花火みたいな恋だった

 遠野結夏が、この世界から静かにいなくなってから、半年が過ぎた。

 季節は巡り、桜の蕾がほころび始める春。
 教室の斜め前の席には、もう誰も座っていない。あの鋭い三白眼で俺を睨みつけ、理不尽な命令を下してくる悪女は、もうどこにもいない。

「あ、朝倉くん! ごめん、ちょっとこの荷物、職員室まで運ぶの手伝ってくれない?」
「ん、いいよ。貸して」

 クラスメイトの女子に声をかけられ、俺は迷うことなく立ち上がった。
「ありがとう! 朝倉くん、最近すっごくフットワーク軽いよね。前はもっと、こう……面倒くさがりっていうか」
「まあな。最強に人使いの荒い主人に、パシリとして徹底的に鍛え上げられたから」

 俺が肩をすくめて笑うと、彼女は不思議そうな顔をしていた。
 以前の俺なら、「事なかれ主義」を盾にして適当に断っていただろう。けれど、今は違う。誰かのために動くことを、俺は今、自分の意志で選んでいる。

 首から下げた一眼レフカメラの重みが、心地よかった。

 放課後。
 俺はペダルを漕ぎ、町外れのあの神社へと向かった。
 百段の石段を駆け上がると、本殿の裏で、いつもの野良猫たちがのんびりと日向ぼっこをしていた。

「あ、写真のお兄ちゃんだ!」
「今日もチョコのご飯、持ってきた?」

 かつて結夏に懐いていた小学生の兄妹が、駆け寄ってくる。
「ああ、特盛だぞ」
 俺はカバンからキャットフードを取り出し、プラスチックの皿に注いだ。猫たちが嬉しそうに喉を鳴らしながらすり寄ってくる。その柔らかい毛並みを撫でながら、俺はファインダーを覗き込み、シャッターを切った。

「お兄ちゃん、最近写真撮るのすっごく上手くなったね!」
「まあな。世界で一番口の悪い『監視役』に、毎日ダメ出しされてたからな」

 子供たちと笑い合う。
 結夏が、自分の悪女の仮面を汚してまで守ろうとしていた、誰にも見せなかった優しくて温かい世界。
 悲しみに暮れる暇なんてない。俺が代わりに、この世界を守り、記録し続けなければならないのだ。

 週末。
 市の美術館で開催されている合同写真展の会場は、多くの人で賑わっていた。
 俺が所属する写真部のブース。その中心に飾られた一枚の写真の前にだけ、不自然なほどの人だかりができている。足を止めた人々は皆、一様に息を呑み、その写真に見入っていた。

 作品のタイトルは、『出来損ないの悪女』。

 そこに写っているのは、マジックアワーの茜色に染まった病室で、命の灯火を燃やすように笑う結夏の姿だった。
 ケバいメイクも、人を遠ざけるためのトゲのある言葉もない。鼻に通っていたはずの酸素チューブすら、彼女は自らの手で外してしまっている。

 ただ純粋に、誰かに愛されたかった一人の少女の、世界で一番綺麗な「素顔」がそこにあった。

(お前は誰の記憶にも残らずに、一人で綺麗に消えようとしていたけれど。残念だったな、遠野)

 俺は、写真の中で永遠に微笑み続ける彼女に向かって、心の中で語りかける。

(お前の本当の顔は、こうして俺が一生、残してやる。お前がどんなに不器用で、意地っ張りで、誰よりも優しかったか……世界中にバラしてやるからな)

 写真展の会場を出ると、どこまでも高く、澄み切った春の青空が広がっていた。

 少しだけ冷たい風が頬を撫でる。
 俺は首から下げたカメラを構え、ファインダー越しに青空を見上げた。
 レンズの向こうに、あの強がりな笑顔がフッと浮かんで、俺に「なに泣きそうな顔してんのよ、このパシリ」と笑いかけているような気がした。

 最悪の出会いから始まった。
 理不尽なパシリにされ、仕返しのように彼女を監視し続けた日々。
 病室の匂い、手持ち花火の火薬の匂い、細く冷たかった彼女の指先。

 それは、痛いほどに切なくて、シャッターを切るたびに心がかき乱される、けれど――。

「――本当に、花火みたいな恋だった」

 俺が空に向かってシャッターを切る音。
 カシャッ、という確かなその駆動音だけが、春の風に溶けて、どこまでも優しく響き渡った。