シュレディンガーはたぶん猫。

帰宅した俺は、今日も鍵をかけて自室にたてこもる。
ここ数日ずっとそうだから、もう家族は誰も何も言ってこない。

俺は自分の通学かばんを漁ると、中から虫かごをひとつ取り出した。
あの始祖蝶入りのものだ。

ずっと習慣のようにこうして持ち歩いていて、今日も自然とそうして。
また家まで持ち帰ってきた。

その虫かごを、俺は俺自身の意志で壊して、完全に消してしまう。
蝶はふうわりと飛んで、この指先の素粒子体にとまった。
羽を開いたり閉じたりするたびに、構造色の赤がぬらりときらめく。
とても綺麗だと、やっぱり思ってしまう。

けれども。もう、今までのようには飼えない……。
それでいて、殺したくもない。
本当は、もう何も、誰も殺したくない。
殺せない。

「逃げろ。俺から。なるべく遠くに行くんだ」

言い聞かせるように呟いて。
俺はすっとその羽の表面を撫でる。
素粒子体の右手の人差し指を押し当てると、光の加減がその部分だけ変わるようで、模様みたいに赤くきらめく。

やっぱり、綺麗だ。
俺が本気で育てた虫は。
本当はこのままずっと飼っていたい。
だけど、今日でお別れだ。

「次に会ったら、きっと殺してしまうから」

次だ、と俺は決めてしまった。
今、この瞬間でなく、次だと。

完全なる悪あがきの先延ばし。
馬鹿げてる。

また人的被害が出るかもしれないというのに。
倫理的には絶対に正しくない。
分かる。
でも。

「……そんな時が、来なければいいな……」

勝手な希望を呟いてから、俺はベッドに寝そべった。
虫はしばらくそんな俺の周囲を飛び回っていた。

不思議と始祖蝶は俺を食おうとはせず。
そして虫かごももう存在しないのに、何でか、しばらく俺から離れることなく留まっていた。
まるで俺の素粒子体を、止まり木だとでも思っているかのように。

……こっちは、いっそ食い殺される展開でも、全然よかったのに。

なので、俺は自分を包むようにバリアーを張る。
もう俺のことを止まり木にはできないようにと。

蝶は諦めずにしばらく俺の周辺にいたが、やがて拒否の状況を受け入れたようで、ゆらりと飛び立った。
そうして、ガラス窓をすり抜けるようにして、外へと去っていった。

――行った、か。

注意深く確かめて、改めて、ベッドの上で丸くなった。
虫から自身を守る機能のはずのバリアーは、実際に虫がいなくとも俺の身を守ってくれているようで、少しほっとする。

微動だにせず、俺はベッドに横たわり続ける。
全く、何もする気にならなかった。
何もせず、ただ横になっていた。

しばらくして、シュレが俺の部屋に入ってきた。
その気配が、背中越しに確かにいると、振り向かなくても分かった。

『何をやってるんだ。お前たちは。揃ってふ抜けおって』
「シュレ……」

振り向いていないし、そもそも奴に表情なんてものはないわけだが、すっかり呆れているのだとさすがに分かった。

『吾輩の目を誤魔化して逃がせるとでも、思ったのか?よくもまあ、あの始祖をあそこまで育て上げたものだな?』

完全に全部が全部、バレてしまっていたらしい。
ものすごい恨み節だった。
けれど、きっとシュレも結局は見逃したのだろう。
次、ということにして。

『即刻殺すべきだった。こんな先延ばしなど、意味がない』
「そう、だな……」

殺すんじゃなかったのか、とブツブツと繰り返すから、ひとまず相槌を打つ。
シュレが愚痴るたびに。

『愚かだ』
「うん……でも、どうしてもキラキラして綺麗で、可愛い気がして、殺せなかったんだ……」
『馬鹿だ、お前は。それも、宇宙一の馬鹿者だ』
「うん……知ってる」

ぱたぱたとその尻尾?を動かして滅茶苦茶に文句を言いながらも、シュレはずっと一緒にいてくれた。
なので、やっぱりこの宇宙生物?は心優しいのだと思う。

「片山も、見てきたんだろ。どうだった……?」

一応、俺は訊いた。
奴のその後が、ひどく気になる状況ではあった。
心身ともに、色んな意味で。

『まぁ、お前とそれほど変わらんな』
「そっか……」

ふと見ると、シャツの襟のところに血がついていた。
苦し紛れに、素粒子体だけでなく肉体の方でも片山の首筋を強めに噛んだ。
その時の血だと、思い出した。

――加減は、できなかった、と思う。
全く。

相手が屈強な片山だったからこそ、ブレーキは欠片もきかなかった。
全力の暴力をもってしても壊れない相手には、どこまでも深い安心しかなかった。

酷く重い気分なのに、「その欲求の部分」だけはすっきりとしている。
生まれて初めて、満足している。

コレを分かち合えてここまで依存できる相手は「片山くらいしかいない」のだと、俺は知ってしまった。





「どうしよう、遅くなっちゃったよぉ~!!飲み過ぎたぁ!!」

河川敷横の道を、一人の女子大生が早足に通り抜けていく。

今日は彼女が所属しているサークル・テニス同好会の飲みの日だった。
同じサークル内でカップルになった男女がいて、焦れ焦れする恋話状態でとっても素敵で、自然とお祝いムードになっていた。
それを彼女は心から祝福はしたけれど、「でも私はいまだに一人身なんだよねぇ……」と内心では切ないものも感じている。

「わぁん、どっかにいい男、落ちてないのかなぁぁ~!!私だって幸せになりたいいぃぃぃ!!」

遅い時間帯になったことで他に通行人がいないのをいいことに、彼女は酔っぱらった女全開の欲望を独り言として垂れ流す。
そして――河川敷の斜めになった土手にさしかかった彼女は、そこで膝を抱えるようにして小さくなって座っている少年を、見つけてしまった。

「ほえっ……!?まって、何であの子何も着てないのっ!?」

少年は、全裸だった。
年齢は、高校生くらいだろうか。

ただ、その瞳は赤みを帯びていて、背中にも赤いものがくっついている。

あれは、羽……?
えっと、等身大の妖精かなんか……?

えっ、いやまさか。
でもそうじゃないなら、トラブルに遭遇して身ぐるみはがされて川に捨てられてる、かわいそうな男の子だったりする?

「えっ、と……。君、だいじょうぶ……?なんかあったの?」

そろりと近づいて、彼女は少年に問いかける。

赤い瞳が、ふっと動いて、お互いの目が合った。
彼女の存在を認識した少年は、少し首を傾げて、ニコリと笑う。

え、顔がいい……。
頭良さそう。
だけど、なんかエロい……。

「あの、服くらいなら、貸せるけど……うちに来る?」

確か置いて行かれた元カレの服がまだあったっけ、なんてことを彼女は算段する。
もうその人との縁は切れてしまったし、捨てるのも踏ん切りがつかず、困って置いていたものだから、この子に譲るぐらいわけはない。

彼女は元々困っている人を放っておけない優しい性格の持ち主で、そしてこの時は、とても、酔っていた。
この状況の異様さを瞬時に認識できないくらいには。

そして、同じくらい、人肌に飢えてもいた。