「他人、の……口」
俺は今、自分のものではない異質なモノと、接触?寄生?合体?してしまっている……。
冷たい嫌な汗が背中を流れていく感触。
それを味わいながらも、微動だにせず、俺は部屋の床に座り込んだままじっと見つめる。
いや……何で?
何が?
どうして?
何だこれ?
その問いに応える者は誰もおらず、ただ時間だけが過ぎていく。
しかし、体感的には数分後。
いつまでも驚きっぱなしで凍り付いているわけにもいかない、と俺は強く決心した。
勇気を絞り出し、恐る恐る、俺は右手の人差し指でそれに触れてみる。
三ミリくらい開いた下唇、その真ん中が、俺の指先の力を押し当て方に従うように押し返す。
リアル過ぎる弾力と、体温らしきものと、わずかに息遣いのようなものも感じた。
「……ッ、」
思わず息を詰める。
リアルで動くし、体温も息遣いも舌もあるっぽい。
「きちんと、調べておかないと……」
自分自身に言い聞かせるように、呟く。
意識して右手人差し指を伸ばすと、ギギギ、と肩がきしむようにして、何とか動いた。
バクバクと心臓の音が耳の奥に響く。
――すみません、ちょっと、拝見します……。
そんな気持ちで触れてみたところ、唇が開く。
それはまるで、ノックに応えてドアを開けてくれたようでもあった。
突然恐ろしい勢いで嚙みついてくる、などという危険なことにはならず、まずはほっとした。
もしこれが妖怪とか化け物とかの類の口だったら、などと一応警戒していたのだが、鋭い牙があるとか唾液が酸で金属が溶けるとか、そんなオカルトな話ではないようだ。
「普通に人間の口っぽい……?」
いや、滅茶苦茶リアルな人間の口が手のひらにくっついている時点で、かなりのオカルトではあるんだが。
でも、これでそこまで危険ではないかも?と分かったのはよかった。
モンスターに噛まれて酸の唾液に苦しむ、そんないつか見たオカルト映画のビジョンが脳裏に浮かんで、そうならなかったことに、はーっと深い息を吐く。
デスクライトを当てながら、少し奥を覗き込んだ。
普通に、人間の口っぽい。
虫歯の治療もない、銀歯もない、とても綺麗な歯並びだと思う。
俺の口が何かの間違いでそのまま自分の手にコピペされたのか?と思っていたが、俺には特徴的な八重歯があるし少し歯並びも悪いので、これは確実に俺の口ではないと分かる。
この世の誰かの口のコピペなのか。
それとも、創造された全くの架空の人間の口なのか。
それは分からない。
「一体、何が起こったんだ……?」
その時、唇の左下……唇本体からするとちょうど右下に位置する、そこに小さな黒い点があることに、ふと気づいた。
俺の左の手のひらにはホクロはない。
つまりそれは、この唇の持ち主のもの、ということになる……。
初めて発見した「手がかり」になるかもしれない。
こいつは誰だ。
探さないと。
「唾液があるってことは……何か、食うのか?」
思い立ち、俺は勉強机周りをきょろきょろと探す。
ちょうど眠気覚ましや小腹がすいた時用の袋入りの飴玉があったので、右の指先と歯を使って個装を破る。
そうして取り出した中身を、左手の唇の隙間からそっとひとつ、押し込んでみた。
歯に飴玉が当たっているのか、コロリと小さく音が鳴る。
「舐めている……?」
手元を確認しつつ、時間差で自分の顔の方の口にも飴玉を放る。
慣れたオレンジの味だ。
「こっちの味覚を俺が感じるわけではない、のか」
左手の口の味覚の神経と俺の脳の繋がりはない様子だ。
また、触覚もないようだ。
唇に触れた時、触れた側の俺の指には「弾力があるな」などという感触があるが、左手の真ん中の唇ゾーンは、全く触れられたと感じない。その部分だけあたかも別人の器官みたいで、不思議だ。
この口の持ち主、つまり俺じゃない誰かも、この全く同じオレンジの味を、認識しているんだろうか。
ちゃんと味わっているんだろうか。
もぐもぐと口を動かしているあたり。
その後、俺自身が飴を舐め終えたタイミングで、改めて左手の口の中も確認したが、飴はもう見当たらなかった。
「舐め終わったのか……」
また一つ、大きく息を吐き出す。
原因不明。
これを消す・解決する方法も不明。
そのため、それなりに今後への不安はある……。
が、何故かその頃には、いくらか安心感も生まれていた。
何でか、まるで野良猫に餌付けができた人と似たような気分で、俺は今回のこの検証を終えた。
普通の人には容易にできる猫の餌付けと同じようなことを、一度はやってみたかったのかもしれない。
実は、俺自身は、野良猫もまともに触ったことはないわけだが。
動物動画くらいは見たことがあるものの。
ただ、現状、唯一経験した猫との接触が、ついさっきの下校中の「通り抜けられ」になるわけだが……。
「今日は、おかしなことが起こり過ぎてる……」
左手の唇を見つめ、右手で感触を確かめるように、腹部をさする。
触られたり、触ったり、した……。
しかも、両方が「突然現れた妙なモノ」のせいで、そうなった。
それはとても、ゾッとする。
「異質なものが怖い」だけじゃなくて「接触恐怖」的な意味でも。
これがもし人間や汚れものなどに不注意で接触しただけだったら、手を洗ったり何だりで、対応できた。
けれども、左手の唇は消えてくれる様子がないし、腹を通り抜けていった幽霊のような猫はそのまま消えてしまった。
なのに、猫に通り抜けられた瞬間のあの感覚だけは、何度も繰り返しぶり返してくる。
そして左手の唇の息遣いや触覚はずっとそこにあり続けている。
「な、んで……」
気持ち悪い、はずなのに。
なぜか、ゾクゾクとした感触が全身に広がっている。
そしてそれが「恐怖」というより「快感」寄りだと気が付いてしまった時、「まさか、そんなふうに気持ち良くなってしまうからこそ、俺は他人と接触したくなかったのか?」などという疑念が浮かんでくる。
「そ、そんな、はずは」
こんな感覚は、知らない……っ。
まるで自分の体を、すっかり変えられてしまったみたいだ……!!
そんな確かな感触だけが消えないまま、ただ時間だけがじわりと進んでいく。
夕焼けの赤みがあったはずの空は、段々と青みが深まって赤紫に変わっていく。
カラスが鳴いている……。
今やその鋭い鳴き声にさえ反応して、体が震える気がした。
俺は今、自分のものではない異質なモノと、接触?寄生?合体?してしまっている……。
冷たい嫌な汗が背中を流れていく感触。
それを味わいながらも、微動だにせず、俺は部屋の床に座り込んだままじっと見つめる。
いや……何で?
何が?
どうして?
何だこれ?
その問いに応える者は誰もおらず、ただ時間だけが過ぎていく。
しかし、体感的には数分後。
いつまでも驚きっぱなしで凍り付いているわけにもいかない、と俺は強く決心した。
勇気を絞り出し、恐る恐る、俺は右手の人差し指でそれに触れてみる。
三ミリくらい開いた下唇、その真ん中が、俺の指先の力を押し当て方に従うように押し返す。
リアル過ぎる弾力と、体温らしきものと、わずかに息遣いのようなものも感じた。
「……ッ、」
思わず息を詰める。
リアルで動くし、体温も息遣いも舌もあるっぽい。
「きちんと、調べておかないと……」
自分自身に言い聞かせるように、呟く。
意識して右手人差し指を伸ばすと、ギギギ、と肩がきしむようにして、何とか動いた。
バクバクと心臓の音が耳の奥に響く。
――すみません、ちょっと、拝見します……。
そんな気持ちで触れてみたところ、唇が開く。
それはまるで、ノックに応えてドアを開けてくれたようでもあった。
突然恐ろしい勢いで嚙みついてくる、などという危険なことにはならず、まずはほっとした。
もしこれが妖怪とか化け物とかの類の口だったら、などと一応警戒していたのだが、鋭い牙があるとか唾液が酸で金属が溶けるとか、そんなオカルトな話ではないようだ。
「普通に人間の口っぽい……?」
いや、滅茶苦茶リアルな人間の口が手のひらにくっついている時点で、かなりのオカルトではあるんだが。
でも、これでそこまで危険ではないかも?と分かったのはよかった。
モンスターに噛まれて酸の唾液に苦しむ、そんないつか見たオカルト映画のビジョンが脳裏に浮かんで、そうならなかったことに、はーっと深い息を吐く。
デスクライトを当てながら、少し奥を覗き込んだ。
普通に、人間の口っぽい。
虫歯の治療もない、銀歯もない、とても綺麗な歯並びだと思う。
俺の口が何かの間違いでそのまま自分の手にコピペされたのか?と思っていたが、俺には特徴的な八重歯があるし少し歯並びも悪いので、これは確実に俺の口ではないと分かる。
この世の誰かの口のコピペなのか。
それとも、創造された全くの架空の人間の口なのか。
それは分からない。
「一体、何が起こったんだ……?」
その時、唇の左下……唇本体からするとちょうど右下に位置する、そこに小さな黒い点があることに、ふと気づいた。
俺の左の手のひらにはホクロはない。
つまりそれは、この唇の持ち主のもの、ということになる……。
初めて発見した「手がかり」になるかもしれない。
こいつは誰だ。
探さないと。
「唾液があるってことは……何か、食うのか?」
思い立ち、俺は勉強机周りをきょろきょろと探す。
ちょうど眠気覚ましや小腹がすいた時用の袋入りの飴玉があったので、右の指先と歯を使って個装を破る。
そうして取り出した中身を、左手の唇の隙間からそっとひとつ、押し込んでみた。
歯に飴玉が当たっているのか、コロリと小さく音が鳴る。
「舐めている……?」
手元を確認しつつ、時間差で自分の顔の方の口にも飴玉を放る。
慣れたオレンジの味だ。
「こっちの味覚を俺が感じるわけではない、のか」
左手の口の味覚の神経と俺の脳の繋がりはない様子だ。
また、触覚もないようだ。
唇に触れた時、触れた側の俺の指には「弾力があるな」などという感触があるが、左手の真ん中の唇ゾーンは、全く触れられたと感じない。その部分だけあたかも別人の器官みたいで、不思議だ。
この口の持ち主、つまり俺じゃない誰かも、この全く同じオレンジの味を、認識しているんだろうか。
ちゃんと味わっているんだろうか。
もぐもぐと口を動かしているあたり。
その後、俺自身が飴を舐め終えたタイミングで、改めて左手の口の中も確認したが、飴はもう見当たらなかった。
「舐め終わったのか……」
また一つ、大きく息を吐き出す。
原因不明。
これを消す・解決する方法も不明。
そのため、それなりに今後への不安はある……。
が、何故かその頃には、いくらか安心感も生まれていた。
何でか、まるで野良猫に餌付けができた人と似たような気分で、俺は今回のこの検証を終えた。
普通の人には容易にできる猫の餌付けと同じようなことを、一度はやってみたかったのかもしれない。
実は、俺自身は、野良猫もまともに触ったことはないわけだが。
動物動画くらいは見たことがあるものの。
ただ、現状、唯一経験した猫との接触が、ついさっきの下校中の「通り抜けられ」になるわけだが……。
「今日は、おかしなことが起こり過ぎてる……」
左手の唇を見つめ、右手で感触を確かめるように、腹部をさする。
触られたり、触ったり、した……。
しかも、両方が「突然現れた妙なモノ」のせいで、そうなった。
それはとても、ゾッとする。
「異質なものが怖い」だけじゃなくて「接触恐怖」的な意味でも。
これがもし人間や汚れものなどに不注意で接触しただけだったら、手を洗ったり何だりで、対応できた。
けれども、左手の唇は消えてくれる様子がないし、腹を通り抜けていった幽霊のような猫はそのまま消えてしまった。
なのに、猫に通り抜けられた瞬間のあの感覚だけは、何度も繰り返しぶり返してくる。
そして左手の唇の息遣いや触覚はずっとそこにあり続けている。
「な、んで……」
気持ち悪い、はずなのに。
なぜか、ゾクゾクとした感触が全身に広がっている。
そしてそれが「恐怖」というより「快感」寄りだと気が付いてしまった時、「まさか、そんなふうに気持ち良くなってしまうからこそ、俺は他人と接触したくなかったのか?」などという疑念が浮かんでくる。
「そ、そんな、はずは」
こんな感覚は、知らない……っ。
まるで自分の体を、すっかり変えられてしまったみたいだ……!!
そんな確かな感触だけが消えないまま、ただ時間だけがじわりと進んでいく。
夕焼けの赤みがあったはずの空は、段々と青みが深まって赤紫に変わっていく。
カラスが鳴いている……。
今やその鋭い鳴き声にさえ反応して、体が震える気がした。
