永遠のワルツ

いつも通りの昼休み。
 時斗は残り少ない、いちごみるくをちゅうちゅうと吸っていた。そんな時のこと、隣で弁当をたいらげたばかりの玲人が、ふと時斗に話しかける。
「ねぇ、時斗」
「……なに?」
 何の気ない、そんな声色で問いかけてきた玲人に返すと、玲人はぼんやりと空を見上げながら曇った表情で語った。
「俺が死んだら……どうする?」
 そう玲人の唇から言葉が放たれた瞬間、時斗は自分でも驚くほどのスピードで拳を振り上げていた。その先は、もちろん玲人の頭だ。
「冗談でも、そういうこと言うな」
「ごめんって」
「謝るくらいなら、尚のこと言うなよ……馬鹿。それに、お前が言うとシャレにならない」
「ふふっ、そうだね」
 軽く流すような笑い声に、時斗はムッとしながらも息を吐いて玲人を見つめた。
 玲人には、時斗にだけ打ち明けている秘密があった。それは、死んだ人間の姿を見ることができるといった特殊な力があるというものだ。
 玲人自身、謎だと言っていたが見えるのは【人間】に限られるらしく、動物などは見えないのだと言う。それは逆に気分が悪いのではないかと思うが、当の本人はさして気にしていないらしい。
「毎日見てるとさ、なんとなく自分もああなったらって思うんだよね」
「……」
 毎日、人の死に触れるというのはどういう気持ちなのだろうか。
時斗には皆目見当もつかない。だが、毎日朝から晩まで死人を見ていたら慣れてしまうのだろうかとも思った。中にはグロテスクな姿をした者もいるだろうに。
 飛び散った内臓や潰れた頭などを思い浮かべると、時斗は飲んでいたいちごみるくを吐き出してしまいそうになった。
「どうかした?」
「想像したら吐きそうになった」
「俺が死ぬとこ?」
「それも含んで」
 頷きながら言うと、玲人はクスクスと笑って時斗の頭に大きな掌を乗せる。そして、それを左右に動かしてガシガシと乱暴に撫でた。
「怖い想像させてごめんね」
「子供扱いするなよ」
「ははっ! ごめんごめん」
 そうやって、あしらうように笑う玲人は本当に心から時斗を子供扱いしていることが見て取れた。というのも、時斗もまた玲人同様に特殊な力を持っているからであった。
 他者の心が読める。そういった能力が生まれつき備わっており、目の前の人物の心は時斗には筒抜けだった。
 玲人の顔を覆い隠すように現れる文字を読めば、彼が時斗をひどく甘やかしているのが分かる。まるで、年の離れた弟と接するかのような、そんな慈愛に満ちた想いを感じた。
「そうやって、いつまでも子供扱いして……俺、一応はお前の恋人なんだけど?」
「分かっているよ。だからこそ甘やかしたくなるんだ」
「なんだよそれ」
「時斗なら、分かるだろう?」
 そう問われれば、またもや玲人の顔を塗りつぶすように文字が現れる。
【時斗はかわいいな】【もっと甘やかしたい】【ずっと側に居たい】そんな文字たちが現れては消え、次へ次へと切り替わっていく。
 そんな様子に、時斗は深く溜息を吐いて飲み終えたいちごみるくのパックをぎゅっと握って潰した。
 玲人も既に綺麗に空となった弁当箱を布で包んで水筒の近くに置いていた。
「あ~、そろそろ授業かぁ……怠いなぁ」
「そう言って、いつも成績上位なくせに」
「出来るのとやりたいのは別だよ」
「はっ! 一回くらい言ってみたい台詞だね」
「時斗だって、頑張れば楽勝だと思うけど?」
「生憎と、俺頑張るのって嫌いだからさ」
「そういえば、そうだったね」
 そんな他愛のない話をしていると、ふわりと二人の間を通った秋風とともに休憩時間の終わりを告げる鐘が鳴った。
「戻ろう。遅れると杉田先生に嫌味言われちゃう」
「あの先生は何も言ってこないと思うけどな」
「だとしても、遅刻は厳禁だ」
 担任の杉田透は、超のつく面倒臭がりでいつもやる気がない。多少授業に遅れた程度で何か言ってくるような人物ではないが、玲人のいうことも確かだ。遅刻は良くない。
 早々に後片付けをして、二人は急いで教室へと向かった。


「それじゃあ、授業始めるぞ~」
 気だるそうな声とともに教室に入ってきた杉田に、ああ今日もいつもと変わらないなと思いながら時斗は欠伸混じりの読み上げを聞いてノートを取った。
 杉田はテスト範囲を適当なところで話し出すのでたちが悪い。しっかりとノートを取っていないとテスト間近に泣きをみるのはこっちだ。油断はできない。
 暫くは教科書の読み上げとテスト範囲の指示を聞いてノートを取り、それからはなるべく杉田の心を読んで対策を練る。
 そんなことをしていると、ふと先程の玲人の言葉を思い出した。
 『俺が死んだら……どうする?』
 あの言葉はいったいなんだったのだろうか。いきなりすぎて怒ってしまったが、もし玲人が自分にも打ち明けられないようなことを考えていたとしたら。
 それは、時斗にとって許しがたいことだ。
(一応……そんな危ないことは読めなかったけど……)
 玲人の心には危険な思考はなかった。あったらとっくに説得をして止めさせているところだ。それがなかったということは、つまりそういうことなのだろう。
(まあ、考えても仕方ないか)
 玲人自身が何も思っていないのなら、心配したところで意味がない。そう思うと、時斗は再び授業に集中する。
 杉田は相変わらず欠伸を繰り返していて、やる気が微塵も感じられない。昼飯後ということもあり、こちらまで眠くなってくる始末だ。これで教師が務まるのだから、世の中なにが起こるか分からない。
 杉田が楽をしているかは別として、時斗は若干将来は教師もいいかもしれないなと思いながら窓の外へと視線を移す。
 舞い散る桜の花を見て、春ももうそんなに長くはないだろうと思うのだった。


 授業を終え、玲人と二人帰路につく。
 長い踏切に足止めを食らって、立ち尽くす。
「ねぇ、時斗」
 カンカンカンカーンとうるさく鳴り響く踏切の音にかき消されそうな声で、突然玲人が話しかけてきた。
「なに?」
「ずっと……」
 呟いた瞬間、玲人の身体がふわりと自然な動作で動いてまもなく電車の通過する踏切へと入っていく。
 それはまるでスローモーションのように瞳に映り、時斗は目を見開いてそれを追った。
「一緒に居ようね。時斗」
 そんな言葉が聞こえると同時に、目の前が一気に赤に塗りつぶされていった。
「……れいと?」
 囁いた声が電車の走行音にかき消され、血肉が辺り一面に飛び散る。
 その場に居た者達全員から悲鳴が上がり、一番近くに居た会社員らしき男性が緊急停止ボタンを押していた。
 そこで、はたと気がつき、現実を見つめる。
 玲人が電車に轢かれて死んだ。
それを理解できたのは、玲人の身体がバラバラに飛び散った後のことだった。
「うっ……」
 理解し、改めて見つめたことで時斗は胃から迫りくる熱をその場で吐き出すことしかできなかった。
「おえぇえええっ‼」
 吐瀉物が、固いコンクリートの上にぶちまけられる。強い酸の臭いが鼻を突く。けれど、そんなものよりも今起きたばかりの現実を受け止めることの困難さに時斗は眩暈を起こし、その場に倒れ込んだ。
 周辺から自分に呼びかける人の声と救急車のサイレンの音が聞こえてきたが、重い瞳は開くことなくそのままゆっくりと意識を暗闇へと落としていった。


  ***


「……んっ」
 気がつくと、時斗は自室で眠っていた。見慣れた天井をぼんやりと見て、記憶を辿る。
 曖昧ではあるが、どうやら自力で病院から帰ってきたらしかった。両親は目の前で友人を失った息子のことを思ってか、あえて何も問いただすことなく一人にしてくれているようだった。
(玲人……)
 思い浮かべた人物の笑った顔が鮮明に瞼の裏に映し出される。
 『ずっと一緒に居たい』そう聞こえた言葉とは裏腹に、自殺を計った玲人のことを意図が掴めない。
 いったいどうして、何故、そんなことが頭を巡っていると、コンコンと部屋の扉が叩かれる音がした。
「時斗、目覚めたかしら?」
 心配そうに問いかけてくる母親の声に反応し、返事をする。
「……うん」
「その……玲人くんのお葬式なんだけど、行けそう?」
 葬式という言葉を聞いて、泣き出しそうになる両目を腕で覆い、ゆっくりと呼吸を整えてから言葉を吐く。
「大丈夫……行ってくるよ」
 そう返すと、母親は喪服を用意しておくと言って階段を下りて行った。
 どうやら、自分は長い間の記憶が曖昧になっているらしい。少なくとも、数日は上手く思い出せないほどに。
(玲人……どうして?)
 そう問いかけたくとも、玲人がもう居ないことを知らせるように、数日前に送ったくだらない内容のメッセージに既読が付いていないのを見て、時斗は静かに涙を流した。


 葬式会場にはクラスメイト達や教師達の姿が多々あった。皆、玲人の死因に驚いているばかりで心から悔やんでいる者は親族くらいのように見えた。
 出先に覚えたばかりの作法をなんとかこなし、棺を見つめる。
 玲人の死体は損傷が激しいという理由から棺の小窓は閉じられたままとなっていて、それのせいかまるで今この場に玲人が居ないかのようだった。
(そこにいるのに……)
 そう思いはするも、実際に玲人が居ないことに変わりはなく時斗はたまらない空虚感を抱いた。
 早急に頭を下げて次の人に移ろうとしたところで、漸く一人だけ涙を流している参列者を見つけた。意外にもそれは担任の杉田透だった。
 杉田は、玲人の親族に深々と頭を下げると一通りの礼儀作法を済ませて棺の前へと静かに立ち尽くした。
「どうして……と、聞くのは野暮なのだろうな」
 吐き出された言葉が震えているのが分かる。杉田は頬に涙を伝わせて、玲人の入った棺を見下ろしていた。教え子を自殺で亡くすのはきっと初めてだったのだろう。当たり前だと言えばそうなのだろうが。
「犬飼、お前は成績は申し分ないし、とても良い生徒だったな。だがな……」
 杉田の肩が大きく揺れた。次の瞬間、時斗だけでなくその場に居た参列者であるクラスメイト達も驚くほどの大粒の涙を流して玲人の死を悔やむ杉田の姿が見えた。
「このような最期を、私は認められないよ……っ」
 恐らく、相当に堪えていたのだろう涙は一気に溢れると杉田の顔をぐっしょりと濡らしてその場の誰もが言葉を失っていた。
(杉田先生……)
 そんな姿を見ていると、時斗はやるせない気持ちがどんどんと増幅されていき、なんとなくこれ以上はこの場に居てはいけないと思い、足早に葬式会場を出ていった。
 杉田につられて泣き出すクラスメイト達の波をかき分けて帰路につく。
 残酷なほど美しい夜空を見上げて、ぽつりと呟く。
「玲人……」
 その声は誰にも届くことなく消えていき、時斗は家に着くと、早々にベッドに身を預けた。そして、疲れた身体を沈めて泥のように眠りについた。


  ***


「――と、時斗っ!」
「……んっ」
 聞き馴染みのある声で目を覚ます。
 男にしては少しだけ高く美しい、クリスタルボイスだ。女子が聞いたらそれこそ大いに喜びそうな、そんな声。
「……誰?」
「酷いなぁ……もう忘れちゃったの?」
「……れいと?」
 茶化すような言葉に目を見開いて上体を起こす。
 二度と聞くことのない、聞けないと思っていた声がした先を見やると、そこには学生服姿でいつものように笑う玲人の姿があった。
「どう、して……」
「時斗を迎えに……ね」
「俺を? 迎え? いや、そんなことよりっ!」
 ポリポリと頬を掻く玲人を真っ直ぐに見つめて口を開く。
「どうしてっ、あんなこと……っ!」
「ああ……ビックリさせたよね? ごめんよ」
「ごめんで済むかっ! お前は……死んじゃったんだぞ……っ」
「うん。そうだね」
「そうだね、って……」
「時斗には難しいかもしれないけど、ああしないと俺の願いは叶わなかったんだ」
「願い?」
 そう問うと、玲人はコクリと頷いて見せた。
「俺の願いを叶えるには、身体が邪魔でね……死ぬしかなかったんだ」
「どういう……っていうか、お前本当に玲人なのか? 死んでるなら俺に見えるはずがない……」
 一瞬、都合のいい妄想かと疑い、そう問いかける。すると、玲人は困ったように笑って時斗を見つめて口を開いた。
「驚かせちゃうけど……仕方ないよね」
 そして、そう呟くと同時に目を伏せて自身の身体をなぞった。
「……っ⁉」
 玲人がそうすると、普通だった身体は一瞬で真っ二つに千切れて内臓を垂らしたものへと変わっていった。頭も脳みそがチラつくほど損傷していて、片目はない状態だった。
 血がポタポタと垂れ、強い鉄の臭いが部屋中に充満していく。
「うっ……」
 その光景に、時斗は反射的に口元を押さえると、こみ上げてくる熱をなんとか飲み込んで耐える。
「この通り。俺は電車にひかれて死んだ」
「……っ」
 見たくないのに、嫌でも見てしまう玲人の身体は時斗にとって酷以外の何ものでもない。
 今すぐ元に戻ってくれと願うと、玲人はそれを察したのかスッと先程のように身体をなぞって元の姿へと戻った。
「驚かせてごめんね。でも……これでやっと叶うんだ。俺の願いが」
 じっとりとした声色で言い、玲人はうっとりとした瞳で時斗を見つめた。
「死なないと叶わない願いって、なんなんだよっ!」
 怒りを混ぜ合わせた、自分でもよく分からない言葉を吐き、時斗はキツく玲人を睨む。
 すると、玲人は元に戻したばかりの身体で時斗を優しく抱きしめて、そっと耳元で囁いた。
「これで……ずっと時斗と一緒に居られる」
 それが己の願いなのだと言いたげに、玲人は囁いて時斗のぬくもりを感じる。
「意味……分かんねぇよっ」
「分からなくいいよ。ただの俺のエゴだから」
 玲人の本気の声にじんわりと汗が浮かび上がった。それが首筋を伝う前に舐め取られ、時斗はビクンと肩を揺らす。
「意地悪してごめんね。でも、これが俺の夢みたいなものだったから」
「お前……おかしいよ」
「うん。自覚してる」
 そう言った玲人の顔に文字が浮かび上がった。死人でも読めるのかと少しだけ驚いてから、それ読んでみるとそこには玲人の本音だけが羅列していた。
 【時斗と永遠を共にしたい】
 それだけ書かれた心を読み、時斗は観念するように玲人の身体をそっと抱き返す。
「お前って……いや、なんでもない」
「ふふっ、時斗は話が速くて助かるよ」
 呆れたような声で言う時斗の言葉を聞いて玲人はやんわりと笑うと、幸せそうに伝わってくるぬくもりを感じとっていた。
 その日を境に、玲人との非日常的な生活は始まるのだった。


   ***


 翌朝、時斗はいつもと変わらぬ様子で登校した。
 行きがけに、母親が今日くらいは休んだらどうかと聞いてきたが、大丈夫だと答えて普段通りの通学路へと足を進めた。
 確かに、恋人であり、良き友人であった玲人は死んだ。けれど、自分にだけ姿を見せたそれは今も時斗の隣に立って微笑ましくしているのだ。それを見たら寧ろ家の中に籠っている方が頭がおかしくなるような気がして、心配してくれることには感謝しつつ、いつも通りを装うことにしたのだった。
 学校に着いて、自分のクラスに入ると、中は少しだけ暗く静かに思えた。
 恐らく、玲人の自殺のせいだろう。
 しかし、皆自分なりに気を持ち直して他愛ない話をしては時折笑っている声が聞こえ、時斗はホッと胸を撫で下ろす。
「時斗、おはよう」
 席に着くと、真っ先に声をかけてきたのは幼馴染の高畑光だった。シャツの胸元を大きく開いて着崩し、好物の棒付きキャンディーを舐めながらやって来たその人物は、普段と変わらぬ素振りで挨拶をしてから少しだけ曇った表情をして話しかけてくる。
「その、さ……大丈夫?」
 聞かれて、時斗は一瞬だけポカンと口を開けた。なんのことだろうと思ったからだ。
 けれど、心配そうにこちらを見つめてくる光の丸い瞳を見て、それが何を指した言葉なのかを理解した。
「うん」
 玲人の死に対しての言葉だと思ったと同時にすぐに短い言葉が出てきた。
「そっか」
 それを聞くと、光も一安心したようでキャンディーを咥え込むと、すぐに笑って時斗の頭をくしゃくしゃと撫でた。
 そんな光に子供扱いをするなと言いたくなったが、光の顔を覆うように浮かび上がった文字を見て、そんな気持ちは薄れていった。
 光は本気で心配していたのだと分かり、なんだかとても申し訳ない気持ちになる。
(玲人は……)
 今も此処に居るのだ、と告げたら光はどんな反応をするだろうか。きっと、余計に心配をかけてしまう気がする。それに、玲人も光には存在を知られたくないのか、どこかムッとした表情をしていてとても言い出せるような雰囲気ではなかった。
「昨日、俺時斗のこと呼び止めたんだよ?」
「そうだったの? 気がつかなかった」
「すごく暗い顔してたから……心配でさ。今日も登校してこないんじゃないかって思ってった」
「ごめん、心配かけて」
「いや、全然。時斗が大丈夫なら、それでいいから」
「ありがとう、光」
 咥えていたキャンディーを取り出して、そう話してきた光に礼を言うと、光はわざと視線を逸らして言いづらそうに話を続けた。
「犬飼……なんで自殺なんかしたんだろうな……」
 そう零し、ハッと目を見開くと光は申し訳なさそうに時斗の顔の前でブンブンと掌を振る。
「ごめん! 無神経過ぎた……」
「大丈夫。気にしてないから」
「本当、ごめん……」
 光なりに玲人のことを考えて、時斗に気を遣っていたのだろうがポロっと出てしまう言葉には仕方がないと思った。
 現に、光以外にも玲人の自殺を不思議がっている者は多い。耳を澄ませれば、どこからかその話題が出ては小さく消えていっている。
 誰もが優等生の犬飼玲人の自殺を謎に思っているのだろう。この調子でいくと、その内根も葉もない噂となりそうだと時斗は思った。
 当事者である玲人はというと、時斗の隣でニコニコと笑みを浮かべていて、なんとも緊張感のない状況に時斗はふぅーと息を吐く。
「そういえばさ、駅前に新しいゲーセンできたの知ってる?」
「そうなの?」
「うん! かなりゲーム数多いらしいよ。今日の帰りにでも行ってみない?」
「いいよ」
 光の提案に二つ返事で返す。すると、隣からひやりとした何かが伝わってきた。
 思わずそちらを見やれば、今までニコニコと笑んでいた玲人が冷たい瞳で光を睨んでいるのが分かった。
 どうしたのかと聞こうとも思ったが、光の手前不審な行動もできないと思い、時斗はジッと玲人を見つめる。
 すると、玲人の顔を覆い隠すように文字が現れ、時斗はそれを目で追っていく。
 【許さない】とだけ書かれた文字を見て、ぞくりと肌が粟立つ。玲人は光に嫉妬しているのだ。玲人亡き今、光は時斗にとって唯一の理解者と言える。恐らく、それが癇に障ったのだろう。
「あー……やっぱり、今日はやめとこうかな」
「えっ? なんで?」
「いや、ちょっとやりたい事があってさ。早めに家帰りたいんだよね」
「やりたい事?」
「……うん」
 玲人から視線を逸らし、光にそう言うと時斗は煮え切らない思いで頷いた。それを見て、光はとても不思議そうにしていたが、すぐににっこりと笑って返事をした。
「分かった。じゃあ、また今度行こう」
 毒気のない笑顔で言い、光はそろそろ開始する授業のために自分の席へと向かった。
「玲人」
 光の背を目で追いながら、小声で玲人を呼ぶ。
「どうして、あんな態度取ったの」
 ぼそぼそと呟けば、玲人はさも当たり前といった様子で時斗の方へ笑みを浮かべた。
「だって、時斗はずっと俺と一緒なんだから……邪魔者はいらないだろう?」
「邪魔者って……光はただの幼馴染だよ?」
「だからこそだよ。近しい間柄だからこそ、油断できない」
「……」
 何が油断できないのか、時斗には皆目見当もつかないが、玲人にとっては重要な問題なのだろう。それほどに、玲人が時斗に向けた想いは強いようだった。
 そんな玲人に溜息を吐き、なるべく周りに不信感を与えない程度に玲人と会話をして一日を過ごす。


「ふぅ~」
 大きく伸びをして、昼を告げる鐘の音を聞く。漸く授業の半分が終わったことに喜びを得ながら、時斗は昼食用に持ってきたパンと飲料を持って屋上へと向かおうとした。
 そこに光がやって来て引き止めるように時斗の腕を掴む。
「昼飯、一緒に食べよう?」
 笑顔で言う光を見て、時斗は目を丸くした。
 光とは幼い頃からの仲ではあるが、昼食に誘われたのは小学校以来初めてだ。
 いつも玲人と一緒に居たせいか、遠慮して声をかけずにいたのだろうか、それは最中ではないが、光から誘ってくるというのは珍しく驚きに目をパチクリとさせてしまう。
「あっ、ダメだった?」
「いや、ダメじゃない……けど」
「なら、一緒に屋上いこ!」
 腕を引かれて、二人で屋上に向かう。
 光のこういった強引な面は昔から変わらない。けれど、そこにはいつも時斗への気遣いがあり、今回も玲人の居ない状況に気を遣っての行為であろうことが分かる。
 それがなんだか無性に嬉しく感じて、時斗は誘われるまま屋上へ向かうと、バン!と開けられた扉を抜けて晴天の広がる屋上で昼食を摂ることにした。
「時斗とご飯食べるの、久しぶりだね」
「そうだね。小っちゃい時はよく一緒に食べてたけど」
「そうそう、時斗いつも食べるの遅いから、遊ぶ時間なくなっちゃってベソかいてたよね」
「そうだったかなぁ」
「そうだよ。時斗、泣き虫だったもん」
「えー」
 そんな他愛ない話をしながら食事をする。数日前の鬱屈した感情がまるで溶けて消えていくかのように楽な気持ちになっていく。
 光は、いつだって時斗の世話を焼くのが好きだった。長男ということもあるのか、そういった扱いに慣れていて、一人っ子の時斗を丁度良く構うのが得意なようだった。
「覚えてる? 時斗、初めての席替えした時に犬飼の隣怖いよ~って言ってたの」
「あー、なんか言ってた気がする……」
「犬飼ってさ、優等生だけどなんか近寄りがたかったっていうか、人を寄せ付けないオーラ? みたいなのあったよね」
「そうだね……」
 言われてみれば、玲人は優等生として有名な反面、時斗以外と親密な会話をしている場面はそうなかったように思えた。それ故に、時斗は一時期クラスメイト達から変わり者として扱われていたくらいほど、玲人には親しい人間と呼べる者はいなかった。
「隣になってみたら、案外普通の奴だったから拍子抜けしたんだよね」
「そうなんだ? なんか、今さらだけどさ……俺ももっと犬飼と話したりしとけば良かったな」
「……」
 空を見上げて言った光はとても悲し気な表情をしていて、時斗は隣に居る玲人の存在が光にも共有できたら良いのに、と静かに思った。
 当の玲人は未だ気に入らないといった様子で光を睨んでいたが、本音を曝け出せるようになった今、再会することができたら何か変わっていたのではないだろうかと思う。
 しかし、それは時斗のエゴにすぎず、玲人が今自分の隣に居ることを明かすことはできなかった。
 そもそも、明かしたところで光が信じてくれるかは微妙なラインだ。
「時斗? どうしたの?」
「えっ……?」
「さっきから俺の顔ジッと見て。なんか付いてる?」
「あっ、いや……ごめん。なんでもない」
「そう? なら、そろそろ戻ろうか」
「うん」
 食べ終えたものたちを片付けて、光と一緒に教室へ戻る。
 道中、玲人は黙ったままひたすら光を睨んでいたがあえて見ないように時斗は視線を逸らして歩みを進めた。


 授業終わりの鐘が鳴る。今日は短縮授業のため、いつもより一時間だけ早く帰宅することができそうだった。
「とーきと」
 教材を鞄に詰めていると、不意に背後から目を覆われて話しかけられる。
「どうしたの? 光」
「あっ、バレた」
 声でバレバレだというのに、光は楽し気に言うと笑って手を離すと時斗を覗き込むように話を始める。
「ねぇねぇ、駅ビルに美味いバーガー屋ができたんだって! 知ってた?」
「知らない。っていうか、今日は用事あるからって言ったよね?」
 ゲームセンタ―に誘ってくれた際に断ったのを思い出して、悪いと思いながらも冷たく言い放つ。
「うん。だからさ、明日行かない?」
「明日?」
 そう聞き返してから玲人を見やる。すると、どういうわけか玲人はニコニコと笑っているだけで、これといって怒っている様子はなかった。
 それを見て安堵すると、時斗はフッと笑って光に返事をする。
「明日ならいいよ。ついでに洋服とかも見に行きたいし」
「んじゃ、決定ね! 俺、あのデッカイバーガー食べちゃお~」
「無理しない程度にね」
「大丈夫。俺の胃袋は底なしだから!」
 そう意気込む光に手を振って、席を立つ。
「それじゃあ、また明日ね」
「うん! またね~」
 元気な声を聞いて、帰路を歩く。周りに人気がないのを確認して、ぼそりと玲人に話しかける。
「玲人……怒ってたの?」
 光に今日ゲームセンターに誘われた時のことを問いかけると、玲人は少しだけ悩んだ末に口を開いた。
「怒ってなどいないよ。ただ……高畑にムカついただけ」
「それを怒ってるって言うんじゃないの」
「べつに、時斗に怒ってるわけじゃないからなぁ」
「光にだって怒らないでほしいよ。アイツは俺のこと気にかけてくれてるんだから」
「……時斗は高畑がそんなに好きなの?」
「はぁ?」
 突然の問いかけに時斗から間の抜けた声が漏れた。何故、そんな話になるのか。
 不思議に思って頭を傾けると、玲人は冷ややかに時斗を見下ろして再度口を開いた。
「ねぇ、答えて……時斗は高畑が好きなの?」
「好きは……好きだけど。でも、この好きは友達としての好きであって……玲人と同じものじゃないよ」
「本当に?」
「嘘吐いてどうなるんだよ」
「だって、時斗はいつも隠すから。俺がどれだけ時斗を想っていても、時斗は自分から俺を好きだなんて言わなかったし」
「それは……俺にだって恥ずかしいって気持ちがあるんだよ」
「俺のこと、好きなのが恥ずかしかったの?」
「いや、そうじゃなくて。言うのがって……なんでそんなややこしくすんの?」
「不安なんだ……時斗が他所を向くのが」
 目を伏せて、そう言った玲人を見て時斗は心底自分は愛されていたのだと実感した。
 けれど、それと光に抱く感情を結びつけるのは違う。
 玲人はただ、嫉妬をしている。それだけだ。だからこそ誤解を解きたいが、これ以上光の話を出すのは悪手だと思い、時斗はそれから話すのを止めた。
 すると、玲人も時斗の気持ちが理解できたのか、それ以上は何も口出しすることなく二人は何事もないまま家へ戻った。
 それからは少しだけ長くなった自分の時間を堪能し、時斗は夕飯と風呂を済ませると自室で本を読んで就寝までの時間を潰していた。
「ねぇ、時斗」
 そんなことをしていると、玲人が読んでいた本を捲る手を遮るように覗き込んで話しかけてくる。
「なに? 今いいところなんだけど」
「たくさん考えたんだだけれど……やっぱり、こんな世界に居るのがいけないと思うんだ」
「……なんの話?」
 あまりにも突拍子のない話をされて、一拍置いてから問いかける。
「こんな世界がダメって話」
「だから、それが意味分かんないんだってば」
「この世界には邪魔が多すぎる。だから……ね?」
 玲人が真っ直ぐに時斗の瞳を捕らえて言う。
「いい所へ行こう? 時斗」
「いい所? 急になに言って……」
 そう返した時、目の前を真白い光が包み、時斗は一瞬だけ目を閉じた。
 そして、再び開くと淡い光の中でこちらに手を伸ばす玲人の姿が見えた。
「行こう……大丈夫、きっと気に入るよ」
 甘い声で誘う玲人に、時斗は固まった身体から無意識に手を伸ばしてそれを掴んでいた。
 しかし、握った手は冷たく、一気に不安な気持ちが押し寄せてくる。それと同時に、助けを求めるかのように頭の中である人物を思い浮かべた。
「あっ……今、余計なこと考えたでしょ。まあ……いいけど」
 玲人がまるでこちらの心を読んだかのように呟く。けれど、多少の面倒臭さといった様子で終わり、握った時斗の手に力を込めて足早に光の中を歩いた。
「どこ、行くの……?」
「とっても素敵なところだよ」
 そう言って、手を引かれるまま時斗は夢遊病者のようにその中を歩くのだった。


   ***


 真白い光が薄れていく。閉じた目を開けると、そこは見慣れた学校の中だった。
少しだけ劣化した壁や古く傷や汚れの付いた床はどこの学校とも同じように思ったが、時斗のクラスである2-A組の扉の前へ立つとすぐにそこが自分の通う学校であると理解する。
「……学校? なんで、学校になんて……」
「連れて来たかったんだ。俺達だけの楽園に」
「……?」
 玲人の言葉の意味が理解できずに悩む。学校の何処が二人の楽園であると言えるのか。時斗はまるで分からないといった顔をして玲人を見た。すると、玲人がゆっくりと口を開く。
「正確に言うと、此処は天国と地獄の間みたいな所でね」
「……はっ?」
 思わず声が出る。いったい何を言っているのか。頭の良い玲人が言いそうにない言葉を聞き、頭を捻る。
「時斗はまだ死んでいないから、どっちにも連れていけないんだ。だからせめて、間の世界だけでもと思ってね」
「意味、分かんねぇよ……」
「分かりやすく言ったつもりだけど……そうだね、此処は簡単に言うと現実世界から遮断されている。だから、此処に居る間は俺達の自由に、なんでもできるってことさ」
「現実世界から遮断って……それってつまり、俺は死んだってこと?」
「それは違うよ。時斗の肉体はちゃんと家に置いてきてある。此処に居る時斗はいわば魂と言えるね」
「……っ!」
 玲人の言葉を聞いてゾワリと背中が粟立つ。
 魂だけ連れ去られたという事実が恐怖となって身体から体温を奪っていく。
「い、やだ……帰りたい! 今すぐ帰してくれよっ!」
「それはできないよ」
 恐怖に身体を震わせて叫べば、玲人はぴしゃりとそう言って、時斗を後ろから強く抱きしめた。
「此処へ来たら、あることをしないと帰れないんだ」
「ある、ことって……?」
「さあ? なんだろうね?」
 どろりと濁った瞳を細めて笑う玲人の声が耳に届くと同時に首筋に冷たい汗が伝う。
 逃げなくては。そう思うのに、上手く動いてくれない身体は玲人の腕の中でカタカタと揺れるだけだった。
 死後の世界、とでも言うのだろうか。死んでいないにも関わらず連れて来られたことへの恐怖。元の世界に帰る方法が分からない焦り。加えて、優しくも冷たい玲人の存在が時斗の不安を仰いで涙をこみ上げさせた。
「泣かないで、時斗。俺はずっと一緒にいるから……一人になんかしないから」
「うぅっ……」
 甘く優しい声が耳元でそう囁いた。
 助けてと懇願しても誰も居ないこの場所で何ができるのだろうか。もし、ずっとここのままだったら自分はどうなってしまうのか。そんなことを考えていると、不意に玲人が耳元で囁いてくる。
「想定外だったな……」
「……えっ?」
「時斗が余計なことを考えたから、余分な者まで連れて来てしまったみたいだ」
「なんのこ――」
 問いかけようとした時だった。
 バシン!と大きな音が廊下に響き、玲人の腕が何かに弾かれる。
「時斗から離れろよ」
 普段と比べると少しだけ低い、聞き知った声が耳に届く。
「……」
 振り返って、玲人の冷たい瞳の先を辿ると、そこにはギラギラと鋭く瞳を輝かせる光の姿があった。
「みつ、る? どうして……」
 絞り出した声で問うと、玲人の腕を強引に引き剝がした光の後ろから駆け寄って来る杉田と目が合った。
「杉田先生も……なんで?」
 状況が上手く把握できずに悩む時斗を尻目に、光は玲人を睨みつけて大きくを口を開ける。
「死んでからも時斗に執着してるのかよっ!」
「そうだよ。いけないことかな?」
 さも当然ことのように返して、玲人は光を睨み返す。
「そもそも、俺はずっと時斗と一緒に居るために死んだんだ。だったら、この状況は必然と言えるよね?」
「……お前、どうかしてるよっ」
「そんなこと、高畑に言われる筋合いはないよ。はぁ……こうなるって分かっていたら、時斗が寝ている間に連れて来るべきだったな」
 残念そうに言い玲人は深く溜息を吐く。
「時斗が俺以外を思い浮かべたりするから……本当は要らないのに、連れて来てしまったんだよ?」
 時斗の方を向き、溜息混じりに言うと玲人は時斗を視線で追い詰めて謝罪を訴えかけてきた。
 確かに、玲人に腕を引かれた際に、助けを懇願してしまった。けれど、具体的に光や杉田を思い浮かべたわけではない。
「お、俺は……」
「いいよ、謝らなくても。でも、面倒事ではあるからちゃんと責任は取ってね」
 自ら望んだことではないというのに、何をどう責任を取れと言うのか。ただ怯えた瞳で見上げてくる時斗に、玲人は再度溜息を吐くと、光と杉田の方を見つめた。
「あなた達も……此処に来てしまった以上は簡単には帰れない。せいぜい、頑張ってください」
 突き放すように言い、玲人は時斗に向き直りニコッと笑って見せる。
「時斗……ゆっくりでいいから、ちゃんと考えてね。逃げちゃダメだよ?」
 それだけ言うと、玲人は口を閉じて三人に自由に話し合えといった様子で一歩後ろへと下がっていった。


「光! それに先生も……どうやって此処に?」
「それがさ、家に居たら急に白い光に飲み込まれて……気づいたら、先生と二人で職員室に居たんだ」
 困った顔で話す光を見つめて、時斗はやはりといった表情を浮かべた。
 先程、玲人が言っていた言葉から察するに、時斗が心の中で助けを求めてしまった際、無意識に二人の姿を思い浮かべてしまったのだろう。それで、関係のない二人までこの場へと誘い込んでしまったのだ。
「……ごめん、俺のせいで」
「時斗のせいなんかじゃないよ! ただ……どうやって帰るか、だよね……」
「それについてなんだが」
 光が必死に時斗を気遣っていると、杉田が話に割って入るように気だるげな声を放つ。
「さっき、犬飼は此処に来たら簡単には帰れないと言っていただろう? だから、何かしらの行動をするしかないと思うんだが……」
「何かしらって、何すればいいのさ?」
「それはまだ、分からない」
 光の問いに、目を伏せて答える杉田。彼自身も今の状況に順応しているわけではない。分からないというのも当然のことだと時斗は思った。
「とにかく、脱出経路を探してみよう。何か見つかれば此処から帰る術も分かるかもしれない」
 気だるげに、けれど真剣に言うと杉田はチラッと玲人に視線を向けた。
 切れ長の目がニコニコと笑う玲人の姿を突き刺すように真っすぐな眼光を向ける。こんな杉田の表情は時斗も光も初めて見るものだった。
 それ故に、現状が如何に危ういかを知らせてくる。
「先生の言う通りさ、ちょっと何か探してみようよ! ね? 時斗」
「う、うん……」
 必死で明るい表情を浮かべる光に申し訳なさを感じながら時斗はそう言って頷いた。
 じっとしていても何も始まらない。ならば、ダメ元でも行動をした方が幾分かマシだ。
 そう思って、一先ずは自分達の教室に入ろうとした時だった。
 ドンドン!と、何かがぶつかり合うような音が響き渡る。
「な、なに?」
 それは一か所からではなく、上下左右至る所から響いており三人の恐怖心を一気に煽っていく。
「なんか分かんないけど! とりあえず教室に入ろう!」
 慌てて時斗の手を握り、光が教室の扉を開いた。それに続くように杉田と玲人も教室に入っていき、急いで扉を閉める。
「なんだったんだろう……今の」
 そう光が呟けば、先程まで響いていた音は止み、再び痛いほどの静寂が四人を包み込んだ。
「止んだようだな」
 杉田が呟くと、時斗と光はホッと胸を撫で下ろして溜まった息を吐き出す。
 こういった時、一人冷静な者が居ると安心するなと二人は思った。杉田はいつもやる気のない人間だが、それと同時に冷静な一面もある。そうした大人が一人居てくれるだけでも安心度は上がっていく。
「先生、ホラーとか平気なタイプでしょ」
 光が呆れたように問いかけると、杉田は少しだけ唇に弧を描いて頷いた。
 それを見て、光が深く溜息を吐くと今度はバンバン!という音が鳴り始め、時斗と光の背をビクンと跳ねさせた。
「今度はなにさっ!」
 驚いた拍子に光が口走ると、教室の扉のガラスでできた部分に真っ赤な手形が大量に付いていくのが見えた。大中小、様々な大きさの手が血に染まったのを見せつけるようにバンバンとガラス面を叩く。
「……ヒッ!」
 思わず身体を震わせて光の腕を強く握ると、それをただ見ていた玲人が冷たい声で語りだした。
「言い忘れていたけど、此処の住人は皆悪戯好きでね。こうやって君達を驚かせてくるだろうから……まあ、気をつけてね」
 それだけ言うと、玲人は再び黙り込んで三人を観察し始める。まるで、小さな子供が蟻の巣でも見つめるような、ああ大変そうだなといった他人事を含んだ瞳に時斗は嫌な汗をかいて玲人から目を逸らした。
 不可解な音に、血濡れの手形を見たことで、改めてこの場が異世界であることを痛感すると、三人は悩ましい表情を浮かべて互いの考えを聞き出そうと視線を揺らす。
「……此処に留まっていても仕方がない。とにかく、何か探しに行ってみよう」
 最初に声を発した杉田に、時斗と光は一瞬だけ見つめ合ってコクリと頷く。
「あっ、でもさ……移動しても大丈夫なのかな? またさっきみたいのが起こるんじゃ……」
「かもしれないが、動かないかぎりは何も得られない。慎重に進んでいくしかないだろう」
「そっか……うん。そうだね」
 杉田の言葉に、光は無理矢理自身を納得させるように言うと、握っていた時斗の手にぎゅっと力を込める。
 痛い、と言いそうになるのを堪えて時斗も教室を出る覚悟をすると、そんな三人を煽るように玲人が口を挟んだ。
「どうなっても知らないよ。俺は時斗しか守る気はないから」
 放たれた言葉をわざと無視して歩みを進める杉田についていくと、背後から玲人の深い溜息が聞こえてきた。
「……まあ、ご自由にどうぞ」
 いかにも面倒臭いと言いたげに呟き、玲人はスッと姿を眩ませる。
(玲人……)
 時斗が心の中で名前を呼ぶ。どうしてこんなことをしたのか、何故ここまでするのか。問いただしたいことはあれど、肝心の玲人が聞く耳を持たなければ意味がない。
 今は、とりあえず此処から出ることだけを考えようと時斗は傷む胸に左手をあてて教室を出た。


   ***


 光が時斗と出会ったのは、まだ二人が小学生の頃だった。本好きで、どちらかと言えば物静かな生徒であった時斗に、光が話しかけたのが始まりだ。
「えーっと……そうだ! 猫田! 猫田も一緒に遊ぼうよ!」
 そう言って、サッカーボールを握ったままニッコリと笑った光をジッと見つめ、静かに頷いた時斗は慣れないサッカーをして泥んこまみれなって遊んだのを初めてだと話した時にひどく驚いていた光を時斗は今も鮮明に覚えていた。
「――と、時斗!」
「……あっ! ごめん、なに?」
 ぼんやりと過去のことを考えていた時斗に、光が大きな声で名前を呼んだ。正確には、次第に大きくなっていった、という感じだ。
「聞いてた?」
「……ごめん、聞いてなかった……」
「もうっ! 時斗はどうして此処に来たの? って」
「あ、ああ……えっと」
 暫く黙り込んで、光や杉田にどう話すべきかを考える時斗の素振りを見ながら、その口が開かれるのを光は静かに待った。
「俺にも……よく分からないんだけど……玲人が、一緒にいい所に行こうって言ってきて」
 そこまで話されると、光は不思議そうに頭を傾けた。それを見た時斗がしまった、という顔をする。
「……時斗には、犬飼が見えてたっていうの?」
「……っ」
 問いかけられた時斗の肩がビクンと跳ねる。すると、光はそれが真実なのだろうと嫌な表情を浮かべながらギュッと唇を噛みしめた。
「うん……お葬式の後から、俺にだけ見えてるんだ……」
「そう、なんだね……」
 時斗から直接言われ、光はさらに強く唇を噛んだ。
 犬飼玲人と猫田時斗の仲の良さはクラス中が知っていることだった。正反対に見えて、性格が合うらしく一緒に居ることが多かったことからクラス中が謎に思いながらも、その仲の良さは皆が認めていた。けれど、まさか死亡後ですら一緒に居たとは信じがたかった。いや、信じろという方が無理な話だ。
 それでも、時斗を疑いたくないという気持ちから、光は信じることを決めるとスゥー……と息を吸い込んでドクドクと鳴り響く胸をしずませる。
「犬飼は、その……時斗の前に現れた時、なんか言ってた?」
 問いかけると、時斗は光の顔をキョロキョロと視線を動かしながら見つめて口を開いた。
「ずっと……一緒に居るためだった、って」
「だった?」
「……自殺した理由」
「えっ……」
 言われると、光は全身に冷や汗をかいてゴクリと唾を飲み込んだ。
 犬飼玲人の執着の強さを知り、改めてその恐怖を味わう。
 最愛の相手であったのだろう時斗をそこまでして縛るとは、例え自分が同じ立場であってもそこまでは考え至らないと思った。
 それでも、それは事実であり変えようのない真実である。
 光はゾワリと背を駆け抜ける寒さに鳥肌を立たせて目を伏せる時斗に話しかけた。
「つまり、最初から犬飼は時斗を此処に連れてくる気だったってわけだ」
「そう……なのかな」
 時斗の困った声が静かな廊下に響き、消えていく。暫く互いに見つめ合っていると、先頭を歩いていた杉田が二人に声をかけた。
「断定するのはまだ早い。とにかく今は手がかりを探すことが最優先だ」
 もっともらしい言葉を吐いて、杉田はちらりと二人の手元を見た。
 固く握られた手は、どちらも当たり前だと言いたげに繋がれて、離れるという選択肢を持っていないように思える。
 けれど、急にこのような場に連れて来られて不安がないわけがなく、その結果にすぎないのだろうと思うと杉田はそれ以上二人を見つめることはしなかった。
「そうだよね! うん、とりあえず何か探してみないと分かんないし」
 杉田に促され、いつものような陽気さで言うと、光は握っていた時斗の手のごと己の手を上げてニッコリと笑う。
「あっ……ごめん! ずっと握ったままだった!」
 そして、漸く気がついたのか握りしめていた手を離すと、照れくさそうにポリポリと頬を掻いた。
「べつに、大丈夫だよ」
「あははっ……俺、あの時不安でいっぱいだったからさ、つい忘れちゃってたんだよね。ごめん、時斗」
 恥ずかしそうに笑う光に、時斗は首を左右へ振る。
「俺のこと、気遣ってくれてたんでしょ。だったら平気だよ」
「それは……まあ、そうなんだけど」
 どこか後ろめたさを感じる表情で言い、光はわざと時斗に背を向けると元気に歩みを進めていった。
 すると、先程教室の前で聞こえた音に似たラップ音が鳴り響く。
「……ヒッ!」
 その音に、時斗が思わず声を上げると光は庇うように急いで時斗を抱きしめる。
「大丈夫! 大丈夫だよ……」
 怯える時斗に優しく言い聞かせ、自らも高鳴る鼓動を鎮めていく。
「はっ、はぁっ……はぁっ……」
 徐々に過呼吸気味になっていく時斗の頭を撫で、必死に不安を取り除こうと奮闘していると、杉田が二人に声をかけた。
「此処が死後の世界だというのなら、ラップ音程度ですんでいるのは寧ろ安心じゃないか?」
「それはそうだけど……先生、デリカシーないよね」
「……?」
 光の発言に頭を傾ける杉田を見て、光は飽きれたように溜息を吐いた。
 確かに、此処が死後の世界ならばそれくらいは普通なのかもしれないが、それにしても一人怯えている生徒がいる中で言うべきことではないだろうと思う。
 けれど、これが杉田なりの気の使い方なのだろうと思うと文句を言う気にはなれなかった。
 暫くしてラップ音は徐々に弱まっていき、再び冷たい静寂が訪れる。
「時斗、平気?」
 腕の中で震えていた時斗に語りかけると、その身体はまだ若干カタカタと揺れていたが幾分かはマシになったようで、呼吸も安定したものへと変わっていた。
 それに一安心して、光は時斗を解放する。
「ごめん、心配かけて……」
「なんで謝るの? 怖いのは仕方ないじゃん」
「……」
 光の言葉に申し訳なさを感じながらも、確かにこればかりは慣れるまで仕方がないことなのだろうと時斗は思うと静かに頷いて光を見つめた。
 昔から世話焼きの一面を持つ彼が、この状況で自分を気遣わないわけがなく、つい甘えてしまう。良くないとは思うが、今は慣れるまでその心に甘えさせてもらおうと決めて時斗も一歩を踏み出す。
 暫く歩いていると普段はあまり訪れることのない音楽室へとたどり着いた。
「何かあるようには思えないが……まあ、入ってみるか」
 杉田がそう言って、建付けの悪い扉を開く。
 普段からあまり使われていないせいなのか、はたまた此処がそうなのか、独特の埃臭さがツンと鼻を突いてくる。
 杉田に続いて時斗と光も入室しようとすると、少し足を踏み入れたところで杉田の足が止まった。
「わっ! ちょっ、先生……急に止まんないでよ」
「すまん。ただ……」
 言いかけながら杉田が足元へと視線をずらす。
 すると、そこには大量の古新聞と不特定多数の写真が散らばっていた。
「なにこれ……」
 呟くと、杉田が一枚の古新聞を拾い上げて目を通す。
「比較的新しいものだな。事故についてが書かれている」
「事故? どんな?」
 光が問いかけると、杉田は少し待てと光の顔を掌で押し返して新聞の内容を読んだ。
「〇月×日、××線で人身事故発生。三十代男性の飛び込み自殺であると判明。〇月×日、××線で人身事故発生。十代女子の飛び込み自殺と判明……どれもこれも、電車での死亡事故に関する内容だな」
「それも、全部自殺って感じ?」
「ああ」
「……」
 電車での自殺と聞き、時斗の表情が一気に曇り、青ざめていく。それを見た光はすかさず時斗の背中を撫でて荒くなる呼吸を整えてやった。
「ん? これは……」
「どうしたの? 先生」
「いや、これなんだが……」
 そう言って、杉田が拾い上げた写真を光が覗き込む。そこには可愛らしい少女の姿が写っており、年齢が自分とそう変わらないであろうことが分かる。
 その写真を杉田は新聞と照らし合わせると、嫌そうに目をヒクつかせた。
「やっぱりな……」
「えっ? なに?」
「この新聞に載っている自殺者の顔……恐らく全て、此処にある写真と一致する」
「えっ……それって……」
「つまり、此処は特定の条件で自殺した者達が集められる場なんだろう」
 光の目が大きく見開かれる。この大量の写真分の人間が電車に飛び込み自殺したのかと思うとくらりと眩暈がした。
 それに加えて、この場居る自分達以外が何故悪戯だけをして姿を見せないのかが分かってしまい若干の吐き気をもよおす。
 皆、姿を現さないのではない。人間の姿を残している者がいないのだ。
「うっ……」
 思わず口を掌で押さえると、光は逆流してくる熱を必死で抑えて息を整える。
「無駄な探索は終わったかな?」
 すると、どこからともなく玲人の声が聞こえてきた。
 どうやら、再び姿を現したらしい。静かな足取りでこちらへ近づき、ニコニコと笑みを浮かべている。
「終わったのなら、時斗を返してくれ」
 冷たく言い放ち、時斗の手を取ろうとした玲人から時斗を守るように、光は間に入り込むとそっと時斗の手を握った。
「高畑……いい加減にしてくれないか」
「犬飼こそ……いい加減にしろよ」
 バチバチと火花を散らせて見つめ合い、二つは尖った言葉を言い合う。
「時斗と俺の仲を邪魔しないでくれ」
「それは時斗が望んでること?」
「お前には関係ない」
「そうだね。でも、俺だって時斗が大切だ。言う権利はあるよ」
「そんなものないよ、お前には」
「死ぬことで時斗を縛り付けてるお前の方がないよ」
 埒の開かない会話をしていると、玲人が深く溜息を吐いて時斗の方を見つめた。
「時斗。時斗は俺を選ぶよね?」
「……っ!」
 そんな問いかけに、時斗の背がビクンと揺れる。
「だって、俺はここまでしたんだから。何もしていない高畑や杉田先生とは違うだろう?」
「それは……っ」
「ねぇ、時斗……」
 呟いて、玲人は本来の姿を三人に見せつけた。上半身と下半身が真っ二つに切り裂かれ、傷ついた内臓が露になっている。女子生徒から黄色い声を受けていた造形の良い顔も半分無くなった状態で、はみ出た脳みそが今にも飛び散りそうだった。
「俺は、こんなになっても良いくらい、お前を愛してるんだよ? どうして、早く俺を選ばないの?」
「うぅ……っ」
 改めて、変わり果てた玲人の姿を見せられ黙り込む時斗を横目で見ながら、光は込み上げる吐き気を堪えて玲人を見る。
 グロテスクな姿を晒してまで時斗を振り向かせたいと願う彼の執念は驚きを通り越していて、もはや異常だ。
 そんな異端者に光は負けじと口を開いて玲人に言葉を投げかけた。
「死んで時斗に憑りつこうとでも思ったのかよ……そんなことして本当に時斗が喜ぶと思ったのか⁉」
「……お前になにが分かる」
 甘い声が一瞬で下がり、冷ややかな声と共に玲人の姿が元の美しい人間の形に戻る。
「俺は選ばれたんだよ、神様ってやつにね。だから他の者達と違ってこうして元の姿にも戻れるし、現世にも行ける。けれど……」
 冷たい瞳が時斗と光を見下ろす。合わせれば、それこそ石にでもされそうな、そんな恐ろしい視線が降り注ぐ。
「特定の相手……それも生きた人間と永遠を共にするには肉体が邪魔をしてしまう。だからこうやって、無理矢理にでも時斗を此処に連れてくる必要があったんだ」
「で、でも! それはお前の勝手な考えだろっ! 時斗はそんなの望んでない‼」
「時斗がそう言ったの? いつ?」
「……っ!」
 問われて、光はバッと時斗の方を振り返った。時斗はカタカタと身を揺らしながら唇を噛んでいる。それだけで、時斗が望んで起きた現象ではないと理解できた。
「こんなに怯えてる……時斗だって、お前のしてることは異常だって思ってるんだよ」
「そうなの? 時斗?」
 光に促され、怯える時斗に問いかけると時斗は震える声で玲人に返事をした。
「怖くない、わけじゃない……」
「どうして?」
「だって、いきなり玲人が目の前で死んで……俺、なにがなんだか分からなくなって……っ」
 玲人の葬式後、霊となって現れた玲人を見て喜びを得たのは本当だった。だが、玲人のしようとしていることが未だ理解できない状態では、時斗も恐怖するしかなく混乱する思考を必死で回転させて言葉を続ける。
「ずっと一緒に居たいって言われたって、こんな、よく分からない場所に連れて来られて……嬉しいわけがないよっ」
「……」
 時斗の本音を聞き、玲人は黙り込むとちらりと光の方を見た。どうせお前が余計なことでも吹き込んだのだろうと、言いたげな表情で見つめて心底落胆したといった様子で溜息を吐く。
「どうして? 俺とずっと一緒に居られるのに……どうして、そんな嫌そうなの?」
「だから……っ」
「此処がよく分からない場所だからなに? 俺と時斗が永遠を過ごすのに、そんなに重要なこと?」
「……いい加減にしろよな!」
 時斗が言葉を放つより先に声を上げたのは光だった。
 わなわなと肩を揺らして、玲人と時斗の間に入って叫ぶように言う。
「お前の我儘に時斗を巻き込むなっ‼」
「……っ」
 叫び声に近い発言に玲人が思わず口を閉じた。少しだけビクりと肩を揺らして、驚いた顔で光を見ている。
「犬飼が何を考えてるかなんてどうだっていい……これ以上、時斗を巻き込むなっ!」
「巻き込む? 俺が? ……あははっ!」
 乾いた笑い声が静かな室内に響き渡る。玲人はふらりと身をしならせて前髪をかき上げると、笑いながら光を見下すように視線を向けた。
「時斗は俺のものなんだから連れて行くのは当然のことだろう? 巻き込む、だなんて言いがかりはやめてくれよ」
「……はっ?」
 玲人の台詞に光から極めて低い声が出る。
 それは怒りに満ちていて、普段の明るく温厚な光からは想像もつかないほど恐ろしいものだった。
「……ざけんなっ! 時斗は誰のものでもない!」
「違うよ。時斗は俺のものだ」
「頭イカれてんのかよ……っ」
「高畑こそ、どの面下げて時斗と一緒に居るんだい? ……置いていったくせに」
「なっ……!」
 玲人の言葉に、光は小さく声を上げてから黙り込む。
 置いていった、というのを聞いて思わず後ろに居る時斗をチラりと見てしまう。
「知っているよ。二人が幼馴染だってことは。でも、高畑は一度時斗を置いて遠くに行ってしまったんだろう?」
「それは……」
 玲人の言う通り、確かに光は過去両親の仕事の関係で転校を経験していた。
 場所は海外で、連絡は取り合ってはいたがそれもあまり頻繁なものではなかった。しかもその間、時斗はほとんどを一人で過ごしていたことも知っていた。
「時斗を置いて、平気で離れたくせに……運よく戻って来られたら真っ先に騎士気取りかい?」
「ちがっ……そんなんじゃ……っ」
 否定しようとした光だったが、上手く言葉が見つからず俯くしかなかった。そんな光を相変わらずの冷たい目で見下ろして、玲人は冷ややかな言葉を落とす。
「一人きりを強いられた時斗を見つけたのは俺だ。俺が見つけて、ずっと側に居た……お前と違って、ずっと」
「……っ! そう、だとしても! 時斗をもの扱いするのは許せないっ!」
「お前の許しなんて求めてないよ。俺は時斗さえ居てくれたらそれでいい……ねぇ、時斗? 時斗はどちらと居たいの?」
 黙っていないで答えろと言いたげに、玲人は時斗の方へ視線を向けるとそう問いかけた。
「俺は……」
 光に向けていたような冷たい瞳とは違い、優しく穏やかな瞳に一瞬だけ心臓が高鳴った。けれど、時斗はわざと目線をズラすと首を横に振った。
「俺は、一緒に居たいからって簡単に死を選ぶような奴とは居たくない……」
「……えっ?」
 玲人が目を丸くして声を吐き出す。
 想定していた答えとは真逆の言葉に上手く反応できないといった、そんな様子だ。
「どうしてっ‼」
「……っ⁉」
 急に上がった怒声に時斗の身体が大きく揺れる。
「時斗は俺とずっと一緒に居るんだっ! 永遠を生きるんだっ!」
 今にも時斗に掴みかかりそうになった玲人を杉田が阻止するように腕を掴んで止めに入る。
「そこまでだ」
「離せっ!」
「離さない。犬飼、少し落ち着け」
「うるさいっ! お前らは邪魔なんだ! ああ、どうしてこんな余分なのまで連れて来てしまったんだ……クソッ!」
 荒れ狂う玲人の腕に力を込めて、杉田はなんとか時斗から離すと玲人をジッと見つめて一方的に会話を始めた。
「犬飼、俺はお前にまた会えて嬉しかった。けれど教師として、認められないことは認められない」
「お前の許可なんか要らないだろうっ! 離せよ!」
「それはできない。犬飼、もう一度言うぞ……少し、落ち着くんだ」
「……っ!」
 フーフーと荒っぽい息を吐く玲人に冷静に語りかけ、杉田は強い力で腕を握った。
 そうすると、徐々に玲人の肩の動きが弱まっていき、時斗や光から見ても玲人が落ち着いていっているのが見て取れた。
「これは、あくまでも俺の推測にすぎないが……此処には未練を残した者しか存在できないのではないかと思う」
 チラりと散らばった古新聞を見て、杉田は呟くと言葉を続けた。
「自殺というのは最も未練が残る死に方だと俺は思っている。だから、皆……此処では悪戯をして少しでもその未練を発散しているのではないだろうか」
「だから? なんなんですか? 俺にも、そんな未練があるとでも?」
「そうだ。お前がやたらと此処に留まりたがるのには何か理由があるのだろう? わざわざ猫田まで連れて留まりたい理由が……」
「……」
 杉田がそう語ると、玲人はすっかり落ち着いた様子で杉田の切れ長な目を見つめた。
「俺に未練があるとしたら、それは時斗だ。だとしたら……此処を出るのは不可能ということじゃないですか?」
「それはまだ、探ってみなくては分からない」
「分かりますよ。俺は、時斗以外に興味はない……アンタ達なんかどうなったって構わない」
「……だとしても、だ。俺達は此処を出る方法を探る……猫田も共にだ」
「……」
 杉田の言葉に、玲人は唇を噛みしめる。一度、時斗からも否定されている以上なにも言えず、玲人はキツく杉田を睨んだ。
「……勝手にしてください」
 そしてそう言うと、玲人は三人に背を向けようとした、時だった。
「ちょっと待てよ」
 光が声をかけた。否、かけたというよりは怒声に近いものだ。
「時斗が未練だって言ったよな? だったら……時斗との縁が切れれば、関係ないってことだ」
 低い声で言い、光は時斗の方を向き直して唇を自分のもので塞いだ。
「……んんっ⁉」
 急な行為に、時斗が目を丸くして驚くと、光は深く交わっていた唇を離していった。名残惜しむような銀色の糸が伝い、互いの口端に付着する。
 そんな光景を見て、玲人が黙っているわけがなく、光が視線を向けるよりも先に鋭い拳が光の頬を変形させるほどの勢いで殴りかかっていた。
「フーフー……っ」
 一目見ただけでも分かるほど興奮し、荒く息を吐く玲人の前に殴られた衝撃でその場に倒れ込んだ光の姿が時斗の目に映る。思わず駆け寄り、玲人を睨み上げると玲人は今まで見たことのない嫉妬に染まった瞳で光を睨んでいるようだった。
「ふざけるな……ふざけるなっ! よくも……っ!」
「っ……」
 光の胸倉を掴み、今にも次なる拳で殴りかかろうとする玲人を杉田が止めに入る。
「犬飼っ‼」
「離せっ! コイツだけは許さない……絶対にだっ!」
「ゲホッ……ぺっ! べつに、許してなんかくれなくていいよ」
 光が血の混じった唾を吐き捨てて言う。頬は僅かに腫れていて、少し喋りづらそうに見えた。
「俺、黙っておこうと思ってたけど……ずっと時斗のこと、好きだったんだよね」
「えっ……?」
 光の言葉に、時斗は再び目を大きく開くとチラりと玲人の方を見た。未だ嫉妬に染まり、光のなくなった瞳で光を睨むその目は時斗の汁玲人とは異なっていて言い知れぬ恐怖を抱く。
「お前が言った通り……俺は時斗を一人にした。だから、今さら好きだなんて言えないって思ってた。でも……」
「……光」
「大丈夫だよ、もう立てるから。……お前の言葉を聞いて確信したよ。お前に時斗は渡さない」
 時斗の肩を借りて立ち上がり、光は真っ直ぐに玲人を見つめるとそう言って腫れあがった頬を拳で拭う。
「俺の好きな人をもの扱いするような奴に渡してたまるかっ!」
「っ……時斗は俺のものだっ! 本当のことを言って何が悪いっ!」
「悪いよっ! 時斗は人間だ。ものでもないし、誰かに好き勝手されていい存在でもないっ!」
「……っ!」
 光の言葉に玲人がバツの悪そうな顔をする。
「……時斗は」
 少しだけ間を置いて、玲人の口が動く。先程までとは違い、少しだけ落ち着きを取り戻した様子でゆっくりと時斗に話しかける。
「俺が、嫌いになった?」
 泣き出しそうな表情で言う玲人に、時斗は思わずゴクリと塊の唾を飲み込む。
「嫌いなんて……思ったことない」
「それじゃあ……!」
「でも、今の玲人は好きになれない……」
「っ……!」
 玲人の瞳が大きく見開かれる。信じられない、といった顔で時斗を見つめ、考えるように俯いてからパッと顔を上げた。
 その表情はとても明るく、かえって恐怖心を煽るものだ。
「分かったよ、時斗。今はそっちに預けてあげる」
「玲人……」
「大丈夫だよ。時斗は今、混乱しているだけだから……分かっているよ」
「玲人ちがっ――」
「いいんだよ、時斗。俺は待てるから。時斗が俺を選ぶまで、ずっと……ね」
 それだけ言うと、玲人は光の方へ向き直してゆっくりと口を開いた。
「高畑」
「なんだよ」
「せいぜい、今の不完全な時斗と恋ごっこでもするといいよ。そして……玉砕されたらいい」
「言われなくても、お前なんかよりずっと間違いのない恋をしてやるよ」
「……調子に乗るなよ、害虫が」
「死体に言われたくないよ」
 睨み合う二人に杉田が声をかける。
「ひとまず、それくらいにしろ。犬飼、俺達は探索を続ける……いいな?」
「ご勝手に」
 杉田の問いに気だるげに答えると、玲人は再び姿を眩ませた。
 先程までの騒ぎが嘘のように消え、静寂が戻ってくる。
「光っ! その……怪我は」
「ん? 大丈夫だよ、時斗。ちーっと痛いけど! 平気!」
 ニカッと笑って答えると、光は時斗の頭をガシガシと撫でて申し訳なさそうに頬をかいた。
「俺こそ、ごめんね? その……キス、しちゃって……」
 照れながら言った光を時斗が見れば、本当に申し訳なく思っているらしく、顔の前を覆い隠すように【ごめん……】という文字が浮かんでいた。
 それを見て、聞き、時斗は首を横に振る。
「全然、大丈夫だよ。俺のためにしてくれたんでしょう?」
「えっ……」
 時斗の返答に対して、光の顔が曇っていき覆い隠すような文字も変わっていく。
 謝罪の文字はすぐに【違う】【どうして分かってくれないんだ】といったものへと変わっていき、時斗は目を見開いた。
「……もしかして、本気……だったの?」
 そう問いかけると、光は頬を赤く染めて頷く。そして時斗の肩を掴んで溜まった息を吐き出すように迫って言葉を放つ。
「俺、本当に時斗のことが好きなんだ。でもっ! アイツみたいな、身勝手なことはしない!」
 鬼気迫る言葉に圧倒されて上手く言葉が出てこないでいると、光が時斗を覗き込むように見つめて大きな瞳を揺らした。
「俺じゃ……ダメ、かな?」
「……っ!」
「俺は、確かに時斗を一人にしちゃったよ? でもそれはもう過去の話で、今は絶対にそんなことしないって誓える」
「えっと……」
「もう一度言うよ……俺じゃ、ダメ?」
「……」
 光の言葉はどれも本音のようで、浮かび上がる文字もどれも時斗を想うものしかなかった。
「俺は……ごめん、今はまだ……答えられない」
 時斗にとって、光は幼馴染で親友で、それ以上の関係が想像できなかった。それに、玲人のこともある。
 いつまた現れて何をしてくるか分からない。光が時斗に口づけただけで荒れて狂い、躊躇いなく殴ってくるような男だ、油断はできない。そんな思いから時斗がそう答えると、光は少しだけ目を伏せてからすぐにニカッと笑ってポンと時斗の頭に手を置いた。
「……うん。分かった! 急に変なこと言ってごめんね、時斗」
「こっちこそ……本当にごめん」
「謝んないでよ~! てかさ、いつまでも此処に居ても仕方ないよね。他にも探しに行ってみよう!」
「高畑の言う通り、他にも何か手がかりがないか探りにいこう」
「はい」
 光の提案に乗るように、今までただ見守っていてくれた杉田がそう言い放った。
 それに返事をして時斗は立ち上がると、音楽室を後にした。
 玲人のことは気になるが、今は少しだけ光に対して変化していく心に戸惑いの心音を鳴らしていた。


   ***


 杉田透が時斗達の担任になったのはまだ教師歴の浅い、26歳の時だった。
 最初こそ面倒臭さがりな性格もあってか溜息ばかり吐いていたが、一際目を惹く存在に出会ったことで杉田は担任というものも悪くないと思えた。
 それは、犬飼玲人という一人の生徒だった。
 一年生ながら、玲人は座学も運動も常に首位を保っているような生徒で、最初は自分にはもったいないとすら思えたほどだ。ある、一件が起こるまでは――。
 とある日のこと、杉田が個人的に大切にしていた花壇が荒らされる日が続いていたことがあった。
 美しく咲き誇った花々が無残に踏み荒らされ、植え替え程度ではすまないほどにまで荒らされたそれらを片付けていた時のことである、恐らくは犯人と思われる不良生徒達に杉田が絡まれいたのを見て、真っ先に間に入ってきたのが玲人だった。
「少し注意を受けたくらいで教師イジメだなんて……随分と暇なんだね」
「んだとっ! テメェ……って、優等生の犬飼くんじゃん」
 不良の筆頭的な生徒が犬飼に掴みかかろうとした瞬間に馬鹿にするようにそう言った。次の瞬間――玲人の素早い足さばきでその生徒は転倒すると、なにが起こったのか分からないといった顔で天を見つめて目をパチクリとしていたのだった。
「優等生という言葉、あまり好きではないんだ。すまないね」
「なっ! テメェっ!」
 すぐに立ち上がり、殴りかかってきた不良の拳を避けて玲人はすぐに不良の前で屈み、そのせいで勢いのついた不良が二度目の転倒をした。
「そうやって、すぐに手を出すのは良くないよ。もっと理性を身につけた方がいいんじゃないかな」
「っ……テメェら、面かるぞ! こんな奴に付き合ってても仕方ねぇっ!」
「懸命な判断だ。君、意外と頭がいいんだね」
「……っ!」
 玲人が煽ると、不良達は唾を吐き捨ててその場を足早に去って行った。
「……」
「先生」
 あまりにも一瞬の出来事で杉田が固まっていると、玲人は声をかけながら手を差し伸べてきた。その手を取り、杉田は未だ戸惑いの隠せない様子で礼を言うと玲人は笑ってしゃがみ込み荒れた花壇の土に触れる。
「植え替えは難しいですね……でも、壊れてしまったのならまた一からやり直せばいいだけです。俺も手伝いますよ」
「悪いな、犬飼。何から何まで……」
「いいえ。ただ、ああいう輩は好きになれないだけです。あと……先生の花壇のファンだったので」
 そう言って笑った顔は年相応で、今までどこか機械的に思っていた玲人の印象を一気に塗り替えるものだった。
 初めて感じた玲人の人間味に、杉田は驚く一方で嬉しさを感じていた。
 誰からの目も惹き、誰からも遠ざけられていた犬飼玲人が、こんなにも普通の男子学生なのだと思うと、それだけで安堵し自然と口元がほころんだ。
 それからというもの、玲人は何度か花壇の様子を窺いに来ては杉田と他愛のない会話をするようになっていった。
「先生。その、人生相談と言いますか……少しお伺いしてもいいですか?」
「どうした?」
 変に改まって、制服の裾をぐしゃりと握る玲人に杉田は首を傾げる。
「その、ですね……好きな人ができまして……」
「おや……」
 気恥ずかしそうに言う玲人に杉田は目を丸くして静か驚きを見せた。
 あの完璧な犬飼玲人でも恋には疎いのかと、若干愛らしさを覚える。
「どんな子なんだ?」
「かわいいです……とても。あと、本が好きなようで……」
「ほう……それで? 話しかけてはみたのか?」
「はい……少しだけ」
「どうだった?」
「俺も読んだことのある本を読んでいたので、それを話題にしたら少しだけ笑ってくれました。それがまた嬉しくて」
 余程嬉しかったのだろう。玲人は普段は決して見せない幼い笑顔で杉田に話し、幸せそうに風に髪をなびかせていた。
「ただ……」
 今まで幸せそうに話していた玲人の口が僅かに震える。何か隠し事をしているのだろうことが瞬時に分かり、杉田はそっと玲人の肩に手を置いて落ち着かせるようにポンッと叩いた。
「ゆっくりでいい。言いたくなったら話してくれ」
「ありがとう、ございます。その……相手、なんですが」
 震える唇がそっと動く。
「その子、男……なんです」
 そして、そう言葉にすると玲人はグッと唇を噛んで黙ってしまった。
 その姿を見て、杉田はどう反応すべきかを模索しながら玲人の肩をもう一度叩く。
「それが? なにか悪いことなのか?」
「えっ……?」
 小細工をしたところで、頭の良い玲人にはすぐに気づかれてしまうだろうと、杉田は本音をぶつけることを選び、そう放った。
 それが良かったのかは分からないが、玲人は少しだけ肩の力が抜けたようで噛みしめていた唇を解放すると、杉田に問いかけてくる。
「変、とか……気持ち悪いとか、思わないんですか?」
「まったく」
「先生……でも、それは先生が特殊なだけでは? 普通なら、嫌がるでしょう?」
「それは分からない。本人に確かめたわけでもないだろう?」
「そう、ですけど……」
「なら、確かめてみるといい。それでダメなら次を探せばいい……それだけだ」
「……っ!」
 杉田は思ったことを口にすると、花壇の手入れを再開する。そんな杉田の背中を見て、玲人は何度も瞬きを繰り返すとこみ上げてきた笑い声を吐き出して腹を抱えた。
「どうしたんだ……」
「だって、先生が面白くて……ははっ!」
「俺は思ったことを言っただけだぞ?」
「それが面白いんですよ。でも、そうですね……確かに、先生の言う通りです」
 ひとしきり笑った後、玲人は杉田の隣にしゃがみ込んで花壇を弄り始めると、緊張のほぐれた手で柔らかな土に触れた。
 そろそろ秋の花に変えようと言い出した杉田の手伝いで来ていたのを思い出したかのように、コスモスの種を取って一粒一粒丁寧に植えていく。本来ならば、もっと早くに植えて、咲くのを待つものなのだろうが、おっとりした杉田の性格を考えれば、今頃植えだしてもおかしくはないなと思った。
「先生は……誰かを好きになったことはありますか?」
「俺か? 俺は……そうだな、学生時代に憧れた先輩がいたが……」
 玲人に問われて、学生の頃を思い出す。
 いつも自分に良くしてくれた憧れの先輩のことを浮かべる。けれど、それは苦い思い出で杉田はムムッと顔をしかめながら続きを語った。
「その人はひどく移り気な人でな、俺を含めて少なくとも八人は恋人にしようとしていたんだ」
「ある意味凄い人ですね」
「ああ。俺は途中で気がついて難を逃れたが、犠牲になった奴らはそれはもう酷い目に遭ったらしい」
「どうして一人に絞れないんでしょうね。欲張ってもいいことなんてないのに」
「若気のいたりというやつじゃないか? まあ、それがきっかけで、俺は恋愛ごとにはあまり興味はなくなってしまったな」
「心中お察しします」
 そんな会話をし、種に優しく土をかけていく。
 少し遅くなったが、色とりどりの美しいコスモスが咲くのを願いながら手を動かす。
「まあ、なんだ……本気で好きになったのなら、性別なんか気にするな。当たっていけ、そして幸せになれ! 以上だ」
「……先生らしいですね。ははっ……まあ、砕けない程度に頑張ってはみますよ」
「その意気だ。大丈夫さ、犬飼なら……きっと」
 杉田にとっては玲人が幸せになれるのが一番だった。だからこそ本音で話し、幸せを願った。
 それが、どうしてこうなってしまったのか。
 玲人の葬式の日のことだ。杉田は涙を流しながら玲人のことをずっと考えていた。
 死因が自殺であると聞いた時、一気に血の気が引き、眩暈で倒れそうになったのを今でも鮮明に覚えている。
 あんなにも素直で、良き生徒であった犬飼玲人に何があったのか。杉田の頭はそれでいっぱいになり、気がつけばこの謎の空間へと招かれていた。
 玲人は時斗が呼び寄せてしまったと言っていたが、その話を聞いてすぐに杉田は違うと理解していた。
 自分が、望んで此処に来たのだと、杉田は瞬時に思った。
 犬飼玲人の死の真相を知りたい。そう願ってしまったのは自分だ。それ故に、時斗に全てを背負わせることができず、杉田は探索と言って時斗を探ることを考えていた。
 自分の知らない玲人を知る、唯一の人物である時斗を探ればきっと真相に近づけると、そう思ったのだ。
 言ってしまえば、時斗を出しに使っていると言える。しかし、そうまでしても杉田は玲人のことを知りたかった。


 暫く長い廊下を歩き、誰も居ない教室を横切っていく。どこもかしこも、ガラス窓には血の手形が付いておりガタガタとラップ音も鳴り響いている。
 さすがに、ここまで騒がしくされると怯えていた時斗も慣れてきたのか、自ら光の手を離して歩けるほどになっていた。それが寂しいのか、光は少し苦い顔をして、それでもすぐに笑顔を浮かべて時斗の隣を歩いていた。
 そんな二人を尻目に、杉田は職員室の前で立ち止まり、くるりと振り返って時斗を見つめた。
 冷ややかな切れ長の目がまるで蛇のように鋭く見つめてきて、時斗はゾワリとした背筋が凍る思いをした。
「先生……?」
「猫田、お前は何か未練はあるか?」
「えっ……」
 杉田の突然の問いに、時斗は小さく声を漏らす。
 未練、という言葉に胸の奥がざわつく。
 それは、先程杉田が玲人に言った言葉と同じだった。未練があるから出られない。それが、自分にもあるのかと考え込んでしまう。
「先生! 冗談キツイって。時斗は無理矢理この場所に連れて来られたんだよ? そんなのあるわけないじゃ~ん」
 場を和ませるように放たれた光の言葉も静寂に消えていき、小刻みに震える時斗とそれをジッと見つめる杉田の威圧感だけがある状態となった。
「分かりません。ただ……俺、玲人が分からなくなってる。どうすればいいのか……分からない」
「どうするかは、これから探っていけばいい。だが、お前にもこの場へ来てしまった罪があるのだとしたら……黙認はできない」
「それは……」
「もう一度聞く、お前にも未練はあるんじゃないのか?」
「俺に、未練……?」
 急にそんなことを言われても、と時斗は再び黙り込む。
 そんな時斗をキツく睨み、杉田は頭の中であの日の玲人を思い浮かべた。
 好きな人ができた。と喜びに満ちた笑顔を浮かべていた玲人だ。そんな玲人が愛した人物が目の前で悩み苦しむ時斗である。
 そう思うと、ハッキリしない時斗の様子は杉田をひどくイラつかせるものだった。
 もし、本当に玲人が時斗のために命を絶ったのだとしたら、自分は時斗を許すことができるのだろうか。教師という立場でいながらそんなことを思ってしまう。
 しかし、それくらいに杉田にとって玲人は心の支えであり、良き生徒であった。
 ギュッと拳を握りしめ時斗の返答を待つと、暫くして固く閉ざされていた口が開かれる。
「あると……思います」
「……そうか。では、その未練に心当たりはあるか?」
「……たぶん、いや、確実に玲人のことだと思います」
「だろうな」
 短く答えて、杉田は時斗から視線をズラすと空を見ながら玲人の話をする。
「犬飼は、俺に相談していたんだよ……猫田のことを」
「俺のこと、ですか? なんて?」
「好きなのだと。けれど、同性だから困っていると、な」
「そう、だったんですね……」
「しかしまあ、結果的に猫田は犬飼を受け入れたようだったから、あまり詮索はしなかったのだが」
 相談を受けたあの日から数日後、玲人から正式に付き合うことになったと報告を受けてからは玲人が花壇に来ることも減り、あまり話す機会もなくなっていた。それを杉田は喜びとして受け取り、玲人の幸せを願ったのだが一つだけ引っ掛かりがあった。それは――。
「猫田、お前は本気で犬飼を愛していたか?」
「……っ!」
 問われて、時斗はビクンと身体を跳ねさせる。
 玲人のことは好きだった。恋人として、良き関係を築いているつもりだった。それでも、愛していたかと問われると即答ができない。
 そもそもに、今までそんなふうに他人を見たことのなかった時斗にとって、愛とはなにか分からなかった。
「即答できないということは……そういうこと、なんだな?」
「っ……ごめんなさい」
 絞り出すように謝罪をし、ギュッと唇を嚙みしめる。
 杉田は怒っている様子はなかった。けれど、ひどく呆れたような表情で時斗を見ている。
 それはきっと、玲人を憐れんでのことなのだろうと時斗は思った。玲人は本気で時斗を愛していた。にも関わらず、時斗は恋人になる選択をしたというのにそれ以上を求めるどころか考えもしなかったのだから、それだけ玲人を傷つけ続けたに違いないと気づき、今さらになって申し訳なさに押し潰されそうになった。
「お、俺……っ!」
「べつに、お前を責めたくて話したわけじゃない。気にするな……とは言えないが、念頭に置いて探索をしてほしい」
「っ……分かり、ました」
 ぴしゃりと言われ、時斗は目を伏せるとそう返事をして歩き出した杉田の後ろをついて行った。
「時斗……?」
 光が心配そうに話しかけてくる。
「ごめん、大丈夫」
 まるで自分のことのように落ち込んだ顔で覗き込んできた光に下手くそな笑みを浮かべて言えば、すぐにだらんと垂れていた右手を握られる。
「光?」
「大丈夫じゃない時に、大丈夫なんて言わなくていいよ」
「……」
「時斗からどう思われてても、俺……本気だから」
 真っ直ぐな眼差しで言う光を見つめ、こんな自分に何故そこまでしてくれてるのだろうかと悩んだ。
 急な口づけをされたとはいえ、時斗にとってはまだ光は大切な幼馴染にすぎない。本気だと言われたところで同じだけの気持ちを返すことなどできないというのに。
「光は……強いね」
「そんなことないよ。今だって、ほら……手、めっちゃ震えてるでしょう?」
 はにかむように笑って、光は握った時斗の手に力を込める。確かに、それは小刻みに震えていて、それだけ光が緊張をしているのだと分かった。
「時斗にはごめんだけど、俺……犬飼には負けないから。絶対に時斗は渡さない」
「……光」
 何故、そんなにも想ってくれるのか、時斗は謎で仕方がなかった。
 それでも、光は時斗を渡すものかと強く手を握って歩き出す。
 浮かび上がってくる文字も先程、光本人が言った台詞ばかりで光がいかに本気かが窺えてしまい、時斗は申し訳なさを感じながらついて行くことしか叶わなかった。


   ***


 猫田時斗と犬飼玲人がまともに言葉を交わしたのは、クラス替えを行って間もない頃だった。
 最初は、優等生の玲人を避けるように一人クラスの端で本を読んでいた時斗だったが、不意なきっかけから話しかけられ、そこから親睦が深まっていったのが始まりだ。
「その本、とても良いよね」
 そう話しかけられたのは、時斗が丁度分厚い本を読み切って余韻に浸りながら本を閉じた時だった。
「……えっと」
 急に学校一の優等生に話しかけられ、ポカンと口を開いていた時斗だったが、暫くして自分に話しかけているのだと理解して必死な会話をしたのを今でも鮮明に覚えている。
「う、うん。凄く面白かった」
「最初の内は主人公の身勝手さに苛立ってしまったけれど、最後の大どんでん返しには驚かされたよ」
「分かるっ! あそこ、スカッとしたよね!」
 思わず立ち上がり、席から身を乗り出して答えると、玲人は目を丸くした後にクスクスと笑い出した。
「あっ、ごめん……俺なんか変なこと……」
「違う違う。猫田くんって、案外お喋りなんだなって、少し驚いただけ」
「ごめん……」
「どうして謝るの? いいじゃないか。好きなものを語るのは不思議なことではないよ?」
「でも、なんか白熱しちゃって……」
 初対面というわけではないが、初めての会話でこの距離感はどうなんだと思い、時斗は顔を赤くして俯く。すると、玲人は笑みを浮かべたまま時斗の頭上で会話を続けた。
「ねぇ、猫田くん。今度、お互いのおすすめの本を貸し合わないかい?」
「えっ……」
「嫌なら断ってくれていいけれど……良かったら、ね?」
「うん。いいよ……犬飼くんの気に入るような内容だったらいいんだけど」
「きっと気にいるよ。猫田くんと趣味合いそうだし」
「なら、明日持ってくるね」
「うん。俺も持ってくるよ」
 そんな会話をして、チャイムの音とともに自分の席へと帰っていく玲人を目で追い、時斗はなんとも言えない多幸感に胸を鳴らしていた。
 優等生でクラス中の人気者である犬飼玲人が、自分なんかに話を振るというのが不思議で、でもなんだか心地が良くて、時斗はほっこりとした気持ちになった。
 一瞬なにか裏があるのだろうかとも思ったが、玲人の上に浮かび上がった文字も全て言われた言葉と同じであり、純粋に楽しみにしてくれているのだと理解できたのが嬉しかった。
 そんな会話を皮切りに、時斗と玲人はちょくちょく話をする仲となっていき、夏休みでさえも共に過ごす時間があったくらいの仲まで進展していた。
 苗字で呼び合っていたのがいつしか名前で呼び合うように変わり、誰も訪れない夏休み中の学校図書館で一緒に宿題をしたりなど深くなっていく関係を感じた頃、玲人が気恥ずかしそうに時斗に尋ねたことがあった。
「同性愛ってどう思う?」
 数学の式を解いていた時斗に投げかけられた不意な問いかけ。あまりにも急で、深い話題に時斗は一瞬だけ固まると、すぐに玲人に聞き返す。
「どうしたのさ、急に」
「いや、ちょっと……最近の課題みたいなものでさ」
 口元を押さえて言う玲人に首を傾げて、時斗は口を開くと当たり前のように建前のない言葉を吐いた。
「べつに、いいんじゃない?」
「……どうして、そう思うの?」
「だって、好きな人がたまたま同じ性別だったってだけでしょ? べつにいいじゃん。それくらい」
「そ、っか……うん」
「なに? 玲人、好きな人でもできたの?」
「えっと……それは」
 珍しく悩んだ素振りを見せる玲人に時斗は再度首を傾げる。
 しかし、玲人の顔を全て覆い隠すように現れた文字を見て目を見開く。
 【君が好きだ】とだけ浮かんだ文字を今から玲人が口にしようとしているのだと気がつくと、時斗は咄嗟に頬を赤らめて俯いた。
 そんな彼を他所に、意を決したように玲人が口を開く。
「君が好きだ」
「……っ!」
 先に読み取ってしまった言葉をいざ面と向かって言われると、ここまで威力があるのかと時斗は他人事のように妙な納得をした。
 けれど、これは他人事ではなく今まさに自分に投げかけられた言葉であり、それには当然返事という工程が発生するのも分かっている。
「……その、えっと」
「急にごめん。ビックリしたでしょう……」
「それは……うん」
 驚いたことは本当なので素直に答えると、玲人はクスクスと笑いながら一番近くの窓を
少しだけ開けた。
 生温かな夏の風が舞い込んでくる。今日は比較的湿度が低い方で、入ってくるのは乾いた熱風だった。
「知ってる? 蝉って外で鳴いている間はずっと絶頂状態なんだって。そうやってメスを見つけて子孫へ繋ぐんだ」
「なんかで読んだことある」
「凄いよね、メスを見つけるまで泣き続けられるって。いくら昂っているからって、よくやるなって思うよ」
「蝉ファイナルとかも凄いよね。あれってメスを見つけられなかったオスの末路なのかな?」
「どうなんだろう……でも、そうかもしれないね。最期まで、諦めないんだ」
 話が脱線する。それでも時斗は玲人と話すのが楽しく、黙ることができなかった。とはいえ、告白からいきなりこんなくだらない話をするとは思いもしなかったけれど。
「鳴き声はうるさいけれど……最期まで諦めない姿勢は、結構好きかもしれないな」
 呟いて、玲人が時斗の方を振り返る。
 熱風にあてられた顔は汗ばんでいて夏らしさを感じる。
「だからね、俺も蝉を見習ってみようと思って」
「どういうこと?」
「時斗を諦めない。最期まで」
「……馬鹿じゃないの。そんなこと、わざわざ言わなくても……俺、玲人のこと……」
 言いかけて唇を噛む。普段は何を考えているかも分かりづらい時斗だが、多少の羞恥は持ち合わせていた。告白への返事を口をもごもごとさせて渋っている。
 そんな時斗に注がれる期待と不安の目。そして、怯える文字を見て、時斗は呼吸をするように返事を吐き出す。
「好き、だし」
「本当に?」
「嘘吐いて俺に得あるの?」
「ないね」
「でしょ。だったら、大人しく受け取ってなよ」
「ふふっ、そうするよ」
 静かに答えて玲人はそっと窓を閉めた。
 ジジジジっと聞こえてくる蝉の鳴き声が少しだけ小さくなる。
「時斗、愛してる。最期まで……ずっと」
「よくそんなこと平然と言えるね……恥ずかしい奴」
「うん。時斗にはずっと本音でいようと思って」
 そう言った玲人の上に浮かぶ文字を確認すると、確かに口から吐き出された言葉と同じ言葉が浮かんでいた。
 【愛してる】その言葉がいやに生々しくて、でもひどく安心するもので。時斗はあえてそこには言及せずに会話を続けた。
「まあ、こんな俺だけどさ……改めてよろしくね? 玲人」
「うん、こちらこそ。時斗」
 それからは他愛のない話をしながら互いの宿題に手をつけて帰宅することにした。
 カンカンカンカーンと鳴り響く踏切の音が会話を邪魔する。
「でね、▪▪▪で……とき▪▪は、▪▪▪▪だと……」
 上手く聞き取れない玲人の話を右から左へ受け流し、時斗は玲人の放った【愛してる】という言葉をじっくりと考えた。
 晴れて恋人同士になったのだから、なんら不思議な表現ではないのだが、どうにも玲人の放った言葉にだけ深い意味があるのではないかと勘繰ってしまう。
「時斗?」
「あっ……」
 いつの間にか電車は通り過ぎていて、気がつけば踏切は開いていて横から玲人が不思議そうな顔をして覗き込んできていた。
「大丈夫? なんか、ぼーっとしてたけど」
「うん……なんでもない。それよりさ、この後ゲーセン行かない?」
「ゲーセン?」
「そう。好きな音ゲーが新しくなったんだよね」
「いいけど……」
「あっ、嫌だった?」
「そうじゃなくて。俺、ゲーセンって行ったことないから」
「えっ……マジで言ってる?」
「うん」
 優等生なのは知っていた。けれど、同時に浅く広くではあるが友人関係が良好である彼がゲームセンターに行ったことがないというのは驚きだった。
「クラスの奴らと行かなかったの?」
「うん。興味なくて」
「なら、俺とだって嫌だろ」
「時斗となら行ってみたいよ。楽しそうだしね」
「……変な奴」
 ぽつりと呟くと、玲人は口角を上げて時斗の耳元で囁く。
「初めては全部、時斗と一緒にって決めてたんだ」
「……っ⁉」
 甘い声が近くで聞こえ、内容的にも頭が沸騰するような感覚に襲われた。
「お前……それ、女にもやってたらそのうち後ろから刺されるぞ」
「しないから平気だよ。だって俺、最期まで時斗だけとずっと一緒だから」
 そう言って笑う顔はあどけなく、やけに幼く見えた。


「ゲーセンって結構色んなものがあるんだね」
「初めてだとそうかも。でも、楽しかったでしょ?」
「うん。あのゾンビを銃で倒すゲーム、すっごく面白かった」
「ああ、シューティングゲームね」
 初めてのゲームセンターでありながら、見事なハイスコアを出してみせた玲人を思い出しながら時斗は呟く。
 頭の良い人というのは、やはりゲームも上手いものなのだろうか。そこは謎だが、玲人が器用であることは言うまでもなかった。
「時斗がやっていたのも楽しそうだったね。沢山楽曲が入っていて」
「うん。今回のシリーズで増えたからね。でもなかなか高難易度がクリアできなくてさ」
「見てて思ったけど、人の手ってあんなに速く動くものなのかい?」
「それ! もうちょっと人間向きにしてほしいよね。こっちはタコとかと違って手二本しかないんだからさ」
「ははっ! そうだね」
「でも、玲人が楽しそうで良かったよ。初めてって言ってたから騒がしくて嫌になるかと思ってたし」
「そんなことないよ。俺は時斗と一緒なら、どんな場所だって楽しめるよ」
 にっこりと笑って玲人はそう言うと、気恥ずかしそうに頬を掻いた時斗を微笑ましく見つめた。
「それじゃあさ、今度は遊園地とか行こうよ。俺、ジェットコースター乗りたいんだよね」
「いいね。俺も乗ってみたい」
「じゃあ、決まり!」
 恐らく、玲人の口ぶりから察するに遊園地も行ったことはないのだろう。だったら、自分が初になろうと時斗は思うと満面の笑みを浮かべて玲人の手を取った。そして、互いの小指を絡めてブンブンと振ってみせる。
「はい、指切った!」
「……?」
「約束だからな! 絶対、今度一緒に遊園地行こう」
「……うん!」
 時斗の笑みと言葉を受け取り、玲人は一拍置いてから元気に返事をする。
 玲人にとって、こんなふうに約束事をするのは初めてで、若干戸惑ってしまったが、相手が愛する時斗だというだけでそんな戸惑いはすぐに消えてなくなっていった。
「それじゃあ、俺の家こっちだから。玲人も寄り道せずに帰れよー」
「うん、そうするよ」
「じゃあ、また明日な」
「うん……また、明日」
 手を振って別れ、玲人は自宅に向かってゆったりと足を進めた。
 時斗と居た時とは打って変わって、重くな
った足を懸命に動かして自宅を目指す。
「……ただいま」
 ドアノブを掴んで中に入ると、真っ先に目に飛び込んできたのは母親からの生温かな視線だった。
「おかえりなさい、玲人。今日は随分と遅くまで勉強していたのね。偉いわ」
「う、うん。図書室に誰も居なかったから……とても捗ったよ」
「そう、それは良いことだわ。それじゃあ……夕飯前に少しランニングをしてらっしゃい。あと、寝る前の勉強も忘れずにね」
「……うん。分かったよ、母さん」
 そう答えて、玲人は足早に自室へ向かうとドクドクと鳴り響く心臓を押さえて深く息を吐いた。
 玲人の母は、決して悪人ではない。けれど、息子に寄せる期待があまりにも大きすぎる人間だった。
 昔から、成績だけでものを言う人であり、玲人はその期待に答えるためだけに生きていると言っても過言ではなかった。母のために身体を鍛え、勉学に励み、クラスメイトや教師からも気に入られる自分を演じて生きていた。そうしていないと、生きる場所すら消えてしまう。そんな気がしてならなかったのだ。
「時斗……」
 ランニング用のジャージを抱きしめながら、縋るような声で時斗の名を呼ぶ。
 今日一日、時斗と過ごした時間がもう恋しくてたまらない。こんな気持ちは初めてで、不思議で、でもかけがえのないもののように思った。
 自分は、彼を心から愛している。
 そう思うだけで、胸の奥がスーと穏やかになっていく。
 時斗にはまだ話せていない秘密があったが、それでも平気な気になれた。それはきっと、時斗ならば自分のことを受け入れてくれるだろうという勝手な思考からなのだが、それでも玲人を支えるには十分な考えだった。
「話せる時がきたら……ちゃんと話そう」
 呟いて、玲人はかるく頬を叩くとジャージに着替えて家を出た。
 テンポの良い足取りで夏の夜風を切って走り、今日一日を振り返る。告白した時はあんなにも臆病になっていた心が時斗の返答で簡単に落ち着き、幸せに包まれた。
 初めてのゲームセンターは騒がしかったけれど、そんなこと気にならないほどに楽しく、充実した時間を過ごせた。
 それに、初めて指切りをした。友人とすらしたことのない約束というものを初めてできた喜びは計り知れないものだった。
 こんなにも幸せでいいのだろうかと不安になってしまいそうなほどの多幸感に、玲人は夜空を見上げて生まれて初めて満面の笑みを浮かべる。
「時斗」
 何の気なしに呟いた名前が耳に入るだけで嬉しい。そんな花畑にいるような気持ちで走りを少しだけ速める。
 視界の端に映り込んだ飛び降り自殺の死体と目を合わせないように駆け抜ける。
 今日ばかりは、そういった力は忘れて幸せを噛みしめたいと思った。
 夏休みはまだ始まったばかりだ。この先も時斗と沢山の初めてをしよう、と玲人は思いながら足を前へ前へと進めた。
 通り過ぎた木の下には、鳴き止んで死に向かう蝉たちが沢山落ちていた。


   ***


 長い廊下を歩きながら、時斗は黙って思考を巡らせていた。
 そもそも、何故に玲人は自分などを愛したのか。それが謎で仕方がなかった。
 成績優秀で、非の打ち所がない犬飼玲人が何の取柄もない自分にここまで固執する理由が分からない。
(俺なんて、いい所どこもないのに……)
 玲人に良い刺激を与えるような存在でもない自分が、何故ここまで愛してもらえるのか。そこまで考えて、時斗は自分の手を引く光を見た。
 そんなことを言ってしまえば、光だってそうだ。有耶無耶にしてはいたが、ハッキリと時斗が好きだと告げていた。光だって、玲人に負けず劣らずクラスの人気者で有名な人物だ。
 そんな二人が、何故に時斗を取り合うのか。その理由が分からず、時斗は自身の未練を考えるよりもそちらへ意識が向いてしまう。
「時斗?」
「な、なに? 光」
 不意に声をかけられ、覗き込まれる。
「真っ青だよ。平気? ちょっと休む?」
「大丈夫……ちょっと考え事してただけだから」
「そう……」
 かるく笑んで返せば、光は強引な言葉をかけてくることはなかった。こういった面も光の強さだと時斗は思う。
「ねぇ、光」
「ん? なに?」
 隣を歩く光に震える声で話しかける。なるべく、杉田には聞こえにくいように小声で囁くようにすると、光もそれに気がついたようで歩みを進めながらそっと耳を傾けてくれた。
「光はなんで、俺を好きになったの?」
「なんで、かあ……難しいなぁ」
 はにかみながら言い、光はギュッと時斗の手を握る。まるで、子供が親とはぐれないように力を込める握り方で、それに僅かながら緊張を覚える。
「小さい時のこと覚えてる? ほら、初めて時斗が俺の家に遊びに来た時のこと」
「えっと……」
 深い記憶の中を探り、光との思い出を振り返る。確か、夏休みに一度だけ光の家に行った記憶があった。
「夏休みにプールで遊んだ日のこと?」
「そうそう。あの時……かな。本格的に時斗のこと、意識し始めたの……」
 光の家は正真正銘のお金持ちの家で、自宅の庭にプールが備わっていたのを思い出す。
 夏休みになって半分ほど経った頃、光から電話で遊びに来ないかと誘われたのだ。
 急に豪邸に遊びに行くなど、今の時斗ならば躊躇うところだが、まだ小学生だったこともあり二つ返事で返してウキウキと胸を鳴らして向かったのは夏休みの中でも一際暑い日だった。
「いらっしゃいませ」
「あっ、えっと……光くんに誘われて……」
 頭を下げる使用人達にドギマギとしながら告げると、奥から立派な階段を水着姿で駆け下りてくる光が見えた。
「いらっしゃ~い、時斗」
「あっ……光!」
 使用人達に圧倒されて強張っていた身体が安心で一気に解れていく。
「水着持ってきた?」
「うん」
「じゃあ、こっち来て! プールあるから!」
「わっ!」
 腕を引いて走り出す光に合わせて広すぎる室内を走り、備え付けのプールへ向かう。
 更衣室まで付いたそこは、まるっきり家族に強請って連れて行ってもらうような大きなプールで、時斗は一瞬呼吸すらも忘れてしまうほどの驚きを与えられた。
「す……ご~いっ!」
「へへ~ん! いいでしょう~」
「うん! 凄く羨ましい!」
「宿題全部終わらせたら、使っていいって母さんに言われてさ。めちゃくちゃ頑張ったんだよ?」
「えっ、宿題も終わらせたの? 尚のこと凄いよ!」
 さすが光だね、と満面の笑みで言う時斗に、光は照れくさそうに頬を掻いてから再度時斗の手を取った。
「準備運動、したら入ろう!」
「うん!」
 そう言った光に頷き、かるい準備運動をしてから一緒に冷たいプールに飛び込む。
 独特な塩素の香りを感じて気分が一気に夏休みの楽しさで埋まっていく。
「ぷはぁっ! 光の家がお金持ちなのは知ってたけど、まさかここまでとは思ってなかったよ」
「よく言われる。でもさ、お金があるのは父さんと母さんのおかげだし、俺は全然凄くないんだよね」
「そんなことないっ!」
 濡れた髪をかき上げてから、どこか寂しそうにそう言った光の手を取り、時斗は大きな声で否定をした。
「えっ、でも……」
「確かに、お金持ちなのはお父さんとお母さんのおかげかもしれないけど、今俺達がプールを楽しめてるのは光が頑張ってくれたおかげでしょ?」
「……」
「光が、あんなに沢山あった宿題、全部終わらせてくれたから……俺、今すっごく楽しいよ! これって光のおかげってことにならない?」
 真剣な眼差しで言う時斗に光は目を大きく開いてパチパチと瞬きをした。
 友達と呼べる者達は確かに沢山いる。
けれど、みんな結局は光よりも光の家庭環境ばかりを見ていて、すり寄ってくる者が大半だった。特別扱いをして媚びを売り、真新しい玩具に飛びつくだけの不甲斐ない連中に飽き飽きしていた光にとって、時斗という存在は新鮮そのものであった。
「ぷっ! ははははっ!」
「えっ、なに?」
「いや、やっぱ時斗って面白いなって」
「俺、なんか変なこと言った?」
「いや……でも、ありがとね。時斗」
「……?」
 不思議そうに首を傾げる時斗を他所に、冷たいプールに潜ると時斗の細い足が視界に入った。子供ということもあり、まだ幼い少女のように細い足を見つめて光はトクンと鳴る胸の鼓動に、今の自分の感情を理解した。
 時斗はきっと特別だ。今までの自分になかった、本当に欲しかった存在なのだと。光はその時気がついたのだった。
 それからというもの、光はできるだけ時斗と共に過ごすことを選ぶようになっていった。
 夏休み中は毎日色んな場所に一緒に行き、学校が始まってからもいつも一緒に過ごした。
 海外への転校が決まってからも、数こそ少なくされていたが時斗と連絡を取ることを止めることはなかった。
 高校は絶対に時斗が居るところがいいと、両親の反対を押し切って進学し、幸せな毎日を過ごす予定だったのだ。あの男の存在さえなければ――。
「俺、犬飼と仲良くできてたら的なこと言ったけど……あれ、嘘だったよ」
「どういうこと?」
「本音じゃなかったってこと」
「それって……」
「明確に分かった。俺、アイツが嫌いだ」
「……っ!」
 冷たく放たれた言葉に、時斗は思わず肩を震わせた。
 あの温厚で人当たりの良い光からの正直な気持ちが声と文字になって現れている。光の顔を覆い隠すように浮かび上がった【犬飼は邪魔】【嫌いだ】という文字を見て、胸がチクりと痛む。
「で、でも……」
 玲人の良い部分を語ろうと、一瞬だけ声を出したが、時斗はすぐに黙って首を左右に振った。
 ここで、自分しか知らない玲人を語ったところで、光の考えが変わることはないのだろうと直感で理解してしまう。
 本音を言えば、時斗にとって大切な二人には友好的な関係を築いてほしかった。けれど、光からは玲人に対しての負の感情しか見えず、玲人からもまた、光に対して良くない感情が見えていた。
 無理に仲を取り持つほうが二人にとって失礼だと思う。
 そんなことを考えながら歩いていくと、杉田が図書室の前でぱたりと足を止めた。
「ここも見ておこう」
 そう言って、鍵のかかっていない扉へ手を伸ばす。
 そういえば、玲人と時斗が親密な関係になったのも図書室での出来事からだったな、と時斗はぼんやりと思い浮かべる。
 あの日、水のせせらぎのように美しく、しかし年相応に照れながら自分に好きだと告げてくれた玲人。特別断る理由もなく、告白を受けた時斗だったが、実際はきっと玲人には計り知れないほどの葛藤があったのだろうと、今なら思えた。
「適当に何かヒントになるような本を探してみよう」
「ヒントって、どんなですか?」
「犬飼が……いや、犬飼と猫田に繋がる未練を感じられるものがいいだろうな」
「……っ」
 改めて、自身の未練の部分を突かれ、時斗は胸がはち切れんばかりに心臓を鳴らした。
 そんな時斗を宥めるように、光が握った手に力を込める。
「大丈夫だよ、時斗。俺が絶対、此処から連れ出してあげるから……」
 囁きながら奥の本棚へと向かう光がそっと手を離す。
 僅かに残る体温が徐々に冷めていく感覚は、なんだか玲人の死を連想させてくるようで、時斗は不安で頭がいっぱいになっていった。
 けれど、ここで光に頼りきりというのも良くないだろうと思い、二人に続くように本棚を見ていくことにした。
(あっ、これ……玲人に最後に勧められた本だ)
 一冊の黒いハードカバーの本を手に取って、中身をパラパラと捲っていく。
 いつか読もうと思っていったが、結局読まず仕舞いのまま、感想を聞いてほしかった相手に先立たれてしまった。
(確か、恋愛小説だったっけ……)
 自分の専門ではないからと後回しにしてしまったことが、今さら後悔に繋がるとは思っていなかった。
 もっと早く、それこそ勧められた時に読んでおけば良かった。そうしていたら、玲人と感想を話し合えたかもしれなかったというのに。
「はぁ……」
 時斗は深く溜息を吐くと、手にしていたそれをそっと本棚へと戻した。
 きっと、もう読むことはないのだろう。だって、自分の恋はもう、終わってしまったのだから――。
 本棚にもたれかかり、座り込む。涙が出てこないことが嫌で嫌でたまらなかった。
 自分は彼を――犬飼玲人をどう想っていたのか。どう接していたら正解だったのか。それが分からず、時斗はただうなだれることしかできなかった。


「俺、特別な力があるんですよ」
 そう、玲人が話したのはいつのことだったろうか。杉田はふと、そんなことを頭に思い浮かべた。
 秘密主義な犬飼玲人が、自分だけ一瞬話そうとしたその言葉は結局聞けぬまま玲人はこの世を去ってしまった。
 あの時、無理にでも聞いていたら今ごろはもっと本音を聞けるだけの仲になっていたかもしれない。
「ふぅ……っ」
 そんなことを思い、杉田は少しだけ熱のこもった息を吐く。
 猫田時斗に告白をしたいと、初めて相談をしてくれた時、本当はとても嬉しかったのだと伝えられなかったのが杉田にとっては未練とも言える後悔だった。
 しかし、だからこそ玲人の未練を晴らしてやりたいとも思えた。彼がいったい何を思い、どこまでを未練と感じているかは分からない。けれど、こうやって少しづつでも手がかりを探していけば、何か思いつくこともあるかもしれない。
 それと同時に、猫田時斗が玲人のことを真の意味でどう思っていたかも知れる絶好の機会だ。
 教師として、担任として、生徒に優劣をつけるのは良くないと思いながらも、杉田はやはり玲人の方が気なって仕方がなかった。
 自分を信じて、相談をしてくれた玲人の本当の望みを知りたいと杉田は躍起になって本棚を探る。
 すると、一冊の見覚えのある本を見つけた。
 背表紙にはタイトルの『遭難』という文字が書かれている。
 以前、玲人から面白かったと大まかな内容を聞いた作品だ。
「……」
 手に取って、パラパラと浅く内容を確認すれば、なんとも彼が気に入りそうな内容で杉田は僅かに口元をほころばせた。
 内容を簡単に説明するならば、山で遭難した男女が試練を乗り越えてお互いの愛を確かめあい、最終的に熱烈な恋愛へと発展する話であり、恋愛に若干の憧れを抱いていた玲人ならば好きにならざる負えない話だ。
 そんなことを思いながらページを捲っていくと、ふと途中で気になる文章を発見する。
 それは青年が女性に語りかけるシーンで、女性の手を握って「君の愛を証明してほしい」と強請っている場面だった。
「……」
 それを見て、杉田はもしかしたら玲人は不安を抱えているのではないかと思い至る。
 時斗と恋仲となり、それなりに親密なことはしてきていたのだろうが、とはいえたったひと夏の恋にできることは限られる。
 それならば、玲人が何度も言っていた『時斗とずっと一緒に居たい』という気持ちは自然なものではないだろうか。
「犬飼……お前は……」
 呟いて、杉田は本を閉じるとそれを元あった場所に戻して俯いた。
 初めての恋で変化した玲人の感情や日常生活を思えば、時斗に固執する理由は十分にあった。
 前々から会話の端々に散りばめられていた玲人の家庭環境を思ってもそうだ。
 ずっと母親に縛られて生きてきた彼にとって、突如現れた時斗という光はとても眩しく、心地よかったに違いない。そんな存在と永遠に共に生きることが可能になると言われたら、そちらへ手を伸ばしてしまうのは当たり前のことだろう。
「どうして俺はっ……もっと気づいてやれなかったんだ……っ!」
 声を殺しながら静かに想いを吐き出す。
 あの時、幸せそうに笑っていた玲人にもっと深く話しかけていたら、もっと違う未来へ繋がっていたかもしれない。
 玲人が幸せならばそれだけで良いと思ってしまった自分に苛立ち、杉田は血が垂れ落ちるほど強く拳を握った。
 ポタポタと図書室の床へ垂れていく鮮血はまるで、あの日葬式会場で流した涙のようだった。


 普段はあまり使わない図書室を探索しながら、光はぼんやりとした瞳で本棚を見つめていた。
 時斗に流れでとはいえ口づけてしまったことを今さら後悔しつつ、けれどこれで良かったのだと思う心の矛盾に痛む胸を押さえる。
「時斗は……」
 呟いて、彼が本当に玲人を愛していたのかと悩む。
 付き合うことになったと聞いたのは恐らく自分だけだ。素直に、幸せそうに告げられた報告に、笑って返事をした自分がいたのを昨日のことのように覚えている。
 普段は見せない優しい笑みを浮かべて、いかに玲人が素敵かを語っていた時斗。
 その顔を見てしまうと、自分だって好意を抱いていたのに、など言えるはずがなくただ祝福という名の嘘を吐くことしかできなかった自分がひどく惨めだったことも、光はずっと胸の内に秘めていた。
 一歩、自分が先に踏み出していれば今ごろは時斗は自分の隣を当たり前のように歩んでくれていたのだろうか。そんな疑問が頭を過る。
「俺、馬鹿じゃん……」
 今さら思っても後の祭りだと分かっていても、やはり幼少期から抱いていた気持ちは簡単に消えることはなく、チクチクと胸を突き刺してくる。
 時斗の幸せを壊したくないと思っているのに、何故彼の隣を歩いていたのが自分ではないのかと嫉妬してしまう。
 確かに、光にとって玲人は恋敵ではあるが彼の方が先に行動したのは事実だ。文句を言う権利はない。けれど、その場所に自分が居たかったと思ってしまうのはそんなにもいけないことだろうか。
「俺は……」
 消えない想いを抱いて適当に手に取った本を捲る。それは女子が好みそうな恋愛小説でチラっと見えた一文にひどく目を奪われる。
 「好きなら好きでいいじゃん。想うことの何が悪いの?」主人公の友達ポジションの女子キャラクターが主人公に放った台詞だった。それが今の自分には妙に刺さり、光は暫くの間その台詞を頭の中で復唱してしまう。
「……そっか。俺……時斗のこと、好きでいいんだ」
 呟いて、本を閉じる。人が人を想う気持ちは無くさなくても良いのだと、改めて思う。
 時斗の幸せを思い、略奪など考えもしなかったが今は状況が状況だ。
 犬飼玲人はもう亡き人物である。
 ならば、自分が時斗を幸せにすることは許されるのではないか。たとえ、時斗が玲人を忘れられなくとも。自分が彼を守ることは決して悪いことではないと思い、光は自分に喝を入れるように両頬をバシンっと手で叩くと、すぐさま時斗と合流しようと歩み始めた。
 今度こそ、幸せにしてみせる。
 そんなことを思いながら、光は僅かに濁った目を優しく細めた。


   ***


 各々に本棚を探索して合流する。
「なにか、ヒントになりそうな本やものはあったか?」
「なーんにも! 時斗は?」
「俺も……これといって何かは見つからなかった」
「そうか……」
 光に続くように時斗がそう言うと、杉田は残念そうに呟いて顎に手をあてた。
 自分も何か見つけられたわけではないので二人を責めるわけにもいかない。かと言って、何もありませんでした。で終わらせてしまうにはまだ早いとも思う。
「些細なことでも、何か異変に気づけたらいいんだがな……」
「異変かぁ……そういえばさ、この校舎って元々俺達が通ってる学校と本当に全部一緒なのかな?」
「……と言うと?」
「作りがちょっとだけ違うとか、どっか見つけづらい場所に出入口があるとか、そんなことないかなーって思って」
 光が頭の裏で手を組んで、かるく伸びをしながら言う。
「それは失念していたな……。確かに、どこか変化があればそこを探す方が効果的だ」
 闇雲に探索を行っていたが、明確にどこかおかしい部分を叩く方が確かに効果的と言えるだろう。杉田は光の言葉聞き、そう考えると光の肩をバシバシと叩いて褒めた。
「よく気がついたな! 高畑」
「ちょっ、痛いって! 先生っ!」
「そうと決まれば……すぐに行動しよう。この空間にどれだけの時間、まともな状態で居られるかは分からないからな」
 いつもは面倒臭さがりな杉田から思わぬ言葉が放たれ、光と時斗は思わず顔を見つめ合って驚いた。けれど、杉田の言う通りこの異常な空間で、どれだけの間正気を保っていられるかは誰にも分からない。いつ、誰が異常を起こしてもおかしくはないということを再認識して二人は杉田の後ろをついて歩いた。
「ねぇ、時斗」
「なに? 光」
「俺ね、やっぱり時斗を諦めないよ。時斗が誰を想っていても……俺は時斗が好きだ。だから、諦めてなんかやらないから」
「……光」
「そんだけ! まあ、気楽に……はいけないけど、あんまり考え過ぎない程度にいこ?」
「……うん」
 返事をして再び長い廊下を歩くと、先程まではなかった大量の死体が転がっていた。
「ヒィッ……」
 小さく悲鳴を上げると、すかさず光が時斗を庇うように身を寄せてなるべく視界を自分で覆うようにして歩く。
「大丈夫だよ。全部……ただの死体だ」
 そう放つ光の瞳はどこか濁っていて、時斗はそれが少し恐ろしく感じたのか光から離れて僅かな距離を取って歩いた。
「時斗? どうしたの?」
「いや……歩きにくいかなって、思って……」
「全然平気なのに。時斗ってば気遣い屋さんだなぁ」
「……っ」
 そこら中に転がる死体よりも、光の異変の方が恐ろしい。
 本来の時斗の知る光ならば、死体相手にも紳士的な表現を使うはずだ。だというのに、今の彼はまるでここに居る自分以外の存在を全てもののように語っている。
 時斗はそんな僅かな変化がどうにも許せず、距離を取ると探るように光の顔の上に現れた文字に目を通した。
 【時斗】と名前だけで埋め尽くされた顔は普段では決して見えないどす黒い笑みを浮かべていた。大量の名前の上に一つだけある【好きだよ】という文字が、一層時斗の恐怖を煽り背筋を凍てつかせる。
 首筋に嫌な汗が垂れた時、杉田が歩みを止めた。
「なにしてる……早く行くぞ」
「あっ、先生待って~」
 こちらの異変に気づいたのか、声をかけてきた杉田のおかげで、時斗は漸くまともに呼吸ができるようになった。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
 つい先程まで普通だった親友に起きた異常。その恐怖は計り知れず、時斗を困惑させるには十分なものだ。
「……」
 杉田の隣を笑って歩きながら話す光に、先程のような異常は見られない。けれど、あの大量の名前と【好き】という気持ちの表れが恐ろしく感じてしまい、時斗はもうまともに光を見ることは叶わないと思った。
 一方的に向けられる愛情の恐ろしさを今しがた知った時斗には、光の気持ちはあまりにも重すぎる。
 それは自分のために死んだと言った玲人にも適用されることであったが、不思議と玲人にはそのような恐怖を抱くことはなかった。何が違うのか、それはまだ分からない。けれど、今の光に向き合えるだけの力は今の時斗にはなかった。
(どうして……こんなことになっちゃったんだろう)
 自分は何か神様に恨まれるようなことでもしたのだろうか。思わずそんな考えが浮かぶほど、今の時斗は疲弊しきっていた。
 しかし、こんな場所で弱音など吐いている余裕はない。そう思い、時斗は重い足を必死で動かして前へと進んだ。


「では、ここで一旦分かれて探索をしよう。俺は外の倉庫を見てくる」
 杉田がそう告げたのは、体育館に到着した時だった。
 この校舎には、体育館の中と外に体育倉庫があり、種目別に備品が保管されているようだ。
「猫田と高畑は中の倉庫を確認していてくれ」
「はーい!」
「……分かりました」
 今の光と二人きりになるのはなるべく避けたいと思っていた時斗だったが、担任に言われては拒否も難しく、仕方なく光と二人体育館内の倉庫を確認することになった。
 重い引き戸を二人で開け、中に入る。
「意外と綺麗だね。あんまり埃っぽくないや」
「そうだね。でも、暗くてよく見えないな……」
 薄暗い倉庫内を光と二人、手探りで探索をしていく。
「ボールかごには何もないみたい。そっちはー?」
「こっちも何もないよー!」
 マットの積まれた場所を確認し、光に声をかける。先程は光に恐怖心を覚えた時斗だったが、今の光は普段と変わりない様子で若干の安心感を得た。
 やはり、先程の一瞬だけがおかしかったのだろうか。
「マットの裏とかも見た?」
 盲点であった箇所を指摘し、光が時斗の居る場所までやってくる。
「あっ、見てないや……めくれば分かるかな?」
 何枚も重なったマットを捲り、裏面や隠れてしまっている壁や床を見ようとすれば、すぐに光が笑いながら溜息を吐いた。
「もう……おおちゃくしないの! 一枚一枚避けていこ?」
「えっ、でもそれ面倒臭さくない?」
「今メンドイのと、後々になって探しておけば良かったー! って思うの、どっちがいい?」
「……前者です」
「じゃあ、避けてこ。一緒にやるから」
 そう言って光はマットの片方を持ち上げると、時斗にもう片方を持つように指示する。
「せーの!」
 一緒に持ち上げれば、多少の重さは感じつつも簡単に別の場所へ移すことができた。
 若干湿ったマットを全て避けると、そこには一枚の紙きれが落ちていた。
「なんだろ、これ」
 光が紙きれを拾って中を見る。時斗もそれを後ろから眺めて読むと、そこには達筆な字で言葉が書かれていた。
「愛に形なんて必要だろうか、って、なに? これ」
 光の後ろから内容を読み上げて時斗は不思議そうに頭を傾ける。
「……」
「光? 聞いて――」
 自分が読み上げた文字を聞いていたかと確かめようとした瞬間だった。光が突然、時斗の腕を握って避けたマットの上に押し倒す。
「い……っ」
 鈍い痛みに顔を歪め、覆いかぶさる光を見上げると、そこには濁り切った瞳を細めて笑う光の姿があった。
「みつ、る……?」
「俺さぁ……言ったよね? 時斗を諦めないって。あれ、本気だから」
 そう口にするや、ぎゅっと力を込めて光は掴んでいた時斗の腕を握った。
「痛いっ! 離してよ!」
「ヤダ。だって、離したら時斗……犬飼の方に行っちゃうじゃん」
「……っ」
 姿を眩ませてしまった玲人の姿が浮かび上がる。確かに、時斗は拒みはしたものの、未だに心は玲人の方を向いていた。彼が何を想い、何故こんなことをしたのか。彼にとって自分はどんな存在だったのか。それが知りたくて、帰るためではなく知るための探索をしていた。それを見抜いたのだろうか。光の瞳は淀んでいて、嫉妬の塊となっている。
 現に、今光のを覆い隠すように浮かび上がっている文字はどれも玲人に対しての嫉妬や怒りだけだ。
「時斗……犬飼はもう死んだんだよ? どうしてそんなにアイツを気にするの?」
「それは……うっ!」
 時斗の細い腕にゴツゴツとした指が食い込む。痛みに思わず顔を顰めると、光は笑ったまま話を続けた。
「時斗のことおいて、勝手に死ぬ奴のどこがいいの? 俺だったら、絶対にしないよ。そんなこと」
「それは……いっ、つっ」
「これからは、俺が時斗を守るよ? それじゃダメ? 俺じゃダメなの?」
「痛いっ! 痛いよっ! 光!」
「答えて」
 濁った瞳が鋭く時斗を見つめ、心を射抜く。
 確かに、玲人はなんの相談もなく勝手に死んでしまった。それは事実だ。けれど、あの玲人のことだ、絶対になにか意味があったに違いない。実際に、彼は神様から言われたと言っていた。それが本当ならば、時斗はその神様とやらをぶん殴ってやりたい衝動と玲人を説得したい気持ちでいっぱいだった。
 たとえ、もう彼が生きていなくとも、和解がしたい。そう思っていた。
「玲人はっ……確かに、死んじゃったよ。でも、俺は……うぅっ」
 このまま骨を折られそうなほど力を込められ、痛みに声を漏らしながら時斗は必死に話す。
「アイツを信じたい。何があったのか、知りたい。俺は……玲人を諦めたくないっ!」
「……っ! そっか……そうかよ」
 低い声で言い、光は時斗を解放するとすっかり赤くなった時斗の手首を優しく指でなぞってニカッと笑った。
 そして、安心したように息を吐いた時斗のを鋭い拳で思い切り殴る。
「っ! っあ、ゴホッ! ゲホッ!」
 一瞬で呼吸が出来なくなるほどの深い拳がみぞおちを叩く衝撃で、時斗は激しく咳込みながら目の前に仁王立つ光を涙目で見上げた。
「時斗が悪いんだよ? いつまでも犬飼に縋るから……」
「なに、言って……コホッ」
「俺を選べば……楽だったのに」
「みつ、る……? ――ッ!」
 酷く濁った瞳で見下ろす光の手が、時斗の細い首に伸ばされる。
「やめっ……ぐぐっ!」
 そして、そのまま力を込められると真の意味で呼吸を止めるように首を絞められた。
 苦しさにもがく時斗をうっとりとした表情で見下ろし、光はさらに両手に力をこめる。
「うぐぐっ……みつる、やめっ……んぐぅっ!」
「時斗が俺を選ぶなら、止めてあげる。選んで? 犬飼か、俺か」
「……っ」
 豹変した光に恐怖しながら、時斗は必死にマットの上を叩く。
 痛い、苦しい。苦しい苦しい苦しい――。
 そればかりが思い浮かんで、光の求める答えを出すことができない。そもそも、時斗にとって光は幼馴染で親友でしかない。玲人と同じ土俵にすら立っていないのだ。決められるわけがない。
 それでも、光は早くしろと言うように首を強く絞めあげて時斗から無理矢理な言葉を出させようとしている。
「俺はさぁ、マジなんだよ? 本気で、時斗のことを愛してる……なのに、お前はいつまでも死体のことばっか考えて……」
 濁った瞳が薄暗い倉庫の中でギラギラと光る。まるで、獲物を追い詰めた獣のようだと時斗は思った。
「犬飼は死んだんだよ? だったらさ、今度は俺の番じゃないの?」
「……ど、してっ」
「だって、俺はずっと我慢してきたんだよ? 時斗が幸せならそれでいいって。でも……アイツは、犬飼は時斗を不幸にしたじゃん。なのに……諦めたくないってなに? 馬鹿なんじゃないの?」
「っ……い、かげんに……しろっ!」
 絞り出した声で言い、思い切り光の身体を蹴飛ばす。
「……ぃっ!」
「はぁ……っ、はぁ……っ、ゲホッ!」
 漸くまともに吸い込むことが出来るようになった呼吸器官で必死に酸素を求めながら、時斗はゆらりと立ち上がった。
「はぁ……っ、ふぅー……俺の番ってなんだよ……俺は誰のものでもないっ! 勝手なこと言うな!」
 ゼェゼェと息を荒げながら叫ぶと、縮こまっていた光の肩が大きく揺れた。
「……光が俺をそこまで想っててくれたのは、正直言って嬉しい。でも……だからといって玲人を諦めることはできない」
「……」
「たとえ、玲人がもう生きていなくても……此処で会えたからには、ちゃんと知りたいって思ってる」
「そっか……そう、だよね。時斗はアイツが好きなんだから……俺じゃ、ダメだったんだよねっ」
 光の瞳から大粒の涙がボロボロと零れ落ちる。天真爛漫な光の初めて見せた弱い部分に内心驚きながらも、時斗はそっと手を差し伸べるとその手を取ってくれた光を引き寄せるようにして立ち上がらせた。
「ごめんっ、ごめんねっ……時斗」
「俺こそ、ごめん。今まで気づけなくて……」
「いい、いいんだっ……俺は時斗に気持ちを伝えたかった、ただ……それだけで良かったんだっ」
「光……」
「なのにっ、俺……時斗のこと考えてたらっ、なんかおかしな気分になってきてっ、気がついたらあんなことしてて……ごめんっ、ごめんなさい……っ!」
「いいよ。だから、もう泣き止んで。俺は笑ってる光が一番好きだよ」
「っ……ありがと、時斗っ」
 ぐしぐしと涙を拭って、光は真っ直ぐに時斗を見つめると、深く息を吐いてから落ち着いた様子で話し始めた。
「俺、本音じゃないって言ったけど……やっぱり犬飼とも仲良くなりたかったよ。ああいう堅物な友達もいたら、きっと楽しいもん」
「うん……俺も、二人が仲良くなってくれたら嬉しいよ」
 答えて、時斗は空を見つめた。
 玲人が生前、もし光と友人関係だったらと考えるとそれだけで胸の辺りが温かくなるような気がした。正反対な性格だからこそ、きっと面白い日常を過ごせたに違いない。
 今ではもう、叶わないことではあるが、それでも期待してしまう自分がいて、それがなんだかとても幸せに思えた。
「光、もう平気?」
「うん。もう大丈夫」
「それじゃあ、先生と合流しよう」
「そうだね、ここには何もないみたいだったし」
 光の言葉に頷き、時斗の方から光の手を握って倉庫を出た。
 すると、丁度外から戻ってきた杉田と目が合う。
「そっちはどうだった?」
 開幕聞かれた言葉に二人一緒に首を振って答える。すると、杉田は落胆したように溜め息を吐いてから胸ポケットから取り出した煙草を咥えて自分の方の報告をした。
「外の方もこれといって収穫はなかった。ただ……」
 ふぅーと煙草の煙を吐き出しながら、杉田は一枚の紙きれを取り出すと、二人にそれを見せる。
「倉庫の入口に落ちていた。もしかしたら、何者かがヒントとして置いていったのかもしれない」
 そう言って杉田は再び煙草を咥えると、少々苛立っている様子で煙を吐いていた。
 見せられた紙きれには一言だけのメッセージが書かれていた。
「本当に後悔なんてない……? これって……」
「犬飼の字? でも、ちょっと違うような……」
 確かに、内容だけ見れば玲人が書き残したようにも思えたが、字だけ見ると少女が好んで書くような少々丸っこい文字で書かれている。
「恐らくは、此処の住人のものだろうな」
「それってつまり……」
「自殺者のものということだ」
「……」
 この空間には自殺で命を落とした者しか存在しないということは分かっていた。けれど、いざこうして書き記されたものを見てしまうと胸がぎゅっと締めつけられるような気持ちになった。
 これを書いた者は、どれだけ考えてからこの回答に行きついたのか。それを思うだけでズンッと気持ちが沈む。
「此処に居られる条件は、未練があること……だと俺は想定している。つまり、現実の世界に後悔を残している者はこうして誰かに気づいてもらえるかもしれない行動を取るのかもしれないな」
「そうだね……一時の衝動でしちゃったことに後悔がないなんて言えるわけがないもん」
 光が先程の自分のことを指すように呟く。先程の光は明らかに不可解だった。別人のようで、まるで何かにそそのかされたようなそんな、自我を完全に失った獣のようだった。それを一時の衝動と言うのは少し違うようにも思えたが、光にとっては時斗にしてしまった行為への罪悪感があるのだろう。
「でもさ、なんか悲しいね。こうやって、気づいてもらえるかも分からない物を残してまで後悔を示すってさ」
「どんな理由があれど、自身のした行為が原因となっているんだ。それくらいは覚悟の上だろう」
「そっか……」
 杉田がふかしていた煙草を指で折り、内ポケットから出した携帯灰皿へと入れる。煙草の煙を吸い込みながら、時斗はふと玲人を思い浮かべた。
 彼は、此処で時斗と永遠を過ごしたいと言っていた。此処が未練がなければ存在できない場所だというのなら、彼の未練とはいったい何なのだろうか。時斗と過ごすことが叶えば、それは未練がなくなるということではないのだろうか。
 永遠など、どこにもないのだから。共に過ごすことができたとしても、それはきっと一時の時間だけだろう。
ならば、最初から玲人の望みは未練を晴らすことではなかったのではないかと、時斗は思った。
 後悔のない未練など存在しない。
 なら、彼はいったい何をしたいのか。何を想っているのか、それを突き止めたいと強く思った。
「先生……俺、玲人とちゃんと話がしたいです」
 重い空気を切り裂くように言うと、杉田は一瞬だけ目を丸くして時斗を見つめた。
「……猫田、少しいいか?」
 そして、そう呟くと時斗と二人きりにしてくれと言うように光に目線を向けた。
 それを見て、光も何かを悟ったようで足早に体育館を出て行くと重い扉を閉めて扉越しに二人の会話が終わるのを待つことにした。
「単刀直入に言うぞ、犬飼に対して……気持ちはまとまったのか?」
「はい」
「……本来、こんなことを言うのは教師として失格だと思うが言わせてもらうぞ……猫田、お前は本当に犬飼を想っていたのか?」
 杉田に問われ、時斗はゆっくりと首を横に振った。
「好きなことに変わりはありませんでした。でも、玲人と同じだけの気持ちを向けてはいなかったのが本音です」
「やはり、な……」
「先生と玲人が仲が良かったのは聞いていまいした。だから……本音を言うべきか悩みました。でも、だからこそちゃんと伝えなきゃいけないと思った」
「……」
「俺、ずっと不思議でした……なんで玲人はあんなにも俺を想ってくれたのか。アイツ、自分のことは全然話してくれなかったから」
 僅かに俯く時斗に、杉田はたまらない怒りを孕ませて強く肩を掴む。
「ぃ……っ!」
「アイツはっ! 犬飼には、お前しか居なかったんだっ! なぜ気づかなかった‼」
「せん、せっ……」
 豹変した杉田を見やれば、あの時の光と同じ状態だった。濁った瞳に怒りに我を忘れた獣のような行動。恐らく、此処に留まる時間が長いとこうやって瘴気にあてられるのだろう。そうでもなければ、優しい二人がここまで様変わりするわけがない。
 ならばと、時斗は光の時と同じく杉田を押し退けて言葉を吐き出す。
「先生にとって玲人が大事なように、俺にだって大切な存在だ! だから、今度は間違えないように考えた! 玲人の向けてくれた想いに今度こそ答えられるように……っ!」
「……っ⁉」
 強く押し退けられ、杉田の身体がよろめく。
「玲人がどんな生活をしてたか……それは分からない。だから、これから理解したいと思ってる。その上で、俺が必要だって言ってくれるなら……俺は、それにちゃんと答えたい! もう諦めてなんかやらない!」
「……そうか。お前は、しっかりと決めたんだな」
「はい」
「駄々をこねていたのは俺の方だったということか……っ、うぅっ……」
 頬を伝う涙を洋服の袖で乱暴に拭いながら、そう呟いた杉田にハンカチを差し出して、時斗はフッと気が抜けたように笑んだ。
「先生、いつも玲人を見ていてくれて……ありがとうございました」
「俺が……勝手にしていただけだ。犬飼は俺のことなど何とも思ってなどいないさ」
「それはないと思います。アイツ、あれで結構子供っぽいところあるんで。先生のことがお気に入りだったのは本当だと思いますよ」
「そうか……そぅだと、いいなっ」
 受け取ったハンカチでそっと涙を拭くと、杉田は二本目の煙草を取り出して咥えた。
 火をつけながら、時斗を見つめる。
 猫田時斗はとても大人しく、目立つ生徒ではなかった。杉田自身、そこまで気にかけたことがなかったのも事実だ。けれど、知ってみればこんなにも強い子だったとは思わず、内心驚かされていた。
「だから、か……」
「なんですか? 先生」
「いや、なんでもない」
 玲人が何故そこまで時斗に固執するのか、なんとなく分かった気がした。
 正反対であって、けれど絶対的な理解者である彼に惹かれたのだ。
 そう思うと、杉田は少しだけ胸を突き刺す棘が消えていくのを感じた。玲人の弱い部分も全て受け入れて、何の利益も求めることなく接してくれる存在――それが時斗だったのだ。
「……はぁ、完敗だよ」
 時斗に聞こえてしまわないように小さく呟き、短くなった煙草を折る。
「猫田、高畑を呼んできてくれるか? 少し、相談をしよう」
「分かりました」
 小走りで光を呼びに行った時斗の背を眺めてから、杉田はくたびれた様子でそっと天井を見上げた。頬を伝った涙がいつの間にか乾いていて、杉田は一層深く息を吐いた。


「俺が思うに、犬飼は猫田を得られれば満足するのだろう。それ以降がどうなるかまでは分からないが……一度犬飼と猫田を二人きりにしてみるといいかもしれない」
「う~ん、確かにその方がお互い話はしやすいと思うけど……二人きりって危なくないですか?」
「そうだな。俺が言えたことではないが、今の犬飼は正気ではない。二人きりになった時、何をしでかすか分からない」
「だと、やっぱり俺達が側に居た方が――」
「大丈夫だよ」
 光の言葉を切るように時斗がそう告げる。
「俺、もう決めたから。玲人とちゃんと話をするって」
 覚悟の決まった表情で言い、時斗はニコッと笑うと二人に深々と頭を下げた。
 各々の理由で此処にやって来たとはいえ、元は時斗と玲人の問題だ。二人を無理矢理巻き込んでしまったことに変わりはない。
 そう思うと、時斗は頭を下げながら二人へ謝罪の言葉を吐き出す。
「巻き込んで、ごめんなさい。散々迷って、困らせて……怒らせて、ごめんなさい」
「……」
「と、時斗は悪くないよ! 俺だって、あんなことしちゃったし……」
「頭を上げてくれ。俺も高畑と同じだ……すまなかった」
 杉田の言葉にゆっくりと頭を上げ、時斗はジッと二人を見つめた。
 どちらも吹っ切れたような顔をしていて、もう後悔などないことが分かる。ならば、今度は自分の番だというように時斗も大きく息を吸い込んで高鳴る胸を静ませた。
「それじゃあ、行ってきます。玲人のところに」
「うん、いってらっしゃい。時斗」
「あまり無茶はするんじゃないぞ」
「はい!」
 返事をして、時斗は体育館から出て行く。
 そんな彼の背を見つめながら、光と杉田はわざと顔を合わせないようにして話しをする。
「先生って結構ヘビースモーカーなんですね」
「意外だったか?」
「まあ、それなりに」
「そうか。だが、人には意外な一面があるものだろう?」
「それもそうですね」
 そう言って、光は転がっていたバスケットボールを拾うと、ゴール目掛けてそれを投げた。
 角にあたり、跳ね返ってくるボールを拾い直してへらっと笑う。
「俺も、こう見えて運動音痴だしなぁ」
「それは成績で知っていたぞ」
「も~、こういう時はマジレス止めてくださいよ」
 そんな他愛のない会話をして、二人は自分達のクラスから一番近い音楽室へと足を運ぶのだった。


   ***


 校内を走り回り、一か所一か所を丁寧に見て回る。
 玲人が好んで行きそうな場所を考えながら、時斗は息を切らせて走った。
「玲人、何処に……」
 呟いて、一旦止まるとゼェゼェと肩で息をして周りをぐるりと見渡す。そう広くないはずの校舎が今は迷路のように広く感じられた。
「玲人……っ」
「ねぇ」
「……っ⁉」
 玲人の名を呟いた瞬間、背後から知らない少女の声で呼ばれ、驚きながらもそちらを振り返る。
 そこには、血に汚れたセーラー服を着た美しい少女が立っていた。
「急に話しかけてごめんなさい」
 そう言った彼女の瞳には涙が溜まっていて、まるで生きた人間のように感じたが、此処にいる以上は違うのだろうと察する。
 それを承知の上で、時斗はその少女に返事をした。
「……大丈夫。どうしたの?」
 恐らく年下であろう少女に尋ねると、少女はひどく驚いたような表情で話しかけてきた。
「あなた、此処の住人ではない……のよね?」
「分かるの?」
「ええ。此処に来て長いから……分かっちゃうの」
 寂し気に目を細めて言うと、少女は時斗から少しだけ離れて会話を再開させた。
「私は鈴原朱音っていうの。あなたは?」
「俺は猫田時斗」
「猫田くん……かわいい苗字ね」
 ふわっと笑った顔は、思わず見惚れてしまうほどに美しく、時斗はぼんやりと彼女を見つめてしまう。
 すると、朱音が少しだけ口をもごもごとさせてから時斗へ自分のことを話し始めた。
「私ね、とても大切な人を置いて来ちゃったの」
「大切な人?」
 問うと、朱音はゆっくりと頷いて見せた。
「私の好きな人」
「……そう、なんだね」
 寂し気に言う朱音の顔を見て、瞬時に玲人が頭を過る。玲人は今何をしているのだろうか。そもそも、何処に居るのだろうか。
 そんな不安に押しつぶされそうになっていると、朱音がいつの間にか時斗の両手を取って、強く握っていた。
「気持ち悪いって思うかもしれないけど、言わせてね……その子、女の子なの」
 朱音の言葉に、時斗は一瞬目を丸くしてからゆっくりと頷いた。そんな時斗を不思議そうに見つめ、朱音は口を開く。
「驚かないの?」
「べつに。だって、君はその子ことが好きなんでしょう? 性別なんてどうだっていいじゃないか」
「驚いた……猫田くんって不思議な人なのね」
「そうかな? 普通だと思うけど」
「私の周りには居なかったわ。そう言ってくれる人」
 今にも泣き出しそうな顔で笑い、朱音は時斗の手にさらに力を込める。
「私ね、その子のことが大好きで、大切で……でも伝えられないのが苦しくして、それで……自殺したの」
「……」
「最初はね、死ぬことに対して何も思ってなかったし、よく考えてもいなかった。でもね、自分のお葬式を見て、あの子が泣いているのを見て……凄く、後悔した」
 あの子、というのは先程話していた朱音の好きな相手のことだろう。自分の愛した相手が自分のために泣いている姿など見たら、後悔せずにはいられないだろうと時斗は思った。
 実際、今目の前にいる朱音はじんわりと涙を浮かべている。それ程に愛した相手だったに違いない。
「でも、私が後悔するだけじゃ、神様は許してくれなかった……っ」
「どういうこと?」
「……あの子が、後追いをしたの……私の」
「えっ……」
 衝撃的な言葉を聞き、時斗は握られた手が震えていることに気がつく。カタカタと震え、力加減の上手くいかない手で強く握られる。痛いと口にしたかったが、今はそんなことが言える雰囲気ではないことくらいは時斗でも分かった。
「私達、両想いだったのっ! でも私、気づけなくて……それで、あの子は大怪我をして、今も昏睡状態らしくて……っ」
 手を握る力が弱まっていく。朱音が泣き出したのだと気づくまではそう時間はかからなかった。
「だからね、あなたには私みたいな未練を残してほしくないのっ……」
 しゃくりあげる声で言う朱音に、時斗はぎゅっと手を握り返して質問を投げかけた。
「どうして? そこまで、俺のことを気にかけてくれるの?」
 初対面、それに加えてこのような場所で先程出会ったばかりの自分に、何故そんなにも親身になってくれるのか、単純な疑問だった。
「だって……猫田くんにも好きな人が居るんでしょう?」
「それはそうだけど……」
「だったら、私がダメにしちゃった分も、猫田くんに幸せになってほしいなって……そう思ったの」
 朱音が時斗から手を離して涙を拭う。
 僅かに赤い瞳で時斗を見つめ、朱音は優しく微笑むと、時斗のことをまるで我が子を見るような目で見つめた。
「犬飼くんは……可哀想な子よ。だから、あなたが救ってあげて」
「玲人のこと、知ってるの?」
 尋ねると、朱音はコクリと頷く。
「犬飼くんは、此処を知ってまだ浅いからすぐに感知できたし、なにがあったのかを知っているから……」
 深刻そうな顔で言う朱音に、時斗は思わず彼女の肩を掴むと、そのまま強く揺さぶって玲人についてを尋ねた。
「なにがあったの? 玲人は……どうして、あんなことしたの……?」
「……此処には沢山の人が居るわ。皆悪戯好きで、その中でも一番厄介な奴に犬飼くんはそそのかされたのよ」
「そそのかされた?」
「そう……神様だって言って、犬飼くんに嘘を吐いたの。それで犬飼くんは……」
 朱音はそれ以上を言おうとはしなかった。恐らく、時斗が表情を曇らせたせいだろう。優しい少女がしそうな気遣いだ。
「なんて言って、騙されたの……?」
「……大切な人を此処に連れて来れば、永遠に一緒に居られるって」
「……っ、あの馬鹿っ!」
 呟いて、奥歯を噛みしめる。
 玲人は死んだ人間を見ることができる。きっと、それを利用して純粋な気持ちにつけ込まれたのだろう。そう思うと、無性に腹が立ち、今すぐにでもその相手の顔を思いきりぶん殴ってやりたい気持ちになった。
「じゃあ、玲人は騙されてこんなことをしたんだね?」
「ええ」
「そっか……教えてくれてありがとう」
 朱音の肩からそっと両手を離し、時斗は強く拳を握った。
 玲人を騙した相手が憎い。けれど、それ以上にそんな話を信じ込んで、実行してしまった玲人への怒りと罪悪感の方が勝って吐き気にも似たものが沸々と込み上げてきた。
「猫田くん」
 朱音が胸の前で手を組んで話しかけてくる。その表情は、まるで何かを覚悟したような、そんな強い目をした表情だった。
「私ね、とても後悔してたわ。でも、諦めてなんかないのよ。彼女のこと」
 彼女、というのは先程話していた本当は両想いだったという少女のことだろう。
 朱音の手が僅かに震えているのが分かる。
「絶対に目を覚ますって……そうして、絶対に幸せに生きてくれるって。信じているの」
 ふわりと笑って、朱音はもう一度時斗の手を握る。
「だからね、猫田くんも諦めないで。きっと伝わるから……あなたなら、伝えられるって思っているから」
「……うん、諦めないよ。伝わるまで……何度でも、何度でも話をする。もう逃げたりなんかしない」
「そう言ってくれると思ったわ」
 時斗の返答を聞いて、朱音はそう答えると再びふわりと笑って手を離した。
 その瞬間、朱音の身体が白い光に包まれていく。
「朱音……?」
「大丈夫……きっと、猫田くんに聞いてもらえたから私の未練がなくなったんだと思うわ」
「え……?」
「だって、私は彼女を諦めないって決めたもの。もう……後悔も未練なんかもないわ」
 そう言って笑った朱音の顔は今までで一番美しいものだった。
 頬を伝う涙もきっと、嬉しさ故のものなのだろう。
「猫田くん、ありがとう。私を信じて、聞いてくれて。私はもう消えちゃうけど、きっと……いいえ、絶対に大丈夫。信じてるからね」
「うん。朱音もあの世で大切な人を見守ってあげてね」
「もちろんよ。じゃあ、またね」
 白い光が一瞬だけ強く輝き、思わず目を閉じる。次に目を開けた時には朱音の姿はなくなっていた。
「朱音……ありがとう」
 呟いて、玲人探しを再開する。
 朱音の現象を見るからに、恐らく後悔や未練さえなくなれば此処に居ても成仏は可能なのだろうと分かった。
 彼女が震える身体で懸命に話してくれたことを胸に、時斗は必死で玲人を探した。


   ***


 長い長い廊下を走る。この学校の廊下は元からこんな長さなのだろうか。やけに広々としていて、まるで迷路を彷徨っているような気になった。
けれど、時斗は一生懸命に走りながら周りを見渡す。早く玲人と話をしたい。どれだけ時間がかかってもいい。とことん話し合って、玲人を成仏させてやりたい。
「玲人……玲人っ!」
 そんな思いを抱えて廊下を走り回り、一つ一つ教室を見ていく。けれど、どこを見ても玲人の姿は見当たらない。
「いったい何処に……」
 そう思った時だった、時斗の頭に生前の玲人がしていたことが過る。
 よく、クラスにある花瓶に花を飾っていた。その花瓶は玲人の私物で、自分達のクラスにしかなかったものだ。
 それを探せば、もしかしたら玲人が見つかるかもしれない。そう思い、時斗は花瓶に注目して教室を探した。
 すると、図書室のすりガラス越しに花瓶に飾られたピンクの花が写った。
「此処、なのかな……」
 恐る恐る扉を開く。先程、光や杉田と一緒に入った時にはなかったはずの花瓶が机に置かれており、そのすぐ側に玲人の姿を見つける。
「玲人……っ!」
「……っ⁉」
 急に大声を出したせいか、玲人はひどく驚いた表情でこちらを見て、暫くしてからいつもの落ち着いた顔つきへと戻っていった。
「時斗……よく、此処だって分かったね」
「だって、その花瓶……玲人がいつも大事に手入れしてたやつだから」
「見ててくれたんだ」
 どこか寂し気に囁かれた言葉が耳に届くと同時に、玲人の顔を覆うように文字が現れる。そこにはただ一言【嬉しい】という文字が浮かんでいた。
「見てたよ……玲人のことだもん」
「時斗は……俺のことなんかどうでもいいんだと思ってた。だから、ちょっとだけ驚いてる」
「……っ! どうでもいいわけないだろっ‼」
「……っ⁉」
 大声を張り上げたことで、玲人はビクンと肩を揺らして驚く。普段、大声どころか必要最低限の言葉しか口に出さない時斗からが玲人にだけ声を張り上げたのが珍しかったのだろうか、玲人はポカンと口を開けていたがどこか嬉しそうな顔をしていた。
「玲人は、俺のことが本気で好きだって言ってくれたよね……?」
「ああ……本気だよ。時斗のためなら何でもする、どうなったって構わないくらい……好きだ」
「じゃあ……」
 時斗がごくりと唾を飲み込む。そして一拍置いて、少し落ち着いてから口を開いた。
「どうして、自殺なんかしたんだよ」
「それは……神様に四六時中、時斗と一緒に居られるって言われて……それで……」
「神様って、よく分からない死人のこと?」
「えっ? なんで知って……」
 玲人の目が大きく見開かれる。玲人が神様と信じ込んだ相手はただ、玲人が見かけた霊のことだと、玲人自身も分かっていたのだろう。それをあっさりと言い当てられてひどく混乱しているのが分かる。
「教えてもらったんだ。とても、芯のある女の子に」
 あえて朱音の名前を出さずに言うと、玲人は嫉妬の目を向けることなく真剣に時斗の話を聞いていた。これが光や杉田であったなら、今ごろ嫉妬に狂って手のつけようがなくなっていたのだろうかと思うと、時斗はなんとなく乾いた笑いが込み上げてきて、必死にそれを嚙み砕いて話を続けた。
「その子は自分の後悔や未練を断ち切って成仏していった。だから、俺は玲人にも同じようになってほしい。後悔も未練もなく、幸せになってほしい」
「そんなの……無理だよ」
「どうして?」
「だって俺は……時斗とずっと一緒に居たいんだ。場所なんか何処でもいい……永遠に一緒に居たい。それが俺の未練だから」
「……馬鹿」
 小さく呟くと、玲人が不思議そうに時斗を見つめた。何か言いたげに口をパクパクとさせて、結局何も言えないまま黙り込む。
 そんな玲人に、時斗は大きく息を吸い込んでからそれを吐き出すように言葉を放った。
「俺だって、ずっと玲人と一緒に居たいよ」
「それじゃあ――」
「でも、そうできなくしたのは玲人だ」
「……っ!」
「俺のこと、そんなに想ってくれてるなら……どうして死んだりしたんだよっ! ずっと側に居てくれたら良かったのに……っ‼」
「だ、だって……人間の命には限りがあって、永遠なんて、ない……だからっ!」
 慌てて話す玲人の頬を時斗の掌がバチンッと叩いた。高い音と共に、玲人の頬と時斗の掌に鈍い痛みが走る。
「その限りがある時間を捨てて、勝手に死んで……俺がどんな気持ちだったか考えたのかよっ!」
「時斗……」
「俺は、玲人が目の前で死んだ時、世界が真っ暗になったよ? 玲人が居ない世界は……俺には暗すぎるんだっ」
 ボタボタと大粒の涙を零し、訴えかける時斗の声が静かな図書室の中に響き渡る。
 それを聞きながら、玲人は叩かれた頬をゆっくり撫でると、一瞬だけ時斗から視線を逸らして顔を伏せた。
 そして、震える声で時斗に問いかける。
「じゃあ、どうすれば良かった……? 俺は、俺には時斗しかいなくて、永遠に共に居られたらってずっと思ってて……藁にも縋る思いで行動したんだ……っ」
 全部が間違っていたのかと涙声で言う玲人に、時斗は両手を伸ばして濡れた頬を包み込む。
「そんなにも想ってくれてたって、俺……全然気づけなくてごめん。でも、本当にそれだけ好きで、愛してくれていたなら俺は……死んでなんかほしくなかったよ」
「……それじゃあ、俺は……間違えてしまったの?」
「……うん」
 問いかけに、ゆっくりと頷いてから言う。
「そっか……そう、なんだね」
 すると、玲人は顔を上げて涙を溜めた瞳で真っすぐに時斗を見つめた。
「ごめんね……時斗。君の気持ちを考えないで、勝手なことをして」
「そうだよ……って、言いたいけど……気づけてなかった俺も悪いから」
「そんことないっ! 時斗はいつだって俺を良い方へ導いてくれるじゃないか」
 玲人の瞳から溜まった涙が伝い落ちる。それを見て、時斗は込み上げてくる寂しさを嚙み潰して玲人を見つめる。
「俺は、いつも母さんや皆の顔色をうかがってばかりで本音を出すなんてことできなかった。でも、時斗……君にだけは本当の俺を見せられた」
 玲人を覆っていた文字がぐにゃぐにゃと曲がって、やがて消えていく。今、話している言葉が心からのものだと分かった。
「初めてだったよ。俺の話を一生懸命聞いて、理解してくれた人は。俺の秘密を気味悪がらずに信じてくれたのは……」
「それは俺だってそうだよ。玲人が打ち明けてくれたから話せたし、信じてくれて嬉しかった」
「そう、嬉しかったんだ……俺も。凄く、凄く嬉しくて……でもそのせいで俺は過ちを犯して、時斗を傷つけてしまった」
「……」
「本当は、高畑とも友達になりたかった……杉田先生とも、もっと沢山話をしたかった……」
 玲人が自ら自身の後悔を語る。
 ポタポタと床に落ちていく涙が、その後悔の重さを物語っていた。
「玲人……」
「俺、本当にどうしようもないね……こんなはずじゃなかった、こんな……っ」
「玲人」
 時斗が玲人にそっと手を伸ばして抱き寄せる。身長差のせいで、顔が丁度玲人の首辺りにあたってしまい、伝ってきた涙が頭に降りかかってきたが今はそんなことはどうでも良かった。
「確かに、玲人のしてしまったことは悪いことだ。俺、許せないし。でも……そこまで想ってくれて、ありがとう」
「……っ!」
 玲人の肩がビクンと跳ねる。時斗の素直な礼がたまらなく嬉しく、玲人は唇を強く噛んで涙を啜った。
「俺っ、俺……時斗が好きだ! 大好きなんだ! だから……っ」
 玲人の顔に再び文字が浮かび上がる。【ずっと一緒に居たかった】と書かれたそれを見て、時斗は静かに溜息を吐いた。
 自分だって、願わくば玲人とずっと共に居たかった。しかし、それを出来なくしてしまったのは玲人本人だ。
それを責めるべきか、どうするか悩み、時斗はゆっくりと口を開く。
「本当に馬鹿だよ、玲人は」
「……うん」
「最初から、俺に話してくれたら良かったのに……ちゃんと話し合ってたら、そうしたらこんなことにならなったのに」
「ごめんっ……ごめん、なさいっ」
「まったく……」
 呆れたように言い、時斗は泣きじゃくる玲人から離れるとやんわりとした笑みを向ける。
「ねぇ、玲人……」
 そして、そっと手を伸ばして玲人の顔を包み込むと、時斗は目一杯に空気を吸い込んでから恥ずかしそうに囁いた。
「最後に、思い出作らない? 生前にできなかった分さ」
「思い出?」
「そう……こんな感じの……」
 そう言って、時斗が玲人に優しく口づける。
「……」
 玲人の瞳が大きく丸さを帯びて、驚いているのがよく分かった。
「……どう? 嫌、だった?」
 かるく触れる程度のキスをして、時斗は少し離れると玲人へ確かめるような上目遣いで問いかける。
「嫌……なんかじゃない。寧ろ、もっとしたいよ……」
「そう言うと思ったよ。じゃあ、気が済むまで……しよう?」
「……うん」
 今度はどちらともなく口づけをし、深く深く味わっていく。
 玲人が僅かに開いた唇の割れ目から舌を侵入させ、つるりとした歯の一本一本を撫でると、時斗はすかさずその舌に自分のものを絡めてちゅくちゅくと吸い付いた。
「んんっ、ちゅっ……ちゅぱっ」
 いつの間にか離れていた身体はお互いを気遣うように抱き合い、合わせた唇の感触に懸命に反応していく。
 絡めた舌を器用に動かす玲人に、ああコイツは本当に完璧なんだなと若干の苛立ちを覚えながら、時斗は飲み下しきれなかった唾液を口端からツゥーと垂らした。
「……はぁっ!」
 どれくらい経ったのか、随分と長い間口づけていた気がする。存分に時斗の唇を堪能した玲人が漸く唇を離すと、時斗は新鮮な空気を吸い込んでゼェゼェと肩を上下させた。
「ごめん、嬉しくて。つい、やり過ぎてしまった……」
「はぁ……ふぅー……いいよ。俺もその気だったし」
 フッと笑った時斗に玲人はたじたじになりながら赤く染まった顔を両手で覆った。
 そんな玲人の上に再び文字が浮かび上がってくる。
 【嬉しい】【幸せだ!】【時斗かわいい】【恥ずかしい……】そんな、素直な玲人の心の声が大量に浮かんでは消え、時斗はそれらを目で追っては寂し気に微笑んだ。
「玲人」
 抱きしめていた身体に力を込め、囁く。
「なんだい? 時斗」
「……最後、なんだしさ……もっと凄いこともしようよ」
「それって……」
 それだけの言葉で玲人は時斗が何を望んでいるのかが分かったようだった。
 口づけ以上の交わりを求める時斗に、玲人は一瞬悩んだ素振りを見せたが、すぐに頷いて返事をした。
「時斗がいいと言ってくれるなら……俺も、したいよ」
「いいに決まってんだろ……馬鹿」
「ふふっ、時斗らしいね。色気のないお誘いだ」
「色気なんかなくたって、玲人は俺だけ……でしょう?」
「うん」
 そう返して、玲人は優しく時斗を机の上へと押し倒すと、覆いかぶさって触れるだけの口づけをする。
「最後、か……」
「……そうだよ。これが最初で、最後だ」
「そうだね……」
 するりと忍び込ませた掌で直に時斗に触れる。滑らかなな肌をなぞり、一片たりとも漏れがないようにしっかりと触れた。
「ねぇ、時斗」
「んっ……なに?」
「俺、ずっと時斗に触れたかった。だから、今……凄く幸せだ」
「みたいだね」
 玲人の上に浮かび上がった文字と重ねてそう答える。
「俺は……本当に馬鹿なことをしてしまった。取り返しのつかないことを。それでも時斗はそんな俺を受け入れてくれる……なぜ?」
「そんなの決まってるじゃないか」
 そう言って、時斗は一拍置くと、深呼吸をして言葉を吐き出す。
「好きだから。玲人のことが大好きだから」
「……そっかぁ……もっと早く、聞いておけば良かったなぁ」
「そうだよ。まあでも……言わなかった俺も同罪ってことでさ」
 時斗が玲人の首へ両手を伸ばす。そして、そのまま引き寄せるように抱きしめると、そっと玲人の耳元で囁いた。
「たっぷり、楽しもう?」
「……っ⁉」
 そんな言葉に、玲人はつま先から頭のてっぺんまで電流をながされたかのように驚き、染まった頬をさらに赤らめた。
「時斗……ズルいよ」
「言ったもん勝ちってね」
「はぁ……っ、じゃあ言われた俺も容赦なくいって良いってことだよね?」
「……へっ?」
「手加減なんかしないから。俺が満足するまでしてやるからね」
「ちょっ、玲人? ま――」
「待たない。待てない……ちゅっ!」
 再びかるく触れるだけの口づけをすると、玲人は言葉通りに突き進み、今さら恥ずかしがる時斗を徹底的に味わっていく。
 浮かび上がる文字を読んでみても【もう限界だ】【待てない】というものしかなく、時斗は諦めたように息を吐いて全てを受け入れることに決めた。
 これが、最初で最後。
 二人は場所も忘れて交わり合い、昂る身体をお互いに労わるように触れて愛を注ぎ合った。
 これでもうおしまいなのだ。そんなことは分かっている、けれど、それでも二人はこの一度きりの最後を永遠に続くものとし、絶対に忘れまいと余すことなく噛みしめて触れ合った。
 後悔も未練も、今の幸せの中ではどうでもいいと、そう感じられるくらいに二人はお互いの全てを曝け出して受け入れるのだった。


   ***


「満足した?」
 制服のシャツのボタンをとめながらそう問いかけると、玲人は気恥ずかしそうに頷いて見せた。
「なら良かった」
「その、時斗は凄いね……沢山のことを知っていて」
「まあ、本読んでると勝手に覚えることってあるからね」
「そんな激しいものまで読んでたの⁉」
「たまにね」
「そうなんだ……」
 答えて、耳まで真っ赤にした玲人を見て、時斗はクスクスと笑うとすっかり整った制服姿で玲人を真っ直ぐに見つめる。
「これで……未練はなくなった?」
「……」
 やんわりと笑みながら言うと、玲人は目線を逸らしながら唇をぎゅっと噛んだ。
「やっぱり……ずっと、一緒に居たい」
「まったく……そう言うと思った」
 玲人の返答に鼻から息を吐くと、時斗は玲人の両手を取って強く握る。
「……触れられなくても、声が聞こえなくても……俺達はずっと一緒だよ」
「そうかもしれない。でも……それはとても寂しいことだよ」
「そうだね。けど、ずっと俺は元の世界に帰りたいし、玲人のことを置いていくのも嫌だ」
「それは……そう、だけれど」
「だからさ、お願い……もう此処を離れて?」
 本当にお願いをするように問うと、玲人は震える声で逆に時斗へ問いかけた。
「この先、時斗は俺以外を選ばない?」
 その問いかけは、まるっきり子供が好きなものを手放したくないと駄々をこねるようなもので、時斗は思わず苦笑してしまう。
 それでも、玲人にとっては真剣なことのようで、泣き出しそうな顔で言葉を続けてくる。
「時斗はずっと俺のものでいてくれる?」
「そんなの……決まってるじゃないか」
 呆れたように言い、時斗は玲人へ満面の笑みを向けた。
 そして、強く握った両手を胸元まで持ってくる。
「だって俺……とっくにお前に憑りつかれちゃってるもん。簡単には離してくれないでしょう?」
「うん! 離さない、絶対に……っ!」
「だったら、大丈夫だよ。俺は玲人を忘れることはないし、これから先も……ずっと玲人だけが一番だ」
「時斗……ごめんっ……ありがとう」
「泣くなよ馬鹿。こっちまで泣きたくなってくるだろ……」
 きっと、これで本当に最後なのだと自覚すると時斗も熱いものが込み上げてきて、じんわりと目尻に涙が溜まっていた。
「ああ……本当に、馬鹿なことしちゃったな、俺……っ」
「……玲人」
 玲人の後悔と未練が消えていくのが分かり、時斗は玲人から手を離してその身体を強く強く抱きしめる。
「嫌だよっ! 玲人っ……消えないで、逝かないで……っ!」
 先程、大丈夫だと強がったのは自分だというのに、涙が頬を伝った瞬間、抑えきれない感情が爆発したように漏れ出てしまい、時斗は玲人に縋りついて泣き叫んだ。
「俺っ、一人ぼっちじゃ上手く生きられないよぉ……っ」
「時斗……」
 そんな時斗を強く抱き返し、玲人は自分を包む白い光が完全に消えてしまう前にと、必死に時斗へ声をかける。
「大丈夫だよ。時斗なら……高畑や杉田先生も居るんだから」
「でもっ……でもっ」
「大丈夫……絶対にずっと側にいるから。約束するから」
「本当……?」
「うん。俺、時斗には嘘吐いたことないよ? だから、ね?」
「……うん」
「時斗……俺は約束を果たす。だから時斗も諦めないで」
 白い光がだんだんと強くなっていき、玲人の身体が透けていく。
「諦めない……諦めてなんか、やらないよ」
「うん。それじゃあ、時斗……またね」
 その言葉を最後に、玲人の身体は完全に消えて静かな図書室には時斗だけが残された。
「玲人……」
 最期まで、自分を想い続けて消えていった彼に時斗はとめどなく溢れる涙を零しながら、初めて声を上げて泣いた。
 その声は暫くの間、静かな図書室の中へと響いていた。


「……っ!」
 あれからどれだけの時間が経過したのか、時斗はいつの間にか眠っていたらしく机にうつ伏せていた。
「そうだ、光達のところに行かなきゃ……って、あれ?」
 光と杉田の待つ音楽室へ向かおうと立ち上がった瞬間、周りの景色が変わっていることに気がついた。
 そこは自室であった。
「俺……帰って、来たの?」
 急いで携帯端末で時間を確認すれば、玲人に連れられてあの不思議な空間に行った時間を指していた。
「光……先生は……っ!」
 そう思い、光へ電話をかけると数回のコールの後で元気な声が聞こえてきた。
「時斗! ねぇ、俺達……」
「うん……帰って来られたみたい」
「良かったぁ~……ずっとあそこに居なきゃいけないかと思ったよ」
「ごめんね、巻き込んで」
「時斗のせいじゃないって。それより、どうやって犬飼のこと説得したのさ?」
「それは……」
 答えようとしたが、あの時の出来事は二人だけの秘密にしておきたいという思いが過り、時斗は一旦黙ると、誰に見せるでもなく首を左右に振ってから返事をした。
「企業秘密ってことで」
「なんだよそれ~」
「まあいいじゃないか、帰ってきたんだから」
「まあね。そだ! 先生には? もう連絡した?」
「これからするつもり」
「そっか。じゃあ切るね、明日また学校でね」
「うん。ねぇ、光……いつもありがとう。これからも、よろしくね?」
「なんだよ今さら。当たり前じゃん! 俺こそ、よろしくね? 時斗」
「うん! じゃあ、またね」
「またね~」
 光との電話を終え、時斗はすぐに杉田にも連絡を入れた。
 杉田も数回のコールで電話に出てくれた。
「猫田から連絡がきたということは、成功したんだな?」
「そうみたいですね」
「犬飼は? どうだった?」
「安心して逝きましたよ。笑ってました」
「そうか……それは良かった」
 そう言った杉田の声は安心しつつも、どこか寂し気なものだった。
 無理もない。杉田にとって、犬飼玲人は恩人で、誰よりも大切に思っていた生徒なのだから。
「……先生」
 そんなことを思いながら、時斗は杉田を呼ぶと優しい声色で語りかけた。
「直接は言っていませんでしたけど、きっと玲人は先生に感謝していたと思います」
「……なぜ、そう思うんだ?」
「だって……アイツ、あんな場所でも先生が大事にしてた花の世話してたんですよ? 何も思ってないなんてことないと思います」
「……教室の花瓶のことか?」
「はい」
 音楽室に向かう途中、窓越しに見た花壇には玲人の姿はなかったことを思い出し、杉田は瞬時に花瓶に生けた花のことを思い出して言った。
 毎日、玲人が水をかえて美しく飾ってくれていたものだ。忘れるわけがなかった。
「玲人はあれで、本当に面倒なことはしない性格です。だから、きっと先生との時間はアイツにとっても大切だったんだと思います」
「そうか……そう、だったんだな……犬飼っ」
 生前の玲人とのやり取りを思い出し、杉田は声を殺して泣き始めた。
 葬式の時とは違い、本当に悔しさを帯びた泣き声で、時斗は聞こえないふりを必死に貫くことしかできなかった。
 暫く沈黙の時間が過ぎ、杉田の方から声をかけられる。
「猫田、こんなことを今さら言うのは違うかもしれない。けれど……言わせてくれ」
「はい」
「今まで、犬飼を愛してくれて……ありがとう」
「……違いますよ先生、俺は今でも玲人を愛してますから」
「そうか……ありがとう」
 安堵した声で言われ、時斗は気恥ずかしさを覚えながらも杉田が完全に泣き止むまで電話を続けた。
「明日も早い、そろそろ休もう」
「そうですね」
「それじゃあ、猫田……また明日、学校で」
「はい。おやすみなさい。先生」
 かるく挨拶をして電話を切る。
 明日からも学校はある、変化したのは犬飼玲人という存在が居なくなったということだけだ。
(玲人……)
 ずっと一緒だと約束はしたが、触れることも声を聞くこともできないというのはやはり辛いものだ。心の中で玲人の名前を呼んでも、以前のように姿は見せてくれない。
(寂しいよ……玲人)
 もう心を読むことすらできない事実に、時斗はそう思いながらベッドへと身を投げた。
 うつ伏せになって横になれば、急に疲れを訴えだした身体が沈んでいき、気がつけば泥のように眠っていた。


 翌朝、学校に行くとクラスメイト達は既に別の話題で盛り上がっていて、誰も玲人の話をしてはいなかった。
「……」
 それに僅かな空虚さを感じながら席に着く。以前は玲人が座っていた席には美しいコスモスが飾られていた。恐らく、杉田がやったのだろう。玲人と最後に育てた花なだけあり、草花に疎い時斗でもその美しさはよく分かった。
「授業始めるぞ~」
 ガラガラと音を立てて引き戸を開けながら入って来た杉田はあの空間にいた時とは打って変わって以前通りの気だるげで、やる気のない様子だった。
 そんな姿に若干の安心を覚えて、時斗は授業に集中する。
 最近は秋がなくなったとよく言われているが、まだまだ暑いように思えた外気は少しだけ秋風を混ぜていて、心地の良い風が教室に入ってきて髪をふわりと揺らしていた。
(あの世にも季節ってあるのかな……)
 ふと、そんなことを思って校庭を見ると、端の方へ綺麗なコスモスの咲いた花壇が目に入った。
 杉田と玲人が最後に手入れをした花壇は、誰にも邪魔されることなく咲き誇った花々たちでその美しさを一掃際立てているようだった。
(玲人も見てるのかな?)
 見ていたらいい、と思いながら時斗はノートに可愛らしいコスモスの落書きをするのだった。
 午前の退屈な授業が全て終わり、大あくびをしていた時斗のもとへ光が大きな弁当片手にやって来る。
「時斗、一緒にご飯食べよう!」
「うん、いいよ」
「んじゃ、屋上行こうよ。今日気温丁度いいし」
「そうだね」
 光に返事をして、時斗も行きがけに買ってきたコンビニの袋を持って一緒に屋上へと向かった。
 心地のいい秋風が吹き、絶好の昼食スポットとなったそこは不思議なことに人気がなく、居るのは時斗と光の二人だけであった。
「あ~ん! それにしてもさ、不思議な体験だったよね」
 モグモグと口を動かしながら言う光に行儀が悪いぞと指摘して、時斗は昨日のことを思い出す。
「そうだね……でも、俺は後悔してないよ」
「……んくっ! ちゃんと話できたから?」
「それもあるけど……なんだろう、玲人の全部を俺だけ知れた気がしてさ」
「なにそれ、ちょっとジェラシー感じちゃうなぁ」
「ははっ、ごめんごめん」
 そういえば、光は自分を好きだと言ってくれたのだったと思い出し、時斗はなんとなしに光に問いかける。
「光はさ、まだ俺のことが好きなの?」
「もちろん。でも、もう犬飼から奪いたいとかそういうのはないよ」
「そっか……ごめんね、光がダメとか……そういうのじゃないんだけど」
「謝んないでよ。フラれたのがもっと惨めになってくるじゃん」
「そういうもの?」
「そうだよ。俺じゃ犬飼には敵わないんだって、分かってるし。もう諦めはついてるからね」
 爽やかに笑って言う光に、時斗は申し訳なさで満たしてしまっていた思考を空っぽにして光を見つめた。
 諦めがついたと言っているだけあって、その表情は穏やかなものだった。
「でもまあ、犬飼の未練ってのがなくなったなら、いいんじゃない?」
「うん。玲人だけあんな場所に置いてはいけなかったからね」
「そうだね。……未練、かぁ」
 光がそう呟いて空を見上げる。サラサラと靡く髪を少しだけ鬱陶しそうに感じながら、光は時斗の方を見ずに話をした。
「俺にもあるのかなぁ……死んでからの未練って」
「……あるんじゃないかな。きっと、俺にもあるだろうし」
「そっかぁ」
 死んでから分かるもの、というのも世の中にはあることだろう。玲人がそうであったように、自分達だって例外ではないはずだ。
「そうだ……玲人がさ、最後に言ってたんだけど……」
「なに?」
「アイツも、光と友達になりたかったんだって」
「犬飼が? そんなこと言ったの?」
「直接的ではなかったけどね。俺には光も、杉田先生もいるから大丈夫だって」
「そう、なんだ……あの犬飼が、ねぇ」
 不思議そうに思いながらも、光は口元をほころばせて嬉しそうにしていた。
 もし、玲人が生きていたら、こうして同じ輪の中で三人一緒に昼食をとっていたかもしれない。たまに杉田も加わって、面白おかしく日常を過ごしていたかもしれない。
 そう思うと、時斗は妙に胸がザワついてモヤモヤとした塊を抱きかかえるように胸元に手を置いた。
 もしも、というものはもうないのだ。
 玲人が居ない以上は、叶わない願いであり、ただの理想だったことにすぎない。そう考えると嬉しさと一緒に寂しさが込み上げてきて、時斗はなんとも言えない顔で光の方へ視線をやった。
「どうしたの?」
「ん? いや、なんでもないよ」
「そっか。あっ! そういえば、今度の野外学習の班決めってこの後だよね」
「あれ? そうだったっけ?」
 光に言われて、ふと朝礼の時の杉田の言葉を思い出す。やる気のない声で昼休み後の授業で決めると言っていた。
「すっかり忘れてた」
「だと思った。んで、時斗は誰と組むの?」
「俺は……決めてないかな」
「だよね。それじゃ、俺立候補しちゃおっと!」
「立候補って……俺そんな人気じゃないし、たぶん余る方だと思うよ?」
「も~! そういう卑屈なこと言わないの!」
 ぷっくりと頬を膨らませて光はそう言うと、ピンッと人差し指を立てて時斗に見せる。
「恋人枠は犬飼に譲ったけど、親友って枠は俺だからね! そこんとこ大事にしてよね?」
「光……うん。ありがとう」
 真っ直ぐに自分を見て笑う光の表情を見つめ、時斗はそう言うとコクリと頷いて見せた。
「そんじゃ、そろそろ戻ろうか」
「そうだね」
 返事をしてコンビニのごみを集めて持っていく。教室に戻る途中にあるごみ箱にそれらを捨てて、チャイムの音とほぼ同時に教室へと戻った。
 暫くすると、杉田が午前中以上に気だるげな様子で教室へ入ってくる。
「それじゃあ、今から今度の野外学習の班決めするぞ~。適当に二組になれ~」
 杉田の発言を受け、クラスメイト達がぞろぞろと各々の好きな相手とペアを組んでいく。
 それに少し遅れた状態で時斗も光とペアを組むと杉田に申告に行った。
「猫田と高畑な……よし、席に戻っていいぞ」
「はーい! 時斗、戻ろ」
「うん」
 光に手を引かれて席に着く。
 もし玲人が生きていたら、今ごろ一番最初にペアを組んで杉田へ申告しに行っていたのだろう。そう思うと、光には申し訳ないが時斗は少しだけ残念な気持ちを抱いた。
(玲人……)
 心の中でそんな想いをぎゅっと握りしめ、なんでもないように過ごす。
 午後も適当に授業を受け、部活に向かう光を見送ってから自宅までの道を歩く。
 玲人が死んだあの踏切まで行くと、既に血痕などは綺麗さっぱりと片付けられていて、まるで此処では何もなかったかのようになっていた。
「たった一日しか経ってないのにな……」
 そう呟いて、カンカンと鳴る踏切の音に僅かにザワつく胸を押さえる。
 あの日、言葉を残して自ら踏切へと入っていった玲人の姿を思い出す。散らばった玲人の肉片も恐らく綺麗に回収されているのだろう。葬式の時には見られなかった顔も、きっと。
 暫くして電車が過ぎていき、踏切が開いた。
 一歩、一歩とゆっくり進んでいく。以前は二人で歩いていたそこは、一人で歩くには少々広く感じられた。


   ***


 あれから数日が経ち、今日は野外学習の日となった。
 光と二人で好きな場所を決めて、課題である写生を始める。
「そういえばさ」
 光が目先のキャンバスを見ながら話しかけてくる。
「なに?」
 それに対して、同じくキャンバスから目を離さずに聞き返す。
「犬飼のこと、多少は落ち着いてきた?」
 鉛筆を走らせながら問われて、時斗は一瞬だけ動かしていた手を止めてポカンと開けた口を動かした。
「いきなりだね」
「うん。これでもちょっとは気は遣ったつもりだけどね」
 確かに、あの一件から数日後、二人きりの場所で問われたことは気を遣ってくれたのだろうと思えた。
「そうだなぁ……正直言うと、まだ思い出すよ。でも、そこまで苦しくはないかな」
「そっか。それじゃ、よっぽど良い未練の絶ち方してきたんだね」
「そうなるの……かなぁ?」
 あの対応に玲人は喜んでいた。実際に成仏するまでに至ったのだから、時斗の選択は間違ってはいなかったと言えるだろう。しかし、時斗の方はと聞かれるとなんとも答えづらい状態だ。
「違和感っていうのかな、そういうのは残ってるよ」
「居ないことへの違和感ってこと?」
「うん。やっぱり、いつも一緒にいたからいざ居なくなると違和感すごい」
「あ~……それは確かにあるかもね」
「でも、ちゃんとケリはつけてきたから無駄に悩んだりとかはないけどね」
「そっか」
 光が鉛筆を滑らせて風景を描く様をチラリと見て、時斗も急いで手を動かす。
「まあ、時斗が納得してるならいいけどね」
「納得、かあ……うん。まあ、してるのかな」
「ふぅ~……よし、完成!」
「えっ、早いなっ!」
「ふっふっふっ、こう見えて俺は絵が得意なのだよ時斗くん」
「そういえば、昔から賞とかよく貰ってたもんね」
 小学生の頃から光がちょくちょく賞を貰っていたことは知っていたが、あまりにも多彩なため、いつ何の項目で貰っていたかまでは気にしたことがなかった。
「時斗は? もう出来そう?」
「ん、もうちょっと……こんなもんでいいかな?」
「見して~!」
「ヤダ。俺は下手くそだもん」
「下手でも味があればいいんだよ」
「それ褒めてるつもり?」
 そんなやり取りをして、野外学習を終えると課題を提出した順で直帰していいと言われた。
「じゃあ、時斗また明日ね」
「うん。またね、光」
 爽やかに手を振って言ってきた光にかるく返事をして帰路につく。
 あの踏切を見ても、もう息が吸い込めないほどの苦しさを感じることはなくなっていた。


   ***


 もう数日で冬休みを迎えようとしていたある日、時斗は何の目的もなく図書室へと来ていた。
 特に目的もなく本棚を見て回る。すると、ある一冊の本を手に取った。
 タイトルは『ある青年の恋について』というもので、内容は恋愛小説にあたるものだった。
 生前、玲人に勧められた本だ。
 あの件が起こる前に勧められて、あまり読む気がせずに放置していたそれをパラパラと捲る。内容はいたってシンプルで、ある日カフェで出会った女性に一目惚れをした青年が、その女性に振り向いてもらうために必死にアプローチをするといった、言ってしまえばありきたりな内容だった。
 けれど、時斗はそれを立ったまま読み進めると、次第に溢れてきた涙に気づいてぐしぐしと制服の袖で目を拭った。
(俺と玲人も、こんなふうになれてたら……)
 そんな想いが込み上げてきて、本の内容などろくに入ってもこないくせに涙が止まらなかった。
「玲人も……こうなりたかったのかな」
 呟いた、その瞬間――冷たい風が時斗の前を横切る。誰かが窓を開けたのだろうかと思い、窓の方を振り返るがそこに人気はなく、窓も閉まったままとなっていた。
「……?」
 不思議に思い、首を傾げると向き直った本の上に薄っすらと文字が浮かび上がる。
 【ずっと一緒だよ】そう浮かんできた文字は、時斗が目を見開くと同時に消えて元の恋愛小説のページに戻っていた。
「……玲人?」
 思わず呟くが、そこに玲人の姿は当然のごとく見当たらず、暇そうに船を漕いでいる図書委員と自分の二人だけが室内に居る状態だった。
「気のせい……かな?」
 先程の冷たい風と文字が不思議でならないが、実際何の証拠もない状態では確信を突けず、時斗は再び本へ目を通すことにした。
 内容はやはりありきたりだったが、最後の青年の言葉には胸を打たれるものがあり、どうして玲人が進めてきたのかが少しだけ分かった気がした。
「ふぅ……」
 読み終えたそれを元の位置に戻し、時斗はいい加減帰宅しようと図書室を出ることにする。
 すると、またあの冷たい風が今度は背後に吹き、まるで抱きしめられているような感覚に襲われた。
 ゾワリと走る悪寒に、時斗は不思議そうにするが風邪でも引いたのかと思い、今日は早めに就職しようと思いながら図書室を出て帰路を歩いた。
 すっかり冬の空気に変わった外を歩きながら、ズレたマフラーを直す。
 僅かに赤くなった手を見て、そろそろ手袋も必要だろうかと思い、あの踏切まで歩みを進める。
 今日も丁度電車が来る時間と合ってしまい、カンカンと鳴り響く踏切の音を聞く。暫くの間その音を聞いていると、不意に背筋を冷たい風が吹き抜けた。
「……っ⁉」
 驚きに肩を揺らすと同時に電車が通り過ぎ、踏切が開かれ、時斗は不思議に思いながらもそのまま歩みを進めて家へと帰った。


 翌日、もうさすがに外は寒いということで杉田に無理を言って解放してもらった化学室で光と昼食をとっている最中に時斗は昨日の出来事を話してみることにした。
「……ってことがあってね」
「気のせいじゃない? 最近一気に寒くなってきたし」
 大口で好物の唐揚げを頬張る光がそう言って、モグモグと口を動かした。
 確かに、最近になって気温が一気に下がり始めたのは事実だ。ニュースの天気予報では雪が降るかもしれないと言っていた。
「気のせい……なのかなぁ」
「だって、犬飼がちゃんと成仏したんでしょう?」
「うん。しっかり見たよ」
「じゃあ、また幽霊になって現れるなんてことないじゃん」
「それは……そう、なんだけど」
 なんとも歯切れの悪い答え方をすると、側でカップラーメンをすすっていた杉田も同じように口をはさんできた。
「猫田が見送ったのだから、今さら蘇るだなんてこともないだろう……考え過ぎだ」
「そう……ですね」
 杉田にまで言われてしまうとこれ以上は相談にならないと思い、時斗は玲人の話題を出すのを止める。
「そういえば、野外学習の時の写真って明日できるんでしたっけ?」
「ああ。その予定だ」
 問いかけた光に杉田がそう答える。
 玲人との件が落ち着いてすぐにあった野外学習の際に撮った写真が明日届くらしい。
 普段はそういったものに興味を示さない時斗だが、今回は光と一緒に撮った写真も多く、そこそこに楽しみだった。
「綺麗に撮れてるといいな~、ね? 時斗!」
「うん。杉田先生が撮ってくれたし、大丈夫だと思うけど」
「あまり期待はしないでくれよ」
 杉田に言われて、野外学習の日初めての一眼レフカメラにたじたじとしていた杉田を思い出し、時斗はクスクスと笑いを零す。
「大丈夫ですよ。先生意外と本番に強いの知ってますから」
「意外とは余計だ」
「ふふっ……あっ!」
「ん?」
 笑いながらふと窓の外を眺めた時斗が漏らした声で、光もそちらを振り向く。
 すると、そこには白い小さな粒が降り出していた。
「雪だー!」
「今年の初雪だな。どうりで寒いと思った」
 そう言って、杉田はストーブの温度を上げる。
「綺麗だなぁ……」
 あの世で玲人もこの雪を見ているのだろうか。ついそんなことを考えてしまうくらいに、その雪は美しく、大切な相手と共有したいものだった。
(玲人……)
 あの一件で、玲人がどれだけ自分を愛してくれていたかがよく分かった。
 あの日、自分の出した答えを受けて玲人は成仏していった。けれど、本当に玲人は満足していたのだろうかと、そう思う日があった。
 時斗は時斗なりに玲人への想いを伝えたつもりだが、果たしてあれで正解だったのだろうか。考え出すと思考がそれだけでいっぱいになって、他のことが入ってこない。
「――時斗っ!」
「……へっ?」
「ぼーっとしてどうしたの? もう教室戻るよ?」
「あ、ああ……うん」
 呼ばれていたことすら気づかないほど、自分は玲人のことを考えていたのかと驚きながら時斗は急いでごみを片付けると、光を追いかけるように教室へと向かった。
「写真、楽しみだね」
「うん。いい感じのやつあるといいね」
 そんな他愛ない会話をして午後の授業を受けて、その日もまた同じように過ごして帰宅する。


 翌朝、教室へ入ると一目散に時斗のもとへ走ってきた光に挨拶をする。
「おはよう、光。今日も寒いね」
「おはよう、時斗……あのさ」
 言いづらそうに顔をしかめながら、光が一枚の写真を時斗に渡してきた。
「これ、なんだけど……」
「ああ、野外学習の時の写真?」
 それを受け取り、目を通す。
 初めての一眼レフカメラだと言ってわりには綺麗に写った写真を見て、流石は杉田だと感心していると、光が一か所を指さして震える声で時斗に囁いた。
「これってさ……犬飼、だよね……」
 そう言われて、さされた箇所へ目線を向ける。
 そこには、誰よりも美しく写された玲人の姿があった。
 時斗の後ろにぴったりとくっつき、まるで背後霊のように時斗を守るかのように写っている。
「……玲人」
「心霊写真ってことだよね? どうしよう……こういうのって、やっぱり霊媒師とかに依頼した方がいいのかな?」
 焦った様子で言う光をよそに、時斗は久しぶりに見た玲人の顔を指でなぞり、小さく笑う。
「ああ……本当に、憑りつかれちゃったなぁ」
 あの時自分が言った言葉が本当になったことを嚙みしめながら、時斗は目を細めて笑むと、その笑顔を見た光が肩を震わせて目を見開く。
「時斗……後ろ」
 光が時斗の背後を指さして絞り出した声で言う。
「ああ、光には見えるんだ? いいなぁ」
 光の目に映り、自分の前には現れない存在を感じて、時斗は心からの幸福に満面の笑みを浮かべるのだった。