シュレディンガーはたぶん猫。

「でも、間に合ってない……っ」

そうごねる片山に、毅然と首を横に振る、アキオさん。
そして言い聞かせるように続けた。
これは片山だけでなく、俺にもしっかりと理解させようとする形で言い切った。

『いや。間に合ってる。遺言残すくらいのロスタイムはできてるからね。よくやったねぇ。さすが俺の弟たちだ』
「遺言なんて……」
『これね、すごく不安定で、もうすぐにでも消えそうになってるってのは、自分でも分かるよ』

そんなことは言わないで欲しい、と俺は否定的に言いかけたが、アキオさんは確信めいた表情で両手を握ったり開いたりと感覚を確かめるようにして、その結果を伝えてくる。

「アキオ兄ちゃん……」
『そーちゃん。泣かない。しっかり聞きなさい』

俯きかけた片山の顔を、アキオさんは両手で包むようにして上げさせる。
「恥じて俯くようなことは何も起こってないんだからね?」と伝えるように。

『俺はね、そーちゃんのことをめんどくさいから置いていくとか、そういうつもりは、ゼッタイないんだからね?まさのぶくんみたいな気が許せる人もできて、ちゃんと大人になってきた。ひとりの男としても頼れるようになった。そう思って、今から大切な頼みごとをするんだからね?』
「たのみ、ごと……」

言われた通りに繰り返す片山。
切れそうになっているメンタルを、ギリギリアキオさんに繋げられているのが分かる。

『その人を、助けてあげて。救急車呼んで。俺と違って、その人はまだ生きてるんだから。……俺の、大事な守りたい人なの。そーちゃんたちにしか頼めないから』

指摘されて、俺もそちらを見て。
確かにそうだ、生きてるんだから助けなきゃ、早く、と強く意識する。
その腹から強めに出血してはいるが、それでも彼はまだ生きているのだ。
苦し気に呻いて血の気を失いつつあるものの、今すぐに俺たちが動けばまだ間に合うかもしれない、という状況なのだ。

「アキ、オ、アキオ……」

探しているのか、うわ言のように繰り返して手を伸ばすその人。
その側に寄り添うと、アキオさんはここだと伝えようと指先に触れようとする。
でも触れられなかったのを、俺たちは見た。

わずかに開いた彼の両目が、ようやくアキオさんの姿を捕らえられたのか、少し緩んで安心の気配を示す。
会話はしにくい状況のようだが。
けれど、彼のひと安心を打ち消すようなことを、あえてアキオさんは言う。

『ちゃんと、最期まで生きてね。俺は三途の川で、何十年でも待てるんだからさ。そのために助けたんだからね?』

え、と掠れるような声が彼の口から漏れるのを聞く。

『俺の弟を、お願いね?』

次の台詞は、俺の方を見てのもので。
俺に言っているんだ。
そう分かったのに、応えるための上手い言葉はちっとも出てこなくって、だからしっかりと首を動かして頷くことしかできなかった。

それを確認し終わってから、アキオさんはニコッと笑う。
ここまで満足そうに笑うアキオさんを、俺は初めて見た。
そうして、アキオさんの素粒子体はさらに大きくゆうらりと歪む。
大気に溶けるように揺らいで、広がって、消えていく。

『後はたのんだよ~』

最期の最期はとてもアキオさんらしい、あのどこまでも軽めの口調だった。

「でんわ……れんらく、しなきゃ。ゆいごん、だから」

状況を見送った片山は、ポケットからスマホを出す。
震える手、掴みそこなったスマホが床に落ちる。
それでも、ガクガク震えながらも、どこかの連絡先を呼び出している。
何度もやり直し、やがて遠く小さく、呼び出しの音が響いて、そして誰か、大人の女の人の声がした。
「もしもし」と遠く尋ねてくる音がした。

「あ、あ、アキオ兄ちゃんが、いなくなって、ツレの人がお腹怪我して倒れてる。病院、通報」

切れ切れに必死に、喘ぐように口走る片山から、俺は奴のスマホを奪った。
もうまともに会話ができる状況じゃないっぽいと判断した。

「すみません、俺、片山のダチの宮本です」

相手の人が一瞬、息を飲むんだのが伝わる。

『事情が分かるのね?分かりやすく説明して』

それはとても敏腕そうな女の人の声だった。
これは確実に頼れる人だ、と一発で分かった。
そしてこの人しか今の片山には頼る人はもういないんだとも思った。
なので、俺は端的に説明する。

「今、アキオさん、片山の義理のお兄さんの部屋に俺たちはいます。アキオさんは亡くなって、でも遺体はなくて、そしてアキオさんの友人が腹部を怪我していて、このままだと命の危険があります。救急車を呼びたいです」
『分かった、今からそちらに行きます。あなたたちはそこから動かないで、誰か来ても絶対に沈黙を保って。各所の通報も移動しながらこっちでやるわ。こういうことは全部大人がやることだから、このまま私に任せなさい。いいわね?』
「はい」
『じゃあ、切るわね。蒼のこと、見ていて頂戴』
「はい」

会話はとても端的で無駄がなく、でも片山の安全をしっかりと気にかけるあたりに、確実に信頼できる人だと悟って少しほっとする。

俺はその場に座りこんで固まったままの片山を見た。
グチャグチャと素粒子体が蠢いている。
悲しみとか動揺で、見た目を全く維持できなくなっているのが分かった。
俺は片山を抱きよせるようにして、その素粒子体を整える作業を自然と始めた。

怪我をした彼の方はもはや意識が朦朧としているようだからバレないかもしれないが、それでも、今後もっと多くの人がドヤドヤとここにやってくるに違いない。
ここまでの大きな変異を他人に見られるのはまずい。

「シュレ。お前ももう隠れてろ。人が来る」

俺はシュレに声をかける。
シュレはアキオさんが消えたその虚空辺りをじっと見つめたまま沈黙していたが、俺の声で正気を取り戻した。

『ああ、すまん。少し考えていた。今、何が起こったのかを』
「何か気になったのか?」

しかしまだ虚空を睨み続けているので、俺はまだ他の人間が近づいてきていないか注意深く探りつつも、確認する。

『第三世代はまだ発生してから間もない。つまり、成熟期には少し遠いはずだった。その場合に人間の母体を奪おうとしても、変異はうまくできない。何より、その者の腹部もまだ母体としては育ち切っていなかった。ここまで磁場が安定していない場所は、虫たちのゆりかごとしては成立できない』

シュレは一息でそう説明してきた。
奴もこの状況に少し興奮しているのかもしれない、いやに早口だった。

「は?この人は、男だろう?なんで妊婦さんだったみたいな言い方……」

なんで?と俺は疑問に思う。
俺はこの人と一度遭遇している。
スーツを着ていた。
男の人だ。

少し中性的な雰囲気ではあったけれど。そう、女装も似合うかもしれない、って――

『女、だろう?その人間は』
「え?」
『女だから、虫は産卵に向けた行動をしていた。人間の男では奴らの産卵に適した場にはなれない。これはもう、とっくに分かっていることだろう?』

その恋人は、どう考えても男の姿にしか見えない、しかし、本当は女の人。
すれ違ったあの時、この人の手に持たれていた、大手子供洋品店のロゴ入り紙袋。

その中に大量に入っていたのは、きっと新生児用の……。

この頭の中で固まった、おそらく「真実」かもしれないそれは、しかし今となっては、あえて今ここに浮上させて表面化させる意義が、果たして存在することだろうか。
ただショックを受けて座り込むばかりの片山を目の前にして。

俺は沈黙を選ぶ。
こんなこと、言ったところで、何だっていうんだ。