前世の記憶

 8月17日、花火大会の当日、僕たちは鈍行列車に乗り、熊野市へと向かっていた。
 幼き日の朧げな記憶だったのだが、朝早く行かないと場所取りができなかったことだけは覚えていたので、念には念を入れ始発列車に乗って目的地に向かっていた。
 僕と彼女の家は少し離れてはいたが、最寄り駅が同じ沿線で一駅しか違わなかったので、容易に合流することができた。
 早朝にも関わらず、彼女は妙にハイテンションではしゃいでいる。
「なんか、楽しそうだね」
「えーっ、なんかさ、冒険の旅に出てるみたいで楽しくない? えっ? それ私だけ?」
「いや、俺も楽しいよ。ただ、葵が全身で表現しすぎなんだよ」
 僕の言葉を聞いた彼女が、妙に嬉しそうに顔を近付けてきた。その日は、いつものように彼女から酒と香水の匂いが漂っていなかった。
「……何?」
「名前!」
「ん? 名前?」
「今めっちゃ自然に葵って呼んでくれた。なんか嬉しい」
 彼女はそう言うと、より一層笑みを深めて喜んでいた。
 完全に無意識だったので、改めて指摘されると僕はなんだか気恥ずかしくなった。
「今日は酒の匂いを漂わせてないんだな」
「あのさ、私のことをアル中女って思ってる? ちゃんとTPOぐらい弁えますから」
「いや、意外としっかりしてるんだなって感心してたんだよ」
「あっ、そういうことか。陽って言葉足らずって言われない?」
「……恥ずかしながら、めっちゃ言われる」
「アハハ、やっぱりか。でもいい。私だけ分かってあげるから」
 不思議と、その言葉が嬉しかった。自分の周りにいる人間は、僕の欠点を直すように強要する者ばかりだったから。
『君はそのままでいい』って言われた気がした。そんな体験は初めてだった。

 2回ほど電車を乗り換えながら約5時間の長旅の末、花火会場の最寄り駅である熊野駅にたどり着いた。
 車中、車窓の外に広がる田園風景や川や海の一つ一つに、彼女はいちいち声を上げて感激していた。
 そんな彼女に対して、僕は不覚にも『可愛い』と思ってしまっていた。年上の人間を可愛いと思うことも生まれて初めての経験だった。
 駅を出ると、寂れた漁村という印象は以前と変わっていなかったが、同じ目的と思われる観光客の姿がチラホラと見受けられた。
 花火会場の場所を示す看板があちこちに掲げられていて、僕たちを含む観光客はそれに誘われるように迷いなく歩を進めていた。
 ものの10分少々歩くと、会場の海に到着した。海岸には、すでに場所取りのビニールシートや、集団の陣地を示すように細いロープが無数に張られていた。