だから、恋を教えて



衝撃で、指先からスマホが離れていく。スローモーションのように、液晶を上にしたまま床を滑るスマホ。

そこには岩井さんのメールが表示されたままだった。

しまった、と思ったときにはすでに遅い。


「恋するBeラブコミック編集部?」
低音の声で読み上げられる。俺のスマホを拾った生徒、柊木の視界に内容が入ってしまったらしい。

「悪い、画面見えた」

頭から冷や水を被ったように、全身が凍りつく。俺は慌てて柊木の手からスマホを奪い取るのが精一杯だった。

やばい。やばいやばいやばい! どう誤魔化せばいいんだ!

「あ、あの、これは……」
明らかに俺宛のメールで、編集部名も書いてある。だけど、柊木はなんのジャンルの漫画かまではわからないかもしれない。

間違いメールだとか、適当に誤魔化せばなんとかなるか……?


「漫画の編集部からだったよな。リリ先生って三崎のこと?」

ばっちりペンネームまで見られたらしい。
逃げ道がどんどん塞がれていくような感覚に陥り、言葉を失っていると柊木が目の前でスマホをいじり始める。嫌な予感がした。

「もしかして、これの作者?」

向けられた画面に映し出されているのは、俺が手がけている漫画の一話の表紙だった。


「絶対誰にも言うな! 言ったら許さない!」

咄嗟に強い言葉が出てしまった。けれど、柊木は表情を変えることなく、小首をかしげる。

「俺、弱み握られてないのに脅されてる?」

我に返り、血の気が引いていく。まずい。強気に出たっていいことなんてない。弱みを握られているのは俺の方なんだから。


「あ、いや、その……言わないでください」

だんだんと語尾が小さくなっていく。今すぐ消えてしまいたい。そのくらい最悪な出来事だ。よりにもよって、この男に俺の最大の秘密を知られてしまうなんて。

柊木が非常階段の方を指さす。

「とりあえずさ、飯食わね?」
「え?」
「俺、腹減ってんの」

俺は腕を掴まれて、流されるように引っ張られながら歩く。

「ちょ……っ!」

掴まれた手首から、男らしい熱が伝わってくる。でっかい手だ。
指の節々が骨張っていて、爪の形まで整っているのを観察しながら、脳内で無意識にスケッチを始める。

前を歩く柊木の背中は広くて、身長も俺よりも十センチは高そうだ。

ふいに柊木が振り返った。逆光のせいで光を反射しない底なしの沼のような瞳が、俺を捉える。吸い込まれそうな感覚に陥り、息をのんだ。


「三崎って野菜嫌い?」
突拍子もない発言に一気に現実に引き戻される。

「や、野菜? 普通だけど」
「へえ」

なんで突然野菜の話なんだ? 突っ込みたいのは山々だけど当の本人はもう興味を失ったのか、呑気に欠伸をしている。柊木がなにを考えているのか全く読めない。

歩くたびにふわりと揺れる柔らかそうな黒髪に、白んだ薄い唇。どの角度から見ても、柊木侑李という男は俺が描きたい漫画のヒーロー像だ。

ただ顔が整っているだけじゃない。冷ややかで退廃的な憂いを含んだ色気を持ち合わせている男なんて早々いない。
俺の漫画に足りていないときめきと色気が、目の前にある。

だけど、この実在感のない美貌は俺の画力じゃ一生表現しきれない気がした。でも描きたくてたまらない。