朝顔の瞬き


夕暮れ。
川沿いの遊歩道。

トンッ……
ザザッ……
トンットンッ……

乾いた音が響く。

川面が
キラキラと揺れている。


「はぁっ……はぁっ……くっそ!」
俺は焦っていた。

身体が重い。

1ヶ月のブランクは、
想像以上に、俺をダメにした。

うっかり間に合った朝練、
時間の無駄でしかなかった。

そして今も。
何もかもが、無駄でしかない。


トトン……。

コロコロ……。

腰に手を当て立ち尽くす。


ひとりぼっちのボール。
オレンジの光を浴びて、
影を長く伸ばしている。

「はいはい、迎えに行きますよ。」
ため息をつく。

ボールを拾い上げ、
両手でギュッと掴む。

「ほれ、もう寝ろ。」

リュックに押し込み、
チャックを閉じる。


「ぜんっぜん走れなかったな!」

自分の脚を、
軽くペシペシと叩く。


「しゃーないか。
 1ヶ月ギプスしてたし、
 なまってて当たり前だ。

 ――気にするな、俺。」


ラダーを手に取る。

「こっちにすっか。」

一マスずつ間隔を見て、
丁寧に地面へ伸ばしていく。

ここを雑にやると、
あとで泣くのは俺だ。

端からラダーの先を見る。

「うし!」

グンッと、
大きくストレッチをする。

腿を高く上げて、
高速で足踏み。

脚の感触を確かめる。

「まあまあ……かな。」

タタッ!
トッ!
タタッ!

「……おっと……っと。」

タタッ!
トトッ……トッ……

「ああー、……もうっ!」

トッ!
タタッ……タッ……ッ!


――ドスン!

派手に尻もちをついた。
「いってぇー!」

本当はそんなに痛くない。
痛いのは俺の心だ。


俺はうな垂れたまま
地面を歩く蟻を
じっと見つめていた。

「そう甘くはねーよな……。」



朝の感覚を思い出す。

真っ直ぐに、
上に跳ねたボール。

あの時の空。

あの瞬間。

不安なんて吹き飛んで
何でも上手くいくような、

――そんな気がしたんだ。




「……ラダーか。」

柔らかく掠れた声がした。

パッと顔を上げる。

――あ。
朝のアイツだ。

「ヒヨコ……?」

そいつは、
少し離れたところに立って
こっちを見ていた。


奴の視線がゆっくりと、
長く伸びたラダーをなぞる。


全部を、
見られてるような気がした。

俺の弱さ、全部。


見られたくない。
知られたくない。

これ以上、


――見ないでくれ。


「……なんだ?――お前。」

低い声で凄む。


「続き、やらないの?」


「ちょっと休憩してるだけ。」

「そっか。……休憩ね。」

そう言うと奴は、
勝手に距離を詰めてきて、
勝手に俺のリュック手にして、
勝手にチャック開けて、

んでもってボール出して、

「はい。」

俺に小さくパスをした。

「なんだよ?」

立ち上がるのもめんどくさい。
つま先でボールを蹴っ飛ばした。

――俺に構うな、ヒヨコ野郎。

「クスッ、
 そんなに不機嫌な顔しないで。」

奴はボールを拾って戻ると、
足裏でコロコロと転がした。

「ほら、俺からボール取ってみてよ。」

「は?遊んでる暇ねーよ。
 ――あっち行けよ。」

「いいじゃん。
 せっかく会ったんだから、
 遊ぼ?」

なんなんだ、こいつは。
凄んでも怯みもしない。
余裕の笑顔かよ。

「くっそ!イラつく!」

髪をグシャグシャッとかいた。
乱暴に立ち上がる。

ヒヨコを指さし念押しした。
「ちょっとだけ!
 すぐ終わりだからな!」

じっと睨みつけたまま
奴の隣に並んだ。

俺の拒絶の視線に、
奴はお構いなしの様子。

俯いてボールを見てる。


「……涼。」

「あ?」

「俺の名前。――涼。」

「あぁ……俺、快。」



「ヒヨコじゃないよ?涼、ね。」

「聞こえてたのかよ。
 ――悪い。」

涼はふっと口角をあげ、
「別に。悪い気はしないよ。」
と顔を上げた。

バチッ……。
目が合った。

――苦手だコイツ。
ふいっと目を逸らす。

「うん。体格も同じくらいだし。
 練習相手にはぴったりだと思わない?」

「はいはい、とても素敵。」
俺は手をヒラヒラさせてあしらった。

「5分経ったら返せよ?」

「それは、快次第じゃない?」

涼の目をじっと見返す。
「俺、真剣なの。
 そういう時間なの。わかる?」

涼の目に少し光が入る。
驚いたように。

俺はボールに視線を落とした。

「みんな俺の事
 バカっていうんだけど、
 四六時中バカなわけじゃねーんだ。」

「バカ?
 へぇ、そう言われてるんだ。」

「俺だって
 真面目に悩むことくらい
 するっつーの。」

――あれ?
なんで俺こいつに愚痴ってんだろう。

涼は俺の通常モードなんて
知るはずないのに。


「……なんか愚痴っぽいな。ごめん。」
ペコッと頭を下げる。

涼がふっと笑う。

「5分後に、
 やっぱり俺はバカだったって
 再認識させたらごめんね。」

「チッ!
そのセリフ、まんま返すわ!」

距離を詰める。
スイッと涼がかわす。
いや、かわしたとは言えない。
大きくは動いてない。

「え?」

思い直すように
ボールを取ろうと脚を出す。

だが。

届かない。

触れない。

「なんだこれ……」

涼はほとんど動いていない。

なのに、
ボールは

右へ
左へ
前へ
後ろへ

くるくると流れる。

離れたと思ったら
吸い付く。

跳ねたと思えば
胸へ
背中へ
自然に収まる。

まるで
体の一部みたいに。

「っ……!」
足が空回る。
俺の呼吸だけが上がる。

「はぁっ……はぁっ……ケホッ……」

「まだ3分しか経ってないよ。」
涼は淡々と言う。

「うるせぇ!黙って続けろ!」

―――――

「はい。5分。」

涼の足が止まった。
ぴたりと
ボールも止まる。

草木のざわつきが、耳につく。

涼が静かに、こっちを見てる。
俺の肩は、大きく上下していた。

「あーもう、分かった。認める。
 5分後のバカは俺っ!俺だよ!」

上がった呼吸。
血液が、
全身を駆け巡っている。

「はぁっ……はぁっ……

 あー、気持ちいい。

 お前、最高だな。」




「重心。」


「……え?」

「快、お前、ちゃんと立ててない。」
涼が俺に一歩近づく。

「足じゃなくて」

俺の胸元を
トン、と軽く指すと
静かに俺を見据えた。

「ここで立て。」



ドクン……

大きくはない。

深く。

心臓が鳴る。

―――あ。まただ。朝と同じ感覚。


涼が一歩下がる。

ボールを軽く前に出す。

「ほら、やってみな。
 バカなんだろ?
 ――じゃあ考えるな。」

いつもの俺なら
バカって言うなって絡むところだが、
珍しく素直に聞き入れていた。

返事の代わりに足を出す。

ボールを引き寄せる。
止める。

トン。

一度浮かせる。

トン。
トン。

さっきと違う。
ボールの軸がブレない。

トンッ!

高く上がる。

まっすぐ。

きれいに。

自然と俺の視線もあがる。

スローモーションみたいに。


空。


夕焼け。

放物線を描き、
ボールが落ちてくる。

それを涼が、
綺麗にトラップした。

気がつくと俺は、
涼の腰の辺りに
体を引き寄せていた。

スイッ…

涼が、かわすのが分かった。

でも、
俺の足元に、

――ボールはあった。


「……取れた」



遅れて
感情が追いつく。

目を見開いて涼を見る。

涼が笑った。

最初から分かってたみたいに、
肩を揺らした。

「ほら、できたじゃん」
「あ……あぁ。うんっ!うん!うん!」
確かめるように何度も頷いた。

嬉しい。

鼻から抜ける高揚感。

心が、弾む。

「快はとても素直なんだろうね。
 だから体も、
 ―――素直に反応する。」

「え……?」

トクンッ……
トクントクンッ……

風が吹く。

朝顔が揺れる。

涼の髪も揺れている。

その度に
涼の瞳がキラキラと光る。

夕焼けのオレンジが
ゆっくりと深みを増していく。




「……なぁ。俺、また涼と会える?」

気づいたら
口をついて出ていた。

「え?」

「……あっ!なんでもない!
 何言ってんだ、俺っ……。」


「うん。会えるよ、すぐ。」

涼が穏やかに微笑んだ。

―――――

適度に湿った風が、
窓から入ってくる。

ベッドに寝転がり
冷えたタオルを目に乗せる。

ひと息つく。

――アイツ、
上手いってレベル超えてねーか?

夕方の光景が浮かぶ。
右へ、左へ。
まるで磁石みたいに
涼の足に吸い付くボール。

思い出すだけでも
ゾクゾクしてくる。

しなやかに
だけど力強く
やわらかい。

近づいては離れる。

時折、ほんの一瞬だけ
目が合う。

すぐ息があがる俺。

必死すぎだろ。

―――ダサいな……

「……重心、か。」
胸のあたりを軽く触る。



『ここで立て。』

涼の眼差しを、思い出す。


あの時。
少しだけ近かった顔。

柔らかそうな髪。


「アイツ……シャンプー何使ってんだろ」

しん。
ほけー……
「ん?」
飛び起きる。

「待て待て待て待て」
ブンブンブンッ!!頭を振る。

「ないないないない」
バチコーン!!
自分の頬に平手打ち。

「変態かよ!!
 自分がこえぇわ……。」

ベッドに倒れ込む。




ゴロン……。
仰向けに寝返って
また、天井を見つめる。


『ここで立て。』


ツンと押された
――胸が熱い。

グッと、
俺に踏み込んできた。

射抜くような、強い眼差し

鼻先が触れそうだった。


すぅっ……
ゆっくり目を閉じる。


「ここで。だよ?聞いてる?」

涼が俺の胸に
指を押し付けたまま
更に、顔を近づけてくる。

「あぁ……聞いてるよ。」
その指を、ぎゅっと握る。

ぐいっと引き寄せる。
「え?」
距離が、ゼロになる。
「快?」
まつ毛が触れる。

「もう黙って……」
涼の目を見て言う。

「快……?」
夕陽に縁取られた涼の唇が
俺の名前を呼ぶ。

顔を少し傾ける。

近づいていく。

まるで、
俺を待ってるかのように、
涼の唇が、
ほんのり開いた。

ふっくらとした蕾と蕾が、

触れて、

ほどけて、

重なるまで

あと1センチ……

0.5センチ……

涼が、唇を開き、
吐息を漏らす。

距離が、消える。
息が触れそうなほど近い。

もう少しで――



「へ、ん、た、い。」



「うわぁぁぁ!!」
ガバッ!!
勢いよく起き上がる。
息が荒い。

「はっ……はっ……はっ……。」

 ――風呂!風呂入ろ!」


どこを見てるのか分からない顔で
逃げるように
俺は部屋をあとにした。
パタン…