無事指定校推薦の校内選考も通って、これでやっと漫画に専念できると思ったところで立て続けにトラブルが起きた。
一つ、家に漫画の道具を持ち帰っていることが親にばれたこと。ごちゃごちゃと文句を言われ、家では漫画が描けなくなった。
二つ、校内選考が終わったのだからと宙が親からダブルスクールを強要されたこと。大学在学中に税理士試験に合格するためには少しでも早くから勉強を始めるのが大事らしく、親が勝手に申し込んだらしい。
「クソババアふざけんなよ。あー、本当に世界滅ばねえかな」
「同感。ノストラダムスの予言、実は十八年ずれてましたとかだったらいいのに」
三つ、エマが転校してしまうこと。青天の霹靂だった。アメリカにいるお祖母さんの介護が必要になって、一家でアメリカに引っ越すとのことらしい。
「ごめんね。なかなか言い出せなくて。美和っち、大事な時期だったから、推薦決まるまでは黙っておこうと思って」
エマは色々言っていたけれど、私は泣いてしまってろくに何も言えなかった。
「文化祭、私の分まで頑張って。絶対成功させてね」
「うん、約束する」
私はエマから漫研の部長を引き継いだ。
私の目標はただ一つ。文化祭までに、宙と一緒に漫画を完成させること。それだけ考えていれば、他のことは全部忘れられた。仲が良かったエマがいなくなって女子の間で浮いていることも、高校を卒業したら宙と離れ離れになることも。
どうせ家では作業ができないので、部室でいつもエマが使っていたパソコンと液タブを使ってデジタルで描くことにした。
「これからはデジタルの時代っしょ!」
趣味でiPadにタッチペンで絵を描くことはあったけれど、液タブはそれよりはるかに使いやすかった。大人になって自由になったら、絶対に買いたい。その時までずっと宙と一緒にいられたら嬉しい。
世界滅べ、と言いながらも文化祭までは待ってほしい。そんな思いを抱えながら二学期を迎えた。学校全体が文化祭に向けて動き出す。私も漫画の完成に向けてラストスパートをかけていた。
でも、漫画のことだけをやっていればいいというわけにはいかなかった。展示に向けての雑務もあるし、クラスでやるお化け屋敷も完全にノータッチというのは顰蹙だ。
「準備、みんな必ず週二日は出てね! ダメな場合は代役立ててよ」
文化祭準備期間に入ると、クラス責任者の子がルールを定めた。家に液タブはないので学校にいる間しか作業ができず、まだ終わっていない私は焦っていた。
「代役OKなら美和の分のノルマは俺がやればよくね? もうペン入れまで終わってるんだから、今更俺と話し合うこともねえだろ」
クラスの分のノルマと、本来は部長がやる雑務。そのすべてを宙が代わりにやってくれた。宙の「やっぱ美和うまいわ」の声を聴きながら漫画を描く時間が好きだったけれど、今は完成が最優先だ。原稿が完成したら、真っ先に宙に見せる。そしてそれを印刷したらコピー本の製本作業だけ一緒にやれたらそれでいい。離れていても、私たちは二人で色壁ホセだ。
文化祭四日前、比較的早い時間帯に原稿が完成した。あとは保存して印刷するだけだ。宙はクラスの方にいるから、印刷までやってから連絡すればいいかなと思った。保存のアイコンをクリックする。反応がない。不思議に思ってもう一度クリックしたら、エラーが出てパソコンが固まった。
全身の血の気が引いた。嘘だ。こんなのってない。最後にバックアップとったのいつだっけ。震える手でスマホをとって、「パソコン 動かない」で検索する。検索結果がずらりと並ぶが目が滑って文字が頭に入って来ない。「修理まで十日」「データ復旧三万円から」などの広告ばかりが目に入ってくる。こういう時って再起動するんだっけ。あれ、電源落としていいんだっけ。最後に保存かけたのいつだっけ。
頭がパニックになる。息ができない。どうしよう。私だけの作品じゃないのに。エマに絶対成功させると約束した文化祭なのに。部室には誰もいない。みんな自分のクラスの方に行っている。
どんな検索ワードを入れればいいかわからないブラウザを閉じる。
「たすけて」
宙にメッセージを送った。
既読はすぐについた。でも、返信がなくてずっと不安だった。部室の外で足音が聞こえたかと思ったら、すぐにドアが開いた。
「どうした?」
宙の顔を見た瞬間、感情があふれ出した。
「そらぁ」
私は宙に縋り付いて泣いた。
「パソコン、動かない。データ、消えたかも。どうしよう」
「あー、落ち着け。俺、風邪気味だからあんまくっつかないほうがいいぞ」
「ずっと二人で文化祭のために頑張ってきたのに、消えちゃった。半年間ずっと頑張ってきたの、無駄になっちゃった。ごめんなさい」
宙のシャツに顔を押し付けたままわんわん泣いた。
「ちょっ、泣くなって。俺が泣かしてるみたいだから。大丈夫だから落ち着け」
「だって、文化祭絶対成功させるって約束したのに。私、昔からどんくさくてこうやって人に迷惑ばっかりかけてて、ほんと最悪」
宙の胸にすがりついて泣き続けた。宙の大きな手が私の背中をさする。
「とりあえず、いったん落ち着いて。データ消えたって決まったわけじゃないし、少なくとも一週間前のバックアップデータは俺のスマホに送ってるはずだから。ペン入れまでは終わってるよな。最悪できたとこまででいいから出そう。一週間分の作業消えたら確かに悲しいかもだけどさ」
「でも、せっかく宙が面白い話つくってくれたのに、未完成のまま出しちゃったら台無しじゃん。私は絵描くくらいしかとりえないのに、それすらちゃんとできなかったら、もう役立たずすぎて私なんのために生きてるんだろうって」
「まあ、文化祭に間に合わなかったらネットにでも上げればいいだろ。それに、新歓で描いたやつはちゃんと完成してるじゃん。そっちも展示するわけだから、ちゃんと俺の作品、美和のおかげで日の目を見ることになるしな」
私を言葉で慰めている間、宙はずっと私の背中をさすってくれていた。
「大体美和が役立たずだったら去年までの俺はどうなっちゃうのって話で。美和は去年と一昨年もちゃんとイラスト集出してたし、ちゃんと漫研に必要な存在だから安心しろって」
宙が私の髪をぐしゃっと撫でた。
「あとさ、俺は美和とかエマほど行事に思い入れがあったわけじゃなくて、毎日退屈でつまんない日常ぶっ壊してえなって思ってて、別に何でもよかったんだよ。それに美和が付き合ってくれて毎日楽しかっただけで充分っていうか……ほらよく言うだろ、結果より過程が大事って。データ消えても楽しかった思い出まではなくならない、って自分で言っててクサいな」
「そんなことない」
宙の言葉が嬉しかった。その瞬間私は確かに宙の言葉に救われた。宙の体に腕を回して抱き着いた。しばらくそのまま泣いた。
「まあ、もっとクサい台詞漫画にぶちこみまくってるから今更か。つーか、あんまり抱きつくと風邪うつるぞ」
「うん、ごめん」
少し落ち着いたので離れた。宙の制服の胸元には私の涙の痕がついていた。宙に椅子に座るように促され、パックのオレンジジュースをポケットから出して渡された。担任からの差し入れらしい。オレンジジュースを一口飲んだ。去年の文化祭で体調を崩して、宙に水をもらったことを思い出す。
「去年もこんなことあったよね」
「あー、懐かしいな。つーか、お前あの頃俺のことちょっと嫌いだったろ」
宙が苦笑いした。私もつられて少しだけ笑った。
「だって、あの頃お姉ちゃんストーカーの弟以上の情報なかったし」
「よし。落ち着いたな。じゃあ、情報の先生探してくるから座って休んどけ。それまでパソコン触んなよ。またなんかあったら連絡して」
そう言って勢いよく部室を飛び出していった。大丈夫、宙の言葉を頭の中で反芻していた。
しばらくして、宙が小走りで部室に戻ってきた。私たちの担当の情報の先生ではない、面識のない若い先生が一緒だった。情報の先生が休みだったから、数学科準備室に行ってパソコンに一番詳しい先生に代わりに来てもらったとのことだ。
先生がパソコンをいじっているのを固唾をのんで見守った。宙はその間時折咳き込んでいた。しばらくして、パソコンが動き始めた。
「一応直りましたよ。ちょっと古いパソコンだったからファンが……」
先生の説明は難しくてわからなかった。でも、結論としてデータはほぼ無事だった。今日の分の作業が飛んだのはショックだけれど、最悪の事態に比べれば全然マシだ。今日中にリカバリーできる。急いでバックアップを取り、無事だったページはすべて印刷した。
「宙、ありがと」
「気にすんな」
「文化祭終わったら、なんかお礼しなきゃだね」
「あー、じゃあ一個お願いするかも。文化祭終わったら言う」
「うん、何でもいいよ」
お菓子やジュースだけでなく、私の少ないお小遣いで買えるものなら何でもプレゼントするつもりだった。
パソコントラブルは唯一にして最大のアクシデントで、その後は特に問題なく原稿は完成した。まだギリギリ修正が間に合う段階で宙にチェックしてもらう。
「最後のコマ、すっげえいいじゃん。俺の脳内イメージそのまんま」
「うん、一回消えちゃって塗りなおしたとこなんだけど、直した後の方が綺麗になったかも」
「じゃあ結果オーライってことで」
文化祭当日、最低限のクラスのシフトをこなしたあとは宙と二人で漫研のブースに来たお客さんの対応をしていた。大盛況というほどではないが、去年に比べたら上出来だ。エマが目標としていた「感想ノートをいっぱいにする」ほどではなかったれど、例年よりたくさんの感想が集まった。『異世界アンゴルモア』『続・異世界アンゴルモア』が面白かったと感想を書いてくれたお客さんもいた。一日目の終わり、二人で喜び合った。
「文化祭終わるまでは世界滅ばないでほしいよね」
なんて言って笑い合った。
二日目、午前中は一緒に漫研にいたけれど、宙は午後からクラスの方に行った。二日目にも私たちの作品を面白いと言ってくれた人がいた。一秒でも早く三年C組まで走りたかったけれど、終わるまで我慢した。文化祭終了と同時に、感想ノートを持ってクラスのお化け屋敷まで走った。でも、宙の姿が見えなかった。
「岩崎なら具合悪いって早退したよ」
親切な子が教えてくれた。準備期間に風邪気味だと言っていたこと、昨日も時々咳をしていたことを思い出した。もしかして、私がデータ消失騒動なんて起こしたから、体に負担をかけてしまったのかもしれない。
「大丈夫? 具合悪かったのに負担かけてごめんなさい」
メッセージを送ると、比較的すぐ返信が来た。
「いや、あれは全然平気。どっちかっていうと買い出し何度も走らせやがったクラス責任者のやつらが悪い。あいつら滅べ」
滅べ、のあとに爆発のスタンプも送られてきた。冗談めかした文体だったが、体調はあまり芳しくなかったようで、片付けの日も打ち上げの日も宙は休んだ。心配でメッセージを送ったけれど、なかなか既読がつかなかった。
私のせいだ。罪悪感は日に日に膨れ上がっていった。
水曜日になってようやく宙は登校してきたが、午前中は移動教室と選択授業が多くてなかなか話せなかった。
「美和、部室行こうぜ」
昼休みに入るや否や、宙の方から誘われた。私は小走りで宙の後をついていった。
「体、大丈夫?」
「うん。感想ノートの写真サンキュー」
廊下で話したのはこれくらいだった。部室には誰もいない。静かで居心地がいい。来週の追いコンが終われば正式に三年生は引退となり、気軽に使うこともできなくなるけれど。
「やっぱ静かでいいな。教室じゃ落ち着いて話せねえもん。で、文化祭前に言ってたお願いのことだけどさ」
「あ、ごめん。なんか奢ろうと思ったんだけど、今日お金持ってきてなくて」
約束を忘れていたわけではない。ただ、宙が心配でそれどころではなかった。
「いいよ、美和の耳があれば十分」
私は首を傾げた。
「色々あったけど、楽しかったしこれからも色壁ホセで何かやろうぜ。っていっても、俺ダブスクあるし次の案何も思いついてないから気長にやる感じで。締め切りない方が美和も気楽にやれるだろ」
それはまさしく、どこかのタイミングで私からお願いしようと思っていたことだった。うぬぼれてもいいのだろうか。
「これからもって、卒業しても?」
「どっちかが死ぬまでか、世界が滅ぶまで」
その言葉を聞いた瞬間、涙があふれ出した。ぼやけ始めた宙の顔を見る。宙の首に腕を回して抱き着いた。
「おいおい、泣くなって。女子泣かせるの外聞悪いだろ。あと、俺一応病み上がりだから移っても知らねーぞ」
「大好き」
私の呟いた言葉が宙に聞こえていたかはわからない。
「これからは宙に迷惑かけないように頑張る。絵もめっちゃ練習する」
続きの言葉はしゃくりあげながらも宙に聞こえるように声を絞り出した。
「無理しなくてもいいよ。絵うまいから必要だって言ったら利用してるみたいだろ」
「でも私、絵描くくらいしかできないよ」
「いいよ、美和はそのままで」
すっと息を吸って、優しく力強い声で宙が言った。
「いてくれるだけでいい」
ますます涙が止まらなくなった。私の存在を全部肯定してくれた。宙がいたからまだこの世界で生きていたいと思えた。宙を愛しいと思った。
トクン、と自分の心臓の音が変わったように感じた。ここでようやく、私が反射的に発した「大好き」が友愛ではなく恋であることに気づいた。いつからかはわからない。宙の物語の才能ではなく、宙という人間のすべてに惚れていた。
でも、これからもずっと一緒にいるためにはその感情は隠さなくてはならない。惚れないって約束をしたから。
「宙が二次元だったら絶対惚れてたよ」
顔を上げて笑って、精一杯の強がりを告げる。
「おー、三次元の俺も適度に推してくれ」
既に最推しだよ、馬鹿。そう心の中で呟いた。
一つ、家に漫画の道具を持ち帰っていることが親にばれたこと。ごちゃごちゃと文句を言われ、家では漫画が描けなくなった。
二つ、校内選考が終わったのだからと宙が親からダブルスクールを強要されたこと。大学在学中に税理士試験に合格するためには少しでも早くから勉強を始めるのが大事らしく、親が勝手に申し込んだらしい。
「クソババアふざけんなよ。あー、本当に世界滅ばねえかな」
「同感。ノストラダムスの予言、実は十八年ずれてましたとかだったらいいのに」
三つ、エマが転校してしまうこと。青天の霹靂だった。アメリカにいるお祖母さんの介護が必要になって、一家でアメリカに引っ越すとのことらしい。
「ごめんね。なかなか言い出せなくて。美和っち、大事な時期だったから、推薦決まるまでは黙っておこうと思って」
エマは色々言っていたけれど、私は泣いてしまってろくに何も言えなかった。
「文化祭、私の分まで頑張って。絶対成功させてね」
「うん、約束する」
私はエマから漫研の部長を引き継いだ。
私の目標はただ一つ。文化祭までに、宙と一緒に漫画を完成させること。それだけ考えていれば、他のことは全部忘れられた。仲が良かったエマがいなくなって女子の間で浮いていることも、高校を卒業したら宙と離れ離れになることも。
どうせ家では作業ができないので、部室でいつもエマが使っていたパソコンと液タブを使ってデジタルで描くことにした。
「これからはデジタルの時代っしょ!」
趣味でiPadにタッチペンで絵を描くことはあったけれど、液タブはそれよりはるかに使いやすかった。大人になって自由になったら、絶対に買いたい。その時までずっと宙と一緒にいられたら嬉しい。
世界滅べ、と言いながらも文化祭までは待ってほしい。そんな思いを抱えながら二学期を迎えた。学校全体が文化祭に向けて動き出す。私も漫画の完成に向けてラストスパートをかけていた。
でも、漫画のことだけをやっていればいいというわけにはいかなかった。展示に向けての雑務もあるし、クラスでやるお化け屋敷も完全にノータッチというのは顰蹙だ。
「準備、みんな必ず週二日は出てね! ダメな場合は代役立ててよ」
文化祭準備期間に入ると、クラス責任者の子がルールを定めた。家に液タブはないので学校にいる間しか作業ができず、まだ終わっていない私は焦っていた。
「代役OKなら美和の分のノルマは俺がやればよくね? もうペン入れまで終わってるんだから、今更俺と話し合うこともねえだろ」
クラスの分のノルマと、本来は部長がやる雑務。そのすべてを宙が代わりにやってくれた。宙の「やっぱ美和うまいわ」の声を聴きながら漫画を描く時間が好きだったけれど、今は完成が最優先だ。原稿が完成したら、真っ先に宙に見せる。そしてそれを印刷したらコピー本の製本作業だけ一緒にやれたらそれでいい。離れていても、私たちは二人で色壁ホセだ。
文化祭四日前、比較的早い時間帯に原稿が完成した。あとは保存して印刷するだけだ。宙はクラスの方にいるから、印刷までやってから連絡すればいいかなと思った。保存のアイコンをクリックする。反応がない。不思議に思ってもう一度クリックしたら、エラーが出てパソコンが固まった。
全身の血の気が引いた。嘘だ。こんなのってない。最後にバックアップとったのいつだっけ。震える手でスマホをとって、「パソコン 動かない」で検索する。検索結果がずらりと並ぶが目が滑って文字が頭に入って来ない。「修理まで十日」「データ復旧三万円から」などの広告ばかりが目に入ってくる。こういう時って再起動するんだっけ。あれ、電源落としていいんだっけ。最後に保存かけたのいつだっけ。
頭がパニックになる。息ができない。どうしよう。私だけの作品じゃないのに。エマに絶対成功させると約束した文化祭なのに。部室には誰もいない。みんな自分のクラスの方に行っている。
どんな検索ワードを入れればいいかわからないブラウザを閉じる。
「たすけて」
宙にメッセージを送った。
既読はすぐについた。でも、返信がなくてずっと不安だった。部室の外で足音が聞こえたかと思ったら、すぐにドアが開いた。
「どうした?」
宙の顔を見た瞬間、感情があふれ出した。
「そらぁ」
私は宙に縋り付いて泣いた。
「パソコン、動かない。データ、消えたかも。どうしよう」
「あー、落ち着け。俺、風邪気味だからあんまくっつかないほうがいいぞ」
「ずっと二人で文化祭のために頑張ってきたのに、消えちゃった。半年間ずっと頑張ってきたの、無駄になっちゃった。ごめんなさい」
宙のシャツに顔を押し付けたままわんわん泣いた。
「ちょっ、泣くなって。俺が泣かしてるみたいだから。大丈夫だから落ち着け」
「だって、文化祭絶対成功させるって約束したのに。私、昔からどんくさくてこうやって人に迷惑ばっかりかけてて、ほんと最悪」
宙の胸にすがりついて泣き続けた。宙の大きな手が私の背中をさする。
「とりあえず、いったん落ち着いて。データ消えたって決まったわけじゃないし、少なくとも一週間前のバックアップデータは俺のスマホに送ってるはずだから。ペン入れまでは終わってるよな。最悪できたとこまででいいから出そう。一週間分の作業消えたら確かに悲しいかもだけどさ」
「でも、せっかく宙が面白い話つくってくれたのに、未完成のまま出しちゃったら台無しじゃん。私は絵描くくらいしかとりえないのに、それすらちゃんとできなかったら、もう役立たずすぎて私なんのために生きてるんだろうって」
「まあ、文化祭に間に合わなかったらネットにでも上げればいいだろ。それに、新歓で描いたやつはちゃんと完成してるじゃん。そっちも展示するわけだから、ちゃんと俺の作品、美和のおかげで日の目を見ることになるしな」
私を言葉で慰めている間、宙はずっと私の背中をさすってくれていた。
「大体美和が役立たずだったら去年までの俺はどうなっちゃうのって話で。美和は去年と一昨年もちゃんとイラスト集出してたし、ちゃんと漫研に必要な存在だから安心しろって」
宙が私の髪をぐしゃっと撫でた。
「あとさ、俺は美和とかエマほど行事に思い入れがあったわけじゃなくて、毎日退屈でつまんない日常ぶっ壊してえなって思ってて、別に何でもよかったんだよ。それに美和が付き合ってくれて毎日楽しかっただけで充分っていうか……ほらよく言うだろ、結果より過程が大事って。データ消えても楽しかった思い出まではなくならない、って自分で言っててクサいな」
「そんなことない」
宙の言葉が嬉しかった。その瞬間私は確かに宙の言葉に救われた。宙の体に腕を回して抱き着いた。しばらくそのまま泣いた。
「まあ、もっとクサい台詞漫画にぶちこみまくってるから今更か。つーか、あんまり抱きつくと風邪うつるぞ」
「うん、ごめん」
少し落ち着いたので離れた。宙の制服の胸元には私の涙の痕がついていた。宙に椅子に座るように促され、パックのオレンジジュースをポケットから出して渡された。担任からの差し入れらしい。オレンジジュースを一口飲んだ。去年の文化祭で体調を崩して、宙に水をもらったことを思い出す。
「去年もこんなことあったよね」
「あー、懐かしいな。つーか、お前あの頃俺のことちょっと嫌いだったろ」
宙が苦笑いした。私もつられて少しだけ笑った。
「だって、あの頃お姉ちゃんストーカーの弟以上の情報なかったし」
「よし。落ち着いたな。じゃあ、情報の先生探してくるから座って休んどけ。それまでパソコン触んなよ。またなんかあったら連絡して」
そう言って勢いよく部室を飛び出していった。大丈夫、宙の言葉を頭の中で反芻していた。
しばらくして、宙が小走りで部室に戻ってきた。私たちの担当の情報の先生ではない、面識のない若い先生が一緒だった。情報の先生が休みだったから、数学科準備室に行ってパソコンに一番詳しい先生に代わりに来てもらったとのことだ。
先生がパソコンをいじっているのを固唾をのんで見守った。宙はその間時折咳き込んでいた。しばらくして、パソコンが動き始めた。
「一応直りましたよ。ちょっと古いパソコンだったからファンが……」
先生の説明は難しくてわからなかった。でも、結論としてデータはほぼ無事だった。今日の分の作業が飛んだのはショックだけれど、最悪の事態に比べれば全然マシだ。今日中にリカバリーできる。急いでバックアップを取り、無事だったページはすべて印刷した。
「宙、ありがと」
「気にすんな」
「文化祭終わったら、なんかお礼しなきゃだね」
「あー、じゃあ一個お願いするかも。文化祭終わったら言う」
「うん、何でもいいよ」
お菓子やジュースだけでなく、私の少ないお小遣いで買えるものなら何でもプレゼントするつもりだった。
パソコントラブルは唯一にして最大のアクシデントで、その後は特に問題なく原稿は完成した。まだギリギリ修正が間に合う段階で宙にチェックしてもらう。
「最後のコマ、すっげえいいじゃん。俺の脳内イメージそのまんま」
「うん、一回消えちゃって塗りなおしたとこなんだけど、直した後の方が綺麗になったかも」
「じゃあ結果オーライってことで」
文化祭当日、最低限のクラスのシフトをこなしたあとは宙と二人で漫研のブースに来たお客さんの対応をしていた。大盛況というほどではないが、去年に比べたら上出来だ。エマが目標としていた「感想ノートをいっぱいにする」ほどではなかったれど、例年よりたくさんの感想が集まった。『異世界アンゴルモア』『続・異世界アンゴルモア』が面白かったと感想を書いてくれたお客さんもいた。一日目の終わり、二人で喜び合った。
「文化祭終わるまでは世界滅ばないでほしいよね」
なんて言って笑い合った。
二日目、午前中は一緒に漫研にいたけれど、宙は午後からクラスの方に行った。二日目にも私たちの作品を面白いと言ってくれた人がいた。一秒でも早く三年C組まで走りたかったけれど、終わるまで我慢した。文化祭終了と同時に、感想ノートを持ってクラスのお化け屋敷まで走った。でも、宙の姿が見えなかった。
「岩崎なら具合悪いって早退したよ」
親切な子が教えてくれた。準備期間に風邪気味だと言っていたこと、昨日も時々咳をしていたことを思い出した。もしかして、私がデータ消失騒動なんて起こしたから、体に負担をかけてしまったのかもしれない。
「大丈夫? 具合悪かったのに負担かけてごめんなさい」
メッセージを送ると、比較的すぐ返信が来た。
「いや、あれは全然平気。どっちかっていうと買い出し何度も走らせやがったクラス責任者のやつらが悪い。あいつら滅べ」
滅べ、のあとに爆発のスタンプも送られてきた。冗談めかした文体だったが、体調はあまり芳しくなかったようで、片付けの日も打ち上げの日も宙は休んだ。心配でメッセージを送ったけれど、なかなか既読がつかなかった。
私のせいだ。罪悪感は日に日に膨れ上がっていった。
水曜日になってようやく宙は登校してきたが、午前中は移動教室と選択授業が多くてなかなか話せなかった。
「美和、部室行こうぜ」
昼休みに入るや否や、宙の方から誘われた。私は小走りで宙の後をついていった。
「体、大丈夫?」
「うん。感想ノートの写真サンキュー」
廊下で話したのはこれくらいだった。部室には誰もいない。静かで居心地がいい。来週の追いコンが終われば正式に三年生は引退となり、気軽に使うこともできなくなるけれど。
「やっぱ静かでいいな。教室じゃ落ち着いて話せねえもん。で、文化祭前に言ってたお願いのことだけどさ」
「あ、ごめん。なんか奢ろうと思ったんだけど、今日お金持ってきてなくて」
約束を忘れていたわけではない。ただ、宙が心配でそれどころではなかった。
「いいよ、美和の耳があれば十分」
私は首を傾げた。
「色々あったけど、楽しかったしこれからも色壁ホセで何かやろうぜ。っていっても、俺ダブスクあるし次の案何も思いついてないから気長にやる感じで。締め切りない方が美和も気楽にやれるだろ」
それはまさしく、どこかのタイミングで私からお願いしようと思っていたことだった。うぬぼれてもいいのだろうか。
「これからもって、卒業しても?」
「どっちかが死ぬまでか、世界が滅ぶまで」
その言葉を聞いた瞬間、涙があふれ出した。ぼやけ始めた宙の顔を見る。宙の首に腕を回して抱き着いた。
「おいおい、泣くなって。女子泣かせるの外聞悪いだろ。あと、俺一応病み上がりだから移っても知らねーぞ」
「大好き」
私の呟いた言葉が宙に聞こえていたかはわからない。
「これからは宙に迷惑かけないように頑張る。絵もめっちゃ練習する」
続きの言葉はしゃくりあげながらも宙に聞こえるように声を絞り出した。
「無理しなくてもいいよ。絵うまいから必要だって言ったら利用してるみたいだろ」
「でも私、絵描くくらいしかできないよ」
「いいよ、美和はそのままで」
すっと息を吸って、優しく力強い声で宙が言った。
「いてくれるだけでいい」
ますます涙が止まらなくなった。私の存在を全部肯定してくれた。宙がいたからまだこの世界で生きていたいと思えた。宙を愛しいと思った。
トクン、と自分の心臓の音が変わったように感じた。ここでようやく、私が反射的に発した「大好き」が友愛ではなく恋であることに気づいた。いつからかはわからない。宙の物語の才能ではなく、宙という人間のすべてに惚れていた。
でも、これからもずっと一緒にいるためにはその感情は隠さなくてはならない。惚れないって約束をしたから。
「宙が二次元だったら絶対惚れてたよ」
顔を上げて笑って、精一杯の強がりを告げる。
「おー、三次元の俺も適度に推してくれ」
既に最推しだよ、馬鹿。そう心の中で呟いた。



