◯後醍院家__部屋→風呂場
甘酒を飲み終えた來子、梅に再び空腹の有無を確かめられ、立ち上がっても立ち眩みや違和感がないかを何度も確認されたのち、部屋から連れ出される。
來子(どうしよう、一人で歩いたら、もうどこにも戻れなくなってしまいそう)
後醍院家の屋敷は広く、廊下を歩く來子は不安になる。
到着したのは立派な風呂場。
梅「それでは來子さま、身体を軽く流したら湯船に浸かってくださいね」
來子(あれ、私のお仕事は…?)
梅「湯船のお湯には天嶺さまの術が施されております」
梅「少し沁みるかもしれませんが、びっくりして慌てないこと」
梅「お身体を癒やすためのものですからね」
來子「あの、お仕事は…」
梅「肩までしっかり浸かりましたら、梅を呼んでくださいませ」
來子(お仕事…)
梅「わかりましたか?」
來子「はい…」
梅の圧に負けてしまい、來子はこわごわと頷く。
そんな來子を見て梅がくすりと笑う。
梅「來子さまが心配なされることはなにもございませんよ」
梅、一旦風呂場から出ていく。
來子は着物を脱ぎ、おそるおそる風呂場へ足を踏み入れる。
広く、清潔感にあふれた風呂場。
來子(私が使っていた場所とは大違い)
來子、桂嶽家で使用を許可された來子用の風呂場を思い出す。
來子(あそこは日当たりが悪く、すぐにカビが生える場所だった)
來子(お湯を運ぼうにも本邸からは遠く、湯を張ることもできなかったもの)
來子(だから、冬でもぬるま湯で身体を流すしかなかった)
控えめに湯を使い、それから湯船に足を入れる。
つま先を浸しただけでぴりぴりとした痛みが肌を刺す。
思わずびくっとして、湯船から足を引いてしまう。
來子(これが天嶺さまの術の影響…?)
來子(お湯に術を施すなんて、桂嶽では見たことも経験したこともない)
來子(私が知らなかっただけで、一般的な術なのかしら)
考え事をしているうちに足が湯船に触れる。
來子(……っ)
來子(そうだ、まずは湯船に浸からないと)
來子、意を決し、そっと湯に浸かる。
すると傷に沁みるような痛みはあるものの、同時に身体の奥からじんわりとほぐれていくような不思議な感覚があった。
來子(あたたかい…)
來子(一体、どんな術が施されているのかな)
それから、おずおずと梅の名を呼ぶ。
來子「梅さん…」
梅「はい、ここにおりますよ。では、失礼いたします」
來子「えっ⁉」
驚く來子に構わず、梅は來子の身体を優しく磨き、手入れが行き届いていないわしわしした髪の毛を丹念にほぐし櫛で梳いてくれる。また黒くなってしまった爪の間も丹念に掃除をしてくれる。
來子「梅さん…!」
來子「そんなことは自分でっ」
梅「いけません。來子さまは天嶺さまの奥様となられるお方です」
梅「梅に世話されることが、今日のお仕事でございますよ」
來子(これが私のお仕事…?)
有無を言わせぬやわらかな圧に來子は黙り込む。
そのまま、されるがままの時間を過ごしているうちに、肌を刺していたぴりぴりとした痛みはいつの間にか消え、來子はうとうとし始める。
やがて湯船から上がると、身体の傷が心なしか薄くなっている気がした。
それから丁寧に髪に香油を塗り込んでもらい、生まれて初めて軽い化粧まで施してもらう。
來子(これが…私?)
いつも美椿が着ているような美しい着物を身にまとい、鏡に映る自分をぼうっと見つめる。
梅「とてもお美しいですよ」
來子、何と返していいか分からず口ごもる。
嬉しさから頬がほんのりと赤く染まっている。
◯後醍院家__洋館__執務室
梅が扉をノックする。
梅「梅でございます」
梅「來子さまをお連れしました」
天嶺「入れ」
部屋の中から天嶺の声が返り、來子は思わず背筋を伸ばす。
梅が扉を開けると、机に向かって書類仕事をしている天嶺の姿が見えた。
天嶺は一度こちらに視線を向け、わずかに目を見開く(見惚れている)。
天嶺にじっと見つめられ、來子はそわそわと落ち着かない。
來子「あ、あの…」
來子が口を開くと、天嶺はすぐに視線を逸らす。
天嶺「…梅、珈琲を用意してくれ」
天嶺「それから…」
天嶺、來子を見てすぐに目を逸らす。
天嶺「紅茶も頼む」
梅「まあまあ、照れてしまわれて」
ぴくり、天嶺の眉が不服そうに動く。
梅「けれど、誉め言葉のひとつも言えないなんて、天嶺さまもまだまだですわね」
天嶺は「うるさいぞ」と小さく呟き、ばつが悪そうに顔をしかめる。
來子(梅さんが強い…)
梅はおほほと笑いながら、珈琲と紅茶の支度を始める。
一応來子に、「珈琲の方がいいかしら?」と聞いてくれる。
來子(珈琲は飲んだことも、桂嶽で見たこともないわ)
來子(どんな味がするのか気になるけれど)
來子、ちいさく首を振って、そのままその場に立ち尽くしている。
天嶺「いつまでそこに立っているつもりだ」
天嶺「そこへ座っていろ」
來子は、どこに座ってよいのか分からず、あたふたと視線をさまよわせる。
それを見た天嶺は小さくため息をつき、來子の腕を引いて応接テーブルのそばにあるソファへ座らせる。
來子(ふかふかしているわ)
來子、ちょこんと端に腰掛ける。
しかし梅の手伝いをした方がよいのではないか…とそわそわしていると、天嶺に「座っていろ」と再び釘を刺されてしまう。
來子(見ているだけなんて、なんだか落ち着かない)
來子の中で不安が膨らみかけた瞬間、ぽんと音を立てて御影が現れる。
驚く來子の膝の上に当然のように乗ると、そのまま目を閉じ、居眠りを始める。
來子「あ、天嶺さま…!」
天嶺「御影だ、害はない」
助けを求める來子。天嶺はチラッと見て簡潔に告げる。
來子「御影さま…」
來子(それが、この子の名前)
來子が名を繰り返すと、御影の二股の尻尾がゆらりと揺れる。
御影「撫でておくれ、お嬢さん」
來子「いいのですか…?」
小声で尋ねると、二股に分かれた尻尾が、するりと來子の腕に絡まる。
來子「失礼します…」
來子「ふわふわ」
御影、ごろごろ喉を鳴らし、頭を來子の手にこすりつける。
その様子を見て、梅がくすりと笑う。
やがて梅が部屋を出ていくと、ほどなくして天嶺も執務机を離れ、テーブルを挟んだ向かい側のソファに腰を下ろす。
天嶺「着物は似合っているが、やはり既製品だな」
天嶺「近いうちに時間を作って、街へ買いに行く必要がある」
天嶺は來子をじっと見て、そう言う。
來子は慌てて。
來子「そんな、十分ですっ。私はこの着物を気に入っております」
來子「それに、こんな上等なものを身に着けたのも初めてで」
天嶺、良くしゃべり出した來子のことを面白く思う。
天嶺「たしかに、お前が身に着けていたものは、桂嶽の娘とは思えないほど粗末だった」
來子「……っ」
來子、目を伏せる。その反応に、天嶺ため息を吐く。
天嶺「もうあのような目に遭うことはないから安心しろ」
天嶺「この家で、お前を貶す者はいない」
來子(たしかに、この家の人の目線は冷たくない)
來子(でも……)
天嶺「そもそもお前には既製品の着物では大きすぎる」
來子「そ、そうでしょうか…?」
着物の良し悪しが分からない來子。
天嶺「生地も上等とは言えない」
天嶺「後醍院家の妻となる以上、目利きも身につけろ」
來子「は、はい…」
來子(天嶺さまはとても難しいことをおっしゃられる)
來子(それに、私なんかがそんな贅沢をして、本当にいいのでしょうか)
來子、天嶺に対して抱いていた疑問がさらに膨らむ。
來子「どうして…」
天嶺「なんだ?」
來子「どうして天嶺さまは、こんなに私によくしてくださるのですか?」
來子、天嶺の顔を見る。
天嶺は少し考える素振りを見せたあと、來子のティーカップにたっぷりと牛乳を注いでくれる。
天嶺「まずは飲め」
天嶺「梅はこの家で一番紅茶を淹れるのが上手い」
來子、おずおずと紅茶に口を付ける。
それから目を輝かせ、天嶺を伺う。
來子「とてもおいしいです」
來子「今日は…いえ、天嶺さまとお会いしてからずっと、私は夢の中にいるようです」
來子(そして、この夢がいつか覚めてしまうことが怖くてたまらない)
來子(覚めるのなら、傷が浅いうちに…)
天嶺、黙って來子を見つめている。
來子「私は、天嶺さまに何ひとつ差し出せるものがありません」
來子「それに天嶺さまは、前世で私に殺されたともおっしゃいました」
來子「それが真実であると信じ切れるわけではありませんが、天嶺さまは私を恨んでおいでではないのですか?」
來子(いっそ、仕返しのために私を連れて来たと言われた方が納得がいく)
來子、こぶしを握り締め、ありったけの勇気を出して問いかける。
[4話終]
甘酒を飲み終えた來子、梅に再び空腹の有無を確かめられ、立ち上がっても立ち眩みや違和感がないかを何度も確認されたのち、部屋から連れ出される。
來子(どうしよう、一人で歩いたら、もうどこにも戻れなくなってしまいそう)
後醍院家の屋敷は広く、廊下を歩く來子は不安になる。
到着したのは立派な風呂場。
梅「それでは來子さま、身体を軽く流したら湯船に浸かってくださいね」
來子(あれ、私のお仕事は…?)
梅「湯船のお湯には天嶺さまの術が施されております」
梅「少し沁みるかもしれませんが、びっくりして慌てないこと」
梅「お身体を癒やすためのものですからね」
來子「あの、お仕事は…」
梅「肩までしっかり浸かりましたら、梅を呼んでくださいませ」
來子(お仕事…)
梅「わかりましたか?」
來子「はい…」
梅の圧に負けてしまい、來子はこわごわと頷く。
そんな來子を見て梅がくすりと笑う。
梅「來子さまが心配なされることはなにもございませんよ」
梅、一旦風呂場から出ていく。
來子は着物を脱ぎ、おそるおそる風呂場へ足を踏み入れる。
広く、清潔感にあふれた風呂場。
來子(私が使っていた場所とは大違い)
來子、桂嶽家で使用を許可された來子用の風呂場を思い出す。
來子(あそこは日当たりが悪く、すぐにカビが生える場所だった)
來子(お湯を運ぼうにも本邸からは遠く、湯を張ることもできなかったもの)
來子(だから、冬でもぬるま湯で身体を流すしかなかった)
控えめに湯を使い、それから湯船に足を入れる。
つま先を浸しただけでぴりぴりとした痛みが肌を刺す。
思わずびくっとして、湯船から足を引いてしまう。
來子(これが天嶺さまの術の影響…?)
來子(お湯に術を施すなんて、桂嶽では見たことも経験したこともない)
來子(私が知らなかっただけで、一般的な術なのかしら)
考え事をしているうちに足が湯船に触れる。
來子(……っ)
來子(そうだ、まずは湯船に浸からないと)
來子、意を決し、そっと湯に浸かる。
すると傷に沁みるような痛みはあるものの、同時に身体の奥からじんわりとほぐれていくような不思議な感覚があった。
來子(あたたかい…)
來子(一体、どんな術が施されているのかな)
それから、おずおずと梅の名を呼ぶ。
來子「梅さん…」
梅「はい、ここにおりますよ。では、失礼いたします」
來子「えっ⁉」
驚く來子に構わず、梅は來子の身体を優しく磨き、手入れが行き届いていないわしわしした髪の毛を丹念にほぐし櫛で梳いてくれる。また黒くなってしまった爪の間も丹念に掃除をしてくれる。
來子「梅さん…!」
來子「そんなことは自分でっ」
梅「いけません。來子さまは天嶺さまの奥様となられるお方です」
梅「梅に世話されることが、今日のお仕事でございますよ」
來子(これが私のお仕事…?)
有無を言わせぬやわらかな圧に來子は黙り込む。
そのまま、されるがままの時間を過ごしているうちに、肌を刺していたぴりぴりとした痛みはいつの間にか消え、來子はうとうとし始める。
やがて湯船から上がると、身体の傷が心なしか薄くなっている気がした。
それから丁寧に髪に香油を塗り込んでもらい、生まれて初めて軽い化粧まで施してもらう。
來子(これが…私?)
いつも美椿が着ているような美しい着物を身にまとい、鏡に映る自分をぼうっと見つめる。
梅「とてもお美しいですよ」
來子、何と返していいか分からず口ごもる。
嬉しさから頬がほんのりと赤く染まっている。
◯後醍院家__洋館__執務室
梅が扉をノックする。
梅「梅でございます」
梅「來子さまをお連れしました」
天嶺「入れ」
部屋の中から天嶺の声が返り、來子は思わず背筋を伸ばす。
梅が扉を開けると、机に向かって書類仕事をしている天嶺の姿が見えた。
天嶺は一度こちらに視線を向け、わずかに目を見開く(見惚れている)。
天嶺にじっと見つめられ、來子はそわそわと落ち着かない。
來子「あ、あの…」
來子が口を開くと、天嶺はすぐに視線を逸らす。
天嶺「…梅、珈琲を用意してくれ」
天嶺「それから…」
天嶺、來子を見てすぐに目を逸らす。
天嶺「紅茶も頼む」
梅「まあまあ、照れてしまわれて」
ぴくり、天嶺の眉が不服そうに動く。
梅「けれど、誉め言葉のひとつも言えないなんて、天嶺さまもまだまだですわね」
天嶺は「うるさいぞ」と小さく呟き、ばつが悪そうに顔をしかめる。
來子(梅さんが強い…)
梅はおほほと笑いながら、珈琲と紅茶の支度を始める。
一応來子に、「珈琲の方がいいかしら?」と聞いてくれる。
來子(珈琲は飲んだことも、桂嶽で見たこともないわ)
來子(どんな味がするのか気になるけれど)
來子、ちいさく首を振って、そのままその場に立ち尽くしている。
天嶺「いつまでそこに立っているつもりだ」
天嶺「そこへ座っていろ」
來子は、どこに座ってよいのか分からず、あたふたと視線をさまよわせる。
それを見た天嶺は小さくため息をつき、來子の腕を引いて応接テーブルのそばにあるソファへ座らせる。
來子(ふかふかしているわ)
來子、ちょこんと端に腰掛ける。
しかし梅の手伝いをした方がよいのではないか…とそわそわしていると、天嶺に「座っていろ」と再び釘を刺されてしまう。
來子(見ているだけなんて、なんだか落ち着かない)
來子の中で不安が膨らみかけた瞬間、ぽんと音を立てて御影が現れる。
驚く來子の膝の上に当然のように乗ると、そのまま目を閉じ、居眠りを始める。
來子「あ、天嶺さま…!」
天嶺「御影だ、害はない」
助けを求める來子。天嶺はチラッと見て簡潔に告げる。
來子「御影さま…」
來子(それが、この子の名前)
來子が名を繰り返すと、御影の二股の尻尾がゆらりと揺れる。
御影「撫でておくれ、お嬢さん」
來子「いいのですか…?」
小声で尋ねると、二股に分かれた尻尾が、するりと來子の腕に絡まる。
來子「失礼します…」
來子「ふわふわ」
御影、ごろごろ喉を鳴らし、頭を來子の手にこすりつける。
その様子を見て、梅がくすりと笑う。
やがて梅が部屋を出ていくと、ほどなくして天嶺も執務机を離れ、テーブルを挟んだ向かい側のソファに腰を下ろす。
天嶺「着物は似合っているが、やはり既製品だな」
天嶺「近いうちに時間を作って、街へ買いに行く必要がある」
天嶺は來子をじっと見て、そう言う。
來子は慌てて。
來子「そんな、十分ですっ。私はこの着物を気に入っております」
來子「それに、こんな上等なものを身に着けたのも初めてで」
天嶺、良くしゃべり出した來子のことを面白く思う。
天嶺「たしかに、お前が身に着けていたものは、桂嶽の娘とは思えないほど粗末だった」
來子「……っ」
來子、目を伏せる。その反応に、天嶺ため息を吐く。
天嶺「もうあのような目に遭うことはないから安心しろ」
天嶺「この家で、お前を貶す者はいない」
來子(たしかに、この家の人の目線は冷たくない)
來子(でも……)
天嶺「そもそもお前には既製品の着物では大きすぎる」
來子「そ、そうでしょうか…?」
着物の良し悪しが分からない來子。
天嶺「生地も上等とは言えない」
天嶺「後醍院家の妻となる以上、目利きも身につけろ」
來子「は、はい…」
來子(天嶺さまはとても難しいことをおっしゃられる)
來子(それに、私なんかがそんな贅沢をして、本当にいいのでしょうか)
來子、天嶺に対して抱いていた疑問がさらに膨らむ。
來子「どうして…」
天嶺「なんだ?」
來子「どうして天嶺さまは、こんなに私によくしてくださるのですか?」
來子、天嶺の顔を見る。
天嶺は少し考える素振りを見せたあと、來子のティーカップにたっぷりと牛乳を注いでくれる。
天嶺「まずは飲め」
天嶺「梅はこの家で一番紅茶を淹れるのが上手い」
來子、おずおずと紅茶に口を付ける。
それから目を輝かせ、天嶺を伺う。
來子「とてもおいしいです」
來子「今日は…いえ、天嶺さまとお会いしてからずっと、私は夢の中にいるようです」
來子(そして、この夢がいつか覚めてしまうことが怖くてたまらない)
來子(覚めるのなら、傷が浅いうちに…)
天嶺、黙って來子を見つめている。
來子「私は、天嶺さまに何ひとつ差し出せるものがありません」
來子「それに天嶺さまは、前世で私に殺されたともおっしゃいました」
來子「それが真実であると信じ切れるわけではありませんが、天嶺さまは私を恨んでおいでではないのですか?」
來子(いっそ、仕返しのために私を連れて来たと言われた方が納得がいく)
來子、こぶしを握り締め、ありったけの勇気を出して問いかける。
[4話終]
