永遠のワルツ



   ***


 真白い光が薄れていく。閉じた目を開けると、そこは見慣れた学校の中だった。
少しだけ劣化した壁や古く傷や汚れの付いた床はどこの学校とも同じように思ったが、時斗のクラスである2-A組の扉の前へ立つとすぐにそこが自分の通う学校であると理解する。
「……学校? なんで、学校になんて……」
「連れて来たかったんだ。俺達だけの楽園に」
「……?」
 玲人の言葉の意味が理解できずに悩む。学校の何処が二人の楽園であると言えるのか。時斗はまるで分からないといった顔をして玲人を見た。すると、玲人がゆっくりと口を開く。
「正確に言うと、此処は天国と地獄の間みたいな所でね」
「……はっ?」
 思わず声が出る。いったい何を言っているのか。頭の良い玲人が言いそうにない言葉を聞き、頭を捻る。
「時斗はまだ死んでいないから、どっちにも連れていけないんだ。だからせめて、間の世界だけでもと思ってね」
「意味、分かんねぇよ……」
「分かりやすく言ったつもりだけど……そうだね、此処は簡単に言うと現実世界から遮断されている。だから、此処に居る間は俺達の自由に、なんでもできるってことさ」
「現実世界から遮断って……それってつまり、俺は死んだってこと?」
「それは違うよ。時斗の肉体はちゃんと家に置いてきてある。此処に居る時斗はいわば魂と言えるね」
「……っ!」
 玲人の言葉を聞いてゾワリと背中が粟立つ。
 魂だけ連れ去られたという事実が恐怖となって身体から体温を奪っていく。
「い、やだ……帰りたい! 今すぐ帰してくれよっ!」
「それはできないよ」
 恐怖に身体を震わせて叫べば、玲人はぴしゃりとそう言って、時斗を後ろから強く抱きしめた。
「此処へ来たら、あることをしないと帰れないんだ」
「ある、ことって……?」
「さあ? なんだろうね?」
 どろりと濁った瞳を細めて笑う玲人の声が耳に届くと同時に首筋に冷たい汗が伝う。
 逃げなくては。そう思うのに、上手く動いてくれない身体は玲人の腕の中でカタカタと揺れるだけだった。
 死後の世界、とでも言うのだろうか。死んでいないにも関わらず連れて来られたことへの恐怖。元の世界に帰る方法が分からない焦り。加えて、優しくも冷たい玲人の存在が時斗の不安を仰いで涙をこみ上げさせた。
「泣かないで、時斗。俺はずっと一緒にいるから……一人になんかしないから」
「うぅっ……」
 甘く優しい声が耳元でそう囁いた。
 助けてと懇願しても誰も居ないこの場所で何ができるのだろうか。もし、ずっとここのままだったら自分はどうなってしまうのか。そんなことを考えていると、不意に玲人が耳元で囁いてくる。
「想定外だったな……」
「……えっ?」
「時斗が余計なことを考えたから、余分な者まで連れて来てしまったみたいだ」
「なんのこ――」
 問いかけようとした時だった。
 バシン!と大きな音が廊下に響き、玲人の腕が何かに弾かれる。
「時斗から離れろよ」
 普段と比べると少しだけ低い、聞き知った声が耳に届く。
「……」
 振り返って、玲人の冷たい瞳の先を辿ると、そこにはギラギラと鋭く瞳を輝かせる光の姿があった。
「みつ、る? どうして……」
 絞り出した声で問うと、玲人の腕を強引に引き剝がした光の後ろから駆け寄って来る杉田と目が合った。
「杉田先生も……なんで?」
 状況が上手く把握できずに悩む時斗を尻目に、光は玲人を睨みつけて大きくを口を開ける。
「死んでからも時斗に執着してるのかよっ!」
「そうだよ。いけないことかな?」
 さも当然ことのように返して、玲人は光を睨み返す。
「そもそも、俺はずっと時斗と一緒に居るために死んだんだ。だったら、この状況は必然と言えるよね?」
「……お前、どうかしてるよっ」
「そんなこと、高畑に言われる筋合いはないよ。はぁ……こうなるって分かっていたら、時斗が寝ている間に連れて来るべきだったな」
 残念そうに言い玲人は深く溜息を吐く。
「時斗が俺以外を思い浮かべたりするから……本当は要らないのに、連れて来てしまったんだよ?」
 時斗の方を向き、溜息混じりに言うと玲人は時斗を視線で追い詰めて謝罪を訴えかけてきた。
 確かに、玲人に腕を引かれた際に、助けを懇願してしまった。けれど、具体的に光や杉田を思い浮かべたわけではない。
「お、俺は……」
「いいよ、謝らなくても。でも、面倒事ではあるからちゃんと責任は取ってね」
 自ら望んだことではないというのに、何をどう責任を取れと言うのか。ただ怯えた瞳で見上げてくる時斗に、玲人は再度溜息を吐くと、光と杉田の方を見つめた。
「あなた達も……此処に来てしまった以上は簡単には帰れない。せいぜい、頑張ってください」
 突き放すように言い、玲人は時斗に向き直りニコッと笑って見せる。
「時斗……ゆっくりでいいから、ちゃんと考えてね。逃げちゃダメだよ?」
 それだけ言うと、玲人は口を閉じて三人に自由に話し合えといった様子で一歩後ろへと下がっていった。


「光! それに先生も……どうやって此処に?」
「それがさ、家に居たら急に白い光に飲み込まれて……気づいたら、先生と二人で職員室に居たんだ」
 困った顔で話す光を見つめて、時斗はやはりといった表情を浮かべた。
 先程、玲人が言っていた言葉から察するに、時斗が心の中で助けを求めてしまった際、無意識に二人の姿を思い浮かべてしまったのだろう。それで、関係のない二人までこの場へと誘い込んでしまったのだ。
「……ごめん、俺のせいで」
「時斗のせいなんかじゃないよ! ただ……どうやって帰るか、だよね……」
「それについてなんだが」
 光が必死に時斗を気遣っていると、杉田が話に割って入るように気だるげな声を放つ。
「さっき、犬飼は此処に来たら簡単には帰れないと言っていただろう? だから、何かしらの行動をするしかないと思うんだが……」
「何かしらって、何すればいいのさ?」
「それはまだ、分からない」
 光の問いに、目を伏せて答える杉田。彼自身も今の状況に順応しているわけではない。分からないというのも当然のことだと時斗は思った。
「とにかく、脱出経路を探してみよう。何か見つかれば此処から帰る術も分かるかもしれない」
 気だるげに、けれど真剣に言うと杉田はチラッと玲人に視線を向けた。
 切れ長の目がニコニコと笑う玲人の姿を突き刺すように真っすぐな眼光を向ける。こんな杉田の表情は時斗も光も初めて見るものだった。
 それ故に、現状が如何に危ういかを知らせてくる。
「先生の言う通りさ、ちょっと何か探してみようよ! ね? 時斗」
「う、うん……」
 必死で明るい表情を浮かべる光に申し訳なさを感じながら時斗はそう言って頷いた。
 じっとしていても何も始まらない。ならば、ダメ元でも行動をした方が幾分かマシだ。
 そう思って、一先ずは自分達の教室に入ろうとした時だった。
 ドンドン!と、何かがぶつかり合うような音が響き渡る。
「な、なに?」
 それは一か所からではなく、上下左右至る所から響いており三人の恐怖心を一気に煽っていく。
「なんか分かんないけど! とりあえず教室に入ろう!」
 慌てて時斗の手を握り、光が教室の扉を開いた。それに続くように杉田と玲人も教室に入っていき、急いで扉を閉める。
「なんだったんだろう……今の」
 そう光が呟けば、先程まで響いていた音は止み、再び痛いほどの静寂が四人を包み込んだ。
「止んだようだな」
 杉田が呟くと、時斗と光はホッと胸を撫で下ろして溜まった息を吐き出す。
 こういった時、一人冷静な者が居ると安心するなと二人は思った。杉田はいつもやる気のない人間だが、それと同時に冷静な一面もある。そうした大人が一人居てくれるだけでも安心度は上がっていく。
「先生、ホラーとか平気なタイプでしょ」
 光が呆れたように問いかけると、杉田は少しだけ唇に弧を描いて頷いた。
 それを見て、光が深く溜息を吐くと今度はバンバン!という音が鳴り始め、時斗と光の背をビクンと跳ねさせた。
「今度はなにさっ!」
 驚いた拍子に光が口走ると、教室の扉のガラスでできた部分に真っ赤な手形が大量に付いていくのが見えた。大中小、様々な大きさの手が血に染まったのを見せつけるようにバンバンとガラス面を叩く。
「……ヒッ!」
 思わず身体を震わせて光の腕を強く握ると、それをただ見ていた玲人が冷たい声で語りだした。
「言い忘れていたけど、此処の住人は皆悪戯好きでね。こうやって君達を驚かせてくるだろうから……まあ、気をつけてね」
 それだけ言うと、玲人は再び黙り込んで三人を観察し始める。まるで、小さな子供が蟻の巣でも見つめるような、ああ大変そうだなといった他人事を含んだ瞳に時斗は嫌な汗をかいて玲人から目を逸らした。
 不可解な音に、血濡れの手形を見たことで、改めてこの場が異世界であることを痛感すると、三人は悩ましい表情を浮かべて互いの考えを聞き出そうと視線を揺らす。
「……此処に留まっていても仕方がない。とにかく、何か探しに行ってみよう」
 最初に声を発した杉田に、時斗と光は一瞬だけ見つめ合ってコクリと頷く。
「あっ、でもさ……移動しても大丈夫なのかな? またさっきみたいのが起こるんじゃ……」
「かもしれないが、動かないかぎりは何も得られない。慎重に進んでいくしかないだろう」
「そっか……うん。そうだね」
 杉田の言葉に、光は無理矢理自身を納得させるように言うと、握っていた時斗の手にぎゅっと力を込める。
 痛い、と言いそうになるのを堪えて時斗も教室を出る覚悟をすると、そんな三人を煽るように玲人が口を挟んだ。
「どうなっても知らないよ。俺は時斗しか守る気はないから」
 放たれた言葉をわざと無視して歩みを進める杉田についていくと、背後から玲人の深い溜息が聞こえてきた。
「……まあ、ご自由にどうぞ」
 いかにも面倒臭いと言いたげに呟き、玲人はスッと姿を眩ませる。
(玲人……)
 時斗が心の中で名前を呼ぶ。どうしてこんなことをしたのか、何故ここまでするのか。問いただしたいことはあれど、肝心の玲人が聞く耳を持たなければ意味がない。
 今は、とりあえず此処から出ることだけを考えようと時斗は傷む胸に左手をあてて教室を出た。