花火みたいな恋だった

 駅前のロータリーから漂う排気ガスの匂いが、むせ返るような甘いバニラの香りに塗り潰されていく。
 パステルピンクの看板を掲げたそのカフェの周囲には、スマートフォンの画面を覗き込む女子高生やカップルの長い列が、蛇のようにとぐろを巻いていた。

 俺はカメラのストラップを首から下げたまま、その列の最後尾で重い息を吐き出した。
 男一人の客など、視界の限界まで見渡しても俺しかいない。すれ違う人間の好奇の視線が、物理的な質量を持って肌に突き刺さってくる。

「……なんで俺が、こんな苦行を」

 列から少し離れた街路樹の影。
 遠野結夏は、涼しい顔でベンチに腰掛け、脚を組んでこちらを眺めていた。目があうと、ひらひらと優雅に手を振ってくる。

『あんたが帰り道に誰かと密談して、言いふらさないか監視する必要があるわ。でも、私がこんな行列に並ぶのはプライドが許さないの。あんたが並んで、私はあっちのベンチで監視してるから』

 放課後の教室で突きつけられた、無茶苦茶な理屈。
 反論しようとした時にはすでに、彼女は俺の制服の袖を掴んで駅前まで引っ張っていた。

 三十分後。
 案内された冷房の効きすぎるテーブル席で、俺はメニュー表を挟んで遠野と向かい合っていた。

「ご注文はお決まりでしょうか」

 にこやかな店員が伝票を片手に立つ。俺はメニュー表の、最も毒々しい色をしたページを指差し、極力感情を殺した声で告げた。

「……『恋する乙女のベリーベリー・ハートパンケーキ』を、一つ」
「はいっ、ベリーベリー・ハートパンケーキがお一つですね!」

 店員の明るい復唱が、鼓膜を容赦なく殴りつける。遠野はメニュー表で口元を隠していたが、その肩が小刻みに震えているのを俺は見逃さなかった。

 やがて運ばれてきたのは、赤いベリーのソースが血の海のように広がり、生クリームが暴力的な高さまで盛られた、巨大なハート型の物体だった。

「ほら、写真部の腕の見せ所でしょ。監視記録として残すから、美味しそうに撮りなさい」

 遠野が顎でパンケーキをしゃくる。
 俺は無言でレンズのキャップを外し、絞りを開放した。ファインダーを覗き込む。
 ピントをパンケーキに合わせようとするが、フレームの奥に座る遠野の、面白がるような三白眼がどうしても画角に入り込んでくる。

「……食レポのブログでも始める気かよ。ほら、撮ったぞ。さっさと食え」
「見せなさい。……ふうん、まあまあね。構図が平凡だけど」

 遠野はそう言いながら、銀色のフォークでハートの端を無惨に切り崩し、たっぷりとクリームを絡めて口に運んだ。
 咀嚼する間、彼女の動きがふわりと止まる。

「……あーん」

 突然、遠野が身を乗り出し、ベリーソースで赤く染まったフォークの先端を俺の口元に突きつけてきた。

「……は?」
「あんたも一口食べさせてあげるわ。念のための毒見よ。ほら、口を開けなさい」
「いらない。見ただけで血糖値が上がりそうだ」
「食べなさいって言ってるの」

 断固として拒否しようとした口の隙間に、冷たい銀色の金属が強引にねじ込まれた。
 舌の粘膜を、暴力的なまでの砂糖の甘さと、苺の酸味が焼け焦がすように支配する。

「……甘すぎる」
「ふふっ。変な顔」

 顔をしかめる俺を見て、遠野は今日一番の、悪意のない声を立てて笑った。

 その後、彼女は残りのパンケーキを一人で平らげた。
 フォークを動かすたび、彼女を普段覆っている、人を寄せ付けない棘のような空気が、ほんの少しずつ溶けていくのがわかった。
 強張っていた肩のラインが緩み、赤いリップを引いた口角が、無防備な弧を描いている。窓から差し込む夕光が、彼女の細い髪を淡いオレンジ色に透かしていた。

 その横顔は、悪女の仮面を被った怪物でもなんでもない。ただ甘いものに頬を緩める、年相応の女の子のそれだった。

 テーブルに置かれたカメラの、冷たいプラスチックのボディに指を這わせる。
 監視という名のパシリ。最低な放課後。
 そう自分に言い聞かせているはずなのに。

 メモリーカードの中に、風景でもない、悪女の顔でもない、ただの不器用な被写体のデータが、また一つ増えてしまった。その理由に名前をつけることを、俺は無意識のうちに先送りしていた。