死にたいと言っていた彼と、連絡先の交換をした。
人生に疲れた。死にたい。そう弱々しく言った彼は、鞄も持たずに駅のホームで立ち尽くしていた。
遠くから見つけてしまって、無視することもできなくて。だからつい、声をかけてしまった。
「……い、いきなり変なこと言ってごめんなさい」
「第一声で『人生に疲れました』なんて言われるとは思わなくてビックリしましたけれど。別に、大丈夫です」
「いや、ホントすみません」
これまた弱々しい笑顔を浮かべた彼は、ペコペコっと数回頭を下げてから、小さく溜息をついた。
私たちの周りに漂う不穏な空気を掻き消すように、少し離れた場所から女子高校生の楽しそうな声が聞こえてくる。それを聞いた彼は、また溜息をつく。今度は、弱々しい笑顔すら浮かんでいなかった。
「小野さんに何があったかわかんないですけど、少し休息とか取られた方がいいと思いますよ」
「……休息の取り方もわかんないんです」
「え?」
「一体どうやって、休むんでしょうね……」
「……」
総務部に所属する私には、小野さんが所属する営業部の内情を理解しがたい。激務だという噂は日頃から聞くけれど、現実的にどうなのかは、まったくわからない。
だからといって、迂闊に聞くこともできない。
駅にいる小野さんが、鞄すら持っていない理由。それすらも、聞くことはできない。
ホームには音楽が鳴り響き、電車が通過するというアナウンスが流れる。
遠くから近づいてくる音に耳を傾けていると、小野さんは少しだけ顔を上げて線路を眺めた。徐々に大きくなる音。しばらくすると、突風と共に3両編成のシルバーな電車が通り過ぎていく。
乱れる自身の髪を押さえながら小野さんを視界に入れる。彼の短い髪も、ひらひらと激しく揺れていた。
通り過ぎた電車を見つめる瞳には、光がない。
電車の音が消え、駅のホームに静寂が戻ってきたとき、彼はまた弱々しく口角を上げる。
「日向さん、電話番号を交換してください」
「……え?」
なんの脈絡もない。唐突な提案に目を見開く。
小野さんはポケットからスマホを取りだし、電話帳を開いていた。
私も圧に近いその空気に触れ、急いでスマホを取り出す。
差し出されたスマホ画面を覗き込むと、そこにはひとつの電話番号が映し出されている。
それを少しだけ急ぎながら、自分の電話帳に登録した。
お互いに登録が完了すると、今度の小野さんは満足そうな笑顔を浮かべる。意図がわからずに首を傾げると、何事もなかったかのようにスマホをしまい、彼は軽く頭を下げた。
「ありがとうございます。では僕、戻りますね」
「え、戻るって?」
「会社です。仕事、まだ終わってないので」
「……ぁ」
「お疲れ様でした」
これ以上、何も言えなかった。
スーツの裾を翻しながら、小走りでホームを去っていく。仕事が途中だと言うのならば、小野さんが鞄も持たずに手ぶらだったのもなんとなく理解できる……気がする。
だけど、どうして帰るつもりもないのに駅のホームにいたのか。それは理解ができない。
死にたいと言った彼が、死ぬつもりでここにいたとしたら——なんて、そんな想像はしたくない。でももしそれが事実だとすれば、私が今日ここで話しかけたのは、意外にも正解だったのかもしれない。私はひとりの命を救ったことになるのかもしれない。
すべて推測でしかないけれど。
「……」
スマホを開いて、電話帳を見る。
先ほど登録したばかりの電話番号に、思わず溜息が漏れ出た。



