永遠のワルツ



   ***


 長い廊下を歩きながら、時斗は黙って思考を巡らせていた。
 そもそも、何故に玲人は自分などを愛したのか。それが謎で仕方がなかった。
 成績優秀で、非の打ち所がない犬飼玲人が何の取柄もない自分にここまで固執する理由が分からない。
(俺なんて、いい所どこもないのに……)
 玲人に良い刺激を与えるような存在でもない自分が、何故ここまで愛してもらえるのか。そこまで考えて、時斗は自分の手を引く光を見た。
 そんなことを言ってしまえば、光だってそうだ。有耶無耶にしてはいたが、ハッキリと時斗が好きだと告げていた。光だって、玲人に負けず劣らずクラスの人気者で有名な人物だ。
 そんな二人が、何故に時斗を取り合うのか。その理由が分からず、時斗は自身の未練を考えるよりもそちらへ意識が向いてしまう。
「時斗?」
「な、なに? 光」
 不意に声をかけられ、覗き込まれる。
「真っ青だよ。平気? ちょっと休む?」
「大丈夫……ちょっと考え事してただけだから」
「そう……」
 かるく笑んで返せば、光は強引な言葉をかけてくることはなかった。こういった面も光の強さだと時斗は思う。
「ねぇ、光」
「ん? なに?」
 隣を歩く光に震える声で話しかける。なるべく、杉田には聞こえにくいように小声で囁くようにすると、光もそれに気がついたようで歩みを進めながらそっと耳を傾けてくれた。
「光はなんで、俺を好きになったの?」
「なんで、かあ……難しいなぁ」
 はにかみながら言い、光はギュッと時斗の手を握る。まるで、子供が親とはぐれないように力を込める握り方で、それに僅かながら緊張を覚える。
「小さい時のこと覚えてる? ほら、初めて時斗が俺の家に遊びに来た時のこと」
「えっと……」
 深い記憶の中を探り、光との思い出を振り返る。確か、夏休みに一度だけ光の家に行った記憶があった。
「夏休みにプールで遊んだ日のこと?」
「そうそう。あの時……かな。本格的に時斗のこと、意識し始めたの……」
 光の家は正真正銘のお金持ちの家で、自宅の庭にプールが備わっていたのを思い出す。
 夏休みになって半分ほど経った頃、光から電話で遊びに来ないかと誘われたのだ。
 急に豪邸に遊びに行くなど、今の時斗ならば躊躇うところだが、まだ小学生だったこともあり二つ返事で返してウキウキと胸を鳴らして向かったのは夏休みの中でも一際暑い日だった。
「いらっしゃいませ」
「あっ、えっと……光くんに誘われて……」
 頭を下げる使用人達にドギマギとしながら告げると、奥から立派な階段を水着姿で駆け下りてくる光が見えた。
「いらっしゃ~い、時斗」
「あっ……光!」
 使用人達に圧倒されて強張っていた身体が安心で一気に解れていく。
「水着持ってきた?」
「うん」
「じゃあ、こっち来て! プールあるから!」
「わっ!」
 腕を引いて走り出す光に合わせて広すぎる室内を走り、備え付けのプールへ向かう。
 更衣室まで付いたそこは、まるっきり家族に強請って連れて行ってもらうような大きなプールで、時斗は一瞬呼吸すらも忘れてしまうほどの驚きを与えられた。
「す……ご~いっ!」
「へへ~ん! いいでしょう~」
「うん! 凄く羨ましい!」
「宿題全部終わらせたら、使っていいって母さんに言われてさ。めちゃくちゃ頑張ったんだよ?」
「えっ、宿題も終わらせたの? 尚のこと凄いよ!」
 さすが光だね、と満面の笑みで言う時斗に、光は照れくさそうに頬を掻いてから再度時斗の手を取った。
「準備運動、したら入ろう!」
「うん!」
 そう言った光に頷き、かるい準備運動をしてから一緒に冷たいプールに飛び込む。
 独特な塩素の香りを感じて気分が一気に夏休みの楽しさで埋まっていく。
「ぷはぁっ! 光の家がお金持ちなのは知ってたけど、まさかここまでとは思ってなかったよ」
「よく言われる。でもさ、お金があるのは父さんと母さんのおかげだし、俺は全然凄くないんだよね」
「そんなことないっ!」
 濡れた髪をかき上げてから、どこか寂しそうにそう言った光の手を取り、時斗は大きな声で否定をした。
「えっ、でも……」
「確かに、お金持ちなのはお父さんとお母さんのおかげかもしれないけど、今俺達がプールを楽しめてるのは光が頑張ってくれたおかげでしょ?」
「……」
「光が、あんなに沢山あった宿題、全部終わらせてくれたから……俺、今すっごく楽しいよ! これって光のおかげってことにならない?」
 真剣な眼差しで言う時斗に光は目を大きく開いてパチパチと瞬きをした。
 友達と呼べる者達は確かに沢山いる。
けれど、みんな結局は光よりも光の家庭環境ばかりを見ていて、すり寄ってくる者が大半だった。特別扱いをして媚びを売り、真新しい玩具に飛びつくだけの不甲斐ない連中に飽き飽きしていた光にとって、時斗という存在は新鮮そのものであった。
「ぷっ! ははははっ!」
「えっ、なに?」
「いや、やっぱ時斗って面白いなって」
「俺、なんか変なこと言った?」
「いや……でも、ありがとね。時斗」
「……?」
 不思議そうに首を傾げる時斗を他所に、冷たいプールに潜ると時斗の細い足が視界に入った。子供ということもあり、まだ幼い少女のように細い足を見つめて光はトクンと鳴る胸の鼓動に、今の自分の感情を理解した。
 時斗はきっと特別だ。今までの自分になかった、本当に欲しかった存在なのだと。光はその時気がついたのだった。
 それからというもの、光はできるだけ時斗と共に過ごすことを選ぶようになっていった。
 夏休み中は毎日色んな場所に一緒に行き、学校が始まってからもいつも一緒に過ごした。
 海外への転校が決まってからも、数こそ少なくされていたが時斗と連絡を取ることを止めることはなかった。
 高校は絶対に時斗が居るところがいいと、両親の反対を押し切って進学し、幸せな毎日を過ごす予定だったのだ。あの男の存在さえなければ――。
「俺、犬飼と仲良くできてたら的なこと言ったけど……あれ、嘘だったよ」
「どういうこと?」
「本音じゃなかったってこと」
「それって……」
「明確に分かった。俺、アイツが嫌いだ」
「……っ!」
 冷たく放たれた言葉に、時斗は思わず肩を震わせた。
 あの温厚で人当たりの良い光からの正直な気持ちが声と文字になって現れている。光の顔を覆い隠すように浮かび上がった【犬飼は邪魔】【嫌いだ】という文字を見て、胸がチクりと痛む。
「で、でも……」
 玲人の良い部分を語ろうと、一瞬だけ声を出したが、時斗はすぐに黙って首を左右に振った。
 ここで、自分しか知らない玲人を語ったところで、光の考えが変わることはないのだろうと直感で理解してしまう。
 本音を言えば、時斗にとって大切な二人には友好的な関係を築いてほしかった。けれど、光からは玲人に対しての負の感情しか見えず、玲人からもまた、光に対して良くない感情が見えていた。
 無理に仲を取り持つほうが二人にとって失礼だと思う。
 そんなことを考えながら歩いていくと、杉田が図書室の前でぱたりと足を止めた。
「ここも見ておこう」
 そう言って、鍵のかかっていない扉へ手を伸ばす。
 そういえば、玲人と時斗が親密な関係になったのも図書室での出来事からだったな、と時斗はぼんやりと思い浮かべる。
 あの日、水のせせらぎのように美しく、しかし年相応に照れながら自分に好きだと告げてくれた玲人。特別断る理由もなく、告白を受けた時斗だったが、実際はきっと玲人には計り知れないほどの葛藤があったのだろうと、今なら思えた。
「適当に何かヒントになるような本を探してみよう」
「ヒントって、どんなですか?」
「犬飼が……いや、犬飼と猫田に繋がる未練を感じられるものがいいだろうな」
「……っ」
 改めて、自身の未練の部分を突かれ、時斗は胸がはち切れんばかりに心臓を鳴らした。
 そんな時斗を宥めるように、光が握った手に力を込める。
「大丈夫だよ、時斗。俺が絶対、此処から連れ出してあげるから……」
 囁きながら奥の本棚へと向かう光がそっと手を離す。
 僅かに残る体温が徐々に冷めていく感覚は、なんだか玲人の死を連想させてくるようで、時斗は不安で頭がいっぱいになっていった。
 けれど、ここで光に頼りきりというのも良くないだろうと思い、二人に続くように本棚を見ていくことにした。
(あっ、これ……玲人に最後に勧められた本だ)
 一冊の黒いハードカバーの本を手に取って、中身をパラパラと捲っていく。
 いつか読もうと思っていったが、結局読まず仕舞いのまま、感想を聞いてほしかった相手に先立たれてしまった。
(確か、恋愛小説だったっけ……)
 自分の専門ではないからと後回しにしてしまったことが、今さら後悔に繋がるとは思っていなかった。
 もっと早く、それこそ勧められた時に読んでおけば良かった。そうしていたら、玲人と感想を話し合えたかもしれなかったというのに。
「はぁ……」
 時斗は深く溜息を吐くと、手にしていたそれをそっと本棚へと戻した。
 きっと、もう読むことはないのだろう。だって、自分の恋はもう、終わってしまったのだから――。
 本棚にもたれかかり、座り込む。涙が出てこないことが嫌で嫌でたまらなかった。
 自分は彼を――犬飼玲人をどう想っていたのか。どう接していたら正解だったのか。それが分からず、時斗はただうなだれることしかできなかった。


「俺、特別な力があるんですよ」
 そう、玲人が話したのはいつのことだったろうか。杉田はふと、そんなことを頭に思い浮かべた。
 秘密主義な犬飼玲人が、自分だけ一瞬話そうとしたその言葉は結局聞けぬまま玲人はこの世を去ってしまった。
 あの時、無理にでも聞いていたら今ごろはもっと本音を聞けるだけの仲になっていたかもしれない。
「ふぅ……っ」
 そんなことを思い、杉田は少しだけ熱のこもった息を吐く。
 猫田時斗に告白をしたいと、初めて相談をしてくれた時、本当はとても嬉しかったのだと伝えられなかったのが杉田にとっては未練とも言える後悔だった。
 しかし、だからこそ玲人の未練を晴らしてやりたいとも思えた。彼がいったい何を思い、どこまでを未練と感じているかは分からない。けれど、こうやって少しづつでも手がかりを探していけば、何か思いつくこともあるかもしれない。
 それと同時に、猫田時斗が玲人のことを真の意味でどう思っていたかも知れる絶好の機会だ。
 教師として、担任として、生徒に優劣をつけるのは良くないと思いながらも、杉田はやはり玲人の方が気なって仕方がなかった。
 自分を信じて、相談をしてくれた玲人の本当の望みを知りたいと杉田は躍起になって本棚を探る。
 すると、一冊の見覚えのある本を見つけた。
 背表紙にはタイトルの『遭難』という文字が書かれている。
 以前、玲人から面白かったと大まかな内容を聞いた作品だ。
「……」
 手に取って、パラパラと浅く内容を確認すれば、なんとも彼が気に入りそうな内容で杉田は僅かに口元をほころばせた。
 内容を簡単に説明するならば、山で遭難した男女が試練を乗り越えてお互いの愛を確かめあい、最終的に熱烈な恋愛へと発展する話であり、恋愛に若干の憧れを抱いていた玲人ならば好きにならざる負えない話だ。
 そんなことを思いながらページを捲っていくと、ふと途中で気になる文章を発見する。
 それは青年が女性に語りかけるシーンで、女性の手を握って「君の愛を証明してほしい」と強請っている場面だった。
「……」
 それを見て、杉田はもしかしたら玲人は不安を抱えているのではないかと思い至る。
 時斗と恋仲となり、それなりに親密なことはしてきていたのだろうが、とはいえたったひと夏の恋にできることは限られる。
 それならば、玲人が何度も言っていた『時斗とずっと一緒に居たい』という気持ちは自然なものではないだろうか。
「犬飼……お前は……」
 呟いて、杉田は本を閉じるとそれを元あった場所に戻して俯いた。
 初めての恋で変化した玲人の感情や日常生活を思えば、時斗に固執する理由は十分にあった。
 前々から会話の端々に散りばめられていた玲人の家庭環境を思ってもそうだ。
 ずっと母親に縛られて生きてきた彼にとって、突如現れた時斗という光はとても眩しく、心地よかったに違いない。そんな存在と永遠に共に生きることが可能になると言われたら、そちらへ手を伸ばしてしまうのは当たり前のことだろう。
「どうして俺はっ……もっと気づいてやれなかったんだ……っ!」
 声を殺しながら静かに想いを吐き出す。
 あの時、幸せそうに笑っていた玲人にもっと深く話しかけていたら、もっと違う未来へ繋がっていたかもしれない。
 玲人が幸せならばそれだけで良いと思ってしまった自分に苛立ち、杉田は血が垂れ落ちるほど強く拳を握った。
 ポタポタと図書室の床へ垂れていく鮮血はまるで、あの日葬式会場で流した涙のようだった。


 普段はあまり使わない図書室を探索しながら、光はぼんやりとした瞳で本棚を見つめていた。
 時斗に流れでとはいえ口づけてしまったことを今さら後悔しつつ、けれどこれで良かったのだと思う心の矛盾に痛む胸を押さえる。
「時斗は……」
 呟いて、彼が本当に玲人を愛していたのかと悩む。
 付き合うことになったと聞いたのは恐らく自分だけだ。素直に、幸せそうに告げられた報告に、笑って返事をした自分がいたのを昨日のことのように覚えている。
 普段は見せない優しい笑みを浮かべて、いかに玲人が素敵かを語っていた時斗。
 その顔を見てしまうと、自分だって好意を抱いていたのに、など言えるはずがなくただ祝福という名の嘘を吐くことしかできなかった自分がひどく惨めだったことも、光はずっと胸の内に秘めていた。
 一歩、自分が先に踏み出していれば今ごろは時斗は自分の隣を当たり前のように歩んでくれていたのだろうか。そんな疑問が頭を過る。
「俺、馬鹿じゃん……」
 今さら思っても後の祭りだと分かっていても、やはり幼少期から抱いていた気持ちは簡単に消えることはなく、チクチクと胸を突き刺してくる。
 時斗の幸せを壊したくないと思っているのに、何故彼の隣を歩いていたのが自分ではないのかと嫉妬してしまう。
 確かに、光にとって玲人は恋敵ではあるが彼の方が先に行動したのは事実だ。文句を言う権利はない。けれど、その場所に自分が居たかったと思ってしまうのはそんなにもいけないことだろうか。
「俺は……」
 消えない想いを抱いて適当に手に取った本を捲る。それは女子が好みそうな恋愛小説でチラっと見えた一文にひどく目を奪われる。
 「好きなら好きでいいじゃん。想うことの何が悪いの?」主人公の友達ポジションの女子キャラクターが主人公に放った台詞だった。それが今の自分には妙に刺さり、光は暫くの間その台詞を頭の中で復唱してしまう。
「……そっか。俺……時斗のこと、好きでいいんだ」
 呟いて、本を閉じる。人が人を想う気持ちは無くさなくても良いのだと、改めて思う。
 時斗の幸せを思い、略奪など考えもしなかったが今は状況が状況だ。
 犬飼玲人はもう亡き人物である。
 ならば、自分が時斗を幸せにすることは許されるのではないか。たとえ、時斗が玲人を忘れられなくとも。自分が彼を守ることは決して悪いことではないと思い、光は自分に喝を入れるように両頬をバシンっと手で叩くと、すぐさま時斗と合流しようと歩み始めた。
 今度こそ、幸せにしてみせる。
 そんなことを思いながら、光は僅かに濁った目を優しく細めた。


   ***


 各々に本棚を探索して合流する。
「なにか、ヒントになりそうな本やものはあったか?」
「なーんにも! 時斗は?」
「俺も……これといって何かは見つからなかった」
「そうか……」
 光に続くように時斗がそう言うと、杉田は残念そうに呟いて顎に手をあてた。
 自分も何か見つけられたわけではないので二人を責めるわけにもいかない。かと言って、何もありませんでした。で終わらせてしまうにはまだ早いとも思う。
「些細なことでも、何か異変に気づけたらいいんだがな……」
「異変かぁ……そういえばさ、この校舎って元々俺達が通ってる学校と本当に全部一緒なのかな?」
「……と言うと?」
「作りがちょっとだけ違うとか、どっか見つけづらい場所に出入口があるとか、そんなことないかなーって思って」
 光が頭の裏で手を組んで、かるく伸びをしながら言う。
「それは失念していたな……。確かに、どこか変化があればそこを探す方が効果的だ」
 闇雲に探索を行っていたが、明確にどこかおかしい部分を叩く方が確かに効果的と言えるだろう。杉田は光の言葉聞き、そう考えると光の肩をバシバシと叩いて褒めた。
「よく気がついたな! 高畑」
「ちょっ、痛いって! 先生っ!」
「そうと決まれば……すぐに行動しよう。この空間にどれだけの時間、まともな状態で居られるかは分からないからな」
 いつもは面倒臭さがりな杉田から思わぬ言葉が放たれ、光と時斗は思わず顔を見つめ合って驚いた。けれど、杉田の言う通りこの異常な空間で、どれだけの間正気を保っていられるかは誰にも分からない。いつ、誰が異常を起こしてもおかしくはないということを再認識して二人は杉田の後ろをついて歩いた。
「ねぇ、時斗」
「なに? 光」
「俺ね、やっぱり時斗を諦めないよ。時斗が誰を想っていても……俺は時斗が好きだ。だから、諦めてなんかやらないから」
「……光」
「そんだけ! まあ、気楽に……はいけないけど、あんまり考え過ぎない程度にいこ?」
「……うん」
 返事をして再び長い廊下を歩くと、先程まではなかった大量の死体が転がっていた。
「ヒィッ……」
 小さく悲鳴を上げると、すかさず光が時斗を庇うように身を寄せてなるべく視界を自分で覆うようにして歩く。
「大丈夫だよ。全部……ただの死体だ」
 そう放つ光の瞳はどこか濁っていて、時斗はそれが少し恐ろしく感じたのか光から離れて僅かな距離を取って歩いた。
「時斗? どうしたの?」
「いや……歩きにくいかなって、思って……」
「全然平気なのに。時斗ってば気遣い屋さんだなぁ」
「……っ」
 そこら中に転がる死体よりも、光の異変の方が恐ろしい。
 本来の時斗の知る光ならば、死体相手にも紳士的な表現を使うはずだ。だというのに、今の彼はまるでここに居る自分以外の存在を全てもののように語っている。
 時斗はそんな僅かな変化がどうにも許せず、距離を取ると探るように光の顔の上に現れた文字に目を通した。
 【時斗】と名前だけで埋め尽くされた顔は普段では決して見えないどす黒い笑みを浮かべていた。大量の名前の上に一つだけある【好きだよ】という文字が、一層時斗の恐怖を煽り背筋を凍てつかせる。
 首筋に嫌な汗が垂れた時、杉田が歩みを止めた。
「なにしてる……早く行くぞ」
「あっ、先生待って~」
 こちらの異変に気づいたのか、声をかけてきた杉田のおかげで、時斗は漸くまともに呼吸ができるようになった。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
 つい先程まで普通だった親友に起きた異常。その恐怖は計り知れず、時斗を困惑させるには十分なものだ。
「……」
 杉田の隣を笑って歩きながら話す光に、先程のような異常は見られない。けれど、あの大量の名前と【好き】という気持ちの表れが恐ろしく感じてしまい、時斗はもうまともに光を見ることは叶わないと思った。
 一方的に向けられる愛情の恐ろしさを今しがた知った時斗には、光の気持ちはあまりにも重すぎる。
 それは自分のために死んだと言った玲人にも適用されることであったが、不思議と玲人にはそのような恐怖を抱くことはなかった。何が違うのか、それはまだ分からない。けれど、今の光に向き合えるだけの力は今の時斗にはなかった。
(どうして……こんなことになっちゃったんだろう)
 自分は何か神様に恨まれるようなことでもしたのだろうか。思わずそんな考えが浮かぶほど、今の時斗は疲弊しきっていた。
 しかし、こんな場所で弱音など吐いている余裕はない。そう思い、時斗は重い足を必死で動かして前へと進んだ。


「では、ここで一旦分かれて探索をしよう。俺は外の倉庫を見てくる」
 杉田がそう告げたのは、体育館に到着した時だった。
 この校舎には、体育館の中と外に体育倉庫があり、種目別に備品が保管されているようだ。
「猫田と高畑は中の倉庫を確認していてくれ」
「はーい!」
「……分かりました」
 今の光と二人きりになるのはなるべく避けたいと思っていた時斗だったが、担任に言われては拒否も難しく、仕方なく光と二人体育館内の倉庫を確認することになった。
 重い引き戸を二人で開け、中に入る。
「意外と綺麗だね。あんまり埃っぽくないや」
「そうだね。でも、暗くてよく見えないな……」
 薄暗い倉庫内を光と二人、手探りで探索をしていく。
「ボールかごには何もないみたい。そっちはー?」
「こっちも何もないよー!」
 マットの積まれた場所を確認し、光に声をかける。先程は光に恐怖心を覚えた時斗だったが、今の光は普段と変わりない様子で若干の安心感を得た。
 やはり、先程の一瞬だけがおかしかったのだろうか。
「マットの裏とかも見た?」
 盲点であった箇所を指摘し、光が時斗の居る場所までやってくる。
「あっ、見てないや……めくれば分かるかな?」
 何枚も重なったマットを捲り、裏面や隠れてしまっている壁や床を見ようとすれば、すぐに光が笑いながら溜息を吐いた。
「もう……おおちゃくしないの! 一枚一枚避けていこ?」
「えっ、でもそれ面倒臭さくない?」
「今メンドイのと、後々になって探しておけば良かったー! って思うの、どっちがいい?」
「……前者です」
「じゃあ、避けてこ。一緒にやるから」
 そう言って光はマットの片方を持ち上げると、時斗にもう片方を持つように指示する。
「せーの!」
 一緒に持ち上げれば、多少の重さは感じつつも簡単に別の場所へ移すことができた。
 若干湿ったマットを全て避けると、そこには一枚の紙きれが落ちていた。
「なんだろ、これ」
 光が紙きれを拾って中を見る。時斗もそれを後ろから眺めて読むと、そこには達筆な字で言葉が書かれていた。
「愛に形なんて必要だろうか、って、なに? これ」
 光の後ろから内容を読み上げて時斗は不思議そうに頭を傾ける。
「……」
「光? 聞いて――」
 自分が読み上げた文字を聞いていたかと確かめようとした瞬間だった。光が突然、時斗の腕を握って避けたマットの上に押し倒す。
「い……っ」
 鈍い痛みに顔を歪め、覆いかぶさる光を見上げると、そこには濁り切った瞳を細めて笑う光の姿があった。
「みつ、る……?」
「俺さぁ……言ったよね? 時斗を諦めないって。あれ、本気だから」
 そう口にするや、ぎゅっと力を込めて光は掴んでいた時斗の腕を握った。
「痛いっ! 離してよ!」
「ヤダ。だって、離したら時斗……犬飼の方に行っちゃうじゃん」
「……っ」
 姿を眩ませてしまった玲人の姿が浮かび上がる。確かに、時斗は拒みはしたものの、未だに心は玲人の方を向いていた。彼が何を想い、何故こんなことをしたのか。彼にとって自分はどんな存在だったのか。それが知りたくて、帰るためではなく知るための探索をしていた。それを見抜いたのだろうか。光の瞳は淀んでいて、嫉妬の塊となっている。
 現に、今光のを覆い隠すように浮かび上がっている文字はどれも玲人に対しての嫉妬や怒りだけだ。
「時斗……犬飼はもう死んだんだよ? どうしてそんなにアイツを気にするの?」
「それは……うっ!」
 時斗の細い腕にゴツゴツとした指が食い込む。痛みに思わず顔を顰めると、光は笑ったまま話を続けた。
「時斗のことおいて、勝手に死ぬ奴のどこがいいの? 俺だったら、絶対にしないよ。そんなこと」
「それは……いっ、つっ」
「これからは、俺が時斗を守るよ? それじゃダメ? 俺じゃダメなの?」
「痛いっ! 痛いよっ! 光!」
「答えて」
 濁った瞳が鋭く時斗を見つめ、心を射抜く。
 確かに、玲人はなんの相談もなく勝手に死んでしまった。それは事実だ。けれど、あの玲人のことだ、絶対になにか意味があったに違いない。実際に、彼は神様から言われたと言っていた。それが本当ならば、時斗はその神様とやらをぶん殴ってやりたい衝動と玲人を説得したい気持ちでいっぱいだった。
 たとえ、もう彼が生きていなくとも、和解がしたい。そう思っていた。
「玲人はっ……確かに、死んじゃったよ。でも、俺は……うぅっ」
 このまま骨を折られそうなほど力を込められ、痛みに声を漏らしながら時斗は必死に話す。
「アイツを信じたい。何があったのか、知りたい。俺は……玲人を諦めたくないっ!」
「……っ! そっか……そうかよ」
 低い声で言い、光は時斗を解放するとすっかり赤くなった時斗の手首を優しく指でなぞってニカッと笑った。
 そして、安心したように息を吐いた時斗のを鋭い拳で思い切り殴る。
「っ! っあ、ゴホッ! ゲホッ!」
 一瞬で呼吸が出来なくなるほどの深い拳がみぞおちを叩く衝撃で、時斗は激しく咳込みながら目の前に仁王立つ光を涙目で見上げた。
「時斗が悪いんだよ? いつまでも犬飼に縋るから……」
「なに、言って……コホッ」
「俺を選べば……楽だったのに」
「みつ、る……? ――ッ!」
 酷く濁った瞳で見下ろす光の手が、時斗の細い首に伸ばされる。
「やめっ……ぐぐっ!」
 そして、そのまま力を込められると真の意味で呼吸を止めるように首を絞められた。
 苦しさにもがく時斗をうっとりとした表情で見下ろし、光はさらに両手に力をこめる。
「うぐぐっ……みつる、やめっ……んぐぅっ!」
「時斗が俺を選ぶなら、止めてあげる。選んで? 犬飼か、俺か」
「……っ」
 豹変した光に恐怖しながら、時斗は必死にマットの上を叩く。
 痛い、苦しい。苦しい苦しい苦しい――。
 そればかりが思い浮かんで、光の求める答えを出すことができない。そもそも、時斗にとって光は幼馴染で親友でしかない。玲人と同じ土俵にすら立っていないのだ。決められるわけがない。
 それでも、光は早くしろと言うように首を強く絞めあげて時斗から無理矢理な言葉を出させようとしている。
「俺はさぁ、マジなんだよ? 本気で、時斗のことを愛してる……なのに、お前はいつまでも死体のことばっか考えて……」
 濁った瞳が薄暗い倉庫の中でギラギラと光る。まるで、獲物を追い詰めた獣のようだと時斗は思った。
「犬飼は死んだんだよ? だったらさ、今度は俺の番じゃないの?」
「……ど、してっ」
「だって、俺はずっと我慢してきたんだよ? 時斗が幸せならそれでいいって。でも……アイツは、犬飼は時斗を不幸にしたじゃん。なのに……諦めたくないってなに? 馬鹿なんじゃないの?」
「っ……い、かげんに……しろっ!」
 絞り出した声で言い、思い切り光の身体を蹴飛ばす。
「……ぃっ!」
「はぁ……っ、はぁ……っ、ゲホッ!」
 漸くまともに吸い込むことが出来るようになった呼吸器官で必死に酸素を求めながら、時斗はゆらりと立ち上がった。
「はぁ……っ、ふぅー……俺の番ってなんだよ……俺は誰のものでもないっ! 勝手なこと言うな!」
 ゼェゼェと息を荒げながら叫ぶと、縮こまっていた光の肩が大きく揺れた。
「……光が俺をそこまで想っててくれたのは、正直言って嬉しい。でも……だからといって玲人を諦めることはできない」
「……」
「たとえ、玲人がもう生きていなくても……此処で会えたからには、ちゃんと知りたいって思ってる」
「そっか……そう、だよね。時斗はアイツが好きなんだから……俺じゃ、ダメだったんだよねっ」
 光の瞳から大粒の涙がボロボロと零れ落ちる。天真爛漫な光の初めて見せた弱い部分に内心驚きながらも、時斗はそっと手を差し伸べるとその手を取ってくれた光を引き寄せるようにして立ち上がらせた。
「ごめんっ、ごめんねっ……時斗」
「俺こそ、ごめん。今まで気づけなくて……」
「いい、いいんだっ……俺は時斗に気持ちを伝えたかった、ただ……それだけで良かったんだっ」
「光……」
「なのにっ、俺……時斗のこと考えてたらっ、なんかおかしな気分になってきてっ、気がついたらあんなことしてて……ごめんっ、ごめんなさい……っ!」
「いいよ。だから、もう泣き止んで。俺は笑ってる光が一番好きだよ」
「っ……ありがと、時斗っ」
 ぐしぐしと涙を拭って、光は真っ直ぐに時斗を見つめると、深く息を吐いてから落ち着いた様子で話し始めた。
「俺、本音じゃないって言ったけど……やっぱり犬飼とも仲良くなりたかったよ。ああいう堅物な友達もいたら、きっと楽しいもん」
「うん……俺も、二人が仲良くなってくれたら嬉しいよ」
 答えて、時斗は空を見つめた。
 玲人が生前、もし光と友人関係だったらと考えるとそれだけで胸の辺りが温かくなるような気がした。正反対な性格だからこそ、きっと面白い日常を過ごせたに違いない。
 今ではもう、叶わないことではあるが、それでも期待してしまう自分がいて、それがなんだかとても幸せに思えた。
「光、もう平気?」
「うん。もう大丈夫」
「それじゃあ、先生と合流しよう」
「そうだね、ここには何もないみたいだったし」
 光の言葉に頷き、時斗の方から光の手を握って倉庫を出た。
 すると、丁度外から戻ってきた杉田と目が合う。
「そっちはどうだった?」
 開幕聞かれた言葉に二人一緒に首を振って答える。すると、杉田は落胆したように溜め息を吐いてから胸ポケットから取り出した煙草を咥えて自分の方の報告をした。
「外の方もこれといって収穫はなかった。ただ……」
 ふぅーと煙草の煙を吐き出しながら、杉田は一枚の紙きれを取り出すと、二人にそれを見せる。
「倉庫の入口に落ちていた。もしかしたら、何者かがヒントとして置いていったのかもしれない」
 そう言って杉田は再び煙草を咥えると、少々苛立っている様子で煙を吐いていた。
 見せられた紙きれには一言だけのメッセージが書かれていた。
「本当に後悔なんてない……? これって……」
「犬飼の字? でも、ちょっと違うような……」
 確かに、内容だけ見れば玲人が書き残したようにも思えたが、字だけ見ると少女が好んで書くような少々丸っこい文字で書かれている。
「恐らくは、此処の住人のものだろうな」
「それってつまり……」
「自殺者のものということだ」
「……」
 この空間には自殺で命を落とした者しか存在しないということは分かっていた。けれど、いざこうして書き記されたものを見てしまうと胸がぎゅっと締めつけられるような気持ちになった。
 これを書いた者は、どれだけ考えてからこの回答に行きついたのか。それを思うだけでズンッと気持ちが沈む。
「此処に居られる条件は、未練があること……だと俺は想定している。つまり、現実の世界に後悔を残している者はこうして誰かに気づいてもらえるかもしれない行動を取るのかもしれないな」
「そうだね……一時の衝動でしちゃったことに後悔がないなんて言えるわけがないもん」
 光が先程の自分のことを指すように呟く。先程の光は明らかに不可解だった。別人のようで、まるで何かにそそのかされたようなそんな、自我を完全に失った獣のようだった。それを一時の衝動と言うのは少し違うようにも思えたが、光にとっては時斗にしてしまった行為への罪悪感があるのだろう。
「でもさ、なんか悲しいね。こうやって、気づいてもらえるかも分からない物を残してまで後悔を示すってさ」
「どんな理由があれど、自身のした行為が原因となっているんだ。それくらいは覚悟の上だろう」
「そっか……」
 杉田がふかしていた煙草を指で折り、内ポケットから出した携帯灰皿へと入れる。煙草の煙を吸い込みながら、時斗はふと玲人を思い浮かべた。
 彼は、此処で時斗と永遠を過ごしたいと言っていた。此処が未練がなければ存在できない場所だというのなら、彼の未練とはいったい何なのだろうか。時斗と過ごすことが叶えば、それは未練がなくなるということではないのだろうか。
 永遠など、どこにもないのだから。共に過ごすことができたとしても、それはきっと一時の時間だけだろう。
ならば、最初から玲人の望みは未練を晴らすことではなかったのではないかと、時斗は思った。
 後悔のない未練など存在しない。
 なら、彼はいったい何をしたいのか。何を想っているのか、それを突き止めたいと強く思った。
「先生……俺、玲人とちゃんと話がしたいです」
 重い空気を切り裂くように言うと、杉田は一瞬だけ目を丸くして時斗を見つめた。
「……猫田、少しいいか?」
 そして、そう呟くと時斗と二人きりにしてくれと言うように光に目線を向けた。
 それを見て、光も何かを悟ったようで足早に体育館を出て行くと重い扉を閉めて扉越しに二人の会話が終わるのを待つことにした。
「単刀直入に言うぞ、犬飼に対して……気持ちはまとまったのか?」
「はい」
「……本来、こんなことを言うのは教師として失格だと思うが言わせてもらうぞ……猫田、お前は本当に犬飼を想っていたのか?」
 杉田に問われ、時斗はゆっくりと首を横に振った。
「好きなことに変わりはありませんでした。でも、玲人と同じだけの気持ちを向けてはいなかったのが本音です」
「やはり、な……」
「先生と玲人が仲が良かったのは聞いていまいした。だから……本音を言うべきか悩みました。でも、だからこそちゃんと伝えなきゃいけないと思った」
「……」
「俺、ずっと不思議でした……なんで玲人はあんなにも俺を想ってくれたのか。アイツ、自分のことは全然話してくれなかったから」
 僅かに俯く時斗に、杉田はたまらない怒りを孕ませて強く肩を掴む。
「ぃ……っ!」
「アイツはっ! 犬飼には、お前しか居なかったんだっ! なぜ気づかなかった‼」
「せん、せっ……」
 豹変した杉田を見やれば、あの時の光と同じ状態だった。濁った瞳に怒りに我を忘れた獣のような行動。恐らく、此処に留まる時間が長いとこうやって瘴気にあてられるのだろう。そうでもなければ、優しい二人がここまで様変わりするわけがない。
 ならばと、時斗は光の時と同じく杉田を押し退けて言葉を吐き出す。
「先生にとって玲人が大事なように、俺にだって大切な存在だ! だから、今度は間違えないように考えた! 玲人の向けてくれた想いに今度こそ答えられるように……っ!」
「……っ⁉」
 強く押し退けられ、杉田の身体がよろめく。
「玲人がどんな生活をしてたか……それは分からない。だから、これから理解したいと思ってる。その上で、俺が必要だって言ってくれるなら……俺は、それにちゃんと答えたい! もう諦めてなんかやらない!」
「……そうか。お前は、しっかりと決めたんだな」
「はい」
「駄々をこねていたのは俺の方だったということか……っ、うぅっ……」
 頬を伝う涙を洋服の袖で乱暴に拭いながら、そう呟いた杉田にハンカチを差し出して、時斗はフッと気が抜けたように笑んだ。
「先生、いつも玲人を見ていてくれて……ありがとうございました」
「俺が……勝手にしていただけだ。犬飼は俺のことなど何とも思ってなどいないさ」
「それはないと思います。アイツ、あれで結構子供っぽいところあるんで。先生のことがお気に入りだったのは本当だと思いますよ」
「そうか……そぅだと、いいなっ」
 受け取ったハンカチでそっと涙を拭くと、杉田は二本目の煙草を取り出して咥えた。
 火をつけながら、時斗を見つめる。
 猫田時斗はとても大人しく、目立つ生徒ではなかった。杉田自身、そこまで気にかけたことがなかったのも事実だ。けれど、知ってみればこんなにも強い子だったとは思わず、内心驚かされていた。
「だから、か……」
「なんですか? 先生」
「いや、なんでもない」
 玲人が何故そこまで時斗に固執するのか、なんとなく分かった気がした。
 正反対であって、けれど絶対的な理解者である彼に惹かれたのだ。
 そう思うと、杉田は少しだけ胸を突き刺す棘が消えていくのを感じた。玲人の弱い部分も全て受け入れて、何の利益も求めることなく接してくれる存在――それが時斗だったのだ。
「……はぁ、完敗だよ」
 時斗に聞こえてしまわないように小さく呟き、短くなった煙草を折る。
「猫田、高畑を呼んできてくれるか? 少し、相談をしよう」
「分かりました」
 小走りで光を呼びに行った時斗の背を眺めてから、杉田はくたびれた様子でそっと天井を見上げた。頬を伝った涙がいつの間にか乾いていて、杉田は一層深く息を吐いた。


「俺が思うに、犬飼は猫田を得られれば満足するのだろう。それ以降がどうなるかまでは分からないが……一度犬飼と猫田を二人きりにしてみるといいかもしれない」
「う~ん、確かにその方がお互い話はしやすいと思うけど……二人きりって危なくないですか?」
「そうだな。俺が言えたことではないが、今の犬飼は正気ではない。二人きりになった時、何をしでかすか分からない」
「だと、やっぱり俺達が側に居た方が――」
「大丈夫だよ」
 光の言葉を切るように時斗がそう告げる。
「俺、もう決めたから。玲人とちゃんと話をするって」
 覚悟の決まった表情で言い、時斗はニコッと笑うと二人に深々と頭を下げた。
 各々の理由で此処にやって来たとはいえ、元は時斗と玲人の問題だ。二人を無理矢理巻き込んでしまったことに変わりはない。
 そう思うと、時斗は頭を下げながら二人へ謝罪の言葉を吐き出す。
「巻き込んで、ごめんなさい。散々迷って、困らせて……怒らせて、ごめんなさい」
「……」
「と、時斗は悪くないよ! 俺だって、あんなことしちゃったし……」
「頭を上げてくれ。俺も高畑と同じだ……すまなかった」
 杉田の言葉にゆっくりと頭を上げ、時斗はジッと二人を見つめた。
 どちらも吹っ切れたような顔をしていて、もう後悔などないことが分かる。ならば、今度は自分の番だというように時斗も大きく息を吸い込んで高鳴る胸を静ませた。
「それじゃあ、行ってきます。玲人のところに」
「うん、いってらっしゃい。時斗」
「あまり無茶はするんじゃないぞ」
「はい!」
 返事をして、時斗は体育館から出て行く。
 そんな彼の背を見つめながら、光と杉田はわざと顔を合わせないようにして話しをする。
「先生って結構ヘビースモーカーなんですね」
「意外だったか?」
「まあ、それなりに」
「そうか。だが、人には意外な一面があるものだろう?」
「それもそうですね」
 そう言って、光は転がっていたバスケットボールを拾うと、ゴール目掛けてそれを投げた。
 角にあたり、跳ね返ってくるボールを拾い直してへらっと笑う。
「俺も、こう見えて運動音痴だしなぁ」
「それは成績で知っていたぞ」
「も~、こういう時はマジレス止めてくださいよ」
 そんな他愛のない会話をして、二人は自分達のクラスから一番近い音楽室へと足を運ぶのだった。