花火みたいな恋だった

 あれから数日が過ぎた。
 結夏の病室は、嵐が過ぎ去った後の海のように、嘘のように穏やかな空気に包まれていた。

 彼女はもう、俺の前で「悪女」の仮面を被ることをやめた。学校で見せていた鋭い三白眼も、人を遠ざけるような冷たいトゲもそこにはない。俺が病室のドアを開けると、彼女は酸素チューブ越しに、微かに、けれど柔らかく微笑むようになっていた。

 その日の夕方。
 病室の大きな窓から差し込む光が、白かったシーツを淡いオレンジ色に染め上げていた。空が茜色から深い紫へとグラデーションを描き、昼と夜が交差する、一日の中で最も美しい時間帯――マジックアワー。

 ベッドの傍らのパイプ椅子に座っていた俺を見つめ、結夏が不意に口を開いた。

「ねえ、海斗」

 それは、彼女が初めて口にした「本当の我儘」だった。

「……私の写真、撮って」
「写真?」
「うん。……病気でボロボロの私じゃなくて。あんたの記憶にずっと残るような、とびきり可愛い私を撮ってよ」

 掠れた声で、けれど真剣な瞳でそう告げる彼女に、俺は戸惑いながらも頷いた。
 結夏の指示に従い、俺は彼女の顔の前に小さな手鏡を持った。俺の指と彼女の顔の距離は、息遣いが聞こえるほどに近い。
 結夏は震える手で、ほんの少しだけ薄桃色のリップを唇に乗せ、前髪を指先でそっと整えた。たったそれだけの動作で彼女の額にはうっすらと汗が滲んでいたが、鏡を見つめるその横顔は、まぎれもなく一人の年相応の女の子のものだった。

「……よし。いいわよ」

 手鏡を置き、俺はカメラを構える。
 ファインダーを覗き込むと、レンズの向こうには、窓から差し込むマジックアワーの光を全身に浴びて、透き通るような結夏の姿があった。

「いくぞ。はい、チー——」

 シャッターを切ろうとした、その直前。
 結夏は自らの手で、命綱である鼻の酸素チューブを外してしまった。

「おい、何やって……!」
「数秒だけ」

 慌てて止めようとする俺を、彼女は穏やかな声で制した。

「チューブをつけてたら、ただの『可哀想な女の子』になっちゃうでしょ」

 息が苦しくないはずがない。限界に近い肺が、酸素を求めて悲鳴を上げているはずだ。
 それなのに、彼女は苦しさを微塵も感じさせない、とびきりの笑顔を作ってみせた。あの神社の軒下で猫に向けた慈愛の表情よりも、さらに無防備で、柔らかくて。
 悪女の仮面を脱ぎ捨てた遠野結夏の、世界で一番美しい、心からの笑顔だった。

 ファインダーを覗く俺の視界が、ぐにゃりと歪んだ。
 熱い塊が込み上げ、瞬きをした瞬間に大粒の涙となって頬を伝い落ちる。
 事なかれ主義で、他人に深く関わることを避けてきた俺が。こんなにも誰かを失うことを恐れ、誰かの生きた証をこの世界に刻みつけたいと、心の底から願っている。

 俺は泣き顔を見られないよう、カメラの黒いボディで顔を隠したまま、震える指でシャッターを切り続けた。

 カシャッ、カシャッ、カシャッ。

 静寂に包まれた病室に、シャッター音だけが小気味よく響き渡る。
 彼女の命を燃やした最後の輝きを、一秒たりとも逃さないように。

「……ふぅっ、はぁっ……」

 十数回のシャッター音の後、限界を迎えた結夏が、荒い呼吸と共にベッドに深く沈み込んだ。俺は慌ててカメラを置き、酸素チューブを彼女の鼻に急いで戻す。

「……綺麗に、撮れた?」

 浅い呼吸を繰り返しながら、彼女が上目遣いで尋ねてくる。
 俺は袖口で乱暴に涙を拭い、ありったけの強がりを込めて笑って見せた。

「ああ、過去最高だ。コンクールに出したら、一発で優勝できる」
「……ふふっ」

 結夏は満足そうに目を閉じ、小さく呟いた。

「じゃあ、私の勝ちね」

 茜色だった窓の外の光がゆっくりと紫に溶け、やがて病室は静かな夜の闇に包まれていった。
 手元に残されたカメラのモニターの中では、もう二度と悪女を演じることのない、等身大の遠野結夏が、永遠に色褪せない笑顔で俺に語りかけていた。