だから、恋を教えて


ことの始まりは前日の昼休みのことだった。

スマホを開くと、担当編集の岩井さんから先週提出したネームの赤字が届いていた。画面に表示された言葉を見て、俺は目を見開く。


『リリ先生、もっと胸キュンと色気を入れたいです』

……胸キュンと色気?


「三崎、数学のノート提出した?」

机に人影が落ちる。俺は慌ててスマホをひっくり返すと、顔を上げた。数学のノートを集めているらしいクラスメイトが、俺のもとにも回ってきたみたいだ。

「ま、まだ」

見られてないよな? クラスメイトの顔色をうかがう。特に変わった様子はないので、おそらくスマホの中身は見られていないみたいだ。ほっと胸を撫で下ろす。

「今出せる?」
「うん。ありがとう」

お礼を告げて、ノートを渡すとクラスメイトは「おー」と返事をして次の生徒のもとへ向かっていった。俺は周囲に誰もいないことを確認してから、スマホを手に持って再び画面を見る。

そこには漫画のネームとぎっしりと書かれた無数の赤字。

誰にでも知られたくない秘密のひとつやふたつある。

クラスで親しい人間なんて誰ひとりいない俺でも、周りに知られたくないことがあった。
それはBL漫画家だということ。SNSに趣味で漫画をアップしていたところ、去年出版社から声がかかってデビューが決まった。

最近連載が始まって、今は三話目が掲載されたところだ。

もしも学校の人たちに、俺がBL漫画を描いていると知られれば、この平穏な学校生活は終わりを迎える。
おまけにここは男子校だ。変に距離を取られて、あらぬ噂を立てられるかもしれない。想像するだけでゾッとする。

それより今は、五話のネームの件だ。

順調に進んでいたはずなのに、早速壁にぶち当たっている。
どうやら俺の漫画には胸キュンと色気が足りないらしい。

真っ赤な太字で、全体的にもっと胸キュンと色気を入れたいという指示が書いてあった。俺が描く受けの表情が硬く、恋をしているときの感情が伝わってこないそうだ。

恋愛ジャンルだから必要なのはわかっている。でも俺には圧倒的経験不足で、読者をときめかせるシーンが思い浮かばない。


……そもそも恋って、どういう感じなんだろう。
小学生の頃、はじめてときめきを感じたのは少女漫画のヒーローに対してだった。悲しいことに現実の人間にときめいたのは一度もない。ただ、唯一自然と目で追ってしまう人物といえば〝あの人〟くらいだ。

「やべー、俺今月もう五百円しかねーんだけど!」
「昨日ゲーセンで使いまくったからだろ。バカじゃん」

大きな声が教室に響き渡る。派手な五人組の中に一際目立つ人物がいた。

「柊木〜! 千円貸して!」
「無理」

襟足の長い艶やかな黒髪に、切れ長の目。どことなく憂いを帯びた雰囲気を醸し出している柊木侑李。理想のヒーロー像で俺の観察対象だ。

「俺の弁当あげよっか。野菜しか入ってないけど」
「いやー、柊木の野菜弁当はちょっとなぁ」

無機質な彫刻のような美しさを持っている彼が、言葉を発するたびに細い首筋に鋭く突き出した喉仏が度に上下する。どことなくいびつな色気が漂っていた。

ただそこにいるだけで目立つ柊木は、まさに漫画の中のヒーローのような存在感を放っている。
俺が描いている漫画のヒーローは、こっそりと柊木をイメージモデルにしている。

柊木ならなにをしても、相手をときめかせそうだ。だけど、漫画となると少々露骨な表現をした方がいいのかもしれない。
そうはいっても、まずはときめきアイディアだ。それが俺には枯渇している。

ダメ出しを大量にもらって落ち込むたびに、DMに届いた感想の内容を思い浮かべる。最近届いた感想には、俺がデビュー前からファンでいつか商業化すると信じていたという熱心な想いが綴られていた。

楽しみにしていてくれる人がいる。そう思うと、ちょっとずつ心が回復していく。
昼飯は外で食べよう。いい気分転換になるかもしれない。弁当袋を持って、廊下に出る。友達と楽しげに話をしながら通過していく生徒を横目に、俺はスマホを再び開いた。

岩井さんからのメール文を改めて読み返す。

『リリ先生、赤字にも書きましたが、胸キュン要素を全体的に増やしませんか。たとえば、ふたりが付き合う前の曖昧な関係のまま、主人公がヒーローに触れるたびにときめいて、もだもだして……すぐに付き合うのではなく、その過程にキュンを入れたいです』

確かに俺は、すぐにふたりをくっつけようとしていた。恋人同士の方がいちゃいちゃさせやすいと思ったし、両想いなのだから早めに付き合った方が読者にとってストレスフリーでいいと思ったからだ。

だけど、それが浅はかだったと思い知る。恋愛漫画は付き合うまでの過程が大事なのだ。
とはいえ、曖昧な関係のまま胸キュンしてもだもだするっていう方法が思い浮かばない。

でももしも、柊木だったら指先が触れ合うだけで相手はときめくかもしれない。

あの気だるげな表情が真剣に染まった瞬間、時が止まったように息をのんで……って、なんで柊木で想像しているんだ。


「う、わっ!」

頭を横に振って妄想を吹き飛ばそうとすると、誰かとぶつかった。