花火みたいな恋だった

 分厚い雨雲が、教室の窓枠を重苦しい鉛色に塗りつぶしている。
 六時間目の終わりのチャイムが鳴り終わるや否や、俺は机の中に教科書を押し込んだ。首から下げたカメラの重みだけが、今の俺にとって唯一の確かなリアルだった。

 昨日の放課後、旧校舎の裏で見てしまった光景……。あの浅く掠れた呼吸の音を、一晩経っても鼓膜が勝手に再生しようとする。


 ――面倒だ。


 ひたすらに面倒くさい。
 俺は事なかれ主義の凡人であって、秘密を抱えた悪女の理解者になるつもりは毛頭ない。暗室にこもって、現像液の酸っぱい匂いに包まれてさえいれば、あの不気味なノイズも頭から消えるはずだ。

 そう思って教室の引き戸に手をかけた瞬間、視界の端に不自然な影が割り込んできた。

「ちょっと、昨日の覗き見カメラマン」

 ドアの枠に寄りかかり、腕を組んでこちらをねめつけているのは、間違いなく遠野結夏だった。
 校則違反の短いスカート。微かに香る、甘ったるくてどこか攻撃的な香水。教室に残っていた数人のクラスメイトたちが、息を呑んでこちらを盗み見る気配がした。

「……俺のことか」
「他に誰がいるのよ。あなたの最悪な覗き見、バラされたくなかったらちょっと付き合いなさい」

 遠野の言葉は、相変わらず氷のように冷たかった。三白眼が、俺の目を射抜くように見据えている。

「勝手にしろ。あと俺は、そもそもお前に興味がない」
「あなたに決定権はないの。ほら、ついてきて」
「は?」
「聞こえなかった? 今日からあなた、私のパシリだから」

 有無を言わさない強い口調。俺のささやかな抵抗など、彼女の辞書には最初から存在していないらしい。
 舌打ちを一つ落として背を向ける遠野の、ヒールの高いローファーが廊下の床をカツカツと叩く。その足音が遠ざかる前に、俺は重い溜息を吐き出しながら、カメラのストラップを握り直して後を追うしかなかった。逆らうほうが、よっぽど面倒なことになりそうだったからだ。

 それからの放課後は、文字通りの徒労だった。
 じめじめとした湿気が肌にまとわりつく中、俺は学園の端から端までを引きずり回された。

「購買部に行って。売り切れ寸前のあの幻のメロンパン、買ってきなさい」
「図書室のあの分厚い美術書、三冊。旧校舎の美術準備室まで運んで」

 渡り廊下を歩きながら、俺は両腕にずっしりと食い込む図書の重みに顔をしかめた。

「……お前、美術部じゃないだろ。なぜ俺がこんなものを」
「あら、文句? 覗き見のペナルティとしては軽いくらいだと思うけど」
「ペナルティって言うなら、もう少し意味のある罰にしてくれないか。図書室から旧校舎へのルートは明らかに非効率だ。一度中庭を抜けた方が早い」
「うるさいわね。私がこのルートを歩きたいの」

 遠野は前を歩いたまま、振り返りもせずに言い放つ。
 だが、その声のトーンは昨日男子生徒を冷酷に切り捨てた時のような、刃物じみた鋭さはなかった。どこか拍子抜けするほど、ただの同年代の小競り合いのような温度。
 俺が淡々と理屈を返すたび、彼女の肩が微かに揺れる。まるで、この無意味でちぐはぐな会話のテンポを、密かに咀嚼しているかのように。

 夕暮れの中庭。
 分厚い雲の切れ間から、毒々しいほどに濃い紫色の夕光が、水たまりの表面に乱反射していた。
 ようやく全てのパシリ業務を終え、俺は重い息を吐き出しながらコンクリートの縁石に腰を下ろした。首元のシャツが汗で肌に張り付いて、酷く不快だ。

「ふうん。案外使えるじゃない」

 数歩離れた場所に立つ遠野が、満足げに目を細めた。
 重い風が吹き抜け、彼女の整った髪が夕闇の中でふわりと揺れる。その瞬間だけ、彼女を覆っていた棘のような空気が、ふっと薄らいだように見えた。

「じゃ、今日はこれで解放してあげる」
「……明日は勘弁してくれよ」
「さあ、私の気分次第ね」

 遠野は背を向け、数歩歩き出してから、唐突に足を止めた。
 振り返りざま、放物線を描いて何かが俺の膝の上に落ちてきた。

「これ、私の口に合わなかったからあげる」

 コツン、と鈍い音を立てて転がったのは、自動販売機で買える冷たいピーチティーのペットボトルだった。水滴がびっしりと付着していて、まだ開栓すらされていない。

 俺がそれを拾い上げる前に、カツ、カツ、とローファーの音が遠ざかっていく。
 夕闇に溶けていく細い背中を、俺はただ黙って見送った。

 手の中に残されたペットボトルからは、ひんやりとした微かな冷気が伝わってくる。
 水滴が指を伝って、アスファルトに濃いシミを作った。

「……マジで何なんだ、あいつ」

 最悪な性格だ。どうしようもなく自己中心的な、ただの厄介な女。
 それなのに、俺は手のひらに残る冷たい感触と、あのちぐはぐな会話の余韻を、すぐには手放すことができずにいた。
 遠くで、梅雨の湿り気を引き裂くようなカラスの鳴き声が、一つだけ響いた。