◯桂嶽家_物置部屋
來子、美椿の行動に驚きを隠せない。
來子「やっ、な、何を…っ」
美椿「二度と誘惑なんてできないように、アンタの身体をめちゃくちゃにしてやるのよ!」
美椿「呪力のない無能が本家に嫁ぐ⁉」
美椿「アンタが私よりいい思いをするなんて許さない!」
美椿、懐に隠していた短刀を取り出し、來子の身体を傷つけようとする。
美椿「抵抗しないでよ!」
美椿「うっかり刺し殺しちゃったら、どうするの?」
ふふふ、と不穏に笑う美椿。
來子は必死に美椿の腕を掴み、耐える。
來子「だ、だれか…」
か細い声で助けを呼ぶ。
美椿「助けなんか来ないわよ」
美椿「バーーーカ」
むき出しになった來子の肩に短刀の切っ先が触れる。
ぷくりと血が滲む。
來子(どうしたら…)
來子(お願い、誰か気づい…て)
來子、そこではたと気づく。
來子(気づいたとして、この家の誰が助けてくれるんだろう…)
來子(使用人のみんなは、絶対に美椿を止めたりしない)
來子(奥様だって、美椿を怒らせた私が悪いと思うはず)
來子(この家に私の味方はいない)
來子(この場を乗り越えたところで、もし天嶺様に見放されれば、この先に待っているのはもっとひどい折檻)
來子、自分の傷だらけの腕と、白く美しい美椿の腕が目に入る。
來子(だったら…ここで罰を受け入れてしまった方が楽かもしれない)
來子がゆっくり力を緩めていくと同時に、部屋に飛び込んでくる凰蓮。
そして部屋の惨状を目の当たりにすると、來子に乗りかかっていた美椿を術で弾き飛ばす。
美椿「きゃっ」
美椿は軽々と吹き飛ばされ、壁に身体をぶつける。
それから信じられないという顔で、呆然と凰蓮を見つめている。
凰蓮「來子……!」
凰蓮は美椿を振り返りもせず來子を抱き起こす。
そして、顔に張りついた髪をそっと払いのける。
凰蓮「ひどい怪我ではないか…」
凰蓮「惨いことを」
來子(凰蓮さま…?)
來子(助かったはずなのに、胸騒ぎがする)
凰蓮が來子の肩を指先で撫で、それから唾を飲み込むように喉を動かす。
凰蓮「美椿、今すぐここから出ていけ」
美椿「…え?」
凰蓮「聞こえなかったか? 出ていけと言ったんだ」
美椿「なぜ…私が?」
美椿「凰蓮さま、一体どうしてしまわれたのです」
美椿「そんな無能に構うことなど、今まで一度もなかったではありませんか」
美椿「惑わされてはなりません!」
美椿が畳に爪を立てる。
凰蓮「ならばそこで見ているがいい」
美椿「え?」
凰蓮「來子、私たちは契りを結ぶのだ」
凰蓮「そうすればお前はあの男の元になど行かなくて済む」
來子「え…?」
來子、頭の中が真っ白になり身体を強張らせる。
恍惚とした表情の凰蓮の手が着物の中へ這い、帯がほどかれていく。
美椿は放心したままその様子を見ている。
來子「や、やめ…」
凰蓮「大丈夫」
凰蓮「今世も、お前は私のものだ」
ぞくりと寒気が身体を駆け抜ける。
しかし凰蓮を押し返そうとする腕は震え、ほとんど力が入らない。
涙はこぼれるのに、それ以上の抵抗はできそうになく、來子はすべてを諦めるように目を閉じかける。
そのとき、不意に天嶺の声を思い出す。
※天嶺「何かあれば、俺を呼べ」
來子(天嶺さまを呼ぶ…?)
來子(まさか、声だって届くはずがないのに、どうやって…)
來子「…猫」
來子(そうだ猫をつけると天嶺さまが――)
來子(助けて)
來子(助けて、助けて)
來子(助けて、天嶺さま)
來子が強く祈った瞬間、室内に不穏な力が満ちる。
凰蓮もその気配に気づいたのか、はっと顔を上げる。
次の瞬間、轟音とともに突風が部屋を荒らし、凰蓮の身体が納戸の扉を突き破って外へ吹き飛ばされる。
何が起きたのか分からず呆然とする來子と、悲鳴を上げて部屋を飛び出していく美椿。
來子が力を振り絞って起き上がると、畳の上には尾が二つに分かれた猫が座っていた。
御影「ちと、やりすぎたみたいじゃ」
御影は來子に近づくと肩にできた傷口を舐める。
すると血が止まり、傷がみるみる癒えていく。
來子は驚きつつも不思議と御影を怖いとは思わなかった。
御影「もっと早う、ワシを呼べばよいものを」
御影「天嶺なら、もうすぐ来るじゃろう」
こくんと、來子は頷く。
來子「あ、あの」
來子「助けてくれてありがとうございました…」
御影が尾を揺らし、それからポンっと音を立てて姿を消すと同時に、ゆったりとした動作の天嶺が姿を現す。
天嶺「御影が派手にやったみたいだな」
天嶺は部屋に入るなりため息を吐く。
そして畳にへたり込む來子を見て目を見開く。
天嶺「なぜお前はそんな格好なんだ」
天嶺「…この家の人間がお前をよく扱っていないとは思ったが、認識が甘かったようだな」
天嶺「早く助けを呼べばいいものを…相当、お前も自己評価が低いとみえる」
天嶺が來子の側により抱き上げる。
來子、ぐったりして拒否する力も残っていない。
天嶺「少し休め」
來子(安心する)
來子(天嶺さまの〝あの〟言葉の意味も、私に何を求めているのか分からないけれど)
※天嶺「俺は、前世でお前に殺されている」
來子(今はただ、全部が夢みたい)
來子、目を閉じ意識を失う。
◯來子、前世の夢
白無垢に包まれた、無表情の來子。その隣に凰蓮の姿。
二人はお神酒を交互に飲み交わしている。
來子の瞼から涙がこぼれる。
來子、盃を飲み交わし終える前にその場に倒れる。
凰蓮は隣でうろたえている。
【きっとこの因果は来世も続くだろう】
【せめて来世の私が、だれにも見つからないように】
【大切なあの方をこの手で二度と殺めることがないように】
◯列車__夜
ガタゴトと揺れる車内で眠る來子。
來子(心地のいい揺れ…)
來子(今のは夢…?)
來子(どうして、凰蓮さまと私が…)
來子(どうして、こんなに胸が痛いの)
うっすらと目を開けると、天嶺の横顔が見える。
すると來子の視線に気づいた天嶺が口を開く。
天嶺「帝都までは、まだ時間がかかる」
天嶺「寝ていろ」
冷たいようでいて優しいその気遣いに、來子は再び瞼を閉じる。
來子(天嶺さま)
來子(こっちは、夢なんかじゃなかった)
そのまま眠りに落ちていく。涙が一滴、頬を伝う。
來子の傍らには暖を取るように御影の姿が。
そんな來子の寝顔を天嶺がじっと見つめている。
天嶺「なぜ、お前は何も覚えていない」
顔を歪める天嶺。
御影「この子に八つ当たりはよすんじゃのう」
御影「恨むなら、前世の自分の執念深さを恨むんじゃな」
御影がぐあっと欠伸をする。
◯後醍院家__朝
はっと目を覚ます來子。
部屋に差し込む日差しの高さに、寝過ごしたことを悟って慌てる。
しかし、見覚えのない部屋を前に動きが止まる。
來子(ここは…)
來子(桂嶽の家でも、列車の中でもない。ということは──)
來子、緊張で唾を飲み込む。
すると、障子の外から控えめなノックの音がする。
來子(……!)
來子、バッと姿勢を正し正座する。
それから頭を畳に擦りつけたまま、声を張る。
來子「た、大変申し訳ございません」
來子「天嶺さまに目をかけていただいた身でありながら、このような時間に起床するなど」
來子「どうか、どうか私をこの家から――」
來子が必死に叫ぶ中、それを遮るように、やわらかな声が響く。
梅「梅と申します」
來子「本当に、本当に申し訳ございません」
梅「來子さま、わたくしは女中の梅と申します」
ようやく梅の声が耳に届いた來子は、謝るのをやめ、恐る恐る顔を上げる。
梅「お部屋に入ってもよろしいですか?」
來子はこくんと頷いてから、慌てて「はい」と返事をする。
すると障子が開き、その向こうに、來子と同じくらい小柄な中年の女性が端正なたたずまいで座っていた。
梅「おはようございます、來子さま」
梅「そのご様子ですと、よくお休みできたようですね」
優しげな声だったが、來子は下を見つめているため、相手の顔までもは確認できない。
來子「あ」
情けなく口を開き、それからまた閉じてしまう。
梅「お顔を上げてください」
來子「……っ」
來子「わ、私の瞳の色は不吉でっ」
震える声で、どうにかそれだけを絞り出す。
梅「お話は伺っております」
梅「ですが、後醍院家では、それが差別につながることはありません」
梅「それに來子さまの薄桃色の瞳は、とても美しいと聞いております」
驚いて、思わず顔を上げてしまう來子。
目が合い、何度かそらしたのち、おずおずと視線を合わす。
來子(そんなことを、誰が)
來子の疑問に答えるように、梅はやわらかく微笑む。
梅「旦那さまから聞いた通り、本当に美しい」
來子「旦那さま……」
梅「さて、ここは後醍院家の本邸でございます」
梅「そして私が、これから精一杯、來子さまのお世話をさせていただきます」
梅「どうぞよろしくお願いいたしますね」
梅が再び頭を下げるので、來子も慌てて頭を下げる。
二人してぺこぺこと頭を下げ合い、やがてその場にふっと笑みが広がる。
梅はそのまま部屋の中へ入ってくる。
梅「さて、お顔を少し見せていただきますよ」
梅の手が伸びてきて、來子は少し怖がる。
だが梅は少し悲しそうな顔をしながらも、「大丈夫」と言うように來子を落ち着かせる。
梅「隈も昨晩よりずっと薄くなっておりますし、何より唇の血色がよろしいです」
來子「そ、そうですか…?」
來子(昨日は私、眠ったままここへ来て、迷惑ばかりかけたのね)
昨晩の様子を聞かされ、來子は恥ずかしさと申し訳なさで身を縮こまらせる。
しかし梅は、そんなことはまるで気にしていない様子。
梅「お腹は空いておられますか?」
來子、お腹に手を当て、少し考えてから答える。
來子「いいえ…」
來子「でも、朝ごはんを抜くことはたくさんあったので、大丈夫です」
來子「お昼も、夜も、一日くらい食べなくても我慢できます」
來子(わがままは言わない、だからここに置いて欲しい)
來子(私は居場所が欲しい…)
梅の表情がふっと険しくなる。
梅「ここでは、そんな我慢をする必要は一切ありませんよ」
梅「お腹がすいていないようでしたら甘酒を用意いたします」
梅「何も召し上がらないままでは、このあと倒れてしまうかもしれません」
來子「この後、ですか?」
梅「はい。來子さまの、今日のお仕事でございますよ」
にこりと笑いかけられ、來子は安堵する。
來子(お仕事がもらえるのね)
來子(よかった。そのお仕事さえちゃんとできれば、ここに置いてもらえるもの)
來子(頑張らなくっちゃ)
それからしばらくして、梅が甘酒を持って戻ってくる。
椀から漂う甘い香りに、來子は思わず目を輝かせてしまう。
來子(本物の甘酒…!)
來子(桂嶽では、甘いものは一年に一度もらえればいい方だった)
梅「熱いので、ゆっくり召し上がってくださいね」
人肌に温められた甘酒を口に運ぶと、ほわっとやさしい甘みが口いっぱいに広がる。
來子、思わずほろりと涙をこぼす。
梅「まあ…」
梅「お口に合いましたか?」
來子「は、はいっ」
梅「おかわりもたくさんありますからね」
こくこくと頷く來子。
その様子を、梅がやさしく見守ってくれている。
[3話終]
來子、美椿の行動に驚きを隠せない。
來子「やっ、な、何を…っ」
美椿「二度と誘惑なんてできないように、アンタの身体をめちゃくちゃにしてやるのよ!」
美椿「呪力のない無能が本家に嫁ぐ⁉」
美椿「アンタが私よりいい思いをするなんて許さない!」
美椿、懐に隠していた短刀を取り出し、來子の身体を傷つけようとする。
美椿「抵抗しないでよ!」
美椿「うっかり刺し殺しちゃったら、どうするの?」
ふふふ、と不穏に笑う美椿。
來子は必死に美椿の腕を掴み、耐える。
來子「だ、だれか…」
か細い声で助けを呼ぶ。
美椿「助けなんか来ないわよ」
美椿「バーーーカ」
むき出しになった來子の肩に短刀の切っ先が触れる。
ぷくりと血が滲む。
來子(どうしたら…)
來子(お願い、誰か気づい…て)
來子、そこではたと気づく。
來子(気づいたとして、この家の誰が助けてくれるんだろう…)
來子(使用人のみんなは、絶対に美椿を止めたりしない)
來子(奥様だって、美椿を怒らせた私が悪いと思うはず)
來子(この家に私の味方はいない)
來子(この場を乗り越えたところで、もし天嶺様に見放されれば、この先に待っているのはもっとひどい折檻)
來子、自分の傷だらけの腕と、白く美しい美椿の腕が目に入る。
來子(だったら…ここで罰を受け入れてしまった方が楽かもしれない)
來子がゆっくり力を緩めていくと同時に、部屋に飛び込んでくる凰蓮。
そして部屋の惨状を目の当たりにすると、來子に乗りかかっていた美椿を術で弾き飛ばす。
美椿「きゃっ」
美椿は軽々と吹き飛ばされ、壁に身体をぶつける。
それから信じられないという顔で、呆然と凰蓮を見つめている。
凰蓮「來子……!」
凰蓮は美椿を振り返りもせず來子を抱き起こす。
そして、顔に張りついた髪をそっと払いのける。
凰蓮「ひどい怪我ではないか…」
凰蓮「惨いことを」
來子(凰蓮さま…?)
來子(助かったはずなのに、胸騒ぎがする)
凰蓮が來子の肩を指先で撫で、それから唾を飲み込むように喉を動かす。
凰蓮「美椿、今すぐここから出ていけ」
美椿「…え?」
凰蓮「聞こえなかったか? 出ていけと言ったんだ」
美椿「なぜ…私が?」
美椿「凰蓮さま、一体どうしてしまわれたのです」
美椿「そんな無能に構うことなど、今まで一度もなかったではありませんか」
美椿「惑わされてはなりません!」
美椿が畳に爪を立てる。
凰蓮「ならばそこで見ているがいい」
美椿「え?」
凰蓮「來子、私たちは契りを結ぶのだ」
凰蓮「そうすればお前はあの男の元になど行かなくて済む」
來子「え…?」
來子、頭の中が真っ白になり身体を強張らせる。
恍惚とした表情の凰蓮の手が着物の中へ這い、帯がほどかれていく。
美椿は放心したままその様子を見ている。
來子「や、やめ…」
凰蓮「大丈夫」
凰蓮「今世も、お前は私のものだ」
ぞくりと寒気が身体を駆け抜ける。
しかし凰蓮を押し返そうとする腕は震え、ほとんど力が入らない。
涙はこぼれるのに、それ以上の抵抗はできそうになく、來子はすべてを諦めるように目を閉じかける。
そのとき、不意に天嶺の声を思い出す。
※天嶺「何かあれば、俺を呼べ」
來子(天嶺さまを呼ぶ…?)
來子(まさか、声だって届くはずがないのに、どうやって…)
來子「…猫」
來子(そうだ猫をつけると天嶺さまが――)
來子(助けて)
來子(助けて、助けて)
來子(助けて、天嶺さま)
來子が強く祈った瞬間、室内に不穏な力が満ちる。
凰蓮もその気配に気づいたのか、はっと顔を上げる。
次の瞬間、轟音とともに突風が部屋を荒らし、凰蓮の身体が納戸の扉を突き破って外へ吹き飛ばされる。
何が起きたのか分からず呆然とする來子と、悲鳴を上げて部屋を飛び出していく美椿。
來子が力を振り絞って起き上がると、畳の上には尾が二つに分かれた猫が座っていた。
御影「ちと、やりすぎたみたいじゃ」
御影は來子に近づくと肩にできた傷口を舐める。
すると血が止まり、傷がみるみる癒えていく。
來子は驚きつつも不思議と御影を怖いとは思わなかった。
御影「もっと早う、ワシを呼べばよいものを」
御影「天嶺なら、もうすぐ来るじゃろう」
こくんと、來子は頷く。
來子「あ、あの」
來子「助けてくれてありがとうございました…」
御影が尾を揺らし、それからポンっと音を立てて姿を消すと同時に、ゆったりとした動作の天嶺が姿を現す。
天嶺「御影が派手にやったみたいだな」
天嶺は部屋に入るなりため息を吐く。
そして畳にへたり込む來子を見て目を見開く。
天嶺「なぜお前はそんな格好なんだ」
天嶺「…この家の人間がお前をよく扱っていないとは思ったが、認識が甘かったようだな」
天嶺「早く助けを呼べばいいものを…相当、お前も自己評価が低いとみえる」
天嶺が來子の側により抱き上げる。
來子、ぐったりして拒否する力も残っていない。
天嶺「少し休め」
來子(安心する)
來子(天嶺さまの〝あの〟言葉の意味も、私に何を求めているのか分からないけれど)
※天嶺「俺は、前世でお前に殺されている」
來子(今はただ、全部が夢みたい)
來子、目を閉じ意識を失う。
◯來子、前世の夢
白無垢に包まれた、無表情の來子。その隣に凰蓮の姿。
二人はお神酒を交互に飲み交わしている。
來子の瞼から涙がこぼれる。
來子、盃を飲み交わし終える前にその場に倒れる。
凰蓮は隣でうろたえている。
【きっとこの因果は来世も続くだろう】
【せめて来世の私が、だれにも見つからないように】
【大切なあの方をこの手で二度と殺めることがないように】
◯列車__夜
ガタゴトと揺れる車内で眠る來子。
來子(心地のいい揺れ…)
來子(今のは夢…?)
來子(どうして、凰蓮さまと私が…)
來子(どうして、こんなに胸が痛いの)
うっすらと目を開けると、天嶺の横顔が見える。
すると來子の視線に気づいた天嶺が口を開く。
天嶺「帝都までは、まだ時間がかかる」
天嶺「寝ていろ」
冷たいようでいて優しいその気遣いに、來子は再び瞼を閉じる。
來子(天嶺さま)
來子(こっちは、夢なんかじゃなかった)
そのまま眠りに落ちていく。涙が一滴、頬を伝う。
來子の傍らには暖を取るように御影の姿が。
そんな來子の寝顔を天嶺がじっと見つめている。
天嶺「なぜ、お前は何も覚えていない」
顔を歪める天嶺。
御影「この子に八つ当たりはよすんじゃのう」
御影「恨むなら、前世の自分の執念深さを恨むんじゃな」
御影がぐあっと欠伸をする。
◯後醍院家__朝
はっと目を覚ます來子。
部屋に差し込む日差しの高さに、寝過ごしたことを悟って慌てる。
しかし、見覚えのない部屋を前に動きが止まる。
來子(ここは…)
來子(桂嶽の家でも、列車の中でもない。ということは──)
來子、緊張で唾を飲み込む。
すると、障子の外から控えめなノックの音がする。
來子(……!)
來子、バッと姿勢を正し正座する。
それから頭を畳に擦りつけたまま、声を張る。
來子「た、大変申し訳ございません」
來子「天嶺さまに目をかけていただいた身でありながら、このような時間に起床するなど」
來子「どうか、どうか私をこの家から――」
來子が必死に叫ぶ中、それを遮るように、やわらかな声が響く。
梅「梅と申します」
來子「本当に、本当に申し訳ございません」
梅「來子さま、わたくしは女中の梅と申します」
ようやく梅の声が耳に届いた來子は、謝るのをやめ、恐る恐る顔を上げる。
梅「お部屋に入ってもよろしいですか?」
來子はこくんと頷いてから、慌てて「はい」と返事をする。
すると障子が開き、その向こうに、來子と同じくらい小柄な中年の女性が端正なたたずまいで座っていた。
梅「おはようございます、來子さま」
梅「そのご様子ですと、よくお休みできたようですね」
優しげな声だったが、來子は下を見つめているため、相手の顔までもは確認できない。
來子「あ」
情けなく口を開き、それからまた閉じてしまう。
梅「お顔を上げてください」
來子「……っ」
來子「わ、私の瞳の色は不吉でっ」
震える声で、どうにかそれだけを絞り出す。
梅「お話は伺っております」
梅「ですが、後醍院家では、それが差別につながることはありません」
梅「それに來子さまの薄桃色の瞳は、とても美しいと聞いております」
驚いて、思わず顔を上げてしまう來子。
目が合い、何度かそらしたのち、おずおずと視線を合わす。
來子(そんなことを、誰が)
來子の疑問に答えるように、梅はやわらかく微笑む。
梅「旦那さまから聞いた通り、本当に美しい」
來子「旦那さま……」
梅「さて、ここは後醍院家の本邸でございます」
梅「そして私が、これから精一杯、來子さまのお世話をさせていただきます」
梅「どうぞよろしくお願いいたしますね」
梅が再び頭を下げるので、來子も慌てて頭を下げる。
二人してぺこぺこと頭を下げ合い、やがてその場にふっと笑みが広がる。
梅はそのまま部屋の中へ入ってくる。
梅「さて、お顔を少し見せていただきますよ」
梅の手が伸びてきて、來子は少し怖がる。
だが梅は少し悲しそうな顔をしながらも、「大丈夫」と言うように來子を落ち着かせる。
梅「隈も昨晩よりずっと薄くなっておりますし、何より唇の血色がよろしいです」
來子「そ、そうですか…?」
來子(昨日は私、眠ったままここへ来て、迷惑ばかりかけたのね)
昨晩の様子を聞かされ、來子は恥ずかしさと申し訳なさで身を縮こまらせる。
しかし梅は、そんなことはまるで気にしていない様子。
梅「お腹は空いておられますか?」
來子、お腹に手を当て、少し考えてから答える。
來子「いいえ…」
來子「でも、朝ごはんを抜くことはたくさんあったので、大丈夫です」
來子「お昼も、夜も、一日くらい食べなくても我慢できます」
來子(わがままは言わない、だからここに置いて欲しい)
來子(私は居場所が欲しい…)
梅の表情がふっと険しくなる。
梅「ここでは、そんな我慢をする必要は一切ありませんよ」
梅「お腹がすいていないようでしたら甘酒を用意いたします」
梅「何も召し上がらないままでは、このあと倒れてしまうかもしれません」
來子「この後、ですか?」
梅「はい。來子さまの、今日のお仕事でございますよ」
にこりと笑いかけられ、來子は安堵する。
來子(お仕事がもらえるのね)
來子(よかった。そのお仕事さえちゃんとできれば、ここに置いてもらえるもの)
來子(頑張らなくっちゃ)
それからしばらくして、梅が甘酒を持って戻ってくる。
椀から漂う甘い香りに、來子は思わず目を輝かせてしまう。
來子(本物の甘酒…!)
來子(桂嶽では、甘いものは一年に一度もらえればいい方だった)
梅「熱いので、ゆっくり召し上がってくださいね」
人肌に温められた甘酒を口に運ぶと、ほわっとやさしい甘みが口いっぱいに広がる。
來子、思わずほろりと涙をこぼす。
梅「まあ…」
梅「お口に合いましたか?」
來子「は、はいっ」
梅「おかわりもたくさんありますからね」
こくこくと頷く來子。
その様子を、梅がやさしく見守ってくれている。
[3話終]
