日頃から話すのかというと、答えはノーだ。
何か共通の話題があるのかというと、これも答えはノーだ。
小野さんと電話番号の交換をして3週間くらい経過したが、そのあいだ、一度も電話などしなかった。
電話どころか、顔を合わせることすらない。
同じ社内にいるはずなのに、部署が違うというだけで、こんなにも関わりというものを持たないのだと実感する。
小野さんは死にたいと言っていた。だからふと、いなくなっているのではないかと思うことがあった。別に親しい人ではないから、死んでしまったと聞いても、どこか別次元でのお話くらいにしか思えないかもしれないけれど。
我ながら酷くて冷たい人間だと考えると、自然と口角が引きつる。
ただ、声をかけた。
ただ、電話番号を交換した。
ただ、それだけ。
それだけだったのに、またその思考を改めさせる出来事に遭遇する。
遅くまで残業をしていたある日、誰もいないと思っていた社内で人影を見つけた。
セキュリティを掛けるために向かった裏口の近く──電気ひとつ付いていない真っ暗な廊下で、窓から外を眺めている人がいたのだ。その人こそ、小野さんだったのだ。
まさかこんなところにいるなんて思っていなくて、私はつい「えっ」と声を漏らしてしまう。けれど彼は、そんな私を気にもしていないようだった。
「……見てください。そこの夜桜、綺麗ですよ」
「……えっ?」
夜桜、綺麗。
掛けられた言葉を脳内で再生して、彼を見上げる。
私の方を見向きもせずに、そう言葉を放った。
街灯に照らされる1本の桜は、確かに彼の言う通り美しく見える。
これまで季節なんて気にしたことがなかったけれど、小野さんの言葉ひとつで、今が春であることを改めて認識した。
桜が舞う季節。
仕事に追われすぎて四季の移り変わりに、そこまでの意識を注いでいなかったのもまた事実。
風に煽られて、花びらが優しく舞う。幻想的な光景に、思わず感嘆の声が漏れた。
入社して数年経つが、この場所から見える桜の木が『綺麗』だなんて思ったことがない。
小野さんのことを詳しくは知らないけれど、そういう感性を持つ人もいるのだと、なんだか妙に関心してしまった。
「日向さんはご帰宅ですか?」
「あ……はい。今日はこれで」
「そうですか。それはそれは、お疲れ様でした」
小野さんはそれだけを告げ、ゆっくりと歩みを進める。
駅のときもそうだったけれど、何も持たずにひとりで立ち尽くしている彼は、一体何を考えているのだろうか。
背筋を伸ばし、姿勢正しく歩く。けれど、どこか辛そうな空気感を身にまとっているようにも見える。その背中をこのまま見送ってもいいのか。悩んでいると、心臓はうるさく音を立てる。自然と呼吸が荒くなる感覚がする。
このまま見逃してはいけない。
桜と小野さん、その両方を交互に見ながら、私は一言「あのっ」とだけ声を発する。
すると小野さんはゆっくりと足を止めて振り返り、口角だけを上げてこちらを見た。
何も言わない。私も彼も、何も言わない。
——小野さんはまた、死にたいんですか?
その言葉は、喉に引っかかったまま出てこない。
「……お疲れ様でした」
引きつった笑顔を浮かべると、小野さんもさらに口角を上げる。
「日向さん、お疲れ様でした」
今度こそ小野さんは歩き始める。その背中が見えなくなるまで、私は静かに立ち尽くしていた。
桜と、小野さん。
儚げに映るふたつに、胸がちくりと小さく痛む。
溜息を零せば、自然と呼吸も落ち着いてくる。
私は桜を見つめながら、ゆっくりと歩き始めた。
会社を出るまで、誰とも会うことはなかった。



