斜陽が、誰もいない教室の机を、オレンジ色の長方形に切り抜いていた。
遠くのグラウンドから、野球部の金属バットがボールを弾く甲高い音が、ひどく間延びして聞こえてくる。
カバンを膝に置いたまま、俺はスマートフォンの黒い画面に反射する、自分の間抜けな顔をぼんやりと見つめていた。
(……なんで俺、帰ってないんだ?)
今日は写真部の活動もない。面倒な日直も終わっている。本来なら、終礼のチャイムと同時にこの窮屈な空間から抜け出せるはずだった。
それなのに、俺はドアの向こうから、あのヒールの硬い足音と、甘ったるい香水の匂いが漂ってくるのを、無意識のうちに待機してしまっている。
俺もすっかり、あの理不尽なノイズに毒されているらしい。
乾いた笑いが喉の奥で鳴った。パイプ椅子を机の下に押し込み、席を立とうとした、その時だった。
「朝倉くん、まだ帰ってなかったんだ」
背後から声をかけられ、振り返る。そこに立っていたのは、図書委員の葉月澪だった。
真面目さを絵に描いたような彼女は、両手で学生鞄の持ち手をぎゅっと握りしめ、ひどく思い詰めたような顔で俺を見上げている。
「……ああ。ちょっと、忘れ物を確認してただけだ」
適当な嘘で誤魔化そうとしたが、葉月は動かなかった。躊躇うように伏せられていた視線が、やがて真っ直ぐに俺を射抜く。
「最近、遠野さんとよく一緒にいるよね。もしかして、何か弱みでも握られてるの? 無理して付き合わされてるなら、先生に相談した方が……」
葉月の言葉は、善意百パーセントの純度で構成されていた。だからこそ、ひどく息苦しい。
「遠野さん、すごく計算高くて性格が悪いって噂だよ。この前も、告白してきたサッカー部の人を凄く酷い言葉で振ったって聞いたし……関わらない方がいいよ」
正論だった。学校という水槽の中で、遠野結夏という異物は完全に排斥されている。それが世界の共通認識だ。
「……いや」
適当に頷いてやり過ごすのが、事なかれ主義の俺の正しい生存戦略のはずだった。
なのに、口を突いて出ようとしたのは、全く別の言葉だった。
旧校舎の裏で野良猫に向けられた、あの柔らかい声。一生分の砂糖にまみれたパンケーキを頬張った時の、無防備な口角。
あいつはただ、取り返しがつかないくらい性格が捻くれているだけで。
そんな、誰にも理解されない言い訳を組み立てようとした、まさにその瞬間。
「ちょっと」
教室の前方の引き戸が、乱暴な音を立てて開いた。
廊下の薄暗がりを背負って立っていたのは、噂の主である遠野結夏だった。
「私の監視対象に、勝手に何吹き込んでるの?」
冷たく、刺すような声。葉月がびくりと肩を震わせ、一歩後ずさる。
俺の視線は、遠野の顔ではなく、胸元に向けられていた。
着崩したブラウスの肩のラインが、不自然に上下している。ヒュー、という、あの雨の日の旧校舎裏で聞いたひどく掠れた呼吸の音が、僅かに混じっているように聞こえた。
西日に照らされた彼女の肌は、血の気が引いたように白く、まるで薄いガラス細工のように透き通って見えた。
(走って、俺を探しに来たのか?)
その疑問を口にする前に、遠野はずかずかと教室に踏み込んできた。葉月を一瞥もせず、俺の制服の袖を乱暴に掴む。
「ほら、行くわよ」
有無を言わさぬ強い力。甘ったるい香水に、少しだけ汗の匂いが混じっていた。
校舎を出ると、夕焼けが空の半分を毒々しい茜色に染め上げていた。
長く伸びた二つの影が、アスファルトの上を並んで滑っていく。
「私がちょっと目を離した隙に、あの子に私の秘密をバラそうとしてたでしょ」
不機嫌な声が、横から飛んできた。
「してない。ただの世間話だ」
「言い訳は聞かないわ。罰として、ペナルティを与えることにしたから」
遠野は立ち止まり、俺を見上げて鋭い三白眼を細めた。
「明日も一日、私の監視下に置き続けるから。朝十時、駅前集合。遅刻したらジュース一生分奢りね」
一方的にそれだけを宣言すると、彼女は踵を返し、夕闇の奥へと歩き出した。
「……勝手な奴だ」
小さくぼやいた俺の声は、風に揺れる木々のざわめきに呆気なくかき消された。
理不尽なペナルティ。平穏なはずの週末が、またしてもあいつのノイズで埋め尽くされる。
それなのに。
駅へと向かう俺の足取りは、誰もいない教室で一人ぼんやりしていた時よりも、信じられないほど軽くなっていた。
生ぬるい風が、首筋の汗を心地よく冷やしていく。
明日の天気予報を、俺は無意識のうちに頭の中で検索し始めていた。
遠くのグラウンドから、野球部の金属バットがボールを弾く甲高い音が、ひどく間延びして聞こえてくる。
カバンを膝に置いたまま、俺はスマートフォンの黒い画面に反射する、自分の間抜けな顔をぼんやりと見つめていた。
(……なんで俺、帰ってないんだ?)
今日は写真部の活動もない。面倒な日直も終わっている。本来なら、終礼のチャイムと同時にこの窮屈な空間から抜け出せるはずだった。
それなのに、俺はドアの向こうから、あのヒールの硬い足音と、甘ったるい香水の匂いが漂ってくるのを、無意識のうちに待機してしまっている。
俺もすっかり、あの理不尽なノイズに毒されているらしい。
乾いた笑いが喉の奥で鳴った。パイプ椅子を机の下に押し込み、席を立とうとした、その時だった。
「朝倉くん、まだ帰ってなかったんだ」
背後から声をかけられ、振り返る。そこに立っていたのは、図書委員の葉月澪だった。
真面目さを絵に描いたような彼女は、両手で学生鞄の持ち手をぎゅっと握りしめ、ひどく思い詰めたような顔で俺を見上げている。
「……ああ。ちょっと、忘れ物を確認してただけだ」
適当な嘘で誤魔化そうとしたが、葉月は動かなかった。躊躇うように伏せられていた視線が、やがて真っ直ぐに俺を射抜く。
「最近、遠野さんとよく一緒にいるよね。もしかして、何か弱みでも握られてるの? 無理して付き合わされてるなら、先生に相談した方が……」
葉月の言葉は、善意百パーセントの純度で構成されていた。だからこそ、ひどく息苦しい。
「遠野さん、すごく計算高くて性格が悪いって噂だよ。この前も、告白してきたサッカー部の人を凄く酷い言葉で振ったって聞いたし……関わらない方がいいよ」
正論だった。学校という水槽の中で、遠野結夏という異物は完全に排斥されている。それが世界の共通認識だ。
「……いや」
適当に頷いてやり過ごすのが、事なかれ主義の俺の正しい生存戦略のはずだった。
なのに、口を突いて出ようとしたのは、全く別の言葉だった。
旧校舎の裏で野良猫に向けられた、あの柔らかい声。一生分の砂糖にまみれたパンケーキを頬張った時の、無防備な口角。
あいつはただ、取り返しがつかないくらい性格が捻くれているだけで。
そんな、誰にも理解されない言い訳を組み立てようとした、まさにその瞬間。
「ちょっと」
教室の前方の引き戸が、乱暴な音を立てて開いた。
廊下の薄暗がりを背負って立っていたのは、噂の主である遠野結夏だった。
「私の監視対象に、勝手に何吹き込んでるの?」
冷たく、刺すような声。葉月がびくりと肩を震わせ、一歩後ずさる。
俺の視線は、遠野の顔ではなく、胸元に向けられていた。
着崩したブラウスの肩のラインが、不自然に上下している。ヒュー、という、あの雨の日の旧校舎裏で聞いたひどく掠れた呼吸の音が、僅かに混じっているように聞こえた。
西日に照らされた彼女の肌は、血の気が引いたように白く、まるで薄いガラス細工のように透き通って見えた。
(走って、俺を探しに来たのか?)
その疑問を口にする前に、遠野はずかずかと教室に踏み込んできた。葉月を一瞥もせず、俺の制服の袖を乱暴に掴む。
「ほら、行くわよ」
有無を言わさぬ強い力。甘ったるい香水に、少しだけ汗の匂いが混じっていた。
校舎を出ると、夕焼けが空の半分を毒々しい茜色に染め上げていた。
長く伸びた二つの影が、アスファルトの上を並んで滑っていく。
「私がちょっと目を離した隙に、あの子に私の秘密をバラそうとしてたでしょ」
不機嫌な声が、横から飛んできた。
「してない。ただの世間話だ」
「言い訳は聞かないわ。罰として、ペナルティを与えることにしたから」
遠野は立ち止まり、俺を見上げて鋭い三白眼を細めた。
「明日も一日、私の監視下に置き続けるから。朝十時、駅前集合。遅刻したらジュース一生分奢りね」
一方的にそれだけを宣言すると、彼女は踵を返し、夕闇の奥へと歩き出した。
「……勝手な奴だ」
小さくぼやいた俺の声は、風に揺れる木々のざわめきに呆気なくかき消された。
理不尽なペナルティ。平穏なはずの週末が、またしてもあいつのノイズで埋め尽くされる。
それなのに。
駅へと向かう俺の足取りは、誰もいない教室で一人ぼんやりしていた時よりも、信じられないほど軽くなっていた。
生ぬるい風が、首筋の汗を心地よく冷やしていく。
明日の天気予報を、俺は無意識のうちに頭の中で検索し始めていた。

