シュレディンガーはたぶん猫。

変異直後は足がガクガクで動けず、肉体の感覚と素粒子体の感覚が混ざっていることで、歩くことでさえも混乱する状況だった。
片山も同様だ。

ふたりして「俺らって、今まで一体、どうやって歩いてたっけか?」なんてことを真剣に考えるはめになった。
下手するとアパートの階段を踏み外して下まで転げ落ちそうな勢いだったため、身の危険を感じた俺は片山の家に泊まると親に連絡することになった。
この状態で虫に襲われたら俺ら確実に死ぬな、と悟って。

何とか汚してしまった制服のズボンと下着を手洗いして干して、シャワーと下着と着替えを借りる、ということだけは体を引きずるようにしながらも頑張った。
服はともかく他人のパンツかよ、と抵抗はあったが、洗濯されたものだし全裸ノーパンのままで過ごす方がよっぽど辛かったので、そこは仕方ない。
あとは片山家買い置きのレンジで温めるだけの冷凍チャーハンを分けてもらって食って、その日が暮れた。

まあ、そういう下半身の惨状を家族の女性陣に知られずに済んだのだけは、男の自尊心的な意味でよかったと思う……。
朝になり、何とか動ける状況にはなったため、乾いた制服を着て一度家に帰ってからシャツだけは綺麗なものに着替えて、俺は改めて学校に向かった。

その際、片山に借りたシャツとジーンズの服一式と下着について、母さんに洗って返す旨を軽く説明したりはしたが、突然の外泊については、特に怒られはしなかった。
登校すると、教室は例の話題で持ちきりだった。

「ねぇ、例の事件のさ、夫の人のお父さん、自殺したんだって。俺も息子も潔白なんだ、って遺書残して」
「うん、スマホにニュース流れてきたの、今見た。記者会見でさ、私も妻もそんなひどいことをする息子に育てた覚えはないとか、息子夫婦間に確執もなかった、あの日は出産予定の赤ちゃん用の買い物をするって三人で仲良く出かけて行ったんだから、とかって、すっごいキレてたよね」
「あれはあの記者の人、煽り過ぎてたよねー。どこの新聞社だったっけ、あの記者」
「でも、お嫁さんあんなふうに亡くなって、息子と自分の奥さんもいきなり失踪、だろ?やっぱ怪しいってあの人……」
「でも、こういう言い方もあれだけど、やっとここら付近に来るマスコミ減ってくれたから、よかったよね。うちらも期末試験始まるし、受験あるし。容疑者いなくなって解決、じゃないけどさ……」

件の猟奇事件はほとんど謎が解明されないまま、「被疑者死亡」の報をもって警察の捜査は終わり、ということになりそうだ。
世間様的には。





そして、さらに放課後。
俺は約十二時間ぶりに、片山の部屋に舞い戻っていた。
シュレに「素粒子体を自在に動かす方法」ひいては「虫と実践的に戦う方法」のレクチャーをお願いしたためだ。

しかしちょうど片山が、週末に行く予定の運送系のバイト先のシフト確認の電話をする、と言い置いて玄関から出て行った。
なので、俺は「このタイミングを逃すか」とばかりに傍らのシュレにこっそり相談を持ち掛けることにした。
さすがに片山の前では、堂々とは言い出せない話だからだ。
改変を受けて以降、俺の中で大きく膨らんでいる気持ちがあった。

「なぁ、シュレ。俺、虫たちを育ててみたいんだが。餌やってみていいか?餌ごとの変異のパターンや変異の周期があるかもしれないし。少しくらい予測つけられないのか、って」

改変後、何故だか、俺は異様なまでに……あの虫を育ててみたい気持ちになっている。

殺意も、当然ある。
危険な虫は駆除しなければという。

だというのに、相反するように「観察するだけでなく、育てたい」とまで思い始めている。
小学生の頃だって、そこまで虫取りに興味を持つような子供でもなかったはずなのに。
まるで自分じゃないみたいに、虫が気になっている。

片山は「危険だから、絶対に殺し尽くすからな?」という完全なる抹殺ノリなので、今やこっそり育ててみたい気分ができてしまった俺としては、ちょっと肩身が狭い。

……いや、育てたい、とか思ってしまっている自分の頭がおかしくなっているのは、分かってるんだ。
コイツは人を食う。
そんなものにあえて餌をやって育ててみたい、とか思ってしまう俺こそ、異端の考えを持った異常者なのに違いない。
ただ、やっぱり、どうしても、あの宇宙からやってきた虫への興味が消えない。

『あえて育てる手間をかけて、わざわざ変異させるのか?』

シュレは、当然、「何を奇妙なことを言っているんだ、こやつは」という雰囲気だったが。

まぁ、シュレにとっては見つけたら即刻殺すだけの対象だろうからなぁ。
育成してみる、って感覚は皆無だよな。

ただ、正直、こうしてシュレによって捕らえられた虫が目の前に並べられている状況は、見ていて楽しいのだ。
それがこれから殺すレクチャーを受けるための「在庫」だとしても。

世代違いを横に置いて比べたり、なんてことが、今はできている。
ヤバい。
俺は小四の頃の友達のカブトムシが、雄だけでなく雌もいて番いだった上に、見せてもらった奴の観察日記によると、卵を産んでまた幼虫からさなぎへ……という輪廻の変遷を辿っていたことをふいに思い出して、数時間前に激しく興奮していたわけで。

やっぱり「型や種類や性別の違い」あたりの差があるのは、コレクション性を感じてしまって、どうにもいけない。

ただ、虫の天敵の自覚が強くあるシュレと片山の前で、虫たちに対してあまりに好意的に過ぎるのはどうなのか、という気持ちも、当然ある。
なので、俺は言い訳も忘れない。

「だって。どうせどの道、全部殺すんだろう?だったら、虫の視点から見たら、死ぬのが少し早いか遅いかの差しかないじゃないか。こっちとしてはもう少しデータが欲しい」

しっかり「殺す側」としてのメリットも提示する。
これは殺すための予測やデータを得るためなのだと。

『まぁ、それはそうだろうが』

全く奇妙な要求だな、と言いたげだったが、結局シュレはは俺の意見を聞いてくれた。
そして「虫かご」に餌を外部から取り入れられる「給餌場」のようなゾーンを付けてもくれた。

その部分からしか餌は取り込めないし、当然、中の虫がそこから出ることもできない。
シュレと俺と片山特有のそれぞれの素粒子がその給餌場部分を「開ける」ための鍵となるので、理論的にはシュレも片山も給餌が可能なシステムになっているが、確実に俺しか使わない機能と思われる。

『お前が自力で虫かごを作れるようになれば、吾輩にいちいち頼まずとも満足がいくように済ませられるぞ?』

そう言うので、修行的なことは面倒だな、と実は思っていたが、心を入れ替えてこの後の講義はわりと真剣に受けようと決めた。