
なんの変哲もない朝だった。
ちっちゃな事件すらない、いつもの日常。
親に叩き起こされ、
朝飯を頬張りながら制服に着替える。
動きを止め、ふっと宙に目をやる。
1、2、3……
「食べるか着替えるかどっちかにしなさい!」
「ブハッ!はい来たー。」
時計は7時半を指している。
この怒声はいわゆる時報ってやつだ。
お母さん。
いつもいつも愛の時報をありがとう。
乱暴に顔を洗い、
歯ブラシをコップにイン!
「行ってきまーす!」
「気をつけて行くのよ!忘れ物ないね?」
「ないないー!」
「あっ!あの子水筒忘れてる!もぅ!」
遠く後ろで、母の声が聞こえた。
――今日も平和である。
弾む呼吸。
体は軽い。
絶好調。
と言いたいところだが、
俺の心はあいにくの曇り空だった。
1か月前、
スパイクで足を踏まれて怪我をした。
試合前日だった。
足の甲にヒビ、足首捻挫。
ついでに俺の心も一緒に捻挫した。
とりわけ上手いわけじゃない。
スタメンでもない。
ただボールを追いかけて走ることが大好きで、
子供の頃から続けていたのがサッカーだった。
「あーあ。初めてスタートから出場だったのになぁ……はぁぁぁあ……」
体がしぼむほどの深いため息。
全身がどっと重くなる。
川沿いの遊歩道に差し掛かったところで、
俺は腕時計に目をやった。
「ダラダラ歩いても
それなりに前には進むんだな。
もー……
朝練、間に合っちゃうじゃん。」
リュックからサッカーボールを取り出し、
足元に丁寧に置いた。
つま先でチョンとやると、
ボールが上に小さく跳ねた。
ボールは俺を裏切らない。
右、左、右、左、
トン、トン、トン…
ちっちゃなリフティングはお手の物だ。
「……行く、行かない、行く、行かない、
行く、行かない、からの~……
――行く!」
足首の角度を変えて蹴り上げた。
が、ボールは俺の顔面に向かって飛んできた。
「うわっ!いてっ!」
ボールは俺のおでこにぶつかって、
ポスンッ!と両手に収まった。
なんてことだ。
秒で裏切られたじゃないか。
お前、俺と苦楽を共にしてきたくせに。
ボールにおでこを擦り付ける。
少し考える。
まあまあ考えた。
「……行かなーい。」
あーあ、なんて情けない声なんだろう。
「さて、と。」
ボールをぽんっと抱え、
無造作にリュックに押し込んだ。
「朝練は休みます!っと。」
ベンチに腰を下ろして、ふぅっと息を吐く。
「いいんだよ、1日くらい。
これはサボりじゃない。
攻めの休養ってやつだ。
たぶん偉い人も言ってた。」
川の水面が空を映している。
青く、白く、キラキラと光る。
朝の風はまだ少し冷たい。
ぼーっと眺めていると、
足元、視界の端に
淡い色が見え隠れした。
「ん?」
ベンチの脚に蔓を絡ませて、
まあるい花が咲いている。
川の向こうに広がる空と同じ色だ。
朝の光を浴びて、ゆらゆら揺れている。
「早咲きの朝顔か……。」
風になびく花びらが、
ゆっくり閉じて、
また開く。
まばたきしてるみたいだ。
何気なく手を伸ばす。
柔らかな花びらに手が触れた。
――そのとき。
ふぁぁ……
小さなあくびの声。
俺は顔を上げ、そろりと首を伸ばした。
声の主は隣のベンチにいた。
さっきまで、
いなかった気がする。
いや、いたのか?
そいつは体勢を整えながら
景色を眺め、
すうっと深呼吸した。
あ。同じネクタイ……。
あんな奴いたっけな。
柔らかそうな髪。
目にかかる長さ、
少しくせがある。
ツムジのあたりが、
ちいさく揺れていた。
「ヒヨコ?」
うっかり声に出してしまった。
聞こえたかどうかは分からない。
分からないけど
――そいつは俺を見た。
目が合った。
まるで照準を合わせるみたいに。
喉の奥が、
変な音を立てた。
なんだこれ。
右手が勝手に、
リュックの肩紐を握っていた。
そいつはふいっと向き直すと、
静かにベンチに寝そべった。
置いてけぼりになったような気分だ。
もそもそと荷物をまとめ
背中をすくめて立ち上がった。
いたたまれないような。
恥ずかしいような。
でも、
不思議と俺の口元は緩んでいた。
「ん?いやいや……。」
ギュッと目を瞑る。
力を込めて、三回まばたき。
「しっかりしろ!俺!」
背筋を伸ばし、
前を向いて歩き出す。
そっと……
眠りヒヨコの前を
通り過ぎようとしていた。
―――――
「……重心。」
確かに聞こえた。
横目でそいつを盗み見る。
「……え?こっち見てる?」
少し、心持ち、数センチ、
顔を近づけてみる。
そいつは気持ちよさそうに寝息を立て、
うっすら目を開けたまま脱力していた。
視線を感じたのは気のせいか。
「なんだよ、ビックリさせんなよ……
――重心?」
静かに。
だけど心逸る気持ちで、
荷物を置く。
ボールを取り出す。
コロン。
慣れた手つきで
つま先にボールを落とす。
トンッ……トンッ……
小さく弾ませる。
すっと息を吸い込む。
止める。
ふっと緩める。
「――重心。」
トンッ!
ボールは綺麗な軌道を描いて
真っ直ぐ空に跳ね上がった。
俺の視線は、
スローモーションのように
滑らかにボールを追った。
ポスン!
両手にボールが収まった。
「おっ!」
思わず嬉しくなって振り返った。
ベンチから出ているヒヨコの足。
つま先、ふくらはぎ、ひざ……
視線を上へと滑らせる。
奴は座って、
静かにこっちを見ていた。
ただ、そこに居た。
目が合う。
奴の瞳は不思議な色だと思った。
なぜか動けなかった。
そいつは
ふ……、と微笑んだ。
ドクンッ……
俺の心臓が、
ひとつ大きく鳴った。
「……っ!」
慌ててボールをリュックに突っ込む。
くそっ!
リュックのチャックが今朝は硬い。
口が開いたままのリュックを
半ば強引に引っ掴む。
俺は無様に走り出していた。
バタバタと走る。
胸を何度もさする。
走ってる腕が視界に入る。
「へ?鳥肌!?」
腕をゴシゴシとさする。
ザワザワとした何かが、
引いては湧き上がる。
「なんだこれ!」
ぶわっと汗が滲み出る。
「なんなんだよ!」
熱いのか?
寒いのか?
「風邪だ!絶対そう!」
絶対に後ろは振り返っちゃ駄目だ。
振り返ったら、
もう戻れない気がした。
――こんなの知らん。
知らん。
知らん知らん知らん!
俺はその日、
うっかり朝練に間に合った。
やればできる子。
無念だ。
「おー、快、珍しく早いじゃん」
「ハハッ!朝から百面相やってるぞ!」
チームメイトの間抜けな笑い声が
俺の全部に向けられてる気がした。
―――――
放課後の保健室。
ここからは、
グランドがよく見える。
一人の男子生徒が
窓枠に頬杖をついて
賑やかなグランドを眺めている。
柔らかそうな髪が、
カーテンの影で小さく揺れた。
「――まぁ、急ぎはしないさ。」
口角を上げる。
後ろから養護教員が声をかける。
「残念だったわね。
編入初日なのに、教室まで行けなくて。
――でも、
ここまで来られただけでも充分よ。
具合はどうかな?」
振り返って、静かに立ち上がる。
「せっかく来たのにな……。
放課後まで寝てた――なんてね。
しっかり休ませてもらったので、
何とか帰れそうです。
――あ。それと。
保健委員、俺、入ります。」
「あら、すごく助かるわ。
時々、お留守番のお願いできる?」
「もちろん。」
穏やかに微笑むと、
カラッ……と窓を閉めた。
