SNSではあんなに大騒ぎになったのに、二〇二六年七月五日に世界は滅ばなかった。どうせ何も起こらないとわかっていたから、会いたい人に連絡もしなかった。パンデミックで世界中が大パニックになったのが嘘のように人々は日常を生きている。どうせ世界は滅ばない。
変わりばえのしない日常を送る中、今まで生きてきた中で一番の激痛が腹部に走った。床に倒れて呻く私を見て、母が救急車を呼んだ。死ぬかもしれない、そう思った。最期に後悔を残したくなくて、力を振り絞って岩崎宙にメッセージを送った。
「平川美和です。覚えてますか?」
通話ボタンを押したが、都合よくつながるわけもなかった。そういう運命なのだから仕方ない。悲劇でしか終われないロミオとジュリエットみたいな恋。大げさかもしれないが強大な運命に引き裂かれた悲しい恋だった。少なくとも十八歳の私にとっては。
◇
岩崎宙に対して、最初は嫌悪感を抱いていた。姉をストーカーしていた男の弟だからだ。母にも彼とは関わってはいけないと言われていた。
「漫画研究会なんてやめなさいよ。音楽系とか料理部とか、他にもいろいろあるでしょう?」
最悪なことに私が入部した漫研には岩崎も入部していて、それが母に発覚した時は退部を勧められた。
「そんなこと言ったって料理部は火傷するかもしれないし、音楽系は忙しいから勉強と両立できないからお母さん文句言うじゃん。それに岩崎は幽霊部員だから顔合わせることないもん」
強制退部はなんとかまぬがれた。しかし、迷惑なことには変わりない。岩崎の兄が余計なことをしなければ、母と交渉する必要もなかった。
「美和っちって宙のことあんまりよく思ってないよね?」
二学期に同じ漫研で親友の花村エマに聞かれた。
「え、なんで?」
「だって、美和っち絶対に宙に話しかけないし」
もちろん、大好きな姉を傷つけた人と兄弟だからといって色眼鏡で見るのはやめようと最初は思っていた。でも、本当に岩崎のいい噂は聞かない。女の子をとっかえひっかえしているらしい。文化祭は自由参加とはいえ、作品を提出しない不真面目なところも気に食わない。時折聞こえてくる漫研の男子との会話からも性格の悪さがにじみ出ていた。
「日曜にイベントあるじゃん、宙も行こうぜ」
「オッケー。親には勉強会って言っとくから口裏合わせよろしく」
息をするように嘘をつける人は信用ならない。他の人が同じことをしていても何も思わないけれど、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとはよく言ったものでちょっとしたことも癇に障った。
とはいえ、部活の空気を悪くするのは良くない。こちらから喧嘩を売ったりはしなかった。意図的に無視したつもりはないけれど、岩崎から話しかけてくることもなかったので半年間全く話すことなく過ごしていた。
「えっと、エマにしか言わないから誰にも言わないでね。私は別に嫌いとかじゃないんだけど、実はね……」
エマにだけ事情を話した。エマは口が堅かったから。
◇
初めて岩崎とまともに会話したのは二年生の九月。文化祭の日だった。
「さっむ……」
午前中はそうでもなかったのに、午後から急に体調が悪くなった。悪寒がひどい。半袖で登校してきたことを後悔した。でも、少ない部員で現場を回していたから持ち場を離れて休むわけにはいかなかった。
「漫画研究会です! 部員が描いた漫画、ぜひ読んでいってください!」
喉は痛いし、立っているのも辛かったけれど必死で呼び込みをした。あの頃は感染対策なんて概念はなくて、風邪をひいても頑張るのが美徳の時代だった。だから、シフトに穴をあけるわけにはいかなかった。
他の部活に負けないように声を張っていたら、咳が止まらなくなった。仕方がないので水を飲みに控室に戻った。しかし、床に散乱している鞄の中から自分の物を探そうとしてしゃがみこんだが最後立てなくなった。早く戻らないといけないのに。
「おい、どうした?」
突然、頭上から声が聞こえて振り返る。
「岩崎君……」
岩崎は昨年同様作品こそ提出していなかったが、当日のシフトには入っていた。
「顔色悪いし震えてるし、保健室行った方がよくね? エマには俺から伝えとく」
「ダメ、エマには心配かけたくない。あと、まだシフトあるし」
次期部長でイベントごとが大好きなエマは文化祭も張り切っていた。お客さんの感想を楽しみにしているエマは、今も笑顔で受付をしている。そんな親友の邪魔をするわけにはいかなかった。
「俺、代わろうか? これから休憩の予定だったけど、別に見たいもんねえし」
「え、悪いよ」
「いいよ、暇だし。つーか、声掠れてんじゃん。水、飲む? これまだ口付けてないやつ」
未開封のペットボトルを見せられた。岩崎に借りは作りたくなかったが、そうも言ってられなかった。
「ごめん、もらっていい? 後でお金払うから」
「ほい」
岩崎はわざわざ蓋を開けて渡してくれた。水を飲む。岩崎の優しさが体に染み渡った。
「寒い? 上着持ってる?」
「持ってない」
そう言うと岩崎は自分が着ていたカーディガンを脱いで私の背中にかけてくれた。
「いくら人多いからって今日冷房効きすぎだよな。立てるか? 肩貸す?」
そうしている間に、控室に後輩が入ってきた。
「あれ、美和ちゃん先輩どうしたんすか?」
「こいつ体調悪いみたいだから今から保健室連れてく。次のシフト俺が代わりに入る。エマには心配かけたくないからエマのシフト終わるまでは黙っとけだってさ」
「いや、そこまでさせるの悪いって。自分で行けるから」
かろうじて立ち上がる。
「ほら、いくぞ」
「はーい、美和ちゃん先輩お大事に」
何度も遠慮したはずなのに、結局保健室まで同行してもらうことになってしまった。
「ごめんなさい」
道すがら岩崎に謝った。顔は直視できなかった。
「いいって。あの状態の病人放置するほど鬼じゃねーわ」
「ごめん」
「そんなに謝らなくても。ていうか、そんなにビクビクすんなって。俺別にお前のこと嫌ってるわけじゃねえから」
岩崎に話しかけられたのは今日が初めてだ。嫌われるほどの関係性すら築いていないが、“嫌うきっかけ”となりうる要因が何かは言わずともすぐ分かった。
「お前の姉ちゃんは貢がせた挙句二股するカスだけど別にお前関係ないもんな」
岩崎の兄と私の姉は元々付き合っていたが、別れ話が拗れて向こうがストーカー化した。姉の貢がせやら二股やらの話は初めて聞いたけれど。
「そうだね」
私も岩崎のことを誤解していたのかもしれない。結局、熱が三十八度あった私は早退することになり、岩崎が保健室まで荷物を持ってきてくれた。
家に帰ると、友達追加していないユーザーからメッセージが来ていた。漫研のグループトークからわざわざ探してくれたのだろう。
「大丈夫? 家帰れた?」
「うん、今日はありがと」
返信をした後、“宙”のアカウントを友達登録した。
私は笑えるくらい単純な人間だった。弱っているときに優しくされた。それは充分に岩崎宙という人間を信頼するに値する理由となった。
数日後完調して登校したタイミングで、洗濯したカーディガンと文化祭の日にもらったのと同じ水、そしてお礼のお菓子を渡した。
「おっ、これ俺の一番好きな奴。サンキュー」
「だよね、これおいしいよね!」
「わかってんじゃん」
今まで全く話さなかったのが嘘のように、普通の部活仲間としての普通の会話をした。
「宙と和解したの?」
翌日教室でエマに聞かれた。部室で私たちが普通に会話をしていたのが青天の霹靂だったようだ。
「うん! 元々喧嘩してたわけじゃないからさ。実はすごいいいやつでびっくりしちゃった!」
「そうなんだ。よかったね」
エマはそれ以上何も言わなかった。
エマが部長になって新体制になった漫研の目標は来年度の部員の確保だった。部費が減らされるのは死活問題だ。元より私は漫画が部室にたくさんあるから、それだけの理由で漫研に入った。部費が減って新しい漫画が減ったら新入部員の獲得にも差し障るだろう。
「というわけで、新歓用の作品は一作品でも多い方がいいね! 強制じゃないけど、絵が描けない人とか話を作るのが苦手な人は共作するのもありだと思うから考えてみてね」
漫画は読む方専門で、話を考えるのは得意ではない。ただ、絵を描くのはそこそこ得意なので、文化祭ではイラストを何枚か提出した。
エマの呼びかけの後、岩崎に声をかけられた。
「お前どうすんの」
「エマが言うなら描こうかなー、っていってもストーリー考えるセンス全然ないんだよねー。普通に話してても、美和ちゃんの話つまんないとか言われるしさ。ひどくない? って、この話はいいや。岩崎君は?」
「保留。元々漫研入ったのって漫画読めるからで、描く方は興味ねえし。うち今時漫画禁止なんだよ」
「え、うちもおんなじ! 親が漫画に偏見あるしお小遣いも少ないから全然漫画買えないや。てか、よく親漫研入るの許してくれたね。入部するとき文句言われて大変だった!」
「部活はどこか入らないといけないけど、勉強に一番影響でない暇な部活だから幽霊部員って嘘ついてる。部活ある日は図書室で自習してることにしてる」
「うえー、毒親じゃん」
岩崎が親との関係に悩んでいることを初めて知った。親に隠れて女遊びをする不良の印象だったけれど、親から過度に抑圧されればそうなってしまうのも仕方のないことなのだろう。
「そう。兄貴を見習え勉強しろしか言わねえよあいつら」
いや、ストーカー見習っちゃだめでしょ。と心の中でひっそり思った。
「わかるわかる。上と比較されるのって、ほんと最悪だよね! うちのお母さんもお姉ちゃんはできるのにどうしてできないのとか言ってくんの!」
私も美人で要領のいい姉と何かと比較されることが多かった。姉のことは好きだけれど、姉がもっとブスで馬鹿だったらよかったのにと思った回数は数えきれない。親の過干渉にもうんざりしていた。女の子なんだから、としつこく言われることに辟易していた。私たちはここぞとばかりに親の愚痴を言い合った。
「なんか、お前も色々悩んだりするんだな。なんか意外だわ」
「えー、私ってどういうイメージなのよ」
「いつもテンション高い感じでエマに懐いてる妹分」
「もー、否定できないこというのやめてよー」
岩崎とお互いの家の愚痴を言い合うことも、軽口を叩き合うことも文化祭前には想像がつかなかった。
ある時、エマが風邪で学校を休んだ。いつも一緒にお弁当を食べていたエマがいないから、教室で一人でお弁当を食べるのも気まずくて部室に行った。そこには先客がいた。
「あ、ごめん。邪魔した?」
「いや、別にいいけど。どうした?」
「エマが今日休みで、なんか教室いづらくて」
少し前までは岩崎に弱みを見せるなんて考えられなかった。でも、今は正直に話せる。
「別に普通じゃね? 俺もクラスの友達が昼練ある日は部室で飯食って、そのまま五時間目まで漫画読んでる。教室うるさくて落ち着かねーし」
「わかる。うるさいよね。耳キンキンする」
傍若無人にふるまう陽キャに対する不満を語りながらお弁当を食べた。先に食べ終えた岩崎が漫画を読み始めた。九十年代、私たちが生まれる前の作品だ。
「岩崎君って結構昔の漫画読むよね」
「うん。世紀末の空気感が好きなんだよな」
「あー、世界滅亡するかも的な?」
ノストラダムスによって世界が滅亡すると予言されていた一九九九年、私たちは生まれた。知識としては知っているが、当時の空気感まではわからない。四つ年上の姉ですらよく覚えていないだろう。当時を生きていた人たちが少し羨ましい。
「そうそう。てか、お前終末系の作品好きじゃん。これ、読んだらはまると思うよ」
「うん、なんかいいじゃん。世界の終わりって」
「同感。二〇一二年に世界が終わるかもって時ちょっとワクワクしなかった?」
中二病真っ盛りの冬、一部で話題になった滅亡論。ノストラダムスの時ほど世界が混乱したりはしなかったけれど、世界の終わりを見て見たいと思ったものだ。
「したよ。なんなら、また予言者出てきてほしいって思ってるし、時々世界滅べって思うことあるもん」
「俺もだわ。なんか人生ってつまんねえじゃん。親の敷いたレールに載せられてさ」
「わかる。自由が欲しい」
いい大学を出ていい会社に入って、そこでいい人と出会って結婚して子供を生む、それが女の幸せ。そのためには勉強をすることが大事。耳にタコができるほど聞かされた。昔から口うるさい母は誰々と遊んではいけないと交友関係にまで口を出してきた。この高校も、母が行きなさいと決めたものだ。
「ほんと、何が岩崎家の人間としてふさわしい行動を、だっつーの。んな由緒正しい家柄じゃねえだろ。つーかそんなたいそうな家なら継ぐのは長男様だろ。次男の俺のことなんてほっとけっての」
「お兄さんより岩崎君の方がまともなんじゃないの」
言った後、失言だったかもしれないと気付いた。
「そりゃお前から見たらそうだろ。俺だって何でお前の親姉ちゃん見習えとか言ってんのかわからん。どう考えても見習っちゃダメな人間だろ」
二股だとか貢がせただとか、そのあたりの話はどこまで本当かわからない。つきまとい被害についてもそうだ。人は自分がしたことは過少報告、されたことは過剰に報告するものだ。
「受験直前に先生とか親巻き込んだトラブル起こした奴らの何を見習えってんだよな」
「あはは、そうかも。お互い苦労するよね」
顔を見合わせて苦笑いする。
「ほんと、こんなことお前にしか言えねえわ。今日のことオフレコな」
「言わないよ。言ってもみんな信じないよ。岩崎君愚痴とか言わないイメージだし。もっとチャラい人だと思ってた」
「なんかお前話しやすいんだよな。お前の前でかっこつけるのも馬鹿らしいっていうか」
「えー、なにそれ、褒めてる? けなしてる?」
岩崎の発言の真意がわからず一応質問してみた。
「褒めてる。話しやすいって長所以外の何物でも無くね?」
「えー、ほんとに? 私、話つまんないってよく言われるよ」
「話の内容じゃなくて、話してる時の表情とか、聞いてる時の表情とか、オーラみたいなのの話だよ。家の愚痴なんて他の奴に話したことねえもん」
「あー、私もそうかも。世界滅べなんてエマに言ったらドン引きされそうだし」
エマはまともだ。学校行事に全力投球する陽キャだ。私にはもったいないくらいの親友だ。そんなエマが頑張っていたから私も文化祭を頑張っただけで、私自身はそこまで思い入れがあったわけではない。何かに全力投球できる自分になりたいとは思っているけれど、私がいてもいなくても変わらないような学校行事だとどうしても心の底から本気にはなれない。
「そりゃあいつにはわかんないだろうよ。でも、お前はひかねえじゃん」
「そもそも普通の女子はお前呼ばわりされるだけで怒りますよ」
空気を悪くしない程度に砕けた口調で言ってみた。
「あ、悪い。つっても、お前の姉ちゃんも平川だからなあ。美和って呼んでいい?」
「いいよ。自分の苗字嫌いだし」
「奇遇だな。俺もだわ」
親嫌いだし、と岩崎がぼそっと付け足した。私も親は嫌いだけれど、苗字そのものが嫌いな理由は少し違った。
「小学校の時に同じ苗字の男子がいたんだけど、夫婦ってからかわれるし、八つ当たりでその男子は私のこといじめてくるしで本当に最悪だった」
小学校時代、クラスの男子が総じて性格が悪かったせいか中学生くらいまで男子に苦手意識を持っていた。周りの女の子たちは誰がかっこいいとか誰が好きとか、恋バナにばかり興じていたけれど私は未だに二次元の男にしか興味がない。
「平川ってそんな被る苗字じゃないだろ。とんだ災難だな」
「ね、ついてないよね。あの頃世界滅べって思ってた」
今日だけで「世界滅べ」と何回言っただろう。今の私をクラスメイトが見たら驚くだろうけど、たぶんこちらが私の素だ。
その時、予鈴が鳴った。いつの間にかだいぶ時間が経っていたようだ。私は慌てて弁当箱をまとめる。
「やば、次移動教室だ」
「じゃあなー、美和。焦りすぎてこけんなよ」
岩崎こそ、と言おうとして岩崎が自分の苗字が嫌いだと言っていたことを思い出した。
「宙こそ、遅刻しないようにね」
言い捨てて部室を走り去る。
エマは私を美和っち、他の人は美和ちゃんと呼ぶ。小中学校の友達にも、親や姉を含めた親戚にもちゃん付されていたから、呼び捨てされるのは新鮮だなと少し遅れて気付いた。でも、決して嫌ではなかった。
普通に話すようになってしばらくして、そろそろエマの言っていた新歓用作品について真面目に考えないといけない時期に差し掛かっていた。
何もしてない私と正反対に、エマは部室に一台だけあるパソコンで作品に取り掛かっていた。文化祭用の作品だけでも十分なのに、やっぱりエマはバイタリティに溢れている。
「新歓作品、宙はどうする?」
「どうするも何も、俺、絵描けねえ。美和は?」
「出すつもりだけど、何も進んでない」
エマに相談して、エマの時間を奪うのも申し訳ない気がした。エマの力になれたら嬉しい。迷惑をかけたくない。だから、小さな声で話した。
私たちが話していても一切気にしないほどエマは作業に集中していた。イラストを描くとき、私はしゃべりながらの方が筆のペースがあがるタイプだけれど、エマはそうではなかった。
「じゃあ、一緒にやらん?」
宙の提案はあまりにも唐突だった。
「え、何で私?」
「だって美和、絵うまいじゃん」
驚きが嬉しさに変わった。今まで私の絵を褒めてくれるのはエマだけだったからだ。
「実は俺、中学の頃ネットで小説書いてたんだけどさ、って言ってもすぐ飽きたんだけど。それでよければ美和が絵つけてくれたりする?」
私はすっかり有頂天になっていた。
「えー、読んでみたい!」
「じゃあURL送る。晒すなよ」
スマートフォンにポップアップ通知が出たので、クリックする。小説投稿サイトのリンクだった。タイトルは『異世界アンゴルモア』でペンネームはSKY。すぐ飽きた、と言っていた通り文字数はあまり多くなかった。
さっそく第一話を読んだ。頭を殴られたような衝撃が走った。恐怖の大王が滅んだ後の異世界を、生きづらさを抱えた少年が冒険する話。主人公が抱えている悩みが私が抱えているものとまさしく同じもので、深く共感できた。世界観が好きだった。世界にある汚い物も、大多数の人間にとっては楽しい場所とされているけれども誰かにとっては居心地が悪いような排他的な場所も、全部滅んだ世界。一見荒廃して絶望しかないように見えるけれども、何もないからこそ希望がある世界。私もそこに行ってみたいと思った。戦闘シーンも、漫画でよく見る私がかっこいいと思う剣術や魔術などの要素が詰め込まれていて面白かった。夢中で読んだ。画面に釘付けになって、エマが作業を切り上げて帰ったことにも気づかなかった。
今となっては、宙が本当に天才だったのか、宙と私の境遇が似ていたから感情移入できただけなのかはわからない。ただ、あの瞬間の私はまぎれもなく宙を天才だと思った。
「すごい! 面白い! 宙、天才!」
「二〇一二年に結局世界が滅びなくて、そのフラストレーションをぶつけました的なやつ」
読み終わって感想を伝えると、宙が珍しく照れたように笑った。
「宙、私と組んでくれるの?」
「まあ、俺からオファーしたわけですから。じゃ、決まりってことで」
「うん! 私、頑張る!」
「じゃ、キャラデザとか決めていきますか」
その日の部活は今までで一番充実していた。漫画を読んでいるよりも、青春している、生きているという実感があった。ああでもないこうでもないとシャーペンでノートに簡単なラフを描きながら、キャラデザを話し合うのはとても楽しかった。結局何も決まらなかったけれど、それすら有意義な時間だと思えた。私が何かを描くたびに、宙が「やっぱりうまいな」と言ってくれて嬉しかった。
下校時刻十分前のチャイムで急に現実に引き戻された。急いで帰り支度を始める。
「俺の小説には惚れていいけど、俺には惚れんなよー」
冗談めかした口調だったが、思わず片付けの手が止まった。
「はあ⁉ 意味わかんないんですけど」
確かにあの時、私は宙の才能に惚れていた。でも、少なくともこの時点では宙に対する感情は恋ではなかった。
「でも、文化祭の時の俺かっこよくなかった?」
「自分で言っちゃう? 確かに助かったけど! 感謝はしてるけど!」
優しい人だとは思った。でも、かっこいいとか恋とかとは違う気がした。
「私は二次元の男にしか興味ありません!」
そう宣言して部室を出た。
翌日、「惚れるなよ」のくだりは端折って、宙と共作することになったとエマに報告した。
「美和っち、最近宙の話すること多いよね」
「そうかな?」
「うん。宙のこと好きなの?」
エマにまで誤解されてしまった。断じてそれはない。
「それはない! ただのコンビ! 友達!」
「うんわかった。変なこと言ってごめんね」
エマは深く追及しては来なかった。エマとはあまり恋愛の話をしたことがない。エマに中学の時に彼氏がいたことは知っているけど、高校に入ってからの話をエマから直接聞いたことはない。
エマのお父さんはアメリカ人で、エマは日本人離れした整った顔立ちをしている。告白されることも多いらしく、たびたび噂になるけれど、本人の口から聞いたことはなかった。
宙との共作は順調に進んだ。宙が小説を漫画のネームの形に直して、私が作画する形になった。毎日のように部室で話し合いながら作業をした。
「宙って親に塾行けとか言われないの?」
「言われない。俺、指定校推薦使うつもりだから。受験勉強はしなくていいけど、学校の成績は死んでも落とすなってさ。だから土日は家庭教師が来る。ここの卒業生」
「へー、なんか意外。スパルタ系の親って国立行けとか言いそうじゃん」
「兄貴が受験直前に病んで一浪してっからな。優秀な兄貴ですらそうなんだからお前は安牌な選択肢とれってさ。本当に世界滅べって感じ」
そうは言っても、親に決められたという宙の志望校は関西の名門校だ。実家を出られる宙が羨ましかった。
「私も指定校使う予定。女の子で浪人は恥ずかしいとか言ってくるんだけど。恥ずかしいのは昭和脳のあんたの頭だっつーの。本当にそろそろ世界滅んでほしいよね」
私は家から通える女子大に進学する予定だ。当然親の決めた学校で本当にうんざりする。「世界が滅んでほしい」は親をはじめとした周囲の諸々に辟易した私たちの合言葉になっていた。
「ふーん、美和も指定校狙いならもしかして来年は同じクラスになれたりしてな」
宙の兄と私の姉が在学中に大喧嘩をしたからか、私たちは同じクラスになったことはない。でも、三年生のクラス編成は文系か理系か、志望校が国立か私立かで決まる。親が税理士だと言う宙は経済学部、私は文学部に行く予定だからどちらも私文の推薦志望だ。同じクラスになる可能性は高い。
親に勝手に決められた進路だけれども、結果として宙と同じクラスになれることだけはいいことだと思えた。
充実した時間はとにかくあっという間で、すぐに三学期になって春休みになった。お互いの家族の中が悪すぎる私たちに、どちらかの家で作業するという選択肢はなかった。昼間親がいない間にどこかで会おうにも外出すれば何かしらの形跡が残る。そうすると言い訳が面倒臭い。
「じゃあさ、作業通話しようよ」
有名絵師さん同士が仲間内でやっていると知ってから、密かに作業通話というものに憧れていた。
作業通話の中で、ペンネームが決まった。「せかいほろべ」のアナグラムで色壁ホセ。性別不詳な感じがなんかいい。
イラストを描くことも友達と話すことも好き。宙と漫画を一緒に作り上げるのは最高に楽しい。大嫌いだった家という空間も、その時間だけは嫌いではなかった。大切で幸せな時間だった。春休み終了三日前。ついに私たちの共同作業の結晶が完成した。
そして迎えた新歓オリエンテーション期間、見学に来てくれた新入生に『異世界アンゴルモア』を読んでもらった。エマが私たちの作品を一年生に勧めてくれているのがとても誇らしかった。
「私たちの漫画読んで漫研入りたいって思ってくれる子が一人でもいたら嬉しいよね」
「そしたらエマに褒められるからか?」
「違うよ。エマが褒めてくれるのはもちろん嬉しいけどさ、創作で誰かの人生変えられたらそれって最高じゃん」
自分たちの人生すらままならないのに、誰かの人生を変えるなんて大それた話を教室で堂々としていた。宙と同じクラスになったからだ。あの頃の私は無敵感に満ち溢れていた。宙が私の絵に価値を見出してくれたから。
つくづく単純だと思う。元々エマに懐いたきっかけは、私がノートの隅に落書きをしていたら一緒に漫研に行こうと誘ってくれたからだ。エマの推しキャラを描くと喜んでくれるのが嬉しかった。
「絵を描いたことそのもの」ではなく「私の絵の才」に価値を見出してくれた宙に特別な感情を抱くことは必然だった。
一年生は五人入部した。入部理由は全員「元々漫画が好きだから」だった。残念ながら私たちは誰かの憧れにはなれなかった。でも、新入生から漫画の感想をもらえた。
「『異世界アンゴルモア』面白かったです! 続編期待してます!」
嬉しかった。姉と比較されてばかりのぱっとしなかった私に、生まれて初めてスポットライトが当たった。私に存在価値が与えられた。息苦しさが消え失せた。
新入生を迎えて早々エマが言った。
「強制じゃないけど、新作描ける人は描いて、今年の文化祭もどんどん盛り上げていこう! 感想ノートいっぱいになるくらい盛り上がったら嬉しいよね」
私たち三年生にとっては最後の文化祭。部員が増えたこともあり、エマが本気になるのも当然だった。
感想をもらった記念に、宙と一緒にカラオケで豪遊した。好きなアニメソングをひとしきり歌った後、今後の話をする。
「あのさ、『異世界アンゴルモア』の続き、また一緒に描きたい」
「ん、いいよ。でも、俺に惚れんなよ」
「だーかーらっ、自意識過剰!」
「悪い悪い。でもさ、せっかく創作で世界変えようぜって盛り上がってんのに恋愛でめちゃくちゃになるの嫌じゃね? 兄貴たちみたいになったら最悪だろ」
姉は高校時代は軽音部で、宙の兄とは元々同じバンドのメンバーだった。騒動に巻き込まれたドラムとベースの人が可哀想でならない。
「そうかも、迷惑バカップルにはなりたくないよね」
「だろ? それに恋愛って維持コストが高い。学校が離れるどころか、クラスが離れるだけで簡単に破局して、付き合う前の関係に二度と戻れない」
「それは経験則?」
「まあな」
「さすがモテる人は言うことが違いますなあ」
茶化したけれど、経験則に基づくならばそれは真実だ。そもそも私たちが恋愛したところで、家族仲が最悪である以上結婚はできないのでいつかは別れることになる。しかも、大学は別々のところに行くのだから破局リスクは大きい。でも、友達なら関係を続けることはできる。去年、中学の時の友達と遊んだことは記憶に新しい。
宙と話すのは楽しい。こんなに私のことをわかってくれる人とこの先出会えるだろうか。大学が離れても宙を失いたくなかった。
「宙こそ、私に惚れないでよ」
「さすがにお前に手出せないわ」
少し意味深な間をおいて、宙が答えた。
「それどういう意味よー?」
わざとおどけて笑って、結局有耶無耶になった。私たちは恋愛しない。そうすればその間は無敵でいられる。だから友情が正解なんだ。
無事指定校推薦の校内選考も通って、これでやっと漫画に専念できると思ったところで立て続けにトラブルが起きた。
一つ、家に漫画の道具を持ち帰っていることが親にばれたこと。ごちゃごちゃと文句を言われ、家では漫画が描けなくなった。
二つ、校内選考が終わったのだからと宙が親からダブルスクールを強要されたこと。大学在学中に税理士試験に合格するためには少しでも早くから勉強を始めるのが大事らしく、親が勝手に申し込んだらしい。
「クソババアふざけんなよ。あー、本当に世界滅ばねえかな」
「同感。ノストラダムスの予言、実は十八年ずれてましたとかだったらいいのに」
三つ、エマが転校してしまうこと。青天の霹靂だった。アメリカにいるお祖母さんの介護が必要になって、一家でアメリカに引っ越すとのことらしい。
「ごめんね。なかなか言い出せなくて。美和っち、大事な時期だったから、推薦決まるまでは黙っておこうと思って」
エマは色々言っていたけれど、私は泣いてしまってろくに何も言えなかった。
「文化祭、私の分まで頑張って。絶対成功させてね」
「うん、約束する」
私はエマから漫研の部長を引き継いだ。
私の目標はただ一つ。文化祭までに、宙と一緒に漫画を完成させること。それだけ考えていれば、他のことは全部忘れられた。仲が良かったエマがいなくなって女子の間で浮いていることも、高校を卒業したら宙と離れ離れになることも。
どうせ家では作業ができないので、部室でいつもエマが使っていたパソコンと液タブを使ってデジタルで描くことにした。
「これからはデジタルの時代っしょ!」
趣味でiPadにタッチペンで絵を描くことはあったけれど、液タブはそれよりはるかに使いやすかった。大人になって自由になったら、絶対に買いたい。その時までずっと宙と一緒にいられたら嬉しい。
世界滅べ、と言いながらも文化祭までは待ってほしい。そんな思いを抱えながら二学期を迎えた。学校全体が文化祭に向けて動き出す。私も漫画の完成に向けてラストスパートをかけていた。
でも、漫画のことだけをやっていればいいというわけにはいかなかった。展示に向けての雑務もあるし、クラスでやるお化け屋敷も完全にノータッチというのは顰蹙だ。
「準備、みんな必ず週二日は出てね! ダメな場合は代役立ててよ」
文化祭準備期間に入ると、クラス責任者の子がルールを定めた。家に液タブはないので学校にいる間しか作業ができず、まだ終わっていない私は焦っていた。
「代役OKなら美和の分のノルマは俺がやればよくね? もうペン入れまで終わってるんだから、今更俺と話し合うこともねえだろ」
クラスの分のノルマと、本来は部長がやる雑務。そのすべてを宙が代わりにやってくれた。宙の「やっぱ美和うまいわ」の声を聴きながら漫画を描く時間が好きだったけれど、今は完成が最優先だ。原稿が完成したら、真っ先に宙に見せる。そしてそれを印刷したらコピー本の製本作業だけ一緒にやれたらそれでいい。離れていても、私たちは二人で色壁ホセだ。
文化祭四日前、比較的早い時間帯に原稿が完成した。あとは保存して印刷するだけだ。宙はクラスの方にいるから、印刷までやってから連絡すればいいかなと思った。保存のアイコンをクリックする。反応がない。不思議に思ってもう一度クリックしたら、エラーが出てパソコンが固まった。
全身の血の気が引いた。嘘だ。こんなのってない。最後にバックアップとったのいつだっけ。震える手でスマホをとって、「パソコン 動かない」で検索する。検索結果がずらりと並ぶが目が滑って文字が頭に入って来ない。「修理まで十日」「データ復旧三万円から」などの広告ばかりが目に入ってくる。こういう時って再起動するんだっけ。あれ、電源落としていいんだっけ。最後に保存かけたのいつだっけ。
頭がパニックになる。息ができない。どうしよう。私だけの作品じゃないのに。エマに絶対成功させると約束した文化祭なのに。部室には誰もいない。みんな自分のクラスの方に行っている。
どんな検索ワードを入れればいいかわからないブラウザを閉じる。
「たすけて」
宙にメッセージを送った。
既読はすぐについた。でも、返信がなくてずっと不安だった。部室の外で足音が聞こえたかと思ったら、すぐにドアが開いた。
「どうした?」
宙の顔を見た瞬間、感情があふれ出した。
「そらぁ」
私は宙に縋り付いて泣いた。
「パソコン、動かない。データ、消えたかも。どうしよう」
「あー、落ち着け。俺、風邪気味だからあんまくっつかないほうがいいぞ」
「ずっと二人で文化祭のために頑張ってきたのに、消えちゃった。半年間ずっと頑張ってきたの、無駄になっちゃった。ごめんなさい」
宙のシャツに顔を押し付けたままわんわん泣いた。
「ちょっ、泣くなって。俺が泣かしてるみたいだから。大丈夫だから落ち着け」
「だって、文化祭絶対成功させるって約束したのに。私、昔からどんくさくてこうやって人に迷惑ばっかりかけてて、ほんと最悪」
宙の胸にすがりついて泣き続けた。宙の大きな手が私の背中をさする。
「とりあえず、いったん落ち着いて。データ消えたって決まったわけじゃないし、少なくとも一週間前のバックアップデータは俺のスマホに送ってるはずだから。ペン入れまでは終わってるよな。最悪できたとこまででいいから出そう。一週間分の作業消えたら確かに悲しいかもだけどさ」
「でも、せっかく宙が面白い話つくってくれたのに、未完成のまま出しちゃったら台無しじゃん。私は絵描くくらいしかとりえないのに、それすらちゃんとできなかったら、もう役立たずすぎて私なんのために生きてるんだろうって」
「まあ、文化祭に間に合わなかったらネットにでも上げればいいだろ。それに、新歓で描いたやつはちゃんと完成してるじゃん。そっちも展示するわけだから、ちゃんと俺の作品、美和のおかげで日の目を見ることになるしな」
私を言葉で慰めている間、宙はずっと私の背中をさすってくれていた。
「大体美和が役立たずだったら去年までの俺はどうなっちゃうのって話で。美和は去年と一昨年もちゃんとイラスト集出してたし、ちゃんと漫研に必要な存在だから安心しろって」
宙が私の髪をぐしゃっと撫でた。
「あとさ、俺は美和とかエマほど行事に思い入れがあったわけじゃなくて、毎日退屈でつまんない日常ぶっ壊してえなって思ってて、別に何でもよかったんだよ。それに美和が付き合ってくれて毎日楽しかっただけで充分っていうか……ほらよく言うだろ、結果より過程が大事って。データ消えても楽しかった思い出まではなくならない、って自分で言っててクサいな」
「そんなことない」
宙の言葉が嬉しかった。その瞬間私は確かに宙の言葉に救われた。宙の体に腕を回して抱き着いた。しばらくそのまま泣いた。
「まあ、もっとクサい台詞漫画にぶちこみまくってるから今更か。つーか、あんまり抱きつくと風邪うつるぞ」
「うん、ごめん」
少し落ち着いたので離れた。宙の制服の胸元には私の涙の痕がついていた。宙に椅子に座るように促され、パックのオレンジジュースをポケットから出して渡された。担任からの差し入れらしい。オレンジジュースを一口飲んだ。去年の文化祭で体調を崩して、宙に水をもらったことを思い出す。
「去年もこんなことあったよね」
「あー、懐かしいな。つーか、お前あの頃俺のことちょっと嫌いだったろ」
宙が苦笑いした。私もつられて少しだけ笑った。
「だって、あの頃お姉ちゃんストーカーの弟以上の情報なかったし」
「よし。落ち着いたな。じゃあ、情報の先生探してくるから座って休んどけ。それまでパソコン触んなよ。またなんかあったら連絡して」
そう言って勢いよく部室を飛び出していった。大丈夫、宙の言葉を頭の中で反芻していた。
しばらくして、宙が小走りで部室に戻ってきた。私たちの担当の情報の先生ではない、面識のない若い先生が一緒だった。情報の先生が休みだったから、数学科準備室に行ってパソコンに一番詳しい先生に代わりに来てもらったとのことだ。
先生がパソコンをいじっているのを固唾をのんで見守った。宙はその間時折咳き込んでいた。しばらくして、パソコンが動き始めた。
「一応直りましたよ。ちょっと古いパソコンだったからファンが……」
先生の説明は難しくてわからなかった。でも、結論としてデータはほぼ無事だった。今日の分の作業が飛んだのはショックだけれど、最悪の事態に比べれば全然マシだ。今日中にリカバリーできる。急いでバックアップを取り、無事だったページはすべて印刷した。
「宙、ありがと」
「気にすんな」
「文化祭終わったら、なんかお礼しなきゃだね」
「あー、じゃあ一個お願いするかも。文化祭終わったら言う」
「うん、何でもいいよ」
お菓子やジュースだけでなく、私の少ないお小遣いで買えるものなら何でもプレゼントするつもりだった。
パソコントラブルは唯一にして最大のアクシデントで、その後は特に問題なく原稿は完成した。まだギリギリ修正が間に合う段階で宙にチェックしてもらう。
「最後のコマ、すっげえいいじゃん。俺の脳内イメージそのまんま」
「うん、一回消えちゃって塗りなおしたとこなんだけど、直した後の方が綺麗になったかも」
「じゃあ結果オーライってことで」
文化祭当日、最低限のクラスのシフトをこなしたあとは宙と二人で漫研のブースに来たお客さんの対応をしていた。大盛況というほどではないが、去年に比べたら上出来だ。エマが目標としていた「感想ノートをいっぱいにする」ほどではなかったれど、例年よりたくさんの感想が集まった。『異世界アンゴルモア』『続・異世界アンゴルモア』が面白かったと感想を書いてくれたお客さんもいた。一日目の終わり、二人で喜び合った。
「文化祭終わるまでは世界滅ばないでほしいよね」
なんて言って笑い合った。
二日目、午前中は一緒に漫研にいたけれど、宙は午後からクラスの方に行った。二日目にも私たちの作品を面白いと言ってくれた人がいた。一秒でも早く三年C組まで走りたかったけれど、終わるまで我慢した。文化祭終了と同時に、感想ノートを持ってクラスのお化け屋敷まで走った。でも、宙の姿が見えなかった。
「岩崎なら具合悪いって早退したよ」
親切な子が教えてくれた。準備期間に風邪気味だと言っていたこと、昨日も時々咳をしていたことを思い出した。もしかして、私がデータ消失騒動なんて起こしたから、体に負担をかけてしまったのかもしれない。
「大丈夫? 具合悪かったのに負担かけてごめんなさい」
メッセージを送ると、比較的すぐ返信が来た。
「いや、あれは全然平気。どっちかっていうと買い出し何度も走らせやがったクラス責任者のやつらが悪い。あいつら滅べ」
滅べ、のあとに爆発のスタンプも送られてきた。冗談めかした文体だったが、体調はあまり芳しくなかったようで、片付けの日も打ち上げの日も宙は休んだ。心配でメッセージを送ったけれど、なかなか既読がつかなかった。
私のせいだ。罪悪感は日に日に膨れ上がっていった。
水曜日になってようやく宙は登校してきたが、午前中は移動教室と選択授業が多くてなかなか話せなかった。
「美和、部室行こうぜ」
昼休みに入るや否や、宙の方から誘われた。私は小走りで宙の後をついていった。
「体、大丈夫?」
「うん。感想ノートの写真サンキュー」
廊下で話したのはこれくらいだった。部室には誰もいない。静かで居心地がいい。来週の追いコンが終われば正式に三年生は引退となり、気軽に使うこともできなくなるけれど。
「やっぱ静かでいいな。教室じゃ落ち着いて話せねえもん。で、文化祭前に言ってたお願いのことだけどさ」
「あ、ごめん。なんか奢ろうと思ったんだけど、今日お金持ってきてなくて」
約束を忘れていたわけではない。ただ、宙が心配でそれどころではなかった。
「いいよ、美和の耳があれば十分」
私は首を傾げた。
「色々あったけど、楽しかったしこれからも色壁ホセで何かやろうぜ。っていっても、俺ダブスクあるし次の案何も思いついてないから気長にやる感じで。締め切りない方が美和も気楽にやれるだろ」
それはまさしく、どこかのタイミングで私からお願いしようと思っていたことだった。うぬぼれてもいいのだろうか。
「これからもって、卒業しても?」
「どっちかが死ぬまでか、世界が滅ぶまで」
その言葉を聞いた瞬間、涙があふれ出した。ぼやけ始めた宙の顔を見る。宙の首に腕を回して抱き着いた。
「おいおい、泣くなって。女子泣かせるの外聞悪いだろ。あと、俺一応病み上がりだから移っても知らねーぞ」
「大好き」
私の呟いた言葉が宙に聞こえていたかはわからない。
「これからは宙に迷惑かけないように頑張る。絵もめっちゃ練習する」
続きの言葉はしゃくりあげながらも宙に聞こえるように声を絞り出した。
「無理しなくてもいいよ。絵うまいから必要だって言ったら利用してるみたいだろ」
「でも私、絵描くくらいしかできないよ」
「いいよ、美和はそのままで」
すっと息を吸って、優しく力強い声で宙が言った。
「いてくれるだけでいい」
ますます涙が止まらなくなった。私の存在を全部肯定してくれた。宙がいたからまだこの世界で生きていたいと思えた。宙を愛しいと思った。
トクン、と自分の心臓の音が変わったように感じた。ここでようやく、私が反射的に発した「大好き」が友愛ではなく恋であることに気づいた。いつからかはわからない。宙の物語の才能ではなく、宙という人間のすべてに惚れていた。
でも、これからもずっと一緒にいるためにはその感情は隠さなくてはならない。惚れないって約束をしたから。
「宙が二次元だったら絶対惚れてたよ」
顔を上げて笑って、精一杯の強がりを告げる。
「おー、三次元の俺も適度に推してくれ」
既に最推しだよ、馬鹿。そう心の中で呟いた。
その日のうちにイラスト投稿サイトにアカウントを作って、色壁ホセ名義で『異世界アンゴルモア』をアップした。次はどんな話にしようか、アイコンはどんなのにしようかと話しているだけで楽しかった。
数日間、宙にべったりだったと思う。さすがに教室で抱き着いたりはしなかったけれど、休み時間はずっとおしゃべりをしていた。そうこうしているうちに、投稿サイトに一件のコメントがついた。
「良かった」
たった一言だったけれど、嬉しくてたまらなくて、カラオケに行って二人で祝勝会をした。文化祭の打ち上げもちゃんとやっていなかったので、それも兼ねて盛大に祝った。前に二人でカラオケに来た時よりも、恋愛ソングに気持ちがこもった。
「ねえ、次何入れるの?」
体を寄せてデンモクを覗き込んだ。これくらいは前に来た時もやっていたし、ちょっとくらいくっついても不自然ではないはずだ。
だいぶ歌って、ドリンクバーで飲み物をとってきて少し休んでいると、肩に手を回されて抱き寄せられた。宙の方から近づいて来たんだから寄りかかっても問題ないよね、そう思って身を寄せた。宙の肩に頭を乗せる。ドキドキする。エマが相手ならよくこういうこともしていた。友達ならセーフ。公共の場じゃないから大丈夫。色々なことが頭をぐるぐるしていた。
宙が体勢を変えて私の方をむく。頬に触れられた。宙が顔を傾けて近づけて来る。キスされる、鈍感な私でもそう思った。私は宙のことが好きだから、キスされてもいいと思った。でも、でも。
「だめっ」
やっぱり、こういうのは良くない。
「私、付き合ってる人としかキスしないから」
久しく忘れていたが、宙は真面目な時は真面目だけれど基本的にチャラい。漫画が好きだからと言って陰キャとは限らない。私が把握しているだけで元カノが三人いる。だから、宙は恋愛感情がなくてもキスできる
「悪い、やっぱ良くねえよな。元カノの親友にこういうことすんの」
「え?」
思わず聞き返した。
「やっぱ聞いてないよな。もう時効だから言うけどさ、俺一年の夏ごろちょっとだけエマと付き合ってた」
「えええ!」
叫んだ。電源を入れたまま机に放置していたマイクがハウリングした。
「なにそれ聞いてない!」
「ほら、エマってなんか鋭いだろ。美和と俺が気まずい感じなの見抜いてて、付き合ってるの秘密にしようって。一人に言ったらみんなに広まるから、誰にも言ってない」
言われてみれば宙の話題を出した時、エマは何かを言い淀んでいた気がする。危なかった。エマに宙のことを好きになったことを相談する前で良かった。経緯を説明するにあたって、文化祭でトラブルが起こったことを話したらエマに余計な心配をかけると思ったから相談するのはもう少し経ってからにしようと思っていた。
「何で別れたの」
「なんつーか、話というか空気感が合わなかった。あいつ愛されて育ってる感じするじゃん。世の中に鬱屈した感情持ったことないんだろうなって思うと、住む世界が違うなって思った。会話のテンポが合わないとなんかうまく行かない」
口ぶりからして、嫌いで別れたというわけではないのだろう。
「エマのこと、まだ好き?」
「それはない。俺から別れようって言ったし」
エマの方はどう思っているんだろう。それが気がかりだった。でも、そんなデリカシーのないこと聞けるわけがない。
「私、エマを裏切れない」
離れていても親友だ。好きじゃないと宣言しておいて、キスするなんてフェアじゃない。
「やっぱ俺ら、何かとしがらみが多いよな」
同じ学校である以上、共通の知り合いがいて何かしらのしがらみからは逃れられない。それにしたって私たちの場合はしがらみが多すぎる。宙がため息をついた。
「人間関係ってめんどくさいよな。全部捨てて逃げ出してえって思うことない?」
「うん。しがらみも平川美和って名前も全部捨てて、別の人間になりたいって思う」
こんな世界なんて滅べばいい、私たちはずっとそう言い続けていたけれど、ここじゃない別の世界に行けるならその方がいい。二人でこの世界を抜け出して、色壁ホセとして二人で生きていけたらきっと幸せだ。
「まあ、それができないから世界滅べって言ってんだけどな」
やっぱり、宙は私の理解者だ。
「明日世界が終わるなら、やりたいこと全部やれるのにね」
結局私は両親の敷いたレールが嫌だと言いつつも能動的に逃げる勇気がない。だから、誰かに終わらせてほしいと思っている。
宙とのこの関係が終わって、それでも生きていかないといけない日々が怖くて告白できずにいたら、好きになってはいけない理由が増えてしまった。
「例えばの話だけどさ、地球最後の日にだったら付き合うの、アリだと思う?」
世界が滅ぶなら、エマを裏切ったまま生き続ける必要がない。
「いいね、それ。その時はキスしてもいいよ」
大人ぶってそう答えた。宙は私が弱っている時には優しいけれど、時々ずるい。関係を確定させるような言葉を言わない。
「世界、早く滅べばいいのにな」
「うん、私もそう思う」
でも、私もまた友達以上恋人未満のこの関係が、普通に恋人同士になるよりも尊いような気がしていた。
実際、友達以上恋人未満の関係は楽しかった。キスしたり手を繋いだりするわけではないけれど、普通の男女の友達よりも近い距離で話す。それだけで幸せだった。
創作の方は締め切りがなければ焦ることもなく、何も進まず何も決まらなかった。一応投稿サイトのアイコンだけはかっこいいものを描いた。でも、今後のことを話しているだけで楽しかった。
「なんかのきっかけで異世界アンゴルモア、万バズしてくれたらいいのにね」
「わかる」
変わらない日々が続き、十二月の始めに指定校推薦の合格が確定した。親の決めた学校とはいえ、「不合格になったので一般受験してください」という掌返しは本当にシャレにならないので本来喜ばしいことだ。しかし、宙は今までにないほどげんなりしていた。
「母方のばあちゃんちに下宿するからようやく親元離れられると思ったのに、あのクソババアついてくるとか言いやがった」
「うそでしょ? 過干渉過ぎない?」
「兄貴が税理士試験落ちたんだってさ。兄貴ですら自由にさせたらダメになるんだから、もっと馬鹿な俺は監視してなきゃだめなんだとさ」
うちも大概過干渉だが、宙の家は度を超えている。あまりにも気の毒だ。
「俺のこと兄貴と比較して馬鹿扱いしたいのか、兄貴が落ちぶれたから俺をスペアにしたいのかせめてどっちかにしろよ。本当にありえねえ」
世界滅べ、とすら言わなかった。宙は完全に憔悴しきっていた。
自分の存在意義に悩んでいた私を救ってくれたのは宙だ。だから、今度は私が空を救う番だ。気分転換になるようにと、色壁ホセのこれからの話をした。
「あー、スランプかも。全然話思い浮かばねえ」
「いいよ。どんな宙でも、宙は宙だから」
以前のようなきらきら感がないままに、冬休みに突入した。宙はダブルスクールのコマ数も増やされたようで忙しく、全然会えなかった。三学期になると自由登校期間になり、ほとんど顔を合わせなくなってしまった。連絡は取りあっていたけれど、文字ベースのレスだけによるコミュニケーションでは何かが直接の会話とは違った。はっきりとは言語化できないけれど、もしかしたらとんでもないすれ違いを生んでしまっているのかもしれないと言うぼんやりとした恐怖があった。
あっという間に卒業式を迎えてしまった。卒業式には私の親も、例の毒親も来ていた。だから、私たちは一緒に写真を撮ることはおろか、話すこともしなかった。これで終わりではないと信じていたから。
四月になって新生活が始まった。宙には毎日メッセージを送った。ちゃんと連絡を取っていれば疎遠になったりしない。エマとは定期的に連絡を取っているからまだ交流がある。だから、ずっと連絡を取り合っていれば、色壁ホセは永遠だと信じていた。
「サークルはインカレのフットサルサークルと学内の旅行サークルに入ることにしたんだ。あと、ガイダンスで席が隣だった子と仲良くなって、日曜日に一緒に遊びに行くの」
「随分と楽しそうだな」
「うん。そっちは漫画のネタになりそうなことあった?」
「そんなことしてる余裕ない。ダブスクで忙しい」
そんなこと、というフレーズにやたら棘を感じた。穏便に返信しようと思ったら、さらに追撃してきた。
「前々から思ってたけど、こっちが余裕ない時に漫画の話されるのすごいプレッシャー」
この時、リアルで顔を合わせていて、宙が泣きそうな顔をしていたら私は迷わず宙を抱きしめて頑張らなくていいよと言ったと思う。でも、メッセージベースのコミュニケーションでは細かいニュアンスは伝わらず、どんどん悪い方に解釈してしまった。
わざわざ書かなかっただけで、私も楽しいサークルライフへの期待以上に女子大という女社会にちゃんと馴染めるか、いじめられないか。そういう不安があった。ここには宙もエマもいないのだから。結局のところ私にも余裕がなかった。
「何でそう言う言い方するの」
「別に悪口行ってるわけじゃないだろ」
「悪口じゃないけど、きつい」
私と仲良くしてくれるような人は、大体エマみたいに優しくてまともだ。だから、友達との喧嘩の経験はほとんどなかった。ましてや、ラインできつい言葉の応酬なんてしたことがなかった。
「なんで俺のこと悪者にしようとするわけ」
「そんなこと言ってない」
「言ってないにしてもさ、お前泣き虫だし空気読めないしこっちが余裕あるときはいいけど余裕ないときは相手してて疲れる」
宙の言葉は私の逆鱗に触れた。スマホを投げそうになるのは抑えたけれど、返信する手は止められなかった。
「嘘つき。いてくれるだけでいいって言ってくれたじゃん」
嘘つき、とさらに二回追撃した。
「お前、今ここにいないじゃん」
「じゃあどうすればよかったの」
全部捨てて一緒に大阪に行けばよかったの。でも、偏差値が足りないのだからどうやったって無理だ。
「距離を置きたい」
それは事実上の色壁ホセに対する死刑宣告だった。遠距離恋愛で破綻しないために恋人にならないことを選んだのに、どうしてそんなことを言うのだろう。
「嘘つき。恋愛しなければ関係破綻しないって言ったくせに」
「あんなのほぼ恋愛だろ」
じゃあ、なんでキスしようとしたくせに付き合うとは言わなかったの。適当に遊んで捨てるつもりだったの。そこまで打って、あまりにみじめで全部消した。
「宙は色壁ホセをどうしたいの」
「もう何も考えたくない。疲れた」
終わらせたくないから恋はしない。そう言ったくせに、宙が終わりを選ぶなんてこんなの契約違反だ。
「うそつき」
もう漢字変換する余力すら残っていなかった。
「だいきらい」
勢いのまま、ラインをブロックした。今思えば、あの時の私は頭に血が上っていた。
でも、恋愛か友情かなんて些細な問題だった。どちらにせよ、物理的な距離が離れた状態で心理的な距離まで離れれば、仲直りをするのは至難の業だ。ましてや、まともな仲直りの仕方を私は知らなかったのだから。
この後の私はだいぶ荒れた。宙を忘れるために、インカレの先輩と付き合った。先輩は宙に顔は似ていなかったけれど、カラオケの選曲とか筆跡とかが宙に似ていた。身長もちょうど宙と同じくらいだった。
でも、夏になっても宙のことを忘れられなかった。ずっと、世界なんて滅べばいいと思っていた。色壁ホセは世界が終わるか、どちらかが死ぬまで続くはずだった。ふざけんな死ね、と心の中で何度も毒づいたけれど、私の好きだった宙は死んだのだと思うことにした。
大学近くの商店街の七夕の短冊は誰でも自由に願い事を書いてよかった。母の目に触れる心配は万に一つもない。それどころか、宙を知る人に見られることもない。でも、復縁を願うのは何かに負けた気がして癪だった。
世界が滅ぶこと、私を捨てた宙が不幸になること、私はそのどちらも望まなかった。ただ、もしもこの先何か宙に嫌なことが会った時、あるいはふと思い出した時に、私を捨てたことを「ちょっとだけ後悔してほしい」名前も主語も書かずにそれだけを書いた。
成人式までずっと宙のことは引きずっていた。成人式で宙を見かけて、声をかけようとした。
「えー、岩崎の彼女めっちゃかわいくね? どこで出会ったの?」
「ダブルスクールで席が隣になって、同い年ってわかって」
宙のスマホを見ながら男子と談笑していた。彼女、いるんじゃん。そう思うと、仲直りする気が急に消え失せた。喧嘩を売りたいわけではない。でも、謝りたくもない。
「岩崎くん!」
わざとよそよそしい呼びかたで呼び掛けた。宙は私を見て驚いた顔をしたが、すぐによそ行きの表情に戻った。
「久しぶり。元気だった?」
どうしてあんなことがあったのに、こんなに普通の反応ができるんだ。私にとっては一大事だったのに、宙にとっては大したことじゃなかったのか。
「絶好調、来週彼氏と旅行に行く予定」
あてつけのように彼氏の話をした。当時彼氏がいたのは本当。婚前旅行なんて許されるわけがないので、旅行は嘘。彼氏は性懲りもなく、宙によく似た人だった。
「そういえば、あっちで元三年C組の集合写真撮るってさ」
「そうなんだ、今行く」
その後も色々なグループで写真を撮った。エマは欠席だったけれど、それ以外の漫研メンバーで写真を撮った。写真は私のスマホで撮ったので、私がみんなに個別に送ることになった。ブロックを解除して、宙に写真を送った。宙が最初から私をブロックしていないのか、ブロックを解除したのかは知る由もないけれど、ちゃんと既読がついた。そのあと、当時はやっていた漫画のキャラのスタンプで「ありがとう」と送られてきた。宙とはそれっきりだった。
成人式のすぐあと、世界中をパンデミックが襲った。世界が終わるんじゃないかと思ったこともあったが、杞憂だった。同窓会の類はその後いっさいなくなり、宙と会うきっかけがますますなくなった。
エマが十年ぶりに日本に帰ってくると言うので、会う約束をしていた。その二日前に、急にお腹が痛くなって救急車で運ばれた。こんな世界なんて滅べばいいと思っていたけれど、いざ死ぬかもしれないと思うと未練があった。最期に宙と仲直りがしたかった。
搬送先で手術を受けた。盲腸だった。死ぬかもしれないと思ったわりには、深刻な事態ではなかった。比較的よくある疾患だった。入院にはなったが、術後の経過は良好だ。私は死ぬことなく生きながらえた。
元々約束していたエマがお見舞いに来てくれた。宙からもメッセージに返信があった。
「久しぶり。覚えてるよ。どうした?」
何事もなかったかのような普通のメッセージだった。死ぬかもしれないと思って連絡をしてみたけれど、私は普通に生きている。急に恥ずかしくなってなんと返したらいいかわからずにいる。
「ねえ、宙に連絡とったんだよね? やっぱり美和っち、宙のこと好きだよね?」
近況を報告し合う最中、エマが切り出した。宙はエマに連絡をとったようだ。もうごまかせない。私はすべてを打ち明けた。宙のことが好きだったこと、宙と喧嘩したこと、最期だと先走って宙に連絡を取ったこと。
「ごめんなさい」
こんなの、十年来の親友に対する裏切りだ。本当に私は最低だ。
「ごめんね。言い出しにくかったよね。アメリカに帰った後も、もっと美和のこと気にかけるべきだったよね」
「違うよ、エマは何も悪くないよ。全部私が悪い」
これは私の問題だ。
「美和っちだって何も悪くないよ。宙に返信しなよ。私のことは気にしなくていいよ。宙、心配してたよ」
突然の連絡に驚いて、私の親友のエマに連絡を取った。盲腸で入院して手術をしたと聞いて、心配している。宙は本質的に優しいから、病人を心配するのは当たり前のことだ。
「死ぬかもしれないって勘違いして連絡して、実は大丈夫でしたって痛々しくない?」
「連絡の理由には私のこと使っていいよ。エマが久々に日本に帰ってきたから漫研の男子と連絡とりたいって頼まれた、でも盲腸になっちゃった、おかしな話じゃない」
話の筋は通っている。それなら不自然ではない。
「何でそこまでしてくれるの? エマは嫌じゃないの?」
「うーん、私はさ、確かに宙と付き合ってはいたけど宙の理解者にはなれなかったから。でも、美和っちは宙の人生に必要な人だったと思う」
私にはそうは思えなかった。今の話を聞いて、別れてもなお宙に対する理解が深いのはエマの方だと思った。
「それに、未練あったら部活で普通になんて振る舞えないよ。美和っち、私たちが付き合ったことも別れたことも全然気づかなかったでしょ? その程度だったんだよ」
エマはひとつひとつ、私が宙と復縁すべきだという理由を列挙する。でも、エマは知らない。それをするには遅すぎるということを。
「でも、今更だもん。宙、結婚しちゃったみたいだし」
宙の結婚は本人から聞いたわけではない。三年前に漫研時代の同期が宙にSNSで「結婚おめでとう」とリプライをしているのを見ただけだ。もう私たちはその程度の関係だ。
「好きだって言わなくても、仲直りはした方がいいと思う。ずっと後悔してたんでしょ? 今、仲直りしなかったら一生後悔するよ」
エマはいつもまっすぐだ。悔しいけれど、正論だ。
「高校時代の誰に聞いても、美和っちと宙はニコイチだったって言うと思う。美和っちにとって宙は恋云々の前に、理解者だったんでしょ?」
「うん、ありがと」
いつの間にか涙声になっていた。私のスマホが震える。宙からのメッセージが来ていた。
「エマから聞いた。盲腸って本当? 大丈夫?」
スマホのポップアップ通知はエマの目にも入った。
「じゃあ、私はおいとまするので文字じゃなくてちゃんと声で話した方がいいよ。お大事に。元気になったらお茶しよ」
エマが私に手を振って病室を出ていく。エマに提案してもらった通りの言い訳をした後、勇気を出して通話を提案した。
「たぶんすぐ退院できると思うけど、入院めちゃくちゃ暇。時間大丈夫な時に少し話せる?」
返信はすぐ来た。
「いいよ。今話せる」
通話がかかってくる。反射的にタップしたが、まさかの普通の通話ではなくビデオ通話だった。眼鏡をかけているのと髪型以外はほとんどあの頃のままの宙がいた。すっぴんで入院着、髪もボサボサ。およそ初恋の人に見せる格好ではなかった。
「久しぶり。大丈夫?」
「うん、ごめんね余計な心配かけて。でもよかった、忘れられてるんじゃないかと思った」
「さすがに美和のことは忘れられねえわ」
困ったように宙が笑った。
「今日平日だけど、お仕事大丈夫?」
「ちょうど今日在宅勤務の日だったんだよね。嫁は普通に仕事だから家に一人。あ、実は俺結婚してて……」
少し気まずそうに宙が言う。知らなかったらショックを受けていただろうけれど、そんな段階は三年前に過ぎている。
「奥さん、絵描く人だったりする?」
聞いたあとすぐに後悔した。もし、私以上に絵がうまい人だったら立ち直れないかもしれない。
「いや、俺以上に絵心無いよ。この間姪っ子にお絵描きしてって言われて描いた絵がやばかった」
心底ほっとした。
「俺は一応無事税理士になって、まあ何とかやってるよ。美和は今何してんの」
親に敷かれたレールに乗って、大手メーカーの一般職に就職した。幸いにもホワイト企業で、よっぽどのことがない限り転職することもないだろう。でも、この質問をされたらこう言うと決めていた。
「イラストレーターやってる」
副業とも呼べない趣味の延長戦。SNSとクラウドソーシングサービスで依頼を受けて、絵を描いている。たまにしか依頼が入らないので、食べていくのは無理だ。フォロワー数だって多い方じゃない。でも、私の絵にお金払ってくれる人がいるんだよ。
「マジかよ、すげえじゃん」
宙が無邪気に私を褒める。十年前、あなたがそうやって私の絵を褒めたことが後生忘れられなかったんだよ。あなたと他愛もない話をしながら絵を描いていたあの季節が人生で一番きらきらしていて、あの日々を取り戻したくて創作の世界に戻ってきちゃったんだよ。イラストレーターとしての名前は鉄竹まみ。「また見つけて」のアナグラム。こんな未練たらたらの名前使ってるんだよ。
「宙と漫画描いてた時、楽しかったから」
あなたが私の人生の道を決めたんだよ。責任取ってよ。責任取らなくても、ちゃんと覚えててよ。
今ならわかる。ずっと認めるのが怖かったけれど、当時の絵を見返すと随分と拙い。上手だと言っても、同級生の中ではうまい部類程度のものだ。宙に対しての評価もまた私の絵を褒めてくれた人が書いた作品だったからバイアスがかかっていた。それでも楽しかった。二人で作った作品を世界一の名作だと無邪気に信じていたあの頃が一番幸せだった。
「俺もあの頃が人生で一番楽しかったよ」
宙が寂しげに笑った。
「もしもあの頃の自分に会ったら、美和と喧嘩するなって言いたい」
「私も、大嫌いなんて思ってもないこと言わなきゃよかった」
「それは実際結構傷ついたわ、あの後しばらく不眠症になったし飯食えなくなったし。いや、後悔するくらいなら謝れよって話なんだけど、連絡する勇気もなくてさ」
違う。宙が仮に勇気を出してくれていても、私は宙のラインをブロックしていた。あの頃の私は弱かったから、これ以上傷つかないために拒絶を選ぶことしかできなかった。
手の甲で涙を拭った。お互い謝ったわけではない。でも、お互いずっと後悔していた。それが分かったからもう十分だ。
「ちゃんと美和に謝れって昔の俺のことぶんなぐって、あの瞬間はいっぱいいっぱいだったけど、いつか心の余裕もできるって教える。だから、それまで色壁ホセは続けろって言う」
二人で決めたその名前を宙がおぼえてくれていた。宙にとって、あの日々は黒歴史ではなく、ちゃんと楽しい思い出だった。これでようやく、綺麗な思い出にできる。
「不器用だったよね、私たち。不器用なりに必死だったよね」
私たちは子供で、無力だった。大人には逆らえないし、しがらみでがんじがらめだった。
「そうだな、もし来世があるなら、もっとうまくやるわ」
「私も、来世は好きな人にはちゃんと好きって言う。親とか周りのこととか気にしないでさ」
でも、現世では言わない。宙はもう既婚者の身だ。あの頃あなたのことが大好きでしたと伝えたら、二度と会えなくなってしまう気がするから。
「俺も、適当な恋愛はしないようにする。付き合った人数は結構いるけど、本気で好きになったのは……いや。やっぱなんでもない。忘れて」
宙もまた、はっきりとは言葉にしなかった。だから、都合よく解釈することにした。宙はやっぱりずるい。でも、そういうところも好きだった。宙の全部を愛していた。
「ねえ、世界が滅ぶとき、生まれ変わってるかどうかは分からないけどさ。その時は会いに行ってもいいかな」
「うん、約束しただろ」
地球最後の日になったら付き合う。実現するかすらわからないそれを宙は約束と呼んでくれた。
「だから世界が早く滅びますようにって祈っておくよ」
私は、宙とさよならをしてもジュリエットみたいに死ねなかった。ノストラダムスの予言は現実にならなかった。
世界が滅ばない限り、私は明日も生きていかなければならない。では、どうやって生きていくか。とりあえず、絵は続けようと思う。
「いてくれるだけでいい」
そう言って宙が存在を肯定してくれたあの頃の私は、絵を描くことが好きな普通の女の子だったから。
変わりばえのしない日常を送る中、今まで生きてきた中で一番の激痛が腹部に走った。床に倒れて呻く私を見て、母が救急車を呼んだ。死ぬかもしれない、そう思った。最期に後悔を残したくなくて、力を振り絞って岩崎宙にメッセージを送った。
「平川美和です。覚えてますか?」
通話ボタンを押したが、都合よくつながるわけもなかった。そういう運命なのだから仕方ない。悲劇でしか終われないロミオとジュリエットみたいな恋。大げさかもしれないが強大な運命に引き裂かれた悲しい恋だった。少なくとも十八歳の私にとっては。
◇
岩崎宙に対して、最初は嫌悪感を抱いていた。姉をストーカーしていた男の弟だからだ。母にも彼とは関わってはいけないと言われていた。
「漫画研究会なんてやめなさいよ。音楽系とか料理部とか、他にもいろいろあるでしょう?」
最悪なことに私が入部した漫研には岩崎も入部していて、それが母に発覚した時は退部を勧められた。
「そんなこと言ったって料理部は火傷するかもしれないし、音楽系は忙しいから勉強と両立できないからお母さん文句言うじゃん。それに岩崎は幽霊部員だから顔合わせることないもん」
強制退部はなんとかまぬがれた。しかし、迷惑なことには変わりない。岩崎の兄が余計なことをしなければ、母と交渉する必要もなかった。
「美和っちって宙のことあんまりよく思ってないよね?」
二学期に同じ漫研で親友の花村エマに聞かれた。
「え、なんで?」
「だって、美和っち絶対に宙に話しかけないし」
もちろん、大好きな姉を傷つけた人と兄弟だからといって色眼鏡で見るのはやめようと最初は思っていた。でも、本当に岩崎のいい噂は聞かない。女の子をとっかえひっかえしているらしい。文化祭は自由参加とはいえ、作品を提出しない不真面目なところも気に食わない。時折聞こえてくる漫研の男子との会話からも性格の悪さがにじみ出ていた。
「日曜にイベントあるじゃん、宙も行こうぜ」
「オッケー。親には勉強会って言っとくから口裏合わせよろしく」
息をするように嘘をつける人は信用ならない。他の人が同じことをしていても何も思わないけれど、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとはよく言ったものでちょっとしたことも癇に障った。
とはいえ、部活の空気を悪くするのは良くない。こちらから喧嘩を売ったりはしなかった。意図的に無視したつもりはないけれど、岩崎から話しかけてくることもなかったので半年間全く話すことなく過ごしていた。
「えっと、エマにしか言わないから誰にも言わないでね。私は別に嫌いとかじゃないんだけど、実はね……」
エマにだけ事情を話した。エマは口が堅かったから。
◇
初めて岩崎とまともに会話したのは二年生の九月。文化祭の日だった。
「さっむ……」
午前中はそうでもなかったのに、午後から急に体調が悪くなった。悪寒がひどい。半袖で登校してきたことを後悔した。でも、少ない部員で現場を回していたから持ち場を離れて休むわけにはいかなかった。
「漫画研究会です! 部員が描いた漫画、ぜひ読んでいってください!」
喉は痛いし、立っているのも辛かったけれど必死で呼び込みをした。あの頃は感染対策なんて概念はなくて、風邪をひいても頑張るのが美徳の時代だった。だから、シフトに穴をあけるわけにはいかなかった。
他の部活に負けないように声を張っていたら、咳が止まらなくなった。仕方がないので水を飲みに控室に戻った。しかし、床に散乱している鞄の中から自分の物を探そうとしてしゃがみこんだが最後立てなくなった。早く戻らないといけないのに。
「おい、どうした?」
突然、頭上から声が聞こえて振り返る。
「岩崎君……」
岩崎は昨年同様作品こそ提出していなかったが、当日のシフトには入っていた。
「顔色悪いし震えてるし、保健室行った方がよくね? エマには俺から伝えとく」
「ダメ、エマには心配かけたくない。あと、まだシフトあるし」
次期部長でイベントごとが大好きなエマは文化祭も張り切っていた。お客さんの感想を楽しみにしているエマは、今も笑顔で受付をしている。そんな親友の邪魔をするわけにはいかなかった。
「俺、代わろうか? これから休憩の予定だったけど、別に見たいもんねえし」
「え、悪いよ」
「いいよ、暇だし。つーか、声掠れてんじゃん。水、飲む? これまだ口付けてないやつ」
未開封のペットボトルを見せられた。岩崎に借りは作りたくなかったが、そうも言ってられなかった。
「ごめん、もらっていい? 後でお金払うから」
「ほい」
岩崎はわざわざ蓋を開けて渡してくれた。水を飲む。岩崎の優しさが体に染み渡った。
「寒い? 上着持ってる?」
「持ってない」
そう言うと岩崎は自分が着ていたカーディガンを脱いで私の背中にかけてくれた。
「いくら人多いからって今日冷房効きすぎだよな。立てるか? 肩貸す?」
そうしている間に、控室に後輩が入ってきた。
「あれ、美和ちゃん先輩どうしたんすか?」
「こいつ体調悪いみたいだから今から保健室連れてく。次のシフト俺が代わりに入る。エマには心配かけたくないからエマのシフト終わるまでは黙っとけだってさ」
「いや、そこまでさせるの悪いって。自分で行けるから」
かろうじて立ち上がる。
「ほら、いくぞ」
「はーい、美和ちゃん先輩お大事に」
何度も遠慮したはずなのに、結局保健室まで同行してもらうことになってしまった。
「ごめんなさい」
道すがら岩崎に謝った。顔は直視できなかった。
「いいって。あの状態の病人放置するほど鬼じゃねーわ」
「ごめん」
「そんなに謝らなくても。ていうか、そんなにビクビクすんなって。俺別にお前のこと嫌ってるわけじゃねえから」
岩崎に話しかけられたのは今日が初めてだ。嫌われるほどの関係性すら築いていないが、“嫌うきっかけ”となりうる要因が何かは言わずともすぐ分かった。
「お前の姉ちゃんは貢がせた挙句二股するカスだけど別にお前関係ないもんな」
岩崎の兄と私の姉は元々付き合っていたが、別れ話が拗れて向こうがストーカー化した。姉の貢がせやら二股やらの話は初めて聞いたけれど。
「そうだね」
私も岩崎のことを誤解していたのかもしれない。結局、熱が三十八度あった私は早退することになり、岩崎が保健室まで荷物を持ってきてくれた。
家に帰ると、友達追加していないユーザーからメッセージが来ていた。漫研のグループトークからわざわざ探してくれたのだろう。
「大丈夫? 家帰れた?」
「うん、今日はありがと」
返信をした後、“宙”のアカウントを友達登録した。
私は笑えるくらい単純な人間だった。弱っているときに優しくされた。それは充分に岩崎宙という人間を信頼するに値する理由となった。
数日後完調して登校したタイミングで、洗濯したカーディガンと文化祭の日にもらったのと同じ水、そしてお礼のお菓子を渡した。
「おっ、これ俺の一番好きな奴。サンキュー」
「だよね、これおいしいよね!」
「わかってんじゃん」
今まで全く話さなかったのが嘘のように、普通の部活仲間としての普通の会話をした。
「宙と和解したの?」
翌日教室でエマに聞かれた。部室で私たちが普通に会話をしていたのが青天の霹靂だったようだ。
「うん! 元々喧嘩してたわけじゃないからさ。実はすごいいいやつでびっくりしちゃった!」
「そうなんだ。よかったね」
エマはそれ以上何も言わなかった。
エマが部長になって新体制になった漫研の目標は来年度の部員の確保だった。部費が減らされるのは死活問題だ。元より私は漫画が部室にたくさんあるから、それだけの理由で漫研に入った。部費が減って新しい漫画が減ったら新入部員の獲得にも差し障るだろう。
「というわけで、新歓用の作品は一作品でも多い方がいいね! 強制じゃないけど、絵が描けない人とか話を作るのが苦手な人は共作するのもありだと思うから考えてみてね」
漫画は読む方専門で、話を考えるのは得意ではない。ただ、絵を描くのはそこそこ得意なので、文化祭ではイラストを何枚か提出した。
エマの呼びかけの後、岩崎に声をかけられた。
「お前どうすんの」
「エマが言うなら描こうかなー、っていってもストーリー考えるセンス全然ないんだよねー。普通に話してても、美和ちゃんの話つまんないとか言われるしさ。ひどくない? って、この話はいいや。岩崎君は?」
「保留。元々漫研入ったのって漫画読めるからで、描く方は興味ねえし。うち今時漫画禁止なんだよ」
「え、うちもおんなじ! 親が漫画に偏見あるしお小遣いも少ないから全然漫画買えないや。てか、よく親漫研入るの許してくれたね。入部するとき文句言われて大変だった!」
「部活はどこか入らないといけないけど、勉強に一番影響でない暇な部活だから幽霊部員って嘘ついてる。部活ある日は図書室で自習してることにしてる」
「うえー、毒親じゃん」
岩崎が親との関係に悩んでいることを初めて知った。親に隠れて女遊びをする不良の印象だったけれど、親から過度に抑圧されればそうなってしまうのも仕方のないことなのだろう。
「そう。兄貴を見習え勉強しろしか言わねえよあいつら」
いや、ストーカー見習っちゃだめでしょ。と心の中でひっそり思った。
「わかるわかる。上と比較されるのって、ほんと最悪だよね! うちのお母さんもお姉ちゃんはできるのにどうしてできないのとか言ってくんの!」
私も美人で要領のいい姉と何かと比較されることが多かった。姉のことは好きだけれど、姉がもっとブスで馬鹿だったらよかったのにと思った回数は数えきれない。親の過干渉にもうんざりしていた。女の子なんだから、としつこく言われることに辟易していた。私たちはここぞとばかりに親の愚痴を言い合った。
「なんか、お前も色々悩んだりするんだな。なんか意外だわ」
「えー、私ってどういうイメージなのよ」
「いつもテンション高い感じでエマに懐いてる妹分」
「もー、否定できないこというのやめてよー」
岩崎とお互いの家の愚痴を言い合うことも、軽口を叩き合うことも文化祭前には想像がつかなかった。
ある時、エマが風邪で学校を休んだ。いつも一緒にお弁当を食べていたエマがいないから、教室で一人でお弁当を食べるのも気まずくて部室に行った。そこには先客がいた。
「あ、ごめん。邪魔した?」
「いや、別にいいけど。どうした?」
「エマが今日休みで、なんか教室いづらくて」
少し前までは岩崎に弱みを見せるなんて考えられなかった。でも、今は正直に話せる。
「別に普通じゃね? 俺もクラスの友達が昼練ある日は部室で飯食って、そのまま五時間目まで漫画読んでる。教室うるさくて落ち着かねーし」
「わかる。うるさいよね。耳キンキンする」
傍若無人にふるまう陽キャに対する不満を語りながらお弁当を食べた。先に食べ終えた岩崎が漫画を読み始めた。九十年代、私たちが生まれる前の作品だ。
「岩崎君って結構昔の漫画読むよね」
「うん。世紀末の空気感が好きなんだよな」
「あー、世界滅亡するかも的な?」
ノストラダムスによって世界が滅亡すると予言されていた一九九九年、私たちは生まれた。知識としては知っているが、当時の空気感まではわからない。四つ年上の姉ですらよく覚えていないだろう。当時を生きていた人たちが少し羨ましい。
「そうそう。てか、お前終末系の作品好きじゃん。これ、読んだらはまると思うよ」
「うん、なんかいいじゃん。世界の終わりって」
「同感。二〇一二年に世界が終わるかもって時ちょっとワクワクしなかった?」
中二病真っ盛りの冬、一部で話題になった滅亡論。ノストラダムスの時ほど世界が混乱したりはしなかったけれど、世界の終わりを見て見たいと思ったものだ。
「したよ。なんなら、また予言者出てきてほしいって思ってるし、時々世界滅べって思うことあるもん」
「俺もだわ。なんか人生ってつまんねえじゃん。親の敷いたレールに載せられてさ」
「わかる。自由が欲しい」
いい大学を出ていい会社に入って、そこでいい人と出会って結婚して子供を生む、それが女の幸せ。そのためには勉強をすることが大事。耳にタコができるほど聞かされた。昔から口うるさい母は誰々と遊んではいけないと交友関係にまで口を出してきた。この高校も、母が行きなさいと決めたものだ。
「ほんと、何が岩崎家の人間としてふさわしい行動を、だっつーの。んな由緒正しい家柄じゃねえだろ。つーかそんなたいそうな家なら継ぐのは長男様だろ。次男の俺のことなんてほっとけっての」
「お兄さんより岩崎君の方がまともなんじゃないの」
言った後、失言だったかもしれないと気付いた。
「そりゃお前から見たらそうだろ。俺だって何でお前の親姉ちゃん見習えとか言ってんのかわからん。どう考えても見習っちゃダメな人間だろ」
二股だとか貢がせただとか、そのあたりの話はどこまで本当かわからない。つきまとい被害についてもそうだ。人は自分がしたことは過少報告、されたことは過剰に報告するものだ。
「受験直前に先生とか親巻き込んだトラブル起こした奴らの何を見習えってんだよな」
「あはは、そうかも。お互い苦労するよね」
顔を見合わせて苦笑いする。
「ほんと、こんなことお前にしか言えねえわ。今日のことオフレコな」
「言わないよ。言ってもみんな信じないよ。岩崎君愚痴とか言わないイメージだし。もっとチャラい人だと思ってた」
「なんかお前話しやすいんだよな。お前の前でかっこつけるのも馬鹿らしいっていうか」
「えー、なにそれ、褒めてる? けなしてる?」
岩崎の発言の真意がわからず一応質問してみた。
「褒めてる。話しやすいって長所以外の何物でも無くね?」
「えー、ほんとに? 私、話つまんないってよく言われるよ」
「話の内容じゃなくて、話してる時の表情とか、聞いてる時の表情とか、オーラみたいなのの話だよ。家の愚痴なんて他の奴に話したことねえもん」
「あー、私もそうかも。世界滅べなんてエマに言ったらドン引きされそうだし」
エマはまともだ。学校行事に全力投球する陽キャだ。私にはもったいないくらいの親友だ。そんなエマが頑張っていたから私も文化祭を頑張っただけで、私自身はそこまで思い入れがあったわけではない。何かに全力投球できる自分になりたいとは思っているけれど、私がいてもいなくても変わらないような学校行事だとどうしても心の底から本気にはなれない。
「そりゃあいつにはわかんないだろうよ。でも、お前はひかねえじゃん」
「そもそも普通の女子はお前呼ばわりされるだけで怒りますよ」
空気を悪くしない程度に砕けた口調で言ってみた。
「あ、悪い。つっても、お前の姉ちゃんも平川だからなあ。美和って呼んでいい?」
「いいよ。自分の苗字嫌いだし」
「奇遇だな。俺もだわ」
親嫌いだし、と岩崎がぼそっと付け足した。私も親は嫌いだけれど、苗字そのものが嫌いな理由は少し違った。
「小学校の時に同じ苗字の男子がいたんだけど、夫婦ってからかわれるし、八つ当たりでその男子は私のこといじめてくるしで本当に最悪だった」
小学校時代、クラスの男子が総じて性格が悪かったせいか中学生くらいまで男子に苦手意識を持っていた。周りの女の子たちは誰がかっこいいとか誰が好きとか、恋バナにばかり興じていたけれど私は未だに二次元の男にしか興味がない。
「平川ってそんな被る苗字じゃないだろ。とんだ災難だな」
「ね、ついてないよね。あの頃世界滅べって思ってた」
今日だけで「世界滅べ」と何回言っただろう。今の私をクラスメイトが見たら驚くだろうけど、たぶんこちらが私の素だ。
その時、予鈴が鳴った。いつの間にかだいぶ時間が経っていたようだ。私は慌てて弁当箱をまとめる。
「やば、次移動教室だ」
「じゃあなー、美和。焦りすぎてこけんなよ」
岩崎こそ、と言おうとして岩崎が自分の苗字が嫌いだと言っていたことを思い出した。
「宙こそ、遅刻しないようにね」
言い捨てて部室を走り去る。
エマは私を美和っち、他の人は美和ちゃんと呼ぶ。小中学校の友達にも、親や姉を含めた親戚にもちゃん付されていたから、呼び捨てされるのは新鮮だなと少し遅れて気付いた。でも、決して嫌ではなかった。
普通に話すようになってしばらくして、そろそろエマの言っていた新歓用作品について真面目に考えないといけない時期に差し掛かっていた。
何もしてない私と正反対に、エマは部室に一台だけあるパソコンで作品に取り掛かっていた。文化祭用の作品だけでも十分なのに、やっぱりエマはバイタリティに溢れている。
「新歓作品、宙はどうする?」
「どうするも何も、俺、絵描けねえ。美和は?」
「出すつもりだけど、何も進んでない」
エマに相談して、エマの時間を奪うのも申し訳ない気がした。エマの力になれたら嬉しい。迷惑をかけたくない。だから、小さな声で話した。
私たちが話していても一切気にしないほどエマは作業に集中していた。イラストを描くとき、私はしゃべりながらの方が筆のペースがあがるタイプだけれど、エマはそうではなかった。
「じゃあ、一緒にやらん?」
宙の提案はあまりにも唐突だった。
「え、何で私?」
「だって美和、絵うまいじゃん」
驚きが嬉しさに変わった。今まで私の絵を褒めてくれるのはエマだけだったからだ。
「実は俺、中学の頃ネットで小説書いてたんだけどさ、って言ってもすぐ飽きたんだけど。それでよければ美和が絵つけてくれたりする?」
私はすっかり有頂天になっていた。
「えー、読んでみたい!」
「じゃあURL送る。晒すなよ」
スマートフォンにポップアップ通知が出たので、クリックする。小説投稿サイトのリンクだった。タイトルは『異世界アンゴルモア』でペンネームはSKY。すぐ飽きた、と言っていた通り文字数はあまり多くなかった。
さっそく第一話を読んだ。頭を殴られたような衝撃が走った。恐怖の大王が滅んだ後の異世界を、生きづらさを抱えた少年が冒険する話。主人公が抱えている悩みが私が抱えているものとまさしく同じもので、深く共感できた。世界観が好きだった。世界にある汚い物も、大多数の人間にとっては楽しい場所とされているけれども誰かにとっては居心地が悪いような排他的な場所も、全部滅んだ世界。一見荒廃して絶望しかないように見えるけれども、何もないからこそ希望がある世界。私もそこに行ってみたいと思った。戦闘シーンも、漫画でよく見る私がかっこいいと思う剣術や魔術などの要素が詰め込まれていて面白かった。夢中で読んだ。画面に釘付けになって、エマが作業を切り上げて帰ったことにも気づかなかった。
今となっては、宙が本当に天才だったのか、宙と私の境遇が似ていたから感情移入できただけなのかはわからない。ただ、あの瞬間の私はまぎれもなく宙を天才だと思った。
「すごい! 面白い! 宙、天才!」
「二〇一二年に結局世界が滅びなくて、そのフラストレーションをぶつけました的なやつ」
読み終わって感想を伝えると、宙が珍しく照れたように笑った。
「宙、私と組んでくれるの?」
「まあ、俺からオファーしたわけですから。じゃ、決まりってことで」
「うん! 私、頑張る!」
「じゃ、キャラデザとか決めていきますか」
その日の部活は今までで一番充実していた。漫画を読んでいるよりも、青春している、生きているという実感があった。ああでもないこうでもないとシャーペンでノートに簡単なラフを描きながら、キャラデザを話し合うのはとても楽しかった。結局何も決まらなかったけれど、それすら有意義な時間だと思えた。私が何かを描くたびに、宙が「やっぱりうまいな」と言ってくれて嬉しかった。
下校時刻十分前のチャイムで急に現実に引き戻された。急いで帰り支度を始める。
「俺の小説には惚れていいけど、俺には惚れんなよー」
冗談めかした口調だったが、思わず片付けの手が止まった。
「はあ⁉ 意味わかんないんですけど」
確かにあの時、私は宙の才能に惚れていた。でも、少なくともこの時点では宙に対する感情は恋ではなかった。
「でも、文化祭の時の俺かっこよくなかった?」
「自分で言っちゃう? 確かに助かったけど! 感謝はしてるけど!」
優しい人だとは思った。でも、かっこいいとか恋とかとは違う気がした。
「私は二次元の男にしか興味ありません!」
そう宣言して部室を出た。
翌日、「惚れるなよ」のくだりは端折って、宙と共作することになったとエマに報告した。
「美和っち、最近宙の話すること多いよね」
「そうかな?」
「うん。宙のこと好きなの?」
エマにまで誤解されてしまった。断じてそれはない。
「それはない! ただのコンビ! 友達!」
「うんわかった。変なこと言ってごめんね」
エマは深く追及しては来なかった。エマとはあまり恋愛の話をしたことがない。エマに中学の時に彼氏がいたことは知っているけど、高校に入ってからの話をエマから直接聞いたことはない。
エマのお父さんはアメリカ人で、エマは日本人離れした整った顔立ちをしている。告白されることも多いらしく、たびたび噂になるけれど、本人の口から聞いたことはなかった。
宙との共作は順調に進んだ。宙が小説を漫画のネームの形に直して、私が作画する形になった。毎日のように部室で話し合いながら作業をした。
「宙って親に塾行けとか言われないの?」
「言われない。俺、指定校推薦使うつもりだから。受験勉強はしなくていいけど、学校の成績は死んでも落とすなってさ。だから土日は家庭教師が来る。ここの卒業生」
「へー、なんか意外。スパルタ系の親って国立行けとか言いそうじゃん」
「兄貴が受験直前に病んで一浪してっからな。優秀な兄貴ですらそうなんだからお前は安牌な選択肢とれってさ。本当に世界滅べって感じ」
そうは言っても、親に決められたという宙の志望校は関西の名門校だ。実家を出られる宙が羨ましかった。
「私も指定校使う予定。女の子で浪人は恥ずかしいとか言ってくるんだけど。恥ずかしいのは昭和脳のあんたの頭だっつーの。本当にそろそろ世界滅んでほしいよね」
私は家から通える女子大に進学する予定だ。当然親の決めた学校で本当にうんざりする。「世界が滅んでほしい」は親をはじめとした周囲の諸々に辟易した私たちの合言葉になっていた。
「ふーん、美和も指定校狙いならもしかして来年は同じクラスになれたりしてな」
宙の兄と私の姉が在学中に大喧嘩をしたからか、私たちは同じクラスになったことはない。でも、三年生のクラス編成は文系か理系か、志望校が国立か私立かで決まる。親が税理士だと言う宙は経済学部、私は文学部に行く予定だからどちらも私文の推薦志望だ。同じクラスになる可能性は高い。
親に勝手に決められた進路だけれども、結果として宙と同じクラスになれることだけはいいことだと思えた。
充実した時間はとにかくあっという間で、すぐに三学期になって春休みになった。お互いの家族の中が悪すぎる私たちに、どちらかの家で作業するという選択肢はなかった。昼間親がいない間にどこかで会おうにも外出すれば何かしらの形跡が残る。そうすると言い訳が面倒臭い。
「じゃあさ、作業通話しようよ」
有名絵師さん同士が仲間内でやっていると知ってから、密かに作業通話というものに憧れていた。
作業通話の中で、ペンネームが決まった。「せかいほろべ」のアナグラムで色壁ホセ。性別不詳な感じがなんかいい。
イラストを描くことも友達と話すことも好き。宙と漫画を一緒に作り上げるのは最高に楽しい。大嫌いだった家という空間も、その時間だけは嫌いではなかった。大切で幸せな時間だった。春休み終了三日前。ついに私たちの共同作業の結晶が完成した。
そして迎えた新歓オリエンテーション期間、見学に来てくれた新入生に『異世界アンゴルモア』を読んでもらった。エマが私たちの作品を一年生に勧めてくれているのがとても誇らしかった。
「私たちの漫画読んで漫研入りたいって思ってくれる子が一人でもいたら嬉しいよね」
「そしたらエマに褒められるからか?」
「違うよ。エマが褒めてくれるのはもちろん嬉しいけどさ、創作で誰かの人生変えられたらそれって最高じゃん」
自分たちの人生すらままならないのに、誰かの人生を変えるなんて大それた話を教室で堂々としていた。宙と同じクラスになったからだ。あの頃の私は無敵感に満ち溢れていた。宙が私の絵に価値を見出してくれたから。
つくづく単純だと思う。元々エマに懐いたきっかけは、私がノートの隅に落書きをしていたら一緒に漫研に行こうと誘ってくれたからだ。エマの推しキャラを描くと喜んでくれるのが嬉しかった。
「絵を描いたことそのもの」ではなく「私の絵の才」に価値を見出してくれた宙に特別な感情を抱くことは必然だった。
一年生は五人入部した。入部理由は全員「元々漫画が好きだから」だった。残念ながら私たちは誰かの憧れにはなれなかった。でも、新入生から漫画の感想をもらえた。
「『異世界アンゴルモア』面白かったです! 続編期待してます!」
嬉しかった。姉と比較されてばかりのぱっとしなかった私に、生まれて初めてスポットライトが当たった。私に存在価値が与えられた。息苦しさが消え失せた。
新入生を迎えて早々エマが言った。
「強制じゃないけど、新作描ける人は描いて、今年の文化祭もどんどん盛り上げていこう! 感想ノートいっぱいになるくらい盛り上がったら嬉しいよね」
私たち三年生にとっては最後の文化祭。部員が増えたこともあり、エマが本気になるのも当然だった。
感想をもらった記念に、宙と一緒にカラオケで豪遊した。好きなアニメソングをひとしきり歌った後、今後の話をする。
「あのさ、『異世界アンゴルモア』の続き、また一緒に描きたい」
「ん、いいよ。でも、俺に惚れんなよ」
「だーかーらっ、自意識過剰!」
「悪い悪い。でもさ、せっかく創作で世界変えようぜって盛り上がってんのに恋愛でめちゃくちゃになるの嫌じゃね? 兄貴たちみたいになったら最悪だろ」
姉は高校時代は軽音部で、宙の兄とは元々同じバンドのメンバーだった。騒動に巻き込まれたドラムとベースの人が可哀想でならない。
「そうかも、迷惑バカップルにはなりたくないよね」
「だろ? それに恋愛って維持コストが高い。学校が離れるどころか、クラスが離れるだけで簡単に破局して、付き合う前の関係に二度と戻れない」
「それは経験則?」
「まあな」
「さすがモテる人は言うことが違いますなあ」
茶化したけれど、経験則に基づくならばそれは真実だ。そもそも私たちが恋愛したところで、家族仲が最悪である以上結婚はできないのでいつかは別れることになる。しかも、大学は別々のところに行くのだから破局リスクは大きい。でも、友達なら関係を続けることはできる。去年、中学の時の友達と遊んだことは記憶に新しい。
宙と話すのは楽しい。こんなに私のことをわかってくれる人とこの先出会えるだろうか。大学が離れても宙を失いたくなかった。
「宙こそ、私に惚れないでよ」
「さすがにお前に手出せないわ」
少し意味深な間をおいて、宙が答えた。
「それどういう意味よー?」
わざとおどけて笑って、結局有耶無耶になった。私たちは恋愛しない。そうすればその間は無敵でいられる。だから友情が正解なんだ。
無事指定校推薦の校内選考も通って、これでやっと漫画に専念できると思ったところで立て続けにトラブルが起きた。
一つ、家に漫画の道具を持ち帰っていることが親にばれたこと。ごちゃごちゃと文句を言われ、家では漫画が描けなくなった。
二つ、校内選考が終わったのだからと宙が親からダブルスクールを強要されたこと。大学在学中に税理士試験に合格するためには少しでも早くから勉強を始めるのが大事らしく、親が勝手に申し込んだらしい。
「クソババアふざけんなよ。あー、本当に世界滅ばねえかな」
「同感。ノストラダムスの予言、実は十八年ずれてましたとかだったらいいのに」
三つ、エマが転校してしまうこと。青天の霹靂だった。アメリカにいるお祖母さんの介護が必要になって、一家でアメリカに引っ越すとのことらしい。
「ごめんね。なかなか言い出せなくて。美和っち、大事な時期だったから、推薦決まるまでは黙っておこうと思って」
エマは色々言っていたけれど、私は泣いてしまってろくに何も言えなかった。
「文化祭、私の分まで頑張って。絶対成功させてね」
「うん、約束する」
私はエマから漫研の部長を引き継いだ。
私の目標はただ一つ。文化祭までに、宙と一緒に漫画を完成させること。それだけ考えていれば、他のことは全部忘れられた。仲が良かったエマがいなくなって女子の間で浮いていることも、高校を卒業したら宙と離れ離れになることも。
どうせ家では作業ができないので、部室でいつもエマが使っていたパソコンと液タブを使ってデジタルで描くことにした。
「これからはデジタルの時代っしょ!」
趣味でiPadにタッチペンで絵を描くことはあったけれど、液タブはそれよりはるかに使いやすかった。大人になって自由になったら、絶対に買いたい。その時までずっと宙と一緒にいられたら嬉しい。
世界滅べ、と言いながらも文化祭までは待ってほしい。そんな思いを抱えながら二学期を迎えた。学校全体が文化祭に向けて動き出す。私も漫画の完成に向けてラストスパートをかけていた。
でも、漫画のことだけをやっていればいいというわけにはいかなかった。展示に向けての雑務もあるし、クラスでやるお化け屋敷も完全にノータッチというのは顰蹙だ。
「準備、みんな必ず週二日は出てね! ダメな場合は代役立ててよ」
文化祭準備期間に入ると、クラス責任者の子がルールを定めた。家に液タブはないので学校にいる間しか作業ができず、まだ終わっていない私は焦っていた。
「代役OKなら美和の分のノルマは俺がやればよくね? もうペン入れまで終わってるんだから、今更俺と話し合うこともねえだろ」
クラスの分のノルマと、本来は部長がやる雑務。そのすべてを宙が代わりにやってくれた。宙の「やっぱ美和うまいわ」の声を聴きながら漫画を描く時間が好きだったけれど、今は完成が最優先だ。原稿が完成したら、真っ先に宙に見せる。そしてそれを印刷したらコピー本の製本作業だけ一緒にやれたらそれでいい。離れていても、私たちは二人で色壁ホセだ。
文化祭四日前、比較的早い時間帯に原稿が完成した。あとは保存して印刷するだけだ。宙はクラスの方にいるから、印刷までやってから連絡すればいいかなと思った。保存のアイコンをクリックする。反応がない。不思議に思ってもう一度クリックしたら、エラーが出てパソコンが固まった。
全身の血の気が引いた。嘘だ。こんなのってない。最後にバックアップとったのいつだっけ。震える手でスマホをとって、「パソコン 動かない」で検索する。検索結果がずらりと並ぶが目が滑って文字が頭に入って来ない。「修理まで十日」「データ復旧三万円から」などの広告ばかりが目に入ってくる。こういう時って再起動するんだっけ。あれ、電源落としていいんだっけ。最後に保存かけたのいつだっけ。
頭がパニックになる。息ができない。どうしよう。私だけの作品じゃないのに。エマに絶対成功させると約束した文化祭なのに。部室には誰もいない。みんな自分のクラスの方に行っている。
どんな検索ワードを入れればいいかわからないブラウザを閉じる。
「たすけて」
宙にメッセージを送った。
既読はすぐについた。でも、返信がなくてずっと不安だった。部室の外で足音が聞こえたかと思ったら、すぐにドアが開いた。
「どうした?」
宙の顔を見た瞬間、感情があふれ出した。
「そらぁ」
私は宙に縋り付いて泣いた。
「パソコン、動かない。データ、消えたかも。どうしよう」
「あー、落ち着け。俺、風邪気味だからあんまくっつかないほうがいいぞ」
「ずっと二人で文化祭のために頑張ってきたのに、消えちゃった。半年間ずっと頑張ってきたの、無駄になっちゃった。ごめんなさい」
宙のシャツに顔を押し付けたままわんわん泣いた。
「ちょっ、泣くなって。俺が泣かしてるみたいだから。大丈夫だから落ち着け」
「だって、文化祭絶対成功させるって約束したのに。私、昔からどんくさくてこうやって人に迷惑ばっかりかけてて、ほんと最悪」
宙の胸にすがりついて泣き続けた。宙の大きな手が私の背中をさする。
「とりあえず、いったん落ち着いて。データ消えたって決まったわけじゃないし、少なくとも一週間前のバックアップデータは俺のスマホに送ってるはずだから。ペン入れまでは終わってるよな。最悪できたとこまででいいから出そう。一週間分の作業消えたら確かに悲しいかもだけどさ」
「でも、せっかく宙が面白い話つくってくれたのに、未完成のまま出しちゃったら台無しじゃん。私は絵描くくらいしかとりえないのに、それすらちゃんとできなかったら、もう役立たずすぎて私なんのために生きてるんだろうって」
「まあ、文化祭に間に合わなかったらネットにでも上げればいいだろ。それに、新歓で描いたやつはちゃんと完成してるじゃん。そっちも展示するわけだから、ちゃんと俺の作品、美和のおかげで日の目を見ることになるしな」
私を言葉で慰めている間、宙はずっと私の背中をさすってくれていた。
「大体美和が役立たずだったら去年までの俺はどうなっちゃうのって話で。美和は去年と一昨年もちゃんとイラスト集出してたし、ちゃんと漫研に必要な存在だから安心しろって」
宙が私の髪をぐしゃっと撫でた。
「あとさ、俺は美和とかエマほど行事に思い入れがあったわけじゃなくて、毎日退屈でつまんない日常ぶっ壊してえなって思ってて、別に何でもよかったんだよ。それに美和が付き合ってくれて毎日楽しかっただけで充分っていうか……ほらよく言うだろ、結果より過程が大事って。データ消えても楽しかった思い出まではなくならない、って自分で言っててクサいな」
「そんなことない」
宙の言葉が嬉しかった。その瞬間私は確かに宙の言葉に救われた。宙の体に腕を回して抱き着いた。しばらくそのまま泣いた。
「まあ、もっとクサい台詞漫画にぶちこみまくってるから今更か。つーか、あんまり抱きつくと風邪うつるぞ」
「うん、ごめん」
少し落ち着いたので離れた。宙の制服の胸元には私の涙の痕がついていた。宙に椅子に座るように促され、パックのオレンジジュースをポケットから出して渡された。担任からの差し入れらしい。オレンジジュースを一口飲んだ。去年の文化祭で体調を崩して、宙に水をもらったことを思い出す。
「去年もこんなことあったよね」
「あー、懐かしいな。つーか、お前あの頃俺のことちょっと嫌いだったろ」
宙が苦笑いした。私もつられて少しだけ笑った。
「だって、あの頃お姉ちゃんストーカーの弟以上の情報なかったし」
「よし。落ち着いたな。じゃあ、情報の先生探してくるから座って休んどけ。それまでパソコン触んなよ。またなんかあったら連絡して」
そう言って勢いよく部室を飛び出していった。大丈夫、宙の言葉を頭の中で反芻していた。
しばらくして、宙が小走りで部室に戻ってきた。私たちの担当の情報の先生ではない、面識のない若い先生が一緒だった。情報の先生が休みだったから、数学科準備室に行ってパソコンに一番詳しい先生に代わりに来てもらったとのことだ。
先生がパソコンをいじっているのを固唾をのんで見守った。宙はその間時折咳き込んでいた。しばらくして、パソコンが動き始めた。
「一応直りましたよ。ちょっと古いパソコンだったからファンが……」
先生の説明は難しくてわからなかった。でも、結論としてデータはほぼ無事だった。今日の分の作業が飛んだのはショックだけれど、最悪の事態に比べれば全然マシだ。今日中にリカバリーできる。急いでバックアップを取り、無事だったページはすべて印刷した。
「宙、ありがと」
「気にすんな」
「文化祭終わったら、なんかお礼しなきゃだね」
「あー、じゃあ一個お願いするかも。文化祭終わったら言う」
「うん、何でもいいよ」
お菓子やジュースだけでなく、私の少ないお小遣いで買えるものなら何でもプレゼントするつもりだった。
パソコントラブルは唯一にして最大のアクシデントで、その後は特に問題なく原稿は完成した。まだギリギリ修正が間に合う段階で宙にチェックしてもらう。
「最後のコマ、すっげえいいじゃん。俺の脳内イメージそのまんま」
「うん、一回消えちゃって塗りなおしたとこなんだけど、直した後の方が綺麗になったかも」
「じゃあ結果オーライってことで」
文化祭当日、最低限のクラスのシフトをこなしたあとは宙と二人で漫研のブースに来たお客さんの対応をしていた。大盛況というほどではないが、去年に比べたら上出来だ。エマが目標としていた「感想ノートをいっぱいにする」ほどではなかったれど、例年よりたくさんの感想が集まった。『異世界アンゴルモア』『続・異世界アンゴルモア』が面白かったと感想を書いてくれたお客さんもいた。一日目の終わり、二人で喜び合った。
「文化祭終わるまでは世界滅ばないでほしいよね」
なんて言って笑い合った。
二日目、午前中は一緒に漫研にいたけれど、宙は午後からクラスの方に行った。二日目にも私たちの作品を面白いと言ってくれた人がいた。一秒でも早く三年C組まで走りたかったけれど、終わるまで我慢した。文化祭終了と同時に、感想ノートを持ってクラスのお化け屋敷まで走った。でも、宙の姿が見えなかった。
「岩崎なら具合悪いって早退したよ」
親切な子が教えてくれた。準備期間に風邪気味だと言っていたこと、昨日も時々咳をしていたことを思い出した。もしかして、私がデータ消失騒動なんて起こしたから、体に負担をかけてしまったのかもしれない。
「大丈夫? 具合悪かったのに負担かけてごめんなさい」
メッセージを送ると、比較的すぐ返信が来た。
「いや、あれは全然平気。どっちかっていうと買い出し何度も走らせやがったクラス責任者のやつらが悪い。あいつら滅べ」
滅べ、のあとに爆発のスタンプも送られてきた。冗談めかした文体だったが、体調はあまり芳しくなかったようで、片付けの日も打ち上げの日も宙は休んだ。心配でメッセージを送ったけれど、なかなか既読がつかなかった。
私のせいだ。罪悪感は日に日に膨れ上がっていった。
水曜日になってようやく宙は登校してきたが、午前中は移動教室と選択授業が多くてなかなか話せなかった。
「美和、部室行こうぜ」
昼休みに入るや否や、宙の方から誘われた。私は小走りで宙の後をついていった。
「体、大丈夫?」
「うん。感想ノートの写真サンキュー」
廊下で話したのはこれくらいだった。部室には誰もいない。静かで居心地がいい。来週の追いコンが終われば正式に三年生は引退となり、気軽に使うこともできなくなるけれど。
「やっぱ静かでいいな。教室じゃ落ち着いて話せねえもん。で、文化祭前に言ってたお願いのことだけどさ」
「あ、ごめん。なんか奢ろうと思ったんだけど、今日お金持ってきてなくて」
約束を忘れていたわけではない。ただ、宙が心配でそれどころではなかった。
「いいよ、美和の耳があれば十分」
私は首を傾げた。
「色々あったけど、楽しかったしこれからも色壁ホセで何かやろうぜ。っていっても、俺ダブスクあるし次の案何も思いついてないから気長にやる感じで。締め切りない方が美和も気楽にやれるだろ」
それはまさしく、どこかのタイミングで私からお願いしようと思っていたことだった。うぬぼれてもいいのだろうか。
「これからもって、卒業しても?」
「どっちかが死ぬまでか、世界が滅ぶまで」
その言葉を聞いた瞬間、涙があふれ出した。ぼやけ始めた宙の顔を見る。宙の首に腕を回して抱き着いた。
「おいおい、泣くなって。女子泣かせるの外聞悪いだろ。あと、俺一応病み上がりだから移っても知らねーぞ」
「大好き」
私の呟いた言葉が宙に聞こえていたかはわからない。
「これからは宙に迷惑かけないように頑張る。絵もめっちゃ練習する」
続きの言葉はしゃくりあげながらも宙に聞こえるように声を絞り出した。
「無理しなくてもいいよ。絵うまいから必要だって言ったら利用してるみたいだろ」
「でも私、絵描くくらいしかできないよ」
「いいよ、美和はそのままで」
すっと息を吸って、優しく力強い声で宙が言った。
「いてくれるだけでいい」
ますます涙が止まらなくなった。私の存在を全部肯定してくれた。宙がいたからまだこの世界で生きていたいと思えた。宙を愛しいと思った。
トクン、と自分の心臓の音が変わったように感じた。ここでようやく、私が反射的に発した「大好き」が友愛ではなく恋であることに気づいた。いつからかはわからない。宙の物語の才能ではなく、宙という人間のすべてに惚れていた。
でも、これからもずっと一緒にいるためにはその感情は隠さなくてはならない。惚れないって約束をしたから。
「宙が二次元だったら絶対惚れてたよ」
顔を上げて笑って、精一杯の強がりを告げる。
「おー、三次元の俺も適度に推してくれ」
既に最推しだよ、馬鹿。そう心の中で呟いた。
その日のうちにイラスト投稿サイトにアカウントを作って、色壁ホセ名義で『異世界アンゴルモア』をアップした。次はどんな話にしようか、アイコンはどんなのにしようかと話しているだけで楽しかった。
数日間、宙にべったりだったと思う。さすがに教室で抱き着いたりはしなかったけれど、休み時間はずっとおしゃべりをしていた。そうこうしているうちに、投稿サイトに一件のコメントがついた。
「良かった」
たった一言だったけれど、嬉しくてたまらなくて、カラオケに行って二人で祝勝会をした。文化祭の打ち上げもちゃんとやっていなかったので、それも兼ねて盛大に祝った。前に二人でカラオケに来た時よりも、恋愛ソングに気持ちがこもった。
「ねえ、次何入れるの?」
体を寄せてデンモクを覗き込んだ。これくらいは前に来た時もやっていたし、ちょっとくらいくっついても不自然ではないはずだ。
だいぶ歌って、ドリンクバーで飲み物をとってきて少し休んでいると、肩に手を回されて抱き寄せられた。宙の方から近づいて来たんだから寄りかかっても問題ないよね、そう思って身を寄せた。宙の肩に頭を乗せる。ドキドキする。エマが相手ならよくこういうこともしていた。友達ならセーフ。公共の場じゃないから大丈夫。色々なことが頭をぐるぐるしていた。
宙が体勢を変えて私の方をむく。頬に触れられた。宙が顔を傾けて近づけて来る。キスされる、鈍感な私でもそう思った。私は宙のことが好きだから、キスされてもいいと思った。でも、でも。
「だめっ」
やっぱり、こういうのは良くない。
「私、付き合ってる人としかキスしないから」
久しく忘れていたが、宙は真面目な時は真面目だけれど基本的にチャラい。漫画が好きだからと言って陰キャとは限らない。私が把握しているだけで元カノが三人いる。だから、宙は恋愛感情がなくてもキスできる
「悪い、やっぱ良くねえよな。元カノの親友にこういうことすんの」
「え?」
思わず聞き返した。
「やっぱ聞いてないよな。もう時効だから言うけどさ、俺一年の夏ごろちょっとだけエマと付き合ってた」
「えええ!」
叫んだ。電源を入れたまま机に放置していたマイクがハウリングした。
「なにそれ聞いてない!」
「ほら、エマってなんか鋭いだろ。美和と俺が気まずい感じなの見抜いてて、付き合ってるの秘密にしようって。一人に言ったらみんなに広まるから、誰にも言ってない」
言われてみれば宙の話題を出した時、エマは何かを言い淀んでいた気がする。危なかった。エマに宙のことを好きになったことを相談する前で良かった。経緯を説明するにあたって、文化祭でトラブルが起こったことを話したらエマに余計な心配をかけると思ったから相談するのはもう少し経ってからにしようと思っていた。
「何で別れたの」
「なんつーか、話というか空気感が合わなかった。あいつ愛されて育ってる感じするじゃん。世の中に鬱屈した感情持ったことないんだろうなって思うと、住む世界が違うなって思った。会話のテンポが合わないとなんかうまく行かない」
口ぶりからして、嫌いで別れたというわけではないのだろう。
「エマのこと、まだ好き?」
「それはない。俺から別れようって言ったし」
エマの方はどう思っているんだろう。それが気がかりだった。でも、そんなデリカシーのないこと聞けるわけがない。
「私、エマを裏切れない」
離れていても親友だ。好きじゃないと宣言しておいて、キスするなんてフェアじゃない。
「やっぱ俺ら、何かとしがらみが多いよな」
同じ学校である以上、共通の知り合いがいて何かしらのしがらみからは逃れられない。それにしたって私たちの場合はしがらみが多すぎる。宙がため息をついた。
「人間関係ってめんどくさいよな。全部捨てて逃げ出してえって思うことない?」
「うん。しがらみも平川美和って名前も全部捨てて、別の人間になりたいって思う」
こんな世界なんて滅べばいい、私たちはずっとそう言い続けていたけれど、ここじゃない別の世界に行けるならその方がいい。二人でこの世界を抜け出して、色壁ホセとして二人で生きていけたらきっと幸せだ。
「まあ、それができないから世界滅べって言ってんだけどな」
やっぱり、宙は私の理解者だ。
「明日世界が終わるなら、やりたいこと全部やれるのにね」
結局私は両親の敷いたレールが嫌だと言いつつも能動的に逃げる勇気がない。だから、誰かに終わらせてほしいと思っている。
宙とのこの関係が終わって、それでも生きていかないといけない日々が怖くて告白できずにいたら、好きになってはいけない理由が増えてしまった。
「例えばの話だけどさ、地球最後の日にだったら付き合うの、アリだと思う?」
世界が滅ぶなら、エマを裏切ったまま生き続ける必要がない。
「いいね、それ。その時はキスしてもいいよ」
大人ぶってそう答えた。宙は私が弱っている時には優しいけれど、時々ずるい。関係を確定させるような言葉を言わない。
「世界、早く滅べばいいのにな」
「うん、私もそう思う」
でも、私もまた友達以上恋人未満のこの関係が、普通に恋人同士になるよりも尊いような気がしていた。
実際、友達以上恋人未満の関係は楽しかった。キスしたり手を繋いだりするわけではないけれど、普通の男女の友達よりも近い距離で話す。それだけで幸せだった。
創作の方は締め切りがなければ焦ることもなく、何も進まず何も決まらなかった。一応投稿サイトのアイコンだけはかっこいいものを描いた。でも、今後のことを話しているだけで楽しかった。
「なんかのきっかけで異世界アンゴルモア、万バズしてくれたらいいのにね」
「わかる」
変わらない日々が続き、十二月の始めに指定校推薦の合格が確定した。親の決めた学校とはいえ、「不合格になったので一般受験してください」という掌返しは本当にシャレにならないので本来喜ばしいことだ。しかし、宙は今までにないほどげんなりしていた。
「母方のばあちゃんちに下宿するからようやく親元離れられると思ったのに、あのクソババアついてくるとか言いやがった」
「うそでしょ? 過干渉過ぎない?」
「兄貴が税理士試験落ちたんだってさ。兄貴ですら自由にさせたらダメになるんだから、もっと馬鹿な俺は監視してなきゃだめなんだとさ」
うちも大概過干渉だが、宙の家は度を超えている。あまりにも気の毒だ。
「俺のこと兄貴と比較して馬鹿扱いしたいのか、兄貴が落ちぶれたから俺をスペアにしたいのかせめてどっちかにしろよ。本当にありえねえ」
世界滅べ、とすら言わなかった。宙は完全に憔悴しきっていた。
自分の存在意義に悩んでいた私を救ってくれたのは宙だ。だから、今度は私が空を救う番だ。気分転換になるようにと、色壁ホセのこれからの話をした。
「あー、スランプかも。全然話思い浮かばねえ」
「いいよ。どんな宙でも、宙は宙だから」
以前のようなきらきら感がないままに、冬休みに突入した。宙はダブルスクールのコマ数も増やされたようで忙しく、全然会えなかった。三学期になると自由登校期間になり、ほとんど顔を合わせなくなってしまった。連絡は取りあっていたけれど、文字ベースのレスだけによるコミュニケーションでは何かが直接の会話とは違った。はっきりとは言語化できないけれど、もしかしたらとんでもないすれ違いを生んでしまっているのかもしれないと言うぼんやりとした恐怖があった。
あっという間に卒業式を迎えてしまった。卒業式には私の親も、例の毒親も来ていた。だから、私たちは一緒に写真を撮ることはおろか、話すこともしなかった。これで終わりではないと信じていたから。
四月になって新生活が始まった。宙には毎日メッセージを送った。ちゃんと連絡を取っていれば疎遠になったりしない。エマとは定期的に連絡を取っているからまだ交流がある。だから、ずっと連絡を取り合っていれば、色壁ホセは永遠だと信じていた。
「サークルはインカレのフットサルサークルと学内の旅行サークルに入ることにしたんだ。あと、ガイダンスで席が隣だった子と仲良くなって、日曜日に一緒に遊びに行くの」
「随分と楽しそうだな」
「うん。そっちは漫画のネタになりそうなことあった?」
「そんなことしてる余裕ない。ダブスクで忙しい」
そんなこと、というフレーズにやたら棘を感じた。穏便に返信しようと思ったら、さらに追撃してきた。
「前々から思ってたけど、こっちが余裕ない時に漫画の話されるのすごいプレッシャー」
この時、リアルで顔を合わせていて、宙が泣きそうな顔をしていたら私は迷わず宙を抱きしめて頑張らなくていいよと言ったと思う。でも、メッセージベースのコミュニケーションでは細かいニュアンスは伝わらず、どんどん悪い方に解釈してしまった。
わざわざ書かなかっただけで、私も楽しいサークルライフへの期待以上に女子大という女社会にちゃんと馴染めるか、いじめられないか。そういう不安があった。ここには宙もエマもいないのだから。結局のところ私にも余裕がなかった。
「何でそう言う言い方するの」
「別に悪口行ってるわけじゃないだろ」
「悪口じゃないけど、きつい」
私と仲良くしてくれるような人は、大体エマみたいに優しくてまともだ。だから、友達との喧嘩の経験はほとんどなかった。ましてや、ラインできつい言葉の応酬なんてしたことがなかった。
「なんで俺のこと悪者にしようとするわけ」
「そんなこと言ってない」
「言ってないにしてもさ、お前泣き虫だし空気読めないしこっちが余裕あるときはいいけど余裕ないときは相手してて疲れる」
宙の言葉は私の逆鱗に触れた。スマホを投げそうになるのは抑えたけれど、返信する手は止められなかった。
「嘘つき。いてくれるだけでいいって言ってくれたじゃん」
嘘つき、とさらに二回追撃した。
「お前、今ここにいないじゃん」
「じゃあどうすればよかったの」
全部捨てて一緒に大阪に行けばよかったの。でも、偏差値が足りないのだからどうやったって無理だ。
「距離を置きたい」
それは事実上の色壁ホセに対する死刑宣告だった。遠距離恋愛で破綻しないために恋人にならないことを選んだのに、どうしてそんなことを言うのだろう。
「嘘つき。恋愛しなければ関係破綻しないって言ったくせに」
「あんなのほぼ恋愛だろ」
じゃあ、なんでキスしようとしたくせに付き合うとは言わなかったの。適当に遊んで捨てるつもりだったの。そこまで打って、あまりにみじめで全部消した。
「宙は色壁ホセをどうしたいの」
「もう何も考えたくない。疲れた」
終わらせたくないから恋はしない。そう言ったくせに、宙が終わりを選ぶなんてこんなの契約違反だ。
「うそつき」
もう漢字変換する余力すら残っていなかった。
「だいきらい」
勢いのまま、ラインをブロックした。今思えば、あの時の私は頭に血が上っていた。
でも、恋愛か友情かなんて些細な問題だった。どちらにせよ、物理的な距離が離れた状態で心理的な距離まで離れれば、仲直りをするのは至難の業だ。ましてや、まともな仲直りの仕方を私は知らなかったのだから。
この後の私はだいぶ荒れた。宙を忘れるために、インカレの先輩と付き合った。先輩は宙に顔は似ていなかったけれど、カラオケの選曲とか筆跡とかが宙に似ていた。身長もちょうど宙と同じくらいだった。
でも、夏になっても宙のことを忘れられなかった。ずっと、世界なんて滅べばいいと思っていた。色壁ホセは世界が終わるか、どちらかが死ぬまで続くはずだった。ふざけんな死ね、と心の中で何度も毒づいたけれど、私の好きだった宙は死んだのだと思うことにした。
大学近くの商店街の七夕の短冊は誰でも自由に願い事を書いてよかった。母の目に触れる心配は万に一つもない。それどころか、宙を知る人に見られることもない。でも、復縁を願うのは何かに負けた気がして癪だった。
世界が滅ぶこと、私を捨てた宙が不幸になること、私はそのどちらも望まなかった。ただ、もしもこの先何か宙に嫌なことが会った時、あるいはふと思い出した時に、私を捨てたことを「ちょっとだけ後悔してほしい」名前も主語も書かずにそれだけを書いた。
成人式までずっと宙のことは引きずっていた。成人式で宙を見かけて、声をかけようとした。
「えー、岩崎の彼女めっちゃかわいくね? どこで出会ったの?」
「ダブルスクールで席が隣になって、同い年ってわかって」
宙のスマホを見ながら男子と談笑していた。彼女、いるんじゃん。そう思うと、仲直りする気が急に消え失せた。喧嘩を売りたいわけではない。でも、謝りたくもない。
「岩崎くん!」
わざとよそよそしい呼びかたで呼び掛けた。宙は私を見て驚いた顔をしたが、すぐによそ行きの表情に戻った。
「久しぶり。元気だった?」
どうしてあんなことがあったのに、こんなに普通の反応ができるんだ。私にとっては一大事だったのに、宙にとっては大したことじゃなかったのか。
「絶好調、来週彼氏と旅行に行く予定」
あてつけのように彼氏の話をした。当時彼氏がいたのは本当。婚前旅行なんて許されるわけがないので、旅行は嘘。彼氏は性懲りもなく、宙によく似た人だった。
「そういえば、あっちで元三年C組の集合写真撮るってさ」
「そうなんだ、今行く」
その後も色々なグループで写真を撮った。エマは欠席だったけれど、それ以外の漫研メンバーで写真を撮った。写真は私のスマホで撮ったので、私がみんなに個別に送ることになった。ブロックを解除して、宙に写真を送った。宙が最初から私をブロックしていないのか、ブロックを解除したのかは知る由もないけれど、ちゃんと既読がついた。そのあと、当時はやっていた漫画のキャラのスタンプで「ありがとう」と送られてきた。宙とはそれっきりだった。
成人式のすぐあと、世界中をパンデミックが襲った。世界が終わるんじゃないかと思ったこともあったが、杞憂だった。同窓会の類はその後いっさいなくなり、宙と会うきっかけがますますなくなった。
エマが十年ぶりに日本に帰ってくると言うので、会う約束をしていた。その二日前に、急にお腹が痛くなって救急車で運ばれた。こんな世界なんて滅べばいいと思っていたけれど、いざ死ぬかもしれないと思うと未練があった。最期に宙と仲直りがしたかった。
搬送先で手術を受けた。盲腸だった。死ぬかもしれないと思ったわりには、深刻な事態ではなかった。比較的よくある疾患だった。入院にはなったが、術後の経過は良好だ。私は死ぬことなく生きながらえた。
元々約束していたエマがお見舞いに来てくれた。宙からもメッセージに返信があった。
「久しぶり。覚えてるよ。どうした?」
何事もなかったかのような普通のメッセージだった。死ぬかもしれないと思って連絡をしてみたけれど、私は普通に生きている。急に恥ずかしくなってなんと返したらいいかわからずにいる。
「ねえ、宙に連絡とったんだよね? やっぱり美和っち、宙のこと好きだよね?」
近況を報告し合う最中、エマが切り出した。宙はエマに連絡をとったようだ。もうごまかせない。私はすべてを打ち明けた。宙のことが好きだったこと、宙と喧嘩したこと、最期だと先走って宙に連絡を取ったこと。
「ごめんなさい」
こんなの、十年来の親友に対する裏切りだ。本当に私は最低だ。
「ごめんね。言い出しにくかったよね。アメリカに帰った後も、もっと美和のこと気にかけるべきだったよね」
「違うよ、エマは何も悪くないよ。全部私が悪い」
これは私の問題だ。
「美和っちだって何も悪くないよ。宙に返信しなよ。私のことは気にしなくていいよ。宙、心配してたよ」
突然の連絡に驚いて、私の親友のエマに連絡を取った。盲腸で入院して手術をしたと聞いて、心配している。宙は本質的に優しいから、病人を心配するのは当たり前のことだ。
「死ぬかもしれないって勘違いして連絡して、実は大丈夫でしたって痛々しくない?」
「連絡の理由には私のこと使っていいよ。エマが久々に日本に帰ってきたから漫研の男子と連絡とりたいって頼まれた、でも盲腸になっちゃった、おかしな話じゃない」
話の筋は通っている。それなら不自然ではない。
「何でそこまでしてくれるの? エマは嫌じゃないの?」
「うーん、私はさ、確かに宙と付き合ってはいたけど宙の理解者にはなれなかったから。でも、美和っちは宙の人生に必要な人だったと思う」
私にはそうは思えなかった。今の話を聞いて、別れてもなお宙に対する理解が深いのはエマの方だと思った。
「それに、未練あったら部活で普通になんて振る舞えないよ。美和っち、私たちが付き合ったことも別れたことも全然気づかなかったでしょ? その程度だったんだよ」
エマはひとつひとつ、私が宙と復縁すべきだという理由を列挙する。でも、エマは知らない。それをするには遅すぎるということを。
「でも、今更だもん。宙、結婚しちゃったみたいだし」
宙の結婚は本人から聞いたわけではない。三年前に漫研時代の同期が宙にSNSで「結婚おめでとう」とリプライをしているのを見ただけだ。もう私たちはその程度の関係だ。
「好きだって言わなくても、仲直りはした方がいいと思う。ずっと後悔してたんでしょ? 今、仲直りしなかったら一生後悔するよ」
エマはいつもまっすぐだ。悔しいけれど、正論だ。
「高校時代の誰に聞いても、美和っちと宙はニコイチだったって言うと思う。美和っちにとって宙は恋云々の前に、理解者だったんでしょ?」
「うん、ありがと」
いつの間にか涙声になっていた。私のスマホが震える。宙からのメッセージが来ていた。
「エマから聞いた。盲腸って本当? 大丈夫?」
スマホのポップアップ通知はエマの目にも入った。
「じゃあ、私はおいとまするので文字じゃなくてちゃんと声で話した方がいいよ。お大事に。元気になったらお茶しよ」
エマが私に手を振って病室を出ていく。エマに提案してもらった通りの言い訳をした後、勇気を出して通話を提案した。
「たぶんすぐ退院できると思うけど、入院めちゃくちゃ暇。時間大丈夫な時に少し話せる?」
返信はすぐ来た。
「いいよ。今話せる」
通話がかかってくる。反射的にタップしたが、まさかの普通の通話ではなくビデオ通話だった。眼鏡をかけているのと髪型以外はほとんどあの頃のままの宙がいた。すっぴんで入院着、髪もボサボサ。およそ初恋の人に見せる格好ではなかった。
「久しぶり。大丈夫?」
「うん、ごめんね余計な心配かけて。でもよかった、忘れられてるんじゃないかと思った」
「さすがに美和のことは忘れられねえわ」
困ったように宙が笑った。
「今日平日だけど、お仕事大丈夫?」
「ちょうど今日在宅勤務の日だったんだよね。嫁は普通に仕事だから家に一人。あ、実は俺結婚してて……」
少し気まずそうに宙が言う。知らなかったらショックを受けていただろうけれど、そんな段階は三年前に過ぎている。
「奥さん、絵描く人だったりする?」
聞いたあとすぐに後悔した。もし、私以上に絵がうまい人だったら立ち直れないかもしれない。
「いや、俺以上に絵心無いよ。この間姪っ子にお絵描きしてって言われて描いた絵がやばかった」
心底ほっとした。
「俺は一応無事税理士になって、まあ何とかやってるよ。美和は今何してんの」
親に敷かれたレールに乗って、大手メーカーの一般職に就職した。幸いにもホワイト企業で、よっぽどのことがない限り転職することもないだろう。でも、この質問をされたらこう言うと決めていた。
「イラストレーターやってる」
副業とも呼べない趣味の延長戦。SNSとクラウドソーシングサービスで依頼を受けて、絵を描いている。たまにしか依頼が入らないので、食べていくのは無理だ。フォロワー数だって多い方じゃない。でも、私の絵にお金払ってくれる人がいるんだよ。
「マジかよ、すげえじゃん」
宙が無邪気に私を褒める。十年前、あなたがそうやって私の絵を褒めたことが後生忘れられなかったんだよ。あなたと他愛もない話をしながら絵を描いていたあの季節が人生で一番きらきらしていて、あの日々を取り戻したくて創作の世界に戻ってきちゃったんだよ。イラストレーターとしての名前は鉄竹まみ。「また見つけて」のアナグラム。こんな未練たらたらの名前使ってるんだよ。
「宙と漫画描いてた時、楽しかったから」
あなたが私の人生の道を決めたんだよ。責任取ってよ。責任取らなくても、ちゃんと覚えててよ。
今ならわかる。ずっと認めるのが怖かったけれど、当時の絵を見返すと随分と拙い。上手だと言っても、同級生の中ではうまい部類程度のものだ。宙に対しての評価もまた私の絵を褒めてくれた人が書いた作品だったからバイアスがかかっていた。それでも楽しかった。二人で作った作品を世界一の名作だと無邪気に信じていたあの頃が一番幸せだった。
「俺もあの頃が人生で一番楽しかったよ」
宙が寂しげに笑った。
「もしもあの頃の自分に会ったら、美和と喧嘩するなって言いたい」
「私も、大嫌いなんて思ってもないこと言わなきゃよかった」
「それは実際結構傷ついたわ、あの後しばらく不眠症になったし飯食えなくなったし。いや、後悔するくらいなら謝れよって話なんだけど、連絡する勇気もなくてさ」
違う。宙が仮に勇気を出してくれていても、私は宙のラインをブロックしていた。あの頃の私は弱かったから、これ以上傷つかないために拒絶を選ぶことしかできなかった。
手の甲で涙を拭った。お互い謝ったわけではない。でも、お互いずっと後悔していた。それが分かったからもう十分だ。
「ちゃんと美和に謝れって昔の俺のことぶんなぐって、あの瞬間はいっぱいいっぱいだったけど、いつか心の余裕もできるって教える。だから、それまで色壁ホセは続けろって言う」
二人で決めたその名前を宙がおぼえてくれていた。宙にとって、あの日々は黒歴史ではなく、ちゃんと楽しい思い出だった。これでようやく、綺麗な思い出にできる。
「不器用だったよね、私たち。不器用なりに必死だったよね」
私たちは子供で、無力だった。大人には逆らえないし、しがらみでがんじがらめだった。
「そうだな、もし来世があるなら、もっとうまくやるわ」
「私も、来世は好きな人にはちゃんと好きって言う。親とか周りのこととか気にしないでさ」
でも、現世では言わない。宙はもう既婚者の身だ。あの頃あなたのことが大好きでしたと伝えたら、二度と会えなくなってしまう気がするから。
「俺も、適当な恋愛はしないようにする。付き合った人数は結構いるけど、本気で好きになったのは……いや。やっぱなんでもない。忘れて」
宙もまた、はっきりとは言葉にしなかった。だから、都合よく解釈することにした。宙はやっぱりずるい。でも、そういうところも好きだった。宙の全部を愛していた。
「ねえ、世界が滅ぶとき、生まれ変わってるかどうかは分からないけどさ。その時は会いに行ってもいいかな」
「うん、約束しただろ」
地球最後の日になったら付き合う。実現するかすらわからないそれを宙は約束と呼んでくれた。
「だから世界が早く滅びますようにって祈っておくよ」
私は、宙とさよならをしてもジュリエットみたいに死ねなかった。ノストラダムスの予言は現実にならなかった。
世界が滅ばない限り、私は明日も生きていかなければならない。では、どうやって生きていくか。とりあえず、絵は続けようと思う。
「いてくれるだけでいい」
そう言って宙が存在を肯定してくれたあの頃の私は、絵を描くことが好きな普通の女の子だったから。



