だから、恋を教えて


「三崎、息吸って」
「え?」
「いいから」

言われた通りに、息を深く吸い込む。すると、沈んでいた気分が落ち着きを取り戻していく。

雨の湿り気を帯びた空気、土の匂い。そして葉や花に雨粒が当たる音。
風が吹くと、俺の前髪が揺れる。目の前に伸びてきた柊木の指先が、俺の前髪をそっと横に分けた。

「大丈夫。ここには俺たちしかいない」
そうだ。ここは中学の教室じゃない。
俺の視界には、色鮮やかな紫陽花の花とピンク色の傘、そして柊木。

「まあ、俺は別に三崎と噂になっても平気だけど」
おもしろがるように言われて、俺は眉を寄せた。
またこうやって、からかってくる。

「本当だよ。俺は、三崎となら誤解されたっていい」
「……はいはい」

俺に向けられる興味が今だけだとしても、正直嬉しい。
誰かと親しくなる気なんてなかった。ひとりの方が気は楽だし。
だけど、柊木といると欲が出る。この欲の正体に俺は気づかないふりをしながら、心の奥に押し込めた。

「なあ、柊木」
「ん?」
「漫画の参考にしたいから、ちょっと手伝って」
「いいよ」

傘を持っている柊木の手に触れる。柊木の手は先ほどよりも体温が下がっていた。

「なにするか、聞いてから承諾しなよ」
「俺は、三崎にならなにされても構わないし」
「本気で言ってんの?」
余裕そうな表情で頷く柊木を見ていると、意識しているのが俺だけだと痛感して悔しくなる。
俺は少し背伸びをして、柊木の顔に自分の顔を近づけた。

「この身長差で、こんな感じか」
脳内でメモを取っておく。しっかり漫画のネタとしても参考にしておきたい。
雨の中、傘で顔を隠して、背伸びをしてキスをするシーンというのもなかなか良さそうだ。

「フリだけでいいの?」
「……本気でするわけにいかないだろ」
突然なにを言い出すのかと、柊木に視線を戻す。すると、熱っぽい視線が俺に向けられていて息をのんだ。

「経験してみたいとわからないころもあると思うけど」
「それは、そうだけど」
だからって、本当にするわけにはいかない。
背伸びをやめて、柊木から視線を逸らそうとすると、後頭部に柊木の空いた手が回ってくる。

「ちょ……っ」
鼻先が触れ合う。唇はあと一センチほどで重なりそうだった。
呼吸をすることを躊躇う距離に、心臓が破裂しそうなほどドキドキする。
数秒見つめ合うと、柊木の顔が離れていく。

「どう? 参考になりそ?」
「う、うん」
胸元を押さながら、俺は俯いた。
……本当にキスをされるかと思った。
ホッとしたような残念なような、自分の感情がよくわからない。
だけど、自分の感情を理解するのには、十分な出来事だった。

「あ、止んだな」
柊木が傘を閉じる。雨はいつのまにか止んでいて、灰色の雲は遠くに流れ、空は晴れ渡っていた。

「そろそろ帰るか」
「……そうだな」
ふたりで並んで歩きながら、指先をきつく握りしめる。

気づきたくなかった。
知りたくなかった。
これが恋なんて、教えてほしくなかった。
どうせ、叶うはずもないのだから。