シュレディンガーはたぶん猫。


どんなに風紀委員長という「正しそうな立場」でいたくても、どうしてもそりが合わない相手はいるもので。
俺、宮本政信にとってのその男こそが、片山蒼だった。

任じられて以降、毎朝、生徒の登校を見守り、挨拶運動と身だしなみのチェックをしている俺なのだが、片山とはほぼ毎日、ずっと揉めていると言っていい状況だ。


簡単に言ってしまうと、奴は要監視対象者なのだった。

まず、制服はちゃんと着ない。
ネクタイはゆるゆるに申し訳程度に結ばれていて、頭も茶髪。
その上、顔の作りがいいからか、校内での女子との不純異性交遊の噂……。

そして何度指摘しても、それらが直らない!!
不機嫌そうに聞き流されるだけ。
また次の日も同じやり取りを繰り返す。

そのため、今は放課後の通学路で、たまたま帰宅途中に見かけただけだというのに。
俺の視線は自然と片山に集中してしまった。

うっかり、奴の通学路に侵入してしまったらしい。
こっちは単に、不注意でなくした消しゴムを買い直そうとして、いつもは行かないコンビニに寄っただけだったのに。

「服が……朝に比べて、着崩されていない?」

その事実がまた、強く引っかかるというか、癇に障った。
確かにネクタイは今もゆるめに結ばれているわけだが、朝の方がもっと酷い。

何だ、あのくらいに整えられるのなら、俺だって毎朝、あんなにまで責めはしないのに……。

そう考えたところで、片山が俺に対して「絶対お前には従わない、何も改めないからな!!」と決めているからこそ、あえて反抗的に俺の前で着崩しを酷くしている可能性を考える。

「だったら今後も、全く話が嚙み合いそうにないな……」

幾らかの失望感を持って、俺は片山から視線を外そうとした――その時だった。
その片山のちょうど胸部を、何か黒いものが通り抜けていくのを、俺は見た。

本人も「通り抜けられた事実」に気づいたのか、バッとその部分を押えて背後を振り返っている。

「な、っ……」

うぞうぞと蠢くそれは、深い闇色でありながら一部は透けている。
そして何故か、猫の形をしていた。
そのことが、俺にも分かってしまった。

何故なら……それがこちらにも、近づいてきているからだ。

――逃げ、なければ。
思ったけれども、その猫型の影のようなものの動きは止まらない。
わりと速いスピードで俺の目の前に迫ってきて、スッ、と俺の腹部にめり込む。

「う、わ……っ」

痛いとか、そういう感触は全くなかった。
ただ、黒い影が、例えば何か物理的なものにぶつかった時のようにでなく、スウウ……ッと通り抜けていく異様な感覚を、まざまざと感じさせられてしまった。

何だ、これは。
そこに存在している細胞の一個一個、全てを、くまなく撫でられたような気がする……っ。
接触、された……!!

――宮本くんってさ、ちょっと潔癖なところあるよね。

こんな時なのに、何故かずっと以前、中学の頃に同じクラスの女子に言われた言葉が、耳の奥に甦ってくる。
その時以来、人に触れたり触れられたりすることを、俺は異様に意識するようになった。
なるだけ触れたり触れられたりしないようにと、最低限で済ませてきた。

なのに、こんな変な怪異と接触してしまった……!!

俺は文句を訴えたくなった気持ちのまま、バッと背後を振り向く。
しかし影は早めのスピードで、既に遠く。
そして曲がり角で視界から消えてしまった。

「あれは、まさか、猫の、幽霊……?」

そうとしか考えられず。
けれども、そんな超常現象のようなことが起こり得るわけがないだろう、とも思う。
錯覚か、白昼夢でも見たのかと。

俺は自然と「おい、今のって!!お前も見たか!?体感したよな!?」などと、思いっきり片山に訴えたくなる。

しかし、先ほどまでそこにいたはずの片山の姿はなかった。
既に立ち去った後だった。

それに……もし探して話しかけたとして、この件で片山は俺とまともに会話する気があるだろうか。
友達ならまだしも、毎度煙たがられている相手だ……。
アイツの中での俺は天敵、くらいの認識かもしれないし。

「一体、何を話すって言うんだ……」

こう考えて、結局、俺はそのままコンビニで消しゴムだけを買って、足早に帰宅した。

何故か腹部の皮膚がゾワゾワと泡立って服に擦れて落ち着かなくて、異様に胸の鼓動が早かった。

これがたまに聞く「霊障」ってやつかもしれない……。
何か、「違うもの」が俺に混ざってしまったような気がする。

耐えきれず、俺は小走りで自宅に帰りつく。
それでもまだ胸から腹にかけての部分は、ゾワゾワと落ち着かなかった。

夕飯は食べる気にならずに断って、ひたすら自室にこもることにする。

そうして、俺はふいに、左の手のひらに違和感があることに気付いた。
何の気なしに見てみたそれだけのはずが、俺は再度、今度はまじまじと自らの左手を凝視することとなった。

「――く、口、えっ、なんで?」

そこに存在するそれは「人間の口」に見えた。
縦はちょうど鼻の下、人中辺りから、アゴの少し上の少し凹んだところまで。
横は唇の端から頬に至る直前まで。
その辺りのゾーンが、俺のちょうど手のひらの真ん中から「生えて」いる。

本来なら占い師さんが手相を鑑定する時に見る部分、生命線なんかのしわがあるそこに、何でなのかは分からんが、リアルな唇がある。

ひっ、と思わず声が漏れた。

錯覚と思おうとして瞬きをしたり右腕で両目を擦ったりしてみたが、変わりはない。
口はずっとそこに在り続ける。
そしてその唇は絶えず動いていて、舌がちろりと見えたり、少し半開きになったり、閉じたり、としている様子は、いかにも「本物の唇」の挙動だった。