花火みたいな恋だった

 神社の裏手で「聖女の優しさ」を目撃してしまった翌日、火曜日。
 俺の胸の内に居座る小さな棘のような違和感とは裏腹に、遠野結夏は俺に対して見事なまでの「完全無視」を決め込んでいた。

 朝礼でも、移動教室の廊下ですれ違った時でも、彼女は俺を一瞥すらしなかった。
 見えない透明な壁。それは、誰にも見せなかった無防備な顔を俺に覗かれたことへの、彼女なりの強烈な防衛本能なのだろう。
 いつもなら「面倒が減ってせいせいする」と喜ぶところだが、今の俺はどう接していいか分からないもどかしさを抱えたまま、ただ時間だけをやり過ごしていた。

 事態が動いたのは、昼休みだった。

 購買で買ったパンをかじりながら教室に戻ろうとした俺は、廊下の隅で異様な空気が渦巻いているのに気づいて足を止めた。
 中心にいるのは遠野だ。彼女を取り囲むように、クラスの女子グループ数人が、刺々しい視線を向けていた。

「ねえ、週末、朝倉くんを無理やり荷物持ちにしてたって本当?」
「神社でこき使ってたの、他のクラスの子が見たらしいよ。さすがにやりすぎじゃない?」

 正義感を盾にした、陰湿な非難の声。
 遠野の孤立は学校での日常風景だが、今回ばかりは俺という明確な「被害者(パシリ)」がいるため、彼女たちも強気に出ているらしい。

(……あいつ、どうするつもりだ)

 息を潜めて見守る俺の耳に、遠野の、氷のように冷たくて傲慢な声が届いた。

「ええ、そうよ。あいつが鈍臭いから、罰ゲームで使ってあげたの。それが何か問題でも?」

 一切悪びれることのない、ふてぶてしい態度。
 その言葉に、女子たちの顔に「信じられない」という嫌悪の色が広がる。

「……最悪。本当に性格悪いね、あんた」

 これ以上関わりたくないと言わんばかりに、女子たちが背を向けて立ち去ろうとした、その時だった。

「違うよ」

 気がつけば、俺は口を開きながら、その輪の中に足を踏み入れていた。

「俺がゲームに負けたペナルティで、荷物持ちをしただけだ。遠野に無理やりやらされたわけじゃない」

 突然現れた俺の言葉に、女子たちは目を丸くした。
 当事者である俺が遠野を庇うような発言をしたことで、完全に毒気を抜かれたらしい。「あっ、そう……」と気まずそうに視線を泳がせると、そそくさとその場から散っていった。

 廊下に残されたのは、俺と、目を見開いて立ち尽くす遠野だけになった。

「……余計なこと、しないで」

 絞り出すような低い声。遠野は俺を鋭く睨みつけると、足早にその場を去っていった。

 そして、放課後。
 誰もいない旧校舎の屋上に、俺は呼び出されていた。
 フェンス越しに吹き抜ける風が、彼女の細い髪を乱暴に揺らしている。

「……余計なことしないで。私が同情されるみたいで腹が立つわ」

 背を向けたまま、遠野が吐き捨てるように言った。
 昼休みの続きだ。その肩は怒りのせいか、少しだけこわばっているように見えた。

「同情なんかしてない。あいつらがうるさかったから、適当な理由をつけて黙らせただけだ」

 淡々と返す俺に、遠野は舌打ちをしてそっぽを向いた。
 少しの沈黙。風の音だけが、二人の間を通り抜けていく。

 俺は、神社の裏で怪我をした猫を撫でていた、あの柔らかい指先を思い出した。
 そして、ずっと気になっていた疑問を、ゆっくりと口にした。

「……っていうか、なんでお前、いつもあんな喧嘩腰なんだよ。適当にやり過ごせばいいだろ」

 その言葉が響いた瞬間。
 遠野の肩が、ビクッと跳ねた。

 まるで、絶対に触れられたくない図星を突かれたように。
 しかし彼女はすぐに振り返り、いつもの鋭い三白眼で俺を射抜いた。

「私が誰とどう接しようが、あんたには関係ないでしょ」

 拒絶の言葉。
 いつもなら、事なかれ主義の俺はここで「勝手にしろ」と両手を上げて引いていたはずだ。
 けれど、猫を前にしたあの透き通るような笑顔を知ってしまった今は、そのまま引き下がる気にはどうしてもなれなかった。

「関係なくはないだろ。俺はお前の『監視対象』なんだから」

 呆れたようにため息をつきながら、俺はわざとぶっきらぼうに言葉を続けた。

「目の前で厄介事ばかり起こされると、こっちも迷惑なんだよ」

 遠野は何かを言い返そうと口を半開きにしたが、結局、言葉の代わりに微かな息を吐き出し、バツが悪そうにそっぽを向いた。

 風が、再び屋上を吹き抜ける。
 お互いに本音を隠した、不器用でちぐはぐな会話。

 けれど、俺は自覚していた。
 事なかれ主義で、カメラのファインダーという安全な場所から世界を傍観していた俺が、自らの意志で、彼女の抱える「矛盾」という厄介な領域に、はっきりと片足を踏み入れたのだということを。