
渓斗がこんな風に仕事の話をするのは珍しかった。
今の仕事のことや、新しい勤務地について明るく話し続ける声が、私の胸を冷やしていく。話題が同じチームの先輩に変わったとき、全身がざわりとした。
もしこのまま、渓斗から「新しい誰か」の話を聞かされたら、今度こそ私は壊れてしまう。笑顔で別れられたのに、取り乱さないでいられる自信がない。
でも。
――友だちって、そういう話も普通に聞かなくちゃいけないのか……。
自分で投げたブーメランが、勢いよく自分に返ってきた。
「友だちになろう」と言ったのは私だ。
「そうしてくれたら心強い」と、渓斗は言った。
渓斗が別れを告げたとき、既に私との恋愛に区切りがついていたのかもしれない。
「……新菜、会えたりしない?」
「えっ」
時が止まった。心臓の鼓動が耳元でうるさく響く。
「…………それは、どういう」
震える声は渓斗には届かなかったみたいで、変な間ができた。
――まだ、渓斗のことが好きだ……。
私にとって渓斗の心変わりは突然で、別れの理由も消化しきれていなかった。
でもあのとき私は、知りたくないと思った。
別れる前も別れてからも、自分の中で芽生えてしまった彼への疑いに息が詰まりそうになった。そのたびに自分の中で折り合いをつけた。
私が東京に行くことができていれば、こんなことにはならなかったと。
積み重ねてきた五年の月日も、電話越しの渓斗の声も、別れ際に湧いた疑念を一瞬で消してしまうほどの威力があった。
――会いたい。
喉元までせりあがってきた言葉を、こぼれ落ちる寸前で私は無理やり変えた。
「……会いたかったよ」
電話の向こうから、ヒュッと彼が息をのむのが聞こえた。
ああ……。いま渓斗がどんな表情をしているのか、手に取るように分かってしまう。きっと、あのときみたいに頬を強張らせている。
「私は渓斗が苦しいことも、ちゃんと聞きたかった。仕事の話なんて、私じゃぜんぜん役に立たなかったかもしれないけど、誰かじゃなくて私に、話して欲しかった」
声が、荒くなった。詰るような口調に、もう引き返せないと悟った。ずっと私に刺さったままの棘を、弱さから目を反らし続けていたそれを、前へ進むために言葉にする。
「誰か、……いたんだよね?」
「違う。そうじゃない」
渓斗はすぐに否定した。その声は強かった。
「確かに、新菜と別れる少し前から残業続きで頭がおかしくなってる時があったよ。それで、いろいろ話を聞いてもらったりしてる人はいた。でも、それは産業医とも話すようなことで、特別なことじゃなかった」
「どうして、……どうして私じゃないの? 私には、渓斗以上に話を聞いてほしい人なんていなかった。ずっと一番がよかった……」
涙が混じった。泣き虫な私は、学生のころから成長できていない。
「それは、俺が弱かったからだよ。新菜に知られたくなかった。不器用なとこも、弱いとこも……別れようって、新菜からまた言われたら、俺は……」
ガツンと頭を殴られたような衝撃だった。
何年も前に切り出した別れが、彼を心の奥底で苦しめていたことに初めて気づいた。自己嫌悪の波が一気に押し寄せる。こんなに大切な人を、私はずっと傷つけていた。
――このままじゃ、ふたりとも駄目になる……。
「……渓斗。ごめんね。友だちになろうって私が言い出したのに、……もう無理みたい」
「いや、俺が悪いから。でも、この半年すごく後悔して、勝手なのは分かってる。けど、やっぱり俺は新菜ともう一度――」
私だって渓斗とやり直せるならやり直したい。なのに心の中で、何かが強くブレーキをかける。
あのとき、私がもっと強ければ。
あの夜、私が彼に聞くことができていたら。
けれど、一度沸き上がった疑いは、私の中で何度も何度もなぞったせいで、どうしようもなく痛い。
「きっと、渓斗には…………もっと、いい人がいるよ」
自分からそう言って電話を切ったあと、どう過ごしたのか覚えていない。
渓斗との電話から一週間が過ぎた。
金曜日の二十一時。二学期の中間テストの最終日。採点で遅くなった私は凌先生に誘われ、ファミレスに来た。
凌先生の前で、はあっと大きなため息を吐いた。
「こんなことになるなら、学生の時に別れた方がよかったです」
そこは大学二年の時、私が渓斗に別れ話をしたファミレスの系列店だった。
凌先生に「仕事で悩みがあるんじゃないか」と真剣な目で聞かれた末に、初めて渓斗のことを話してしまった。
つら過ぎて共通の友人にも話せない話が、なぜか凌先生には話しやすかった。
「でもさあ、危機を乗り越えた後の付き合いは楽しかったんでしょう?」
アイスコーヒーを一気飲みに近い感じで凌先生が飲んだ。その豪快な飲みっぷりに、思わず吹き出した。「メチャクチャ喉が渇いてたからさ」と察した凌先生が、言い訳しながら笑った。
「そうですね。その後の、いや、私が別れ話する前も楽しかったですけど……。五年間、幸せ過ぎて壊れました。あのとき別れていたらダメージは今よりずっと少なかったという意味です」
言い切って、私もグビッとジンジャーエールを煽った。炭酸が喉を突き、鼻の奥がツンとした。
「今からでも、戻れるんじゃないの? 状況からして、彼にすれば相当勇気がいることだったと思うよ」
俺にはできないな、とつぶやくように凌先生は言った。
「そうですよね。自分の不器用さも、柔軟性に欠けているところも、本当に嫌になります」
ドラマだったら感動的に再会して、「ごめんね」と抱き合って、別れ話なんてなかったような日々を過ごせたのかもしれない。
でも、どうしてもできなかった。
「彼が激務で、どんどん痩せていくのは見ていて分かっていたんです。私が一度別れ話をしたことで、いろんなことを言えなくなってしまったことも理解したんです。……でも」
まだグラスに半分以上残っているジンジャーエールを一気に飲み干した。「おお」っと、わずかに凌先生の目が見開いた。
「やっぱり誰かいた気がして。違うと彼は言ってましたけど。勘でしかないですけどね」
学生時代だったら、聞けたかもしれないことが、聞けなくなっていることに致命的だなと思った。
「……俺、思うんだけどさ、その苦しかった最後のことは忘れちゃっていいんじゃないのかなあ。いいところだけ覚えておいてもいいじゃん」
「いや、そうすると、やっぱり戻ればよかったって後悔のループに……」
堪えきれなくなった私は、顔を両手で覆いテーブルに突っ伏してしまった。何だか、高校生を通り越して子どもみたいだ。
「え、これ、アルコール入ってないよね」
頭の上から声がした。
「……入ってません。すみません。……先週の電話からほぼ眠れてなくて、試験突入だったもので。だからです」
うんうんと頷いている凌先生の声がする。
「結婚って、一番好きな人とはできないんですかね」
つい零れた言葉に、はっと顔を上げた。
「すみません、私、何を言ってるんでしょうね」
「ん? ぜんぜん。俺は、一番好きな人と一緒に生きたいと思うよ」
凌先生の声が、店内の喧騒を突き抜けて耳の奥に届いた。その瞬間、私の思考が完全に停止する。
――一緒に生きたい。
新幹線で思い詰めたような渓斗の顔が鮮明に浮かんだ。
あのとき彼は、その前に何かを言った。
私はその言葉を掬えなかった。
だから、渓斗の言葉を理解せずに見送ってしまった。その間違いに今さら気づいたところで、もう遅い。途端に目の奥が熱くなってくる。
「……新菜先生? 大丈夫?」
凌先生の心配そうな声に、すでに自分が泣いていることに気づく。
ジンジャーエールの泡が弾けるみたいに、喉の奥から嗚咽が漏れそうだった。
「……すみません」
凌先生は落ち着くまで、ずっと待っていてくれた。ただただ、静かに――。
コトンとカップを置く音がした。
「新菜、食べよう?」
凌さんと、三角のチーズケーキのフィルムをぺりりと剝がし始めた。尖った三角形の先端をひと口かじってみる。
柔らかな生地が口の中で、ふわっと溶けていった。
「美味しい」
「うん、美味しい。復活って書いてあるけど、前と同じ味?」
あれ? と、少しだけ違和感を覚えた。
もうひと口、かじってみた。
「美味しいけど、何か違う気がする」
そうなんだ、と凌さんもかじる。私は、まだ剥がしていないフィルムについた原材料を覗いてみる。
「もう少し、レモンの味がした気がするの」
レモン果汁の表記はあるけど、爽やかな酸味が足りない気がした。凌さんも自分のフィルムについている表示を見ている。
「書いてあるね」
もう一度かじってみても、やっぱりあの時とは違う気がする。
「やっぱり、レモンが弱いのかな、それとも私の味覚が変わったのか」
「それはあるかも。味覚って変わるよね。このケーキ、新菜ならもっと美味しく作れそうじゃない?」
確かに。
レモンを効かせた、まんまるのベイクドチーズケーキもいいかもしれない。
「今度作ってくれない? もう少しレモンの香りがするのも食べてみたい」
「いいね、新しいオーブンで作ってみようか」
私の言葉に、凌さんは「楽しみだな」とうれしそうに目を細めた。
「私、なんで凌さんにチーズケーキの話をしたんだろう」
「それは、俺が追加でマロンパフェを頼んで」
「うん、あのとき、『甘いものは落ちつくよ』って頼んでくれたの覚えてる」
「食べた後に、新菜が『もっと甘いもの食べていいですか』って言い出して、デザートのメニュー表を広げたら泣き出したんだよ。実習の時の話をしながら、『ベイクドチーズケーキ』って」
マジか。
「最低だ、私。ごめんなさい」
「ううん、落ち込み方が半端じゃなかったから。それに、俺がしつこく新菜を誘ったわけだし。もう、どうにかしないとって思った」
あの夜、不覚にも凌さんに素を晒してしまい、翌日、恥ずかしさに穴があったら……という気持ちになった。
「引いたよね」
「いや、新菜って、生徒たちの話と俺のイメージがずっと合わなかったんだよ」
「え、そうだったの? どんなところ?」
「生徒がいつも、『結構攻めた古典の授業やってる』って言ってたから」
まあ、それは否定できないかも。
「いつの時代も男女って、ドロドロしてるの」
「ふーん、大人だねぇ」
揶揄うように凌さんが笑う。
その笑顔は、太陽のように明るくて温かい。何でも話せてしまう包容力が、凌さんに一番惹かれたところだと思う。
「新菜、明日の引っ越しってスタート九時だっけ」
「うん。朝一番だって。もう少し早く来るかもしれないって」
「そっか。じゃ今日は早く寝よう。明日は区役所にも行かないとだし、忙しくなるね」
「うん、ありがとう。凌さん、疲れてない?」
「ぜんぜん問題ない」
きっぱりと言い切り、チーズケーキの最後のひと口を食べた。凌さんが、ティッシュに手を伸ばす。
「あれ?」
テーブルの上で、ぱっちりとした瞳のうさぎが私たちを見ていた。無垢な目と凌さんの目がパチッと合う。
凌さんが来る前。
五年越しに、それは本領を発揮し始めていた。
「新菜の大事なインテリア、いいの?」
「うん。箱も日焼けしてるし。新しいの買えばいいし」
「そっか。そんなにうさぎが好きなら、マンションで飼えるよ」
「それもいいかも」
箱にプリントされたうさぎが、新居のリビングをぴょんと跳ねるのを想像した。「悪くないね」とふたりで微笑む。
少しだけ胸が痛む。
私はうさぎが取り立てて好きなんじゃない。ちょうど手元にあった高級ティッシュの高さが文庫本を隠すのに適していただけで。優しい凌さんには心が痛いけど、それはこれからいくらでも温かい思い出を作っていける。
私の方が凌さんを好きになったのだから……。
二年前。
他校へ異動してしまった凌さんに会いたくなった。
ドキドキしながら通話ボタンを押すと、ワンコールも鳴らないうちに、「今、かけようとしてた」って凌さんが出た。驚いた声に、もしかしたらこの人となら上手くいくかもしれない、そんな予感がした。
「新菜、今日で最後だと思ったら寂しくなってない?」
「まあ、少しだけ。でも、新しいマンションの方が楽しみ」
私も最後のひとかけを食べて、コーヒーをこくりと飲み干した。部屋をぐるりと見渡す。渓斗と過ごした五年は、全部ここにある。
「……新菜って鈍っ、じゃなくて、天然なんだね、やっぱり」
凌さんの声が少しだけうわずった。
「え、やっぱり? 自分では結構、敏感だと思うけど」
「仕事ではね。普段はぜんぜん。俺、ずいぶん前から、新菜にアピールしてたけど気づいてなかったでしょ」
「そんな感じはしなかったよ。異動してから、電話かけたの私の方からだったし」
「それは……」
珍しく凌さんが言い淀む。
「弱ってるところに、付けこむみたいにすっと入るのは嫌だったんだよ。俺、自分でも引くぐらい嫉妬するから」
「え、そう? それも感じたことないんだけど」
クエスチョンマークが頭の中に舞う。食べ終わったフィルムを畳みながら、はっとした。
「……このチーズケーキ?」
「さっきコンビニで見つけたとき、絶対一緒に食べたいって思って。昼ごはんを買うつもりで入ったのに、気づいたらこれだけ持ってレジに並んでた」
ぎゅっと、胸をつかまれた。
完全に今、凌さんの新しい面を見た気がする。
「それって、上書き、的な?」
私が凌さんを覗き込むと、追及をかわすように凌さんはソファから立ち上がってキッチンへ逃げてしまう。その背中をすぐに追いかけた。
「凌さん、私もコーヒーおかわり! 飲み終わったら、どこか美味しいもの食べにいこう?」
キッチンで耳まで赤くしている凌さんに、私は後ろから思いきり抱きついた。
*
この部屋で過ごす最後の夜。
凌さんはベッドに入ると、すぐ眠りについた。ここのところ、彼はまともに休んでいない。先週の休みに一足早く新居への引っ越しを済ませた。今日も休日出勤だった。そして明日の私の引っ越しも「ぜんぜん大丈夫だよ」と手伝ってくれる。
私はそっとベッドを抜け出して、カーテンをわずかに開けた。
見上げた空には、渓斗と一緒に見た満月が浮かんでいた――。
十年前、花火大会の帰り道。
夜気に花火の余韻が混じるなか、道幅が広くなった場所で「少し夜景を見ようか」と渓斗が足を止めた。
濃紺の空に浮かぶ月を、まっすぐに見つめたまま彼が言った。
「月がきれいだね」
「最近、ずっときれいですよね」
私はそう答えて、彼を見た。いつも表情を変えない彼が、耐えきれなくなったように、私をぎゅっと抱き寄せた。
「……付き合ってくれませんか」
喧騒の中に、彼の声が溶けていった。それでも私は、はっきりと掬い上げた。
「はい」
――その瞬間、私の世界のほとんどが渓斗になった。
一緒に暮らし始めて、しばらく経ったころ。ふたりで本を読んでいるとき、不意に渓斗が言った。
「新菜が本好きでよかった。じゃなきゃ伝わらなかったじゃん」
「ん? なんのこと?」
「俺が花火大会の帰りに、月がきれいだねって言ったら、『最近ずっと綺麗ですよね』って新菜が言ったから……」
「え?」
「え?」
ふたりで顔を見合わせた。
渓斗の意図することが分からず、じっと見つめた。なぜか渓斗の顔がみるみるうちに赤くなっていく。
「……もしかして、新菜は違ってたの?」
渓斗の問いの意味を考える。
私には何の意図もなかった。花火大会を楽しみにしていて、前の晩も、その前も夜空を見上げていたから。
頭の中で「月が綺麗……」と繰り返しているうちに、やっと分かった。
「もしかして、渓斗。漱石の?」
「マジか」
渓斗が頭を抱えている。それがおかしくて私は吹き出した。顔を上げた渓斗が口を尖らせる。
「国文科なんだから伝わると思うでしょ」
「ごめん、理系の人からそんな言葉が出ると思ってなかったから。それに、あのとき私すごく緊張してたし。……渓斗って、ロマンチストだねっ!」
揶揄うように笑ったら、「新菜は天然すぎるんだよ!」とくすぐってきた。じゃれ合ううちにテーブルの上にあるグラスが「カタンッ」と音を立てた。
「「あ」」
ふたりとも固まった。私は慌ててティッシュを引き出す。
「早く、渓斗。本が濡れる」
「やばい、コーラ漬けになる」
バタバタと床にも、テーブルにも溢れたコーラを拭う。小さな炭酸が弾けていく。すっかり濡れてしまった文庫本は、瀕死の状態だ。「あーあ」と顔を見合わせ、ふと思った。
「え、ちょっと待って。そしたら私、めちゃくちゃ渓斗のこと好きって言ってたってこと?」
「違うの?」
「違くないけど」
何にも考えないで笑い合えた日々。
茶色く残ったシミと波打つページの文庫本に、私たちの原点を思い出す。
かみ合わないふたりが奇跡的に作った温かな思い出。私の中にあると思えば、もう痛くない。
背後からシーツの擦れる音がした。
「……新菜、眠れない?」
凌さんの少し眠たげな声がした。
「ごめん。起こしちゃったかな」
「ううん」
私の居場所を示すように、「おいで」と凌さんが腕を広げた。吸い込まれるように凌さんの腕の中へ滑り込むと、心地よい体温に包まれた。
「寂しくなった?」
月明かりに、気遣うような凌さんの顔が見える。
「どうして分かるの?」
「なんでだろう。好きだからかな」
胸がきゅんっと音を立てた。
もうひとつ。
凌さんの好きなところを見つけた。
まっすぐな声も好き。
優しい腕の中で、私は応えるようにキスをした。



