ノストラダムスとジュリエット

 SNSではあんなに大騒ぎになったのに、二〇二六年七月五日に世界は滅ばなかった。どうせ何も起こらないとわかっていたから、会いたい人に連絡もしなかった。パンデミックで世界中が大パニックになったのが嘘のように人々は日常を生きている。どうせ世界は滅ばない。
 変わりばえのしない日常を送る中、今まで生きてきた中で一番の激痛が腹部に走った。床に倒れて呻く私を見て、母が救急車を呼んだ。死ぬかもしれない、そう思った。最期に後悔を残したくなくて、力を振り絞って岩崎(いわさき)(そら)にメッセージを送った。
平川(ひらかわ)美和(みわ)です。覚えてますか?」
 通話ボタンを押したが、都合よくつながるわけもなかった。そういう運命なのだから仕方ない。悲劇でしか終われないロミオとジュリエットみたいな恋。大げさかもしれないが強大な運命に引き裂かれた悲しい恋だった。少なくとも十八歳の私にとっては。



 岩崎宙に対して、最初は嫌悪感を抱いていた。姉をストーカーしていた男の弟だからだ。母にも彼とは関わってはいけないと言われていた。
「漫画研究会なんてやめなさいよ。音楽系とか料理部とか、他にもいろいろあるでしょう?」
 最悪なことに私が入部した漫研には岩崎も入部していて、それが母に発覚した時は退部を勧められた。
「そんなこと言ったって料理部は火傷するかもしれないし、音楽系は忙しいから勉強と両立できないからお母さん文句言うじゃん。それに岩崎は幽霊部員だから顔合わせることないもん」
 強制退部はなんとかまぬがれた。しかし、迷惑なことには変わりない。岩崎の兄が余計なことをしなければ、母と交渉する必要もなかった。
「美和っちって宙のことあんまりよく思ってないよね?」
 二学期に同じ漫研で親友の花村エマに聞かれた。
「え、なんで?」
「だって、美和っち絶対に宙に話しかけないし」
 もちろん、大好きな姉を傷つけた人と兄弟だからといって色眼鏡で見るのはやめようと最初は思っていた。でも、本当に岩崎のいい噂は聞かない。女の子をとっかえひっかえしているらしい。文化祭は自由参加とはいえ、作品を提出しない不真面目なところも気に食わない。時折聞こえてくる漫研の男子との会話からも性格の悪さがにじみ出ていた。
「日曜にイベントあるじゃん、宙も行こうぜ」
「オッケー。親には勉強会って言っとくから口裏合わせよろしく」
 息をするように嘘をつける人は信用ならない。他の人が同じことをしていても何も思わないけれど、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとはよく言ったものでちょっとしたことも癇に障った。
 とはいえ、部活の空気を悪くするのは良くない。こちらから喧嘩を売ったりはしなかった。意図的に無視したつもりはないけれど、岩崎から話しかけてくることもなかったので半年間全く話すことなく過ごしていた。
「えっと、エマにしか言わないから誰にも言わないでね。私は別に嫌いとかじゃないんだけど、実はね……」
 エマにだけ事情を話した。エマは口が堅かったから。



 初めて岩崎とまともに会話したのは二年生の九月。文化祭の日だった。
「さっむ……」
 午前中はそうでもなかったのに、午後から急に体調が悪くなった。悪寒がひどい。半袖で登校してきたことを後悔した。でも、少ない部員で現場を回していたから持ち場を離れて休むわけにはいかなかった。
「漫画研究会です! 部員が描いた漫画、ぜひ読んでいってください!」
 喉は痛いし、立っているのも辛かったけれど必死で呼び込みをした。あの頃は感染対策なんて概念はなくて、風邪をひいても頑張るのが美徳の時代だった。だから、シフトに穴をあけるわけにはいかなかった。
 他の部活に負けないように声を張っていたら、咳が止まらなくなった。仕方がないので水を飲みに控室に戻った。しかし、床に散乱している鞄の中から自分の物を探そうとしてしゃがみこんだが最後立てなくなった。早く戻らないといけないのに。
「おい、どうした?」
 突然、頭上から声が聞こえて振り返る。
「岩崎君……」
 岩崎は昨年同様作品こそ提出していなかったが、当日のシフトには入っていた。
「顔色悪いし震えてるし、保健室行った方がよくね? エマには俺から伝えとく」
「ダメ、エマには心配かけたくない。あと、まだシフトあるし」
 次期部長でイベントごとが大好きなエマは文化祭も張り切っていた。お客さんの感想を楽しみにしているエマは、今も笑顔で受付をしている。そんな親友の邪魔をするわけにはいかなかった。
「俺、代わろうか? これから休憩の予定だったけど、別に見たいもんねえし」
「え、悪いよ」
「いいよ、暇だし。つーか、声掠れてんじゃん。水、飲む? これまだ口付けてないやつ」
 未開封のペットボトルを見せられた。岩崎に借りは作りたくなかったが、そうも言ってられなかった。
「ごめん、もらっていい? 後でお金払うから」
「ほい」
 岩崎はわざわざ蓋を開けて渡してくれた。水を飲む。岩崎の優しさが体に染み渡った。
「寒い? 上着持ってる?」
「持ってない」
 そう言うと岩崎は自分が着ていたカーディガンを脱いで私の背中にかけてくれた。
「いくら人多いからって今日冷房効きすぎだよな。立てるか? 肩貸す?」
 そうしている間に、控室に後輩が入ってきた。
「あれ、美和ちゃん先輩どうしたんすか?」
「こいつ体調悪いみたいだから今から保健室連れてく。次のシフト俺が代わりに入る。エマには心配かけたくないからエマのシフト終わるまでは黙っとけだってさ」
「いや、そこまでさせるの悪いって。自分で行けるから」
 かろうじて立ち上がる。
「ほら、いくぞ」
「はーい、美和ちゃん先輩お大事に」
 何度も遠慮したはずなのに、結局保健室まで同行してもらうことになってしまった。
「ごめんなさい」
 道すがら岩崎に謝った。顔は直視できなかった。
「いいって。あの状態の病人放置するほど鬼じゃねーわ」
「ごめん」
「そんなに謝らなくても。ていうか、そんなにビクビクすんなって。俺別にお前のこと嫌ってるわけじゃねえから」
 岩崎に話しかけられたのは今日が初めてだ。嫌われるほどの関係性すら築いていないが、“嫌うきっかけ”となりうる要因が何かは言わずともすぐ分かった。
「お前の姉ちゃんは貢がせた挙句二股するカスだけど別にお前関係ないもんな」
 岩崎の兄と私の姉は元々付き合っていたが、別れ話が拗れて向こうがストーカー化した。姉の貢がせやら二股やらの話は初めて聞いたけれど。
「そうだね」
 私も岩崎のことを誤解していたのかもしれない。結局、熱が三十八度あった私は早退することになり、岩崎が保健室まで荷物を持ってきてくれた。
 家に帰ると、友達追加していないユーザーからメッセージが来ていた。漫研のグループトークからわざわざ探してくれたのだろう。
「大丈夫? 家帰れた?」
「うん、今日はありがと」
 返信をした後、“宙”のアカウントを友達登録した。

 私は笑えるくらい単純な人間だった。弱っているときに優しくされた。それは充分に岩崎宙という人間を信頼するに値する理由となった。
 数日後完調して登校したタイミングで、洗濯したカーディガンと文化祭の日にもらったのと同じ水、そしてお礼のお菓子を渡した。
「おっ、これ俺の一番好きな奴。サンキュー」
「だよね、これおいしいよね!」
「わかってんじゃん」
 今まで全く話さなかったのが嘘のように、普通の部活仲間としての普通の会話をした。

「宙と和解したの?」
 翌日教室でエマに聞かれた。部室で私たちが普通に会話をしていたのが青天の霹靂だったようだ。
「うん! 元々喧嘩してたわけじゃないからさ。実はすごいいいやつでびっくりしちゃった!」
「そうなんだ。よかったね」
 エマはそれ以上何も言わなかった。