花火みたいな恋だった

 朝から降り続く鉛色の雨が、教室の窓ガラスを単調なリズムで叩き続けていた。
 今日はたまたまクラス合同の授業で、初めて授業中の遠野結夏の姿を見た。
 低気圧のせいか、今日の遠野結夏は朝から一言も発さず、ただ彫像のように窓の外の灰色の景色を眺めていた。時折、苦しそうに浅い呼吸を繰り返していることには気づいていたが、俺はあえて触れないようにしていた。

 放課後。
「喉が渇いたわ。ジュース買ってきて。炭酸じゃないやつ」
 そう一方的に命じられ、俺はため息をつきながら自動販売機へと足を運んだ。

 冷たいスポーツドリンクを二本買い、廊下の角を曲がった時のことだ。

「あんたのせいで、彼、不登校気味なんだよ!?」

 ヒステリックな声が、雨音を切り裂いて響いた。
 声の先を見ると、遠野が三人の女子グループに壁際に追い詰められていた。一人は、遠野にこっぴどく振られたあのサッカー部の男子の、熱烈な取り巻きの女子だ。

「あんな酷い言い方して、最低だと思わないの!? 私がずっと彼のこと好きだったの、知ってるくせに!」

 感情を剥き出しにして糾弾する女子たち。
 対する遠野は、壁に背を預けたまま、いつものような冷笑を浮かべていた。

「ふうん。私には価値がないって言っただけよ。ていうか、そんな男に執着してるあなたたち、すごく哀れに見えるけど、大丈夫?」

 火に油を注ぐような、完璧な挑発。
 激昂した女子の一人が、「このっ……!」と怒りに任せて手を振り上げる。

 その瞬間だった。
 遠野が、女子の手が届くよりも早く、自ら腕を伸ばしてその女子の頬を打った。

 ――いや、「打った」と表現するのすら躊躇われる動きだった。
 パァン、という乾いた音など全く鳴らない。ただ無理やり顔に手を押し当てたような、不自然で、信じられないほど威力の無いビンタ。

 少し離れた場所からそれを見ていた俺の背筋に、強烈な違和感が走った。

(なんだ、今のビンタは……。攻撃にしては弱すぎる)

 あんなもので相手が怯むわけがない。むしろ、火に油を注ぐだけだ。
 まるで、『先に手を出すこと』自体が目的みたいじゃないか。

 その時、俺の脳裏に一つの推測が閃いた。
 まさかこいつ。わざと自分に非が向くように――自分が100%の「手を出した悪女」になるように、あえて意味のない先制攻撃をしたのか?

「……っ、何すんのよ!!」

 先に手を出されたことに逆上した女子が、遠野を強く突き飛ばす。
 遠野は抵抗すらできず、まるで糸が切れた操り人形のように、成すすべなく廊下の床に激しく叩きつけられた。

「ゲホッ、かはっ……!」

 床にうずくまり、激しく咳き込む遠野。女子たちがさらに罵声を浴びせようと一歩踏み出した瞬間、俺は静かに歩み寄り、手に持っていたスマートフォンのカメラレンズを彼女たちに向けた。

 カシャッ。

 無機質な電子音が、薄暗い廊下に響き渡る。

「……今の、全部撮らせてもらった」

 俺の淡々とした声に、女子たちがビクッと肩を震わせて振り返った。

「はっ? あんた何なの! 遠野が先に手を出してきたんでしょ!」
「だとしても、三対一で押し倒すのはどう見ても過剰防衛だ。それに、あいつのビンタに怪我をさせる威力なんてなかっただろ」
「あんた、こいつの肩を持つ気!?」

 血走った目で睨みつけてくる女子たちに、俺は極めて冷ややかな声で返した。

「俺は、この後のホームルームが長ったらしくなるのが御免なだけだ。……それとも、先生たちがこの写真を見てどう判断するか、試してみるか?」

 俺の静かな脅しに、女子たちは悔しそうに唇を噛みしめた。

「……最低」

 誰かがそう舌打ちを残し、彼女たちは足早にその場から立ち去っていった。

 騒ぎが収まり、残されたのは雨音と、床にうずくまったまま激しく肩を上下させる遠野だけになった。
 俺は急いで彼女に駆け寄り、その細い腕を肩に回して強引に抱き起こした。驚くほど軽く、そして体温が異様に低い。
 俺は誰の目にも触れない、一番近くにあった写真部の部室へと彼女を連れ込んだ。

 カビと埃の匂いがする部室のソファに、遠野を静かに横たえる。
 もう、彼女には「悪女」の仮面を保つ余裕すら残っていなかった。

「ヒュー……ッ、はぁっ……ゲホッ……!」

 喘ぐような、ひどく浅い吸気。
 俺が買ってきたスポーツドリンクを差し出しても、彼女はそれに手を伸ばすことすらできず、ただ自分の胸元のブラウスを白くなるほどきつく握りしめている。

(……ただの体調不良じゃない。これは――)

 確信だった。彼女は、何か決定的な病を抱えている。
 神社の階段ですぐ息が上がっていたこと。自分では重い荷物を持てないと言ったこと。そして、あの意味のないほどに非力なビンタ。
 すべての点と点が繋がり、一つの真実が輪郭を帯びて浮かび上がっていく。

「……見る、な……って、言ってる……でしょ……」

 震える掠れ声で、それでも彼女は俺から顔を背け、拒絶の言葉を紡ぐ。
 その瞳だけは今もなお、相手を突き飛ばしてしまうほどの敵意に満ちていた。
 だが。

 彼女の本当の姿を見てしまった俺は。
 もう二度と、彼女をただの「最低な悪女」だと思うことはできなかった。