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猫田時斗と犬飼玲人がまともに言葉を交わしたのは、クラス替えを行って間もない頃だった。
最初は、優等生の玲人を避けるように一人クラスの端で本を読んでいた時斗だったが、不意なきっかけから話しかけられ、そこから親睦が深まっていったのが始まりだ。
「その本、とても良いよね」
そう話しかけられたのは、時斗が丁度分厚い本を読み切って余韻に浸りながら本を閉じた時だった。
「……えっと」
急に学校一の優等生に話しかけられ、ポカンと口を開いていた時斗だったが、暫くして自分に話しかけているのだと理解して必死な会話をしたのを今でも鮮明に覚えている。
「う、うん。凄く面白かった」
「最初の内は主人公の身勝手さに苛立ってしまったけれど、最後の大どんでん返しには驚かされたよ」
「分かるっ! あそこ、スカッとしたよね!」
思わず立ち上がり、席から身を乗り出して答えると、玲人は目を丸くした後にクスクスと笑い出した。
「あっ、ごめん……俺なんか変なこと……」
「違う違う。猫田くんって、案外お喋りなんだなって、少し驚いただけ」
「ごめん……」
「どうして謝るの? いいじゃないか。好きなものを語るのは不思議なことではないよ?」
「でも、なんか白熱しちゃって……」
初対面というわけではないが、初めての会話でこの距離感はどうなんだと思い、時斗は顔を赤くして俯く。すると、玲人は笑みを浮かべたまま時斗の頭上で会話を続けた。
「ねぇ、猫田くん。今度、お互いのおすすめの本を貸し合わないかい?」
「えっ……」
「嫌なら断ってくれていいけれど……良かったら、ね?」
「うん。いいよ……犬飼くんの気に入るような内容だったらいいんだけど」
「きっと気にいるよ。猫田くんと趣味合いそうだし」
「なら、明日持ってくるね」
「うん。俺も持ってくるよ」
そんな会話をして、チャイムの音とともに自分の席へと帰っていく玲人を目で追い、時斗はなんとも言えない多幸感に胸を鳴らしていた。
優等生でクラス中の人気者である犬飼玲人が、自分なんかに話を振るというのが不思議で、でもなんだか心地が良くて、時斗はほっこりとした気持ちになった。
一瞬なにか裏があるのだろうかとも思ったが、玲人の上に浮かび上がった文字も全て言われた言葉と同じであり、純粋に楽しみにしてくれているのだと理解できたのが嬉しかった。
そんな会話を皮切りに、時斗と玲人はちょくちょく話をする仲となっていき、夏休みでさえも共に過ごす時間があったくらいの仲まで進展していた。
苗字で呼び合っていたのがいつしか名前で呼び合うように変わり、誰も訪れない夏休み中の学校図書館で一緒に宿題をしたりなど深くなっていく関係を感じた頃、玲人が気恥ずかしそうに時斗に尋ねたことがあった。
「同性愛ってどう思う?」
数学の式を解いていた時斗に投げかけられた不意な問いかけ。あまりにも急で、深い話題に時斗は一瞬だけ固まると、すぐに玲人に聞き返す。
「どうしたのさ、急に」
「いや、ちょっと……最近の課題みたいなものでさ」
口元を押さえて言う玲人に首を傾げて、時斗は口を開くと当たり前のように建前のない言葉を吐いた。
「べつに、いいんじゃない?」
「……どうして、そう思うの?」
「だって、好きな人がたまたま同じ性別だったってだけでしょ? べつにいいじゃん。それくらい」
「そ、っか……うん」
「なに? 玲人、好きな人でもできたの?」
「えっと……それは」
珍しく悩んだ素振りを見せる玲人に時斗は再度首を傾げる。
しかし、玲人の顔を全て覆い隠すように現れた文字を見て目を見開く。
【君が好きだ】とだけ浮かんだ文字を今から玲人が口にしようとしているのだと気がつくと、時斗は咄嗟に頬を赤らめて俯いた。
そんな彼を他所に、意を決したように玲人が口を開く。
「君が好きだ」
「……っ!」
先に読み取ってしまった言葉をいざ面と向かって言われると、ここまで威力があるのかと時斗は他人事のように妙な納得をした。
けれど、これは他人事ではなく今まさに自分に投げかけられた言葉であり、それには当然返事という工程が発生するのも分かっている。
「……その、えっと」
「急にごめん。ビックリしたでしょう……」
「それは……うん」
驚いたことは本当なので素直に答えると、玲人はクスクスと笑いながら一番近くの窓を
少しだけ開けた。
生温かな夏の風が舞い込んでくる。今日は比較的湿度が低い方で、入ってくるのは乾いた熱風だった。
「知ってる? 蝉って外で鳴いている間はずっと絶頂状態なんだって。そうやってメスを見つけて子孫へ繋ぐんだ」
「なんかで読んだことある」
「凄いよね、メスを見つけるまで泣き続けられるって。いくら昂っているからって、よくやるなって思うよ」
「蝉ファイナルとかも凄いよね。あれってメスを見つけられなかったオスの末路なのかな?」
「どうなんだろう……でも、そうかもしれないね。最期まで、諦めないんだ」
話が脱線する。それでも時斗は玲人と話すのが楽しく、黙ることができなかった。とはいえ、告白からいきなりこんなくだらない話をするとは思いもしなかったけれど。
「鳴き声はうるさいけれど……最期まで諦めない姿勢は、結構好きかもしれないな」
呟いて、玲人が時斗の方を振り返る。
熱風にあてられた顔は汗ばんでいて夏らしさを感じる。
「だからね、俺も蝉を見習ってみようと思って」
「どういうこと?」
「時斗を諦めない。最期まで」
「……馬鹿じゃないの。そんなこと、わざわざ言わなくても……俺、玲人のこと……」
言いかけて唇を噛む。普段は何を考えているかも分かりづらい時斗だが、多少の羞恥は持ち合わせていた。告白への返事を口をもごもごとさせて渋っている。
そんな時斗に注がれる期待と不安の目。そして、怯える文字を見て、時斗は呼吸をするように返事を吐き出す。
「好き、だし」
「本当に?」
「嘘吐いて俺に得あるの?」
「ないね」
「でしょ。だったら、大人しく受け取ってなよ」
「ふふっ、そうするよ」
静かに答えて玲人はそっと窓を閉めた。
ジジジジっと聞こえてくる蝉の鳴き声が少しだけ小さくなる。
「時斗、愛してる。最期まで……ずっと」
「よくそんなこと平然と言えるね……恥ずかしい奴」
「うん。時斗にはずっと本音でいようと思って」
そう言った玲人の上に浮かぶ文字を確認すると、確かに口から吐き出された言葉と同じ言葉が浮かんでいた。
【愛してる】その言葉がいやに生々しくて、でもひどく安心するもので。時斗はあえてそこには言及せずに会話を続けた。
「まあ、こんな俺だけどさ……改めてよろしくね? 玲人」
「うん、こちらこそ。時斗」
それからは他愛のない話をしながら互いの宿題に手をつけて帰宅することにした。
カンカンカンカーンと鳴り響く踏切の音が会話を邪魔する。
「でね、▪▪▪で……とき▪▪は、▪▪▪▪だと……」
上手く聞き取れない玲人の話を右から左へ受け流し、時斗は玲人の放った【愛してる】という言葉をじっくりと考えた。
晴れて恋人同士になったのだから、なんら不思議な表現ではないのだが、どうにも玲人の放った言葉にだけ深い意味があるのではないかと勘繰ってしまう。
「時斗?」
「あっ……」
いつの間にか電車は通り過ぎていて、気がつけば踏切は開いていて横から玲人が不思議そうな顔をして覗き込んできていた。
「大丈夫? なんか、ぼーっとしてたけど」
「うん……なんでもない。それよりさ、この後ゲーセン行かない?」
「ゲーセン?」
「そう。好きな音ゲーが新しくなったんだよね」
「いいけど……」
「あっ、嫌だった?」
「そうじゃなくて。俺、ゲーセンって行ったことないから」
「えっ……マジで言ってる?」
「うん」
優等生なのは知っていた。けれど、同時に浅く広くではあるが友人関係が良好である彼がゲームセンターに行ったことがないというのは驚きだった。
「クラスの奴らと行かなかったの?」
「うん。興味なくて」
「なら、俺とだって嫌だろ」
「時斗となら行ってみたいよ。楽しそうだしね」
「……変な奴」
ぽつりと呟くと、玲人は口角を上げて時斗の耳元で囁く。
「初めては全部、時斗と一緒にって決めてたんだ」
「……っ⁉」
甘い声が近くで聞こえ、内容的にも頭が沸騰するような感覚に襲われた。
「お前……それ、女にもやってたらそのうち後ろから刺されるぞ」
「しないから平気だよ。だって俺、最期まで時斗だけとずっと一緒だから」
そう言って笑う顔はあどけなく、やけに幼く見えた。
「ゲーセンって結構色んなものがあるんだね」
「初めてだとそうかも。でも、楽しかったでしょ?」
「うん。あのゾンビを銃で倒すゲーム、すっごく面白かった」
「ああ、シューティングゲームね」
初めてのゲームセンターでありながら、見事なハイスコアを出してみせた玲人を思い出しながら時斗は呟く。
頭の良い人というのは、やはりゲームも上手いものなのだろうか。そこは謎だが、玲人が器用であることは言うまでもなかった。
「時斗がやっていたのも楽しそうだったね。沢山楽曲が入っていて」
「うん。今回のシリーズで増えたからね。でもなかなか高難易度がクリアできなくてさ」
「見てて思ったけど、人の手ってあんなに速く動くものなのかい?」
「それ! もうちょっと人間向きにしてほしいよね。こっちはタコとかと違って手二本しかないんだからさ」
「ははっ! そうだね」
「でも、玲人が楽しそうで良かったよ。初めてって言ってたから騒がしくて嫌になるかと思ってたし」
「そんなことないよ。俺は時斗と一緒なら、どんな場所だって楽しめるよ」
にっこりと笑って玲人はそう言うと、気恥ずかしそうに頬を掻いた時斗を微笑ましく見つめた。
「それじゃあさ、今度は遊園地とか行こうよ。俺、ジェットコースター乗りたいんだよね」
「いいね。俺も乗ってみたい」
「じゃあ、決まり!」
恐らく、玲人の口ぶりから察するに遊園地も行ったことはないのだろう。だったら、自分が初になろうと時斗は思うと満面の笑みを浮かべて玲人の手を取った。そして、互いの小指を絡めてブンブンと振ってみせる。
「はい、指切った!」
「……?」
「約束だからな! 絶対、今度一緒に遊園地行こう」
「……うん!」
時斗の笑みと言葉を受け取り、玲人は一拍置いてから元気に返事をする。
玲人にとって、こんなふうに約束事をするのは初めてで、若干戸惑ってしまったが、相手が愛する時斗だというだけでそんな戸惑いはすぐに消えてなくなっていった。
「それじゃあ、俺の家こっちだから。玲人も寄り道せずに帰れよー」
「うん、そうするよ」
「じゃあ、また明日な」
「うん……また、明日」
手を振って別れ、玲人は自宅に向かってゆったりと足を進めた。
時斗と居た時とは打って変わって、重くな
った足を懸命に動かして自宅を目指す。
「……ただいま」
ドアノブを掴んで中に入ると、真っ先に目に飛び込んできたのは母親からの生温かな視線だった。
「おかえりなさい、玲人。今日は随分と遅くまで勉強していたのね。偉いわ」
「う、うん。図書室に誰も居なかったから……とても捗ったよ」
「そう、それは良いことだわ。それじゃあ……夕飯前に少しランニングをしてらっしゃい。あと、寝る前の勉強も忘れずにね」
「……うん。分かったよ、母さん」
そう答えて、玲人は足早に自室へ向かうとドクドクと鳴り響く心臓を押さえて深く息を吐いた。
玲人の母は、決して悪人ではない。けれど、息子に寄せる期待があまりにも大きすぎる人間だった。
昔から、成績だけでものを言う人であり、玲人はその期待に答えるためだけに生きていると言っても過言ではなかった。母のために身体を鍛え、勉学に励み、クラスメイトや教師からも気に入られる自分を演じて生きていた。そうしていないと、生きる場所すら消えてしまう。そんな気がしてならなかったのだ。
「時斗……」
ランニング用のジャージを抱きしめながら、縋るような声で時斗の名を呼ぶ。
今日一日、時斗と過ごした時間がもう恋しくてたまらない。こんな気持ちは初めてで、不思議で、でもかけがえのないもののように思った。
自分は、彼を心から愛している。
そう思うだけで、胸の奥がスーと穏やかになっていく。
時斗にはまだ話せていない秘密があったが、それでも平気な気になれた。それはきっと、時斗ならば自分のことを受け入れてくれるだろうという勝手な思考からなのだが、それでも玲人を支えるには十分な考えだった。
「話せる時がきたら……ちゃんと話そう」
呟いて、玲人はかるく頬を叩くとジャージに着替えて家を出た。
テンポの良い足取りで夏の夜風を切って走り、今日一日を振り返る。告白した時はあんなにも臆病になっていた心が時斗の返答で簡単に落ち着き、幸せに包まれた。
初めてのゲームセンターは騒がしかったけれど、そんなこと気にならないほどに楽しく、充実した時間を過ごせた。
それに、初めて指切りをした。友人とすらしたことのない約束というものを初めてできた喜びは計り知れないものだった。
こんなにも幸せでいいのだろうかと不安になってしまいそうなほどの多幸感に、玲人は夜空を見上げて生まれて初めて満面の笑みを浮かべる。
「時斗」
何の気なしに呟いた名前が耳に入るだけで嬉しい。そんな花畑にいるような気持ちで走りを少しだけ速める。
視界の端に映り込んだ飛び降り自殺の死体と目を合わせないように駆け抜ける。
今日ばかりは、そういった力は忘れて幸せを噛みしめたいと思った。
夏休みはまだ始まったばかりだ。この先も時斗と沢山の初めてをしよう、と玲人は思いながら足を前へ前へと進めた。
通り過ぎた木の下には、鳴き止んで死に向かう蝉たちが沢山落ちていた。



