花火みたいな恋だった

 カビと埃、それに微かな現像液の酸っぱい匂いが染み付いた部室。
 すりガラス越しの鈍い光が、空中に舞うチリを頼りなく照らしている。俺はパイプ椅子に深く腰掛け、マイクロファイバーの布でレンズの表面を単調なリズムで磨いていた。

 誰も来ない、鼓膜の奥がシンとするようなこの閉鎖空間だけが、俺の日常の防波堤だった。

「ふうん。思ってたよりずっと陰気な場所ね」

 防波堤は、唐突に、そしてあっけなく決壊した。

 油の切れたドアの蝶番が嫌な音を立てて鳴り、湿気をたっぷり含んだ廊下の空気が流れ込んでくる。振り返らなくてもわかった。甘ったるくて、どこか攻撃的なあの香水の匂い。

「……部外者立入禁止だ。字、読めないのか」
「読めるわよ。でも、今日から私が直接監視してあげることにしたの。いつあんたが覗き見のことを言いふらすか、気が気じゃないから。喜びなさいパシリからペットに昇格よ」

 遠野結夏は、部室の入り口で腕を組んで立っていた。
 制服のブラウスの胸元を無造作に開け、相変わらずの三白眼で見下ろしてくる。

「誰にも言わないって言ってるだろ」
「信じるわけないでしょ、口でならなんとでも言えるわ。感謝しなさい、わざわざ私が貴重な時間を割いてあげてるんだから」

 俺の抵抗など、水たまりに落ちた雨粒ほどの波紋も起こさない。遠野はずかずかと部室に上がり込むと、俺の向かいにあるパイプ椅子を無遠慮に引きずり、長い脚を組んで座った。
 狭い空間に、彼女の存在感が暴力的なまでに充満する。俺は深く息を吐き出し、レンズにキャップを被せた。

「……勝手にしろ」

 首にカメラをかけ、立ち上がる。
 外の空気を吸いに出ようとしたが、当然のように遠野のヒールの音が背後からついてきた。

 旧校舎の裏手。
 アスファルトの隙間から伸びた雑草が、梅雨の湿気を吸って青臭い匂いを放っている。
 俺は赤茶けた非常階段の錆の模様をファインダーに収めようと、ゆっくりとズームリングを回した。
 ピントが合い、金属のザラついた質感がモニターに浮かび上がった瞬間。

 ファインダーの視界を、不自然な黒い影が完全に塞いだ。

「……何やってるんだ」
「何って、見てわからない? フレームに入ってあげたのよ」

 カメラを下ろすと、レンズのすぐ目の前に遠野が立っていた。
 彼女は腰に手を当て、勝ち誇ったような笑みを浮かべている。

「もっとありがたそうにシャッター切りなさいよ。こんな地味な鉄くず撮るより、ずっと画になるでしょ」
「風景撮ってんだよ。どけ、悪女」
「……悪女って言ったわね? 減点。罰としてジュース奢り」
「お前のルールか何かか。理不尽すぎる」

 俺が溜息をつきながら立ち位置を変えると、遠野もわざとらしく横に移動して再び画角に割り込んでくる。
 右へ行けば右へ。しゃがめばしゃがむ。
 俺がファインダーを覗くたび、必ず彼女の尖った視線と、校則違反の赤いリップが、強引にピントを奪っていった。

「被写体への愛がないわね。ほら、もっと私を綺麗に撮る努力をしなさいよ」
「お前のその無駄な労力を、少しは他に向ける努力をしろ」

 舌打ちをしながらカメラを下ろす。
 遠野は「口答えするな」と尖った声を出しているが、その目元には、先日のような人を拒絶する冷たい棘がない。どこか、この生産性のない無意味なラリーを、彼女自身が持て余し、楽しんでいるような気配すらあった。

 雲の底がひび割れ、鈍い夕光が旧校舎の壁を斜めに切り裂いた。
 湿った風が吹き抜け、遠野の整った髪がふわりと揺れる。

「……あ」

 唐突に、遠野の足が止まった。
 彼女の視線の先、錆びたフェンスの根元に、薄汚れた野良猫がうずくまっていた。雨を避けるように丸まり、警戒した目でこちらを見ている。

 遠野は、それまでの高飛車な態度が嘘のように、音もなくしゃがみ込んだ。
 短いスカートの裾が地面スレスレまで下がることも気にせず、そっと両手を膝に置く。

「おいで……」

 彼女の口から零れたのは、驚くほど柔らかく、微かに震える声だった。

 悪女の仮面が、音もなく外れた瞬間。
 夕光が彼女の横顔を淡く染め上げ、伏せられた長い睫毛が、白い頬に薄い影を落としていた。
 呼吸のたびに微かに上下する細い肩。猫を見つめるその瞳は、ひどく無防備で、そして残酷なほどに透き通っていた。

 ジリッ。

 気がつけば、俺の指は勝手にシャッターを半押ししていた。
 ファインダー内の露出計が適正値を示し、緑色のランプが点灯する。

 カシャ、という乾いた駆動音が、湿った空気に吸い込まれた。

 その音に驚いたのか、野良猫は身を翻してフェンスの向こうへ消えていった。
 遠野がゆっくりと立ち上がり、こちらを振り返る。

「……今、撮った?」

 いつもの険しい三白眼。
 だが、ファインダー越しに切り取った先ほどの彼女の姿は、噂で聞く計算高い悪女には、どうしても見えなかった。

「いや。猫が逃げる瞬間を撮り損ねただけだ」

 俺はカメラの電源を切り、わざとらしく目を逸らした。

(……なんで俺は、こいつの写真なんか撮ったんだ)

 静かで、誰にも邪魔されることのなかった俺の暗室。
 その空間が、彼女の纏う香水と、ちぐはぐな足音によって、確実に侵食され始めている。

 胸の奥に落ちた微かな違和感を無視するように、俺は重い足取りで旧校舎を後にした。